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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

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206/209

第54話「完成」

 完成の朝は、いつもの朝と同じだった。


 朝七時。(ひいらぎ)(りょう)は端末の前に座って、最後のテストを走らせた。テストは三百ある。三百のテストが順に通過していく。緑、緑、緑、緑——。一つずつ緑の光が画面に並んでいく。並んでいく光を、遼はぼんやり眺めていた。


 二週間、書き続けた。書き続けた結果がこれだ。


 最後のテストが、緑になった。


 遼は端末の画面をしばらく見ていた。見てから、ロバートにメッセージを送った。


*"Done."*

(直りました)


 送信して、三秒。


 ロバートから返事が来た。


*"Seriously?"*

(本当ですか)


*"Yes."*

(本当)


*"...what time is it now?"*

(……今、何時ですか)


*"7:07."*

(七時七分)


*"Hiiragi-san."*

(柊さん)


*"Yes."*

(はい)


*"Sending 'Done.' in one word at 7:07 in the morning is probably a world first."*

(七時七分に「直りました」と一言送るのはたぶん、世界初です)


*"Is it."*

(そうですか)


*"It is."*

(そうです)


 遼は端末の前で、少しだけ笑った。笑った理由は自分でも分からない。分からないが、笑った。たぶんロバートの「世界初です」が、可笑しかったのかもしれなかった。


   


 午前十時、市ヶ谷。


 田所(たどころ)三佐がオフィスに入ってきた時、遼はコーヒーを飲んでいた。コーヒーは、宮脇係長が淹れてくれたもの。今日のコーヒーは、なぜか普段より、丁寧に淹れられていた。


「柊さん」


「はい」


「直りましたか」


「直りました」


「……直りすぎたくらいですか」


「直りすぎたくらいです」


 田所は椅子に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。見ている田所の顔は、安心したような、寂しいような、判別のつかない顔だった。判別がつかないまま、田所はコーヒーを一口飲んだ。


「これ、あと十年は持ちます」


「もっと持つと思いますが」


「……もっと、ですか」


「もっと」


「具体的には」


「十五年から二十年」


「……」


 田所はもう一口、コーヒーを飲んだ。コーヒーはたぶん、いつもより味がよかった。


「柊さん」


「はい」


「私は、自衛官になって、二十年です」


「はい」


「二十年で、こういう仕事は、初めてです」


「そうですか」


「『こういう』というのは——」


「はい」


「依頼した側が、依頼した内容を、超えた成果物を受け取って、戸惑う、という意味です」


「戸惑い、ですか」


「戸惑いです」


「すいません」


「謝らないでください」


「はい」


「……ありがとうございます」


 田所は深く、頭を下げた。


 遼も頭を下げた。下げ方が田所より少しだけ浅い。浅いのは、遼が誰かに頭を下げることに、まだ慣れていないから。慣れていない人間の浅いお辞儀を、田所は笑いもせず受け取った。受け取ったのが、田所という人だった。


   


 午後、小さな送別会のようなものがあった。


 送別会、というほど大袈裟ではない。会議室にコーヒーとお菓子が用意され、関係者が数人、立ったまま話す——その程度のものだった。


 黒木(くろき)統括官が、お菓子のあるテーブルの前で、遼に近づいてきた。


「柊さん」


「はい」


「お疲れ様でした」


「お疲れ様でした」


 黒木はお菓子を一つ、取った。市ヶ谷の和菓子屋の最中。包み紙を、黒木はゆっくり剥がす。剥がしながら何か言いたそうにしていた。言いたそうにしているが、言葉が出てこない。出てこないまま、最中の包み紙が剥がれ終わった。


「柊さん」


「はい」


「またお願いすることがあるかもしれません」


「壊れてたら直します」


 黒木は最中を、口に運ぼうとしていた手を止めた。


「……国防のことを、そういう感じで」


「他に言い方がないので」


「ない、ですか」


「ないです」


 黒木は最中をしばらく見ていた。見てからゆっくり、口に運んだ。口に運んでから、咀嚼した。咀嚼している間、何も言わなかった。咀嚼が終わってから、もう一度、遼を見た。


「柊さん」


「はい」


「あなたの『他に言い方がない』が、私の『前例がありません』を、四ヶ月で書き換えました」


「……」


「いえ、報告でした。返事は不要です」


 黒木は最中の二つ目を取った。取ってから、別のテーブルへ歩いていく。歩いている黒木の背中は五十三歳の背中。五十三歳の背中はいつもより少しだけ軽そうに見えた。気のせいかもしれない。気のせいでも、軽そうだった。


   


 宮脇(みやわき)係長が、ノートを抱えて近寄ってきた。


「柊氏」


「はい」


「最後の議事録、よろしいですか」


「別にいいですが」


「では、読み上げます」


「はい」


 宮脇はノートを開いた。開いてから、すっと、姿勢を正した。


「『七月、防衛省サイバー防衛隊・基幹システム改修案件、納品。柊遼氏、国家のサイバーインフラを普通に直す。以上』」


「……」


「以上です」


「以上、ですか」


「以上です」


 遼の隣で田所が、コーヒーを噴きそうになっていた。噴きそうになるのを、必死で堪えていた。堪えながら、宮脇に向かって、ゆっくり言った。


「宮脇」


「はい」


「『普通に直す』は、議事録の表現として、適切なのか」


「適切です」


「根拠は」


「事実だからです」


「もう少し、なんというか、こう」


「『普通ではなく』ですか」


「まあ、そういう」


「事実を曲げることになります」


「曲げないけれど、書き方が」


「『国家のサイバーインフラを驚くべき速度と精度で完璧に直す』」


「……長い」


「冗長ですね」


「冗長」


「『普通に直す』に戻します」


「……戻すんですか」


「戻します」


 田所はコーヒーを置いた。置いてから、宮脇のノートをしばらく見ていた。


「宮脇」


「はい」


「お前のキャリアの集大成が、『普通に直す』なのか」


「集大成では、ないと思いますが」


「集大成だ」


「そうですか」


「そうだ」


「……記録します」


「記録するな」


「記録します」


 田所は深く、息を吐いた。


 遼は二人のやり取りを黙って聞いていた。聞いていながら、お菓子のテーブルの方を少し見た。最中はもう、二つ減っている。減ったうちの二つは、黒木が食べた。残りはまだ十個くらいある。遼は最中を一つ取った。取ってから口に運んだ。最中は甘い。甘いのが、たぶん今日の味だった。


   


 夕方、遼は柊家に帰った。


 帰ると、リビングが、いつもと違っていた。


 いつもと違うのは台所に二人立っていたこと。一人は由紀(ゆき)。もう一人は田中(たなか)のおばちゃん。二人で何かを、作っていた。野菜を切る音と、お鍋の音が、混ざっていた。混ざっている音が、リビングまで届いていた。


「ただいま」


「お帰り」と由紀。


「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。


「……何してるんですか」


「お祝い」


「お祝い、というのは」


「あんた、今日、終わったでしょ」


「……なんで知ってるんですか」


「田中さんに聞いた」


「田中さんはなぜ知ってるんですか」


 田中のおばちゃんが、野菜を切りながら答えた。


「宮脇さんから連絡もらって」


 遼の顔が、ほんの少し、止まった。


「……宮脇さんが、田中さんに、連絡」


「そうなの」


「いつから知り合いなんですか」


「先週、一緒に廊下で会ってね」


「会ったんですか」


「あの人、私のことを『田中幸江氏』って呼ぶの。律儀でね」


「……」


 遼はリビングのソファに座った。座ってから、しばらく天井を見ていた。


 宮脇はいつの間にか田中のおばちゃんとも繋がっている。たぶん議事録の登録対象が、田中のおばちゃんにまで及んでいる。及んでいることに、遼は今、初めて気づいた。気づいたが、抗議する気力はもう、ない。


「お祝い、何作ってるんですか」


「ハンバーグ」


「またハンバーグですか」


「祝いの日はハンバーグ」


「我が家の伝統ですか」


「今日から伝統」


「……」


 由紀がにこにこしながらハンバーグの種をこねている。田中のおばちゃんは野菜を切っている。二人は息が合っていた。合っているのは、ここ二週間以上、毎日のように顔を合わせている成果。成果という言葉が適切かどうかは分からないが、成果以外の言葉も見当たらなかった。


   


 (りん)(はな)も帰ってきた。


「ただいま」と凛。


「ただいまー」と華。


「お帰り」と由紀。


「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。


「……田中さんもいる」


「いるよ」


「ハンバーグ?」


「ハンバーグ」


「お祝い?」


「お祝い」


「遼の?」


「そう」


「やっぱり」


 凛がリビングのソファに、遼の隣に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。


「終わったの?」


「終わった」


「そっか」


「うん」


「お疲れ」


「ありがとう」


 凛はそれ以上、聞かなかった。聞かないのは、聞いても遼が「まあ」としか答えないことを姉として知っていたから。知っているから聞かない。聞かないのが姉のやり方だった。


 華がお菓子のことを聞いてきた。


「遼、お菓子もらってきた?」


「もらってない」


「えー」


「全部、その場で食べた」


「だれが」


「黒木さんが二つ。俺が一つ。あとは、田所さんと、宮脇さんと、他の関係者で」


「最中?」


「最中」


「いいなー、最中」


「華、ハンバーグ食べる方が先だよ」と由紀。


「両方食べる」


「順番に」


「分かった」


 華は台所の方をちらりと見ていた。見ながらすでに、ハンバーグの匂いを味わっていた。味わうことが華の特技の一つ。匂いだけで八割、味が分かる。これは華が二十年で開発した、生活の小さな技術だった。


   


 ハンバーグは、おいしかった。


 由紀のハンバーグと田中のおばちゃんの作ったポテトサラダ。サラダにはマヨネーズが多めに入っていた。多めなのは、田中のおばちゃんの好みだった。多めなのを、由紀は何も言わなかった。言わないのが、最近の由紀の方針だった。


 食卓は、賑やかだった。


 賑やかなのは、五人いるから。柊家四人と田中のおばちゃん。田中のおばちゃんが食卓に加わるのはそれなりに珍しい。年に一度か二度。今日はその一度に当たった。当たったのはたぶん、宮脇の連絡があったから。宮脇の連絡が、田中のおばちゃんを柊家の食卓まで運んできた。運ばれてきた田中のおばちゃんはハンバーグをおいしそうに食べていた。


「あんた、よく頑張ったね」と田中のおばちゃんが、遼に言った。


「ありがとうございます」


「何やってたか、私はよく分からないけど」


「そうですか」


「分からないけど、頑張ったらしいから、頑張ったってことでいいわよね」


「いいです」


「いいわよね」


 田中のおばちゃんはハンバーグを口に運んだ。運びながら、独り言のように、言った。


「あんたも、お父さんに似てきたわね」


 遼の手が、止まった。


 止まったが、すぐ、動いた。


「そうですか」


「そうよ」


「……」


「お父さんも、よく分からないこと、頑張ってたから」


「そうですか」


「うん」


 田中のおばちゃんはそれ以上、何も言わなかった。


 由紀がハンバーグをゆっくり口に運んだ。運びながら、田中のおばちゃんをちらりと見る。田中のおばちゃんは、見られていることに気づいていたが、気づいていない顔をしていた。気づいていない顔のまま、ポテトサラダを食べた。


 凛と華は両親の話に踏み込まなかった。踏み込まないのは、踏み込んでいい時と踏み込まない方がいい時があり、今日は後者だと二人とも判断したから。判断は、家族として二十年で身についた感覚だった。


 遼はハンバーグをもう一口、食べた。


 ハンバーグは、おいしかった。


   


 夜、遼の部屋。


 遼は机の前に座っていた。座ってから、スマホを見た。スマホには、メッセージが二件、入っていた。


 一件は、ロバートから。


*"David's message:"*

(デイビッドからの伝言です)


*"Good. Tell him thank you."*

(いいね。彼にありがとうと伝えて)


*"That's all."*

(以上です)


 遼は文面をしばらく見ていた。見てから、返事を打った。


*"Understood. Got the message."*

(了解しました。伝言は受け取りました)


*"Please return 'thank you' right back."*

(「ありがとう」もこちらこそ、と返してください)


*"Will do."*

(了解です)


 ロバートからの返事はシンプル。シンプルなのが、ロバートの伝言の特徴。デイビッドからの「Good」も、デイビッドの言葉の特徴だった。アメリカのCEOはたぶん、世界中に「Good」を送って回っている。「Good」を受け取った人間が、それぞれ自分の仕事に戻る。戻る先がたまたま市ヶ谷の防衛省だった、というのが今日の遼だった。


 もう一件は、詩織(しおり)から。


『今日、終わったって聞いた』


 遼は少し止まった。


 なぜ詩織が知っているのか、と一瞬考えた。考えてから、たぶん由紀が伝えたのだろうと結論した。由紀は最近、詩織と連絡を取っている。取っている内容はたぶん、半分くらいが遼のこと。母と幼なじみが、遼のことを共有している。共有されている本人は、それをなんとなく察していた。察してはいたが、抗議しなかった。抗議しないのが、遼の選択だった。


 返信を打った。


『終わった』


『お疲れ様』


『まあ』


『また来た』


『何が』


『なんでもない』


 遼は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


 「また来た」「何が」「なんでもない」。詩織との会話の、ある特定のリズム。これは詩織が何かを察したけれど、それを口にしないと決めた時の、リズムだった。リズムを、遼は、最近、覚えてきた。覚えてきたが、何を察したのかは、まだ、聞いていない。聞かないのが、たぶん、今のところの正解だった。


『終わってよかったね』


『うん』


『またね』


『またな』


 既読がついて、それで終わりだった。


 遼はスマホを、机の上に置いた。置いてから、天井を見た。


   


 天井は、白かった。


 白い天井は何も言わなかった。


 遼は二週間、防衛省のために書き続けた。書き続けて、直した。直したものはたぶん、十年から二十年は持つ。持っている間、誰かが安心して仕事ができる。安心して仕事ができるかどうかは、遼の知ったことではない。けれど知ったことではないままに、安心が生まれた。生まれたものはもう、遼の手を離れている。離れているのに、まだ机の上に何かが残っていた。


 残っていたのはたぶん、「なんで行ったんだ」の問いだった。


 あの日、詩織の職場のコピー機を直しに行った日の問い。あれがまだ残っている。直しても消えない。直したものは消えるのに、問いは消えない。問いと作業は、別の場所に保管されているらしい。


 遼は机の上の、空いたコーヒーカップを見た。


 カップは空だった。


 空のカップをしばらく見ていると、頭の中で、別の言葉が、浮かんできた。


 「俺は、どうしたいんだ」。


 先週から続いている問い。今日、防衛システムが完成しても、消えない問い。消えないまま、また、夜が来る。


 遼は立ち上がった。


 空のカップを台所に持っていった。途中、リビングを通った。リビングでは由紀がテレビを見ていた。テレビの画面には夜のニュースが流れている。ニュースの内容はサイバーセキュリティに関するもの。最近、政府機関の防衛体制が強化された——というニュース。


 由紀がテレビを見たまま、言った。


「あんた、関係してた?」


「……してた」


「そう」


「うん」


「ご苦労さま」


「ありがとう」


 由紀はそれ以上、何も言わなかった。


 遼は台所にカップを置いて、自分の部屋に戻った。途中、もう一度リビングを通った。由紀はまだテレビを見ている。テレビの中ではニュースキャスターが、別の話題に移っていた。世界の天気。明日は晴れ。


 遼は自分の部屋のドアを、閉めた。


 閉めてから、机の前に座った。座ってから、もう一度、天井を見た。


 白い天井は、相変わらず、何も言わない。


 言わないが、今夜はなぜか、少しだけ、白さが深く見える。深く見える理由は自分でも分からない。分からないが、見えた。たぶん何かが終わった夜の、特有の見え方なのだろう。


 遼は目を閉じた。


 閉じてから、一日、終わった。


   


(第54話「完成」 了)


---


 完成の朝は、いつもの朝と同じだった。


 朝七時。(ひいらぎ)(りょう)は端末の前に座って、最後のテストを走らせた。テストは三百ある。三百のテストが順に通過していく。緑、緑、緑、緑——。一つずつ緑の光が画面に並んでいく。並んでいく光を、遼はぼんやり眺めていた。


 二週間、書き続けた。書き続けた結果がこれだ。


 最後のテストが、緑になった。


 遼は端末の画面をしばらく見ていた。見てから、ロバートにメッセージを送った。


*"Done."*

(直りました)


 送信して、三秒。


 ロバートから返事が来た。


*"Seriously?"*

(本当ですか)


*"Yes."*

(本当)


*"...what time is it now?"*

(……今、何時ですか)


*"7:07."*

(七時七分)


*"Hiiragi-san."*

(柊さん)


*"Yes."*

(はい)


*"Sending 'Done.' in one word at 7:07 in the morning is probably a world first."*

(七時七分に「直りました」と一言送るのはたぶん、世界初です)


*"Is it."*

(そうですか)


*"It is."*

(そうです)


 遼は端末の前で、少しだけ笑った。笑った理由は自分でも分からない。分からないが、笑った。たぶんロバートの「世界初です」が、可笑しかったのかもしれなかった。


   


 午前十時、市ヶ谷。


 田所(たどころ)三佐がオフィスに入ってきた時、遼はコーヒーを飲んでいた。コーヒーは、宮脇係長が淹れてくれたもの。今日のコーヒーは、なぜか普段より、丁寧に淹れられていた。


「柊さん」


「はい」


「直りましたか」


「直りました」


「……直りすぎたくらいですか」


「直りすぎたくらいです」


 田所は椅子に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。見ている田所の顔は、安心したような、寂しいような、判別のつかない顔だった。判別がつかないまま、田所はコーヒーを一口飲んだ。


「これ、あと十年は持ちます」


「もっと持つと思いますが」


「……もっと、ですか」


「もっと」


「具体的には」


「十五年から二十年」


「……」


 田所はもう一口、コーヒーを飲んだ。コーヒーはたぶん、いつもより味がよかった。


「柊さん」


「はい」


「私は、自衛官になって、二十年です」


「はい」


「二十年で、こういう仕事は、初めてです」


「そうですか」


「『こういう』というのは——」


「はい」


「依頼した側が、依頼した内容を、超えた成果物を受け取って、戸惑う、という意味です」


「戸惑い、ですか」


「戸惑いです」


「すいません」


「謝らないでください」


「はい」


「……ありがとうございます」


 田所は深く、頭を下げた。


 遼も頭を下げた。下げ方が田所より少しだけ浅い。浅いのは、遼が誰かに頭を下げることに、まだ慣れていないから。慣れていない人間の浅いお辞儀を、田所は笑いもせず受け取った。受け取ったのが、田所という人だった。


   


 午後、小さな送別会のようなものがあった。


 送別会、というほど大袈裟ではない。会議室にコーヒーとお菓子が用意され、関係者が数人、立ったまま話す——その程度のものだった。


 黒木(くろき)統括官が、お菓子のあるテーブルの前で、遼に近づいてきた。


「柊さん」


「はい」


「お疲れ様でした」


「お疲れ様でした」


 黒木はお菓子を一つ、取った。市ヶ谷の和菓子屋の最中。包み紙を、黒木はゆっくり剥がす。剥がしながら何か言いたそうにしていた。言いたそうにしているが、言葉が出てこない。出てこないまま、最中の包み紙が剥がれ終わった。


「柊さん」


「はい」


「またお願いすることがあるかもしれません」


「壊れてたら直します」


 黒木は最中を、口に運ぼうとしていた手を止めた。


「……国防のことを、そういう感じで」


「他に言い方がないので」


「ない、ですか」


「ないです」


 黒木は最中をしばらく見ていた。見てからゆっくり、口に運んだ。口に運んでから、咀嚼した。咀嚼している間、何も言わなかった。咀嚼が終わってから、もう一度、遼を見た。


「柊さん」


「はい」


「あなたの『他に言い方がない』が、私の『前例がありません』を、四ヶ月で書き換えました」


「……」


「いえ、報告でした。返事は不要です」


 黒木は最中の二つ目を取った。取ってから、別のテーブルへ歩いていく。歩いている黒木の背中は五十三歳の背中。五十三歳の背中はいつもより少しだけ軽そうに見えた。気のせいかもしれない。気のせいでも、軽そうだった。


   


 宮脇(みやわき)係長が、ノートを抱えて近寄ってきた。


「柊氏」


「はい」


「最後の議事録、よろしいですか」


「別にいいですが」


「では、読み上げます」


「はい」


 宮脇はノートを開いた。開いてから、すっと、姿勢を正した。


「『七月、防衛省サイバー防衛隊・基幹システム改修案件、納品。柊遼氏、国家のサイバーインフラを普通に直す。以上』」


「……」


「以上です」


「以上、ですか」


「以上です」


 遼の隣で田所が、コーヒーを噴きそうになっていた。噴きそうになるのを、必死で堪えていた。堪えながら、宮脇に向かって、ゆっくり言った。


「宮脇」


「はい」


「『普通に直す』は、議事録の表現として、適切なのか」


「適切です」


「根拠は」


「事実だからです」


「もう少し、なんというか、こう」


「『普通ではなく』ですか」


「まあ、そういう」


「事実を曲げることになります」


「曲げないけれど、書き方が」


「『国家のサイバーインフラを驚くべき速度と精度で完璧に直す』」


「……長い」


「冗長ですね」


「冗長」


「『普通に直す』に戻します」


「……戻すんですか」


「戻します」


 田所はコーヒーを置いた。置いてから、宮脇のノートをしばらく見ていた。


「宮脇」


「はい」


「お前のキャリアの集大成が、『普通に直す』なのか」


「集大成では、ないと思いますが」


「集大成だ」


「そうですか」


「そうだ」


「……記録します」


「記録するな」


「記録します」


 田所は深く、息を吐いた。


 遼は二人のやり取りを黙って聞いていた。聞いていながら、お菓子のテーブルの方を少し見た。最中はもう、二つ減っている。減ったうちの二つは、黒木が食べた。残りはまだ十個くらいある。遼は最中を一つ取った。取ってから口に運んだ。最中は甘い。甘いのが、たぶん今日の味だった。


   


 夕方、遼は柊家に帰った。


 帰ると、リビングが、いつもと違っていた。


 いつもと違うのは台所に二人立っていたこと。一人は由紀(ゆき)。もう一人は田中(たなか)のおばちゃん。二人で何かを、作っていた。野菜を切る音と、お鍋の音が、混ざっていた。混ざっている音が、リビングまで届いていた。


「ただいま」


「お帰り」と由紀。


「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。


「……何してるんですか」


「お祝い」


「お祝い、というのは」


「あんた、今日、終わったでしょ」


「……なんで知ってるんですか」


「田中さんに聞いた」


「田中さんはなぜ知ってるんですか」


 田中のおばちゃんが、野菜を切りながら答えた。


「宮脇さんから連絡もらって」


 遼の顔が、ほんの少し、止まった。


「……宮脇さんが、田中さんに、連絡」


「そうなの」


「いつから知り合いなんですか」


「先週、一緒に廊下で会ってね」


「会ったんですか」


「あの人、私のことを『田中幸江氏』って呼ぶの。律儀でね」


「……」


 遼はリビングのソファに座った。座ってから、しばらく天井を見ていた。


 宮脇はいつの間にか田中のおばちゃんとも繋がっている。たぶん議事録の登録対象が、田中のおばちゃんにまで及んでいる。及んでいることに、遼は今、初めて気づいた。気づいたが、抗議する気力はもう、ない。


「お祝い、何作ってるんですか」


「ハンバーグ」


「またハンバーグですか」


「祝いの日はハンバーグ」


「我が家の伝統ですか」


「今日から伝統」


「……」


 由紀がにこにこしながらハンバーグの種をこねている。田中のおばちゃんは野菜を切っている。二人は息が合っていた。合っているのは、ここ二週間以上、毎日のように顔を合わせている成果。成果という言葉が適切かどうかは分からないが、成果以外の言葉も見当たらなかった。


   


 (りん)(はな)も帰ってきた。


「ただいま」と凛。


「ただいまー」と華。


「お帰り」と由紀。


「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。


「……田中さんもいる」


「いるよ」


「ハンバーグ?」


「ハンバーグ」


「お祝い?」


「お祝い」


「遼の?」


「そう」


「やっぱり」


 凛がリビングのソファに、遼の隣に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。


「終わったの?」


「終わった」


「そっか」


「うん」


「お疲れ」


「ありがとう」


 凛はそれ以上、聞かなかった。聞かないのは、聞いても遼が「まあ」としか答えないことを姉として知っていたから。知っているから聞かない。聞かないのが姉のやり方だった。


 華がお菓子のことを聞いてきた。


「遼、お菓子もらってきた?」


「もらってない」


「えー」


「全部、その場で食べた」


「だれが」


「黒木さんが二つ。俺が一つ。あとは、田所さんと、宮脇さんと、他の関係者で」


「最中?」


「最中」


「いいなー、最中」


「華、ハンバーグ食べる方が先だよ」と由紀。


「両方食べる」


「順番に」


「分かった」


 華は台所の方をちらりと見ていた。見ながらすでに、ハンバーグの匂いを味わっていた。味わうことが華の特技の一つ。匂いだけで八割、味が分かる。これは華が二十年で開発した、生活の小さな技術だった。


   


 ハンバーグは、おいしかった。


 由紀のハンバーグと田中のおばちゃんの作ったポテトサラダ。サラダにはマヨネーズが多めに入っていた。多めなのは、田中のおばちゃんの好みだった。多めなのを、由紀は何も言わなかった。言わないのが、最近の由紀の方針だった。


 食卓は、賑やかだった。


 賑やかなのは、五人いるから。柊家四人と田中のおばちゃん。田中のおばちゃんが食卓に加わるのはそれなりに珍しい。年に一度か二度。今日はその一度に当たった。当たったのはたぶん、宮脇の連絡があったから。宮脇の連絡が、田中のおばちゃんを柊家の食卓まで運んできた。運ばれてきた田中のおばちゃんはハンバーグをおいしそうに食べていた。


「あんた、よく頑張ったね」と田中のおばちゃんが、遼に言った。


「ありがとうございます」


「何やってたか、私はよく分からないけど」


「そうですか」


「分からないけど、頑張ったらしいから、頑張ったってことでいいわよね」


「いいです」


「いいわよね」


 田中のおばちゃんはハンバーグを口に運んだ。運びながら、独り言のように、言った。


「あんたも、お父さんに似てきたわね」


 遼の手が、止まった。


 止まったが、すぐ、動いた。


「そうですか」


「そうよ」


「……」


「お父さんも、よく分からないこと、頑張ってたから」


「そうですか」


「うん」


 田中のおばちゃんはそれ以上、何も言わなかった。


 由紀がハンバーグをゆっくり口に運んだ。運びながら、田中のおばちゃんをちらりと見る。田中のおばちゃんは、見られていることに気づいていたが、気づいていない顔をしていた。気づいていない顔のまま、ポテトサラダを食べた。


 凛と華は両親の話に踏み込まなかった。踏み込まないのは、踏み込んでいい時と踏み込まない方がいい時があり、今日は後者だと二人とも判断したから。判断は、家族として二十年で身についた感覚だった。


 遼はハンバーグをもう一口、食べた。


 ハンバーグは、おいしかった。


   


 夜、遼の部屋。


 遼は机の前に座っていた。座ってから、スマホを見た。スマホには、メッセージが二件、入っていた。


 一件は、ロバートから。


*"David's message:"*

(デイビッドからの伝言です)


*"Good. Tell him thank you."*

(いいね。彼にありがとうと伝えて)


*"That's all."*

(以上です)


 遼は文面をしばらく見ていた。見てから、返事を打った。


*"Understood. Got the message."*

(了解しました。伝言は受け取りました)


*"Please return 'thank you' right back."*

(「ありがとう」もこちらこそ、と返してください)


*"Will do."*

(了解です)


 ロバートからの返事はシンプル。シンプルなのが、ロバートの伝言の特徴。デイビッドからの「Good」も、デイビッドの言葉の特徴だった。アメリカのCEOはたぶん、世界中に「Good」を送って回っている。「Good」を受け取った人間が、それぞれ自分の仕事に戻る。戻る先がたまたま市ヶ谷の防衛省だった、というのが今日の遼だった。


 もう一件は、詩織(しおり)から。


『今日、終わったって聞いた』


 遼は少し止まった。


 なぜ詩織が知っているのか、と一瞬考えた。考えてから、たぶん由紀が伝えたのだろうと結論した。由紀は最近、詩織と連絡を取っている。取っている内容はたぶん、半分くらいが遼のこと。母と幼なじみが、遼のことを共有している。共有されている本人は、それをなんとなく察していた。察してはいたが、抗議しなかった。抗議しないのが、遼の選択だった。


 返信を打った。


『終わった』


『お疲れ様』


『まあ』


『また来た』


『何が』


『なんでもない』


 遼は画面を見たまま、しばらく動かなかった。


 「また来た」「何が」「なんでもない」。詩織との会話の、ある特定のリズム。これは詩織が何かを察したけれど、それを口にしないと決めた時の、リズムだった。リズムを、遼は、最近、覚えてきた。覚えてきたが、何を察したのかは、まだ、聞いていない。聞かないのが、たぶん、今のところの正解だった。


『終わってよかったね』


『うん』


『またね』


『またな』


 既読がついて、それで終わりだった。


 遼はスマホを、机の上に置いた。置いてから、天井を見た。


   


 天井は、白かった。


 白い天井は何も言わなかった。


 遼は二週間、防衛省のために書き続けた。書き続けて、直した。直したものはたぶん、十年から二十年は持つ。持っている間、誰かが安心して仕事ができる。安心して仕事ができるかどうかは、遼の知ったことではない。けれど知ったことではないままに、安心が生まれた。生まれたものはもう、遼の手を離れている。離れているのに、まだ机の上に何かが残っていた。


 残っていたのはたぶん、「なんで行ったんだ」の問いだった。


 あの日、詩織の職場のコピー機を直しに行った日の問い。あれがまだ残っている。直しても消えない。直したものは消えるのに、問いは消えない。問いと作業は、別の場所に保管されているらしい。


 遼は机の上の、空いたコーヒーカップを見た。


 カップは空だった。


 空のカップをしばらく見ていると、頭の中で、別の言葉が、浮かんできた。


 「俺は、どうしたいんだ」。


 先週から続いている問い。今日、防衛システムが完成しても、消えない問い。消えないまま、また、夜が来る。


 遼は立ち上がった。


 空のカップを台所に持っていった。途中、リビングを通った。リビングでは由紀がテレビを見ていた。テレビの画面には夜のニュースが流れている。ニュースの内容はサイバーセキュリティに関するもの。最近、政府機関の防衛体制が強化された——というニュース。


 由紀がテレビを見たまま、言った。


「あんた、関係してた?」


「……してた」


「そう」


「うん」


「ご苦労さま」


「ありがとう」


 由紀はそれ以上、何も言わなかった。


 遼は台所にカップを置いて、自分の部屋に戻った。途中、もう一度リビングを通った。由紀はまだテレビを見ている。テレビの中ではニュースキャスターが、別の話題に移っていた。世界の天気。明日は晴れ。


 遼は自分の部屋のドアを、閉めた。


 閉めてから、机の前に座った。座ってから、もう一度、天井を見た。


 白い天井は、相変わらず、何も言わない。


 言わないが、今夜はなぜか、少しだけ、白さが深く見える。深く見える理由は自分でも分からない。分からないが、見えた。たぶん何かが終わった夜の、特有の見え方なのだろう。


 遼は目を閉じた。


 閉じてから、一日、終わった。

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― 新着の感想 ―
たしかにそっくりな文章が二重になってるみたい
同じ文章が二重に投稿されているかも?
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