第54話「完成」
完成の朝は、いつもの朝と同じだった。
朝七時。柊遼は端末の前に座って、最後のテストを走らせた。テストは三百ある。三百のテストが順に通過していく。緑、緑、緑、緑——。一つずつ緑の光が画面に並んでいく。並んでいく光を、遼はぼんやり眺めていた。
二週間、書き続けた。書き続けた結果がこれだ。
最後のテストが、緑になった。
遼は端末の画面をしばらく見ていた。見てから、ロバートにメッセージを送った。
*"Done."*
(直りました)
送信して、三秒。
ロバートから返事が来た。
*"Seriously?"*
(本当ですか)
*"Yes."*
(本当)
*"...what time is it now?"*
(……今、何時ですか)
*"7:07."*
(七時七分)
*"Hiiragi-san."*
(柊さん)
*"Yes."*
(はい)
*"Sending 'Done.' in one word at 7:07 in the morning is probably a world first."*
(七時七分に「直りました」と一言送るのはたぶん、世界初です)
*"Is it."*
(そうですか)
*"It is."*
(そうです)
遼は端末の前で、少しだけ笑った。笑った理由は自分でも分からない。分からないが、笑った。たぶんロバートの「世界初です」が、可笑しかったのかもしれなかった。
午前十時、市ヶ谷。
田所三佐がオフィスに入ってきた時、遼はコーヒーを飲んでいた。コーヒーは、宮脇係長が淹れてくれたもの。今日のコーヒーは、なぜか普段より、丁寧に淹れられていた。
「柊さん」
「はい」
「直りましたか」
「直りました」
「……直りすぎたくらいですか」
「直りすぎたくらいです」
田所は椅子に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。見ている田所の顔は、安心したような、寂しいような、判別のつかない顔だった。判別がつかないまま、田所はコーヒーを一口飲んだ。
「これ、あと十年は持ちます」
「もっと持つと思いますが」
「……もっと、ですか」
「もっと」
「具体的には」
「十五年から二十年」
「……」
田所はもう一口、コーヒーを飲んだ。コーヒーはたぶん、いつもより味がよかった。
「柊さん」
「はい」
「私は、自衛官になって、二十年です」
「はい」
「二十年で、こういう仕事は、初めてです」
「そうですか」
「『こういう』というのは——」
「はい」
「依頼した側が、依頼した内容を、超えた成果物を受け取って、戸惑う、という意味です」
「戸惑い、ですか」
「戸惑いです」
「すいません」
「謝らないでください」
「はい」
「……ありがとうございます」
田所は深く、頭を下げた。
遼も頭を下げた。下げ方が田所より少しだけ浅い。浅いのは、遼が誰かに頭を下げることに、まだ慣れていないから。慣れていない人間の浅いお辞儀を、田所は笑いもせず受け取った。受け取ったのが、田所という人だった。
午後、小さな送別会のようなものがあった。
送別会、というほど大袈裟ではない。会議室にコーヒーとお菓子が用意され、関係者が数人、立ったまま話す——その程度のものだった。
黒木統括官が、お菓子のあるテーブルの前で、遼に近づいてきた。
「柊さん」
「はい」
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
黒木はお菓子を一つ、取った。市ヶ谷の和菓子屋の最中。包み紙を、黒木はゆっくり剥がす。剥がしながら何か言いたそうにしていた。言いたそうにしているが、言葉が出てこない。出てこないまま、最中の包み紙が剥がれ終わった。
「柊さん」
「はい」
「またお願いすることがあるかもしれません」
「壊れてたら直します」
黒木は最中を、口に運ぼうとしていた手を止めた。
「……国防のことを、そういう感じで」
「他に言い方がないので」
「ない、ですか」
「ないです」
黒木は最中をしばらく見ていた。見てからゆっくり、口に運んだ。口に運んでから、咀嚼した。咀嚼している間、何も言わなかった。咀嚼が終わってから、もう一度、遼を見た。
「柊さん」
「はい」
「あなたの『他に言い方がない』が、私の『前例がありません』を、四ヶ月で書き換えました」
「……」
「いえ、報告でした。返事は不要です」
黒木は最中の二つ目を取った。取ってから、別のテーブルへ歩いていく。歩いている黒木の背中は五十三歳の背中。五十三歳の背中はいつもより少しだけ軽そうに見えた。気のせいかもしれない。気のせいでも、軽そうだった。
宮脇係長が、ノートを抱えて近寄ってきた。
「柊氏」
「はい」
「最後の議事録、よろしいですか」
「別にいいですが」
「では、読み上げます」
「はい」
宮脇はノートを開いた。開いてから、すっと、姿勢を正した。
「『七月、防衛省サイバー防衛隊・基幹システム改修案件、納品。柊遼氏、国家のサイバーインフラを普通に直す。以上』」
「……」
「以上です」
「以上、ですか」
「以上です」
遼の隣で田所が、コーヒーを噴きそうになっていた。噴きそうになるのを、必死で堪えていた。堪えながら、宮脇に向かって、ゆっくり言った。
「宮脇」
「はい」
「『普通に直す』は、議事録の表現として、適切なのか」
「適切です」
「根拠は」
「事実だからです」
「もう少し、なんというか、こう」
「『普通ではなく』ですか」
「まあ、そういう」
「事実を曲げることになります」
「曲げないけれど、書き方が」
「『国家のサイバーインフラを驚くべき速度と精度で完璧に直す』」
「……長い」
「冗長ですね」
「冗長」
「『普通に直す』に戻します」
「……戻すんですか」
「戻します」
田所はコーヒーを置いた。置いてから、宮脇のノートをしばらく見ていた。
「宮脇」
「はい」
「お前のキャリアの集大成が、『普通に直す』なのか」
「集大成では、ないと思いますが」
「集大成だ」
「そうですか」
「そうだ」
「……記録します」
「記録するな」
「記録します」
田所は深く、息を吐いた。
遼は二人のやり取りを黙って聞いていた。聞いていながら、お菓子のテーブルの方を少し見た。最中はもう、二つ減っている。減ったうちの二つは、黒木が食べた。残りはまだ十個くらいある。遼は最中を一つ取った。取ってから口に運んだ。最中は甘い。甘いのが、たぶん今日の味だった。
夕方、遼は柊家に帰った。
帰ると、リビングが、いつもと違っていた。
いつもと違うのは台所に二人立っていたこと。一人は由紀。もう一人は田中のおばちゃん。二人で何かを、作っていた。野菜を切る音と、お鍋の音が、混ざっていた。混ざっている音が、リビングまで届いていた。
「ただいま」
「お帰り」と由紀。
「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。
「……何してるんですか」
「お祝い」
「お祝い、というのは」
「あんた、今日、終わったでしょ」
「……なんで知ってるんですか」
「田中さんに聞いた」
「田中さんはなぜ知ってるんですか」
田中のおばちゃんが、野菜を切りながら答えた。
「宮脇さんから連絡もらって」
遼の顔が、ほんの少し、止まった。
「……宮脇さんが、田中さんに、連絡」
「そうなの」
「いつから知り合いなんですか」
「先週、一緒に廊下で会ってね」
「会ったんですか」
「あの人、私のことを『田中幸江氏』って呼ぶの。律儀でね」
「……」
遼はリビングのソファに座った。座ってから、しばらく天井を見ていた。
宮脇はいつの間にか田中のおばちゃんとも繋がっている。たぶん議事録の登録対象が、田中のおばちゃんにまで及んでいる。及んでいることに、遼は今、初めて気づいた。気づいたが、抗議する気力はもう、ない。
「お祝い、何作ってるんですか」
「ハンバーグ」
「またハンバーグですか」
「祝いの日はハンバーグ」
「我が家の伝統ですか」
「今日から伝統」
「……」
由紀がにこにこしながらハンバーグの種をこねている。田中のおばちゃんは野菜を切っている。二人は息が合っていた。合っているのは、ここ二週間以上、毎日のように顔を合わせている成果。成果という言葉が適切かどうかは分からないが、成果以外の言葉も見当たらなかった。
凛と華も帰ってきた。
「ただいま」と凛。
「ただいまー」と華。
「お帰り」と由紀。
「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。
「……田中さんもいる」
「いるよ」
「ハンバーグ?」
「ハンバーグ」
「お祝い?」
「お祝い」
「遼の?」
「そう」
「やっぱり」
凛がリビングのソファに、遼の隣に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。
「終わったの?」
「終わった」
「そっか」
「うん」
「お疲れ」
「ありがとう」
凛はそれ以上、聞かなかった。聞かないのは、聞いても遼が「まあ」としか答えないことを姉として知っていたから。知っているから聞かない。聞かないのが姉のやり方だった。
華がお菓子のことを聞いてきた。
「遼、お菓子もらってきた?」
「もらってない」
「えー」
「全部、その場で食べた」
「だれが」
「黒木さんが二つ。俺が一つ。あとは、田所さんと、宮脇さんと、他の関係者で」
「最中?」
「最中」
「いいなー、最中」
「華、ハンバーグ食べる方が先だよ」と由紀。
「両方食べる」
「順番に」
「分かった」
華は台所の方をちらりと見ていた。見ながらすでに、ハンバーグの匂いを味わっていた。味わうことが華の特技の一つ。匂いだけで八割、味が分かる。これは華が二十年で開発した、生活の小さな技術だった。
ハンバーグは、おいしかった。
由紀のハンバーグと田中のおばちゃんの作ったポテトサラダ。サラダにはマヨネーズが多めに入っていた。多めなのは、田中のおばちゃんの好みだった。多めなのを、由紀は何も言わなかった。言わないのが、最近の由紀の方針だった。
食卓は、賑やかだった。
賑やかなのは、五人いるから。柊家四人と田中のおばちゃん。田中のおばちゃんが食卓に加わるのはそれなりに珍しい。年に一度か二度。今日はその一度に当たった。当たったのはたぶん、宮脇の連絡があったから。宮脇の連絡が、田中のおばちゃんを柊家の食卓まで運んできた。運ばれてきた田中のおばちゃんはハンバーグをおいしそうに食べていた。
「あんた、よく頑張ったね」と田中のおばちゃんが、遼に言った。
「ありがとうございます」
「何やってたか、私はよく分からないけど」
「そうですか」
「分からないけど、頑張ったらしいから、頑張ったってことでいいわよね」
「いいです」
「いいわよね」
田中のおばちゃんはハンバーグを口に運んだ。運びながら、独り言のように、言った。
「あんたも、お父さんに似てきたわね」
遼の手が、止まった。
止まったが、すぐ、動いた。
「そうですか」
「そうよ」
「……」
「お父さんも、よく分からないこと、頑張ってたから」
「そうですか」
「うん」
田中のおばちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
由紀がハンバーグをゆっくり口に運んだ。運びながら、田中のおばちゃんをちらりと見る。田中のおばちゃんは、見られていることに気づいていたが、気づいていない顔をしていた。気づいていない顔のまま、ポテトサラダを食べた。
凛と華は両親の話に踏み込まなかった。踏み込まないのは、踏み込んでいい時と踏み込まない方がいい時があり、今日は後者だと二人とも判断したから。判断は、家族として二十年で身についた感覚だった。
遼はハンバーグをもう一口、食べた。
ハンバーグは、おいしかった。
夜、遼の部屋。
遼は机の前に座っていた。座ってから、スマホを見た。スマホには、メッセージが二件、入っていた。
一件は、ロバートから。
*"David's message:"*
(デイビッドからの伝言です)
*"Good. Tell him thank you."*
(いいね。彼にありがとうと伝えて)
*"That's all."*
(以上です)
遼は文面をしばらく見ていた。見てから、返事を打った。
*"Understood. Got the message."*
(了解しました。伝言は受け取りました)
*"Please return 'thank you' right back."*
(「ありがとう」もこちらこそ、と返してください)
*"Will do."*
(了解です)
ロバートからの返事はシンプル。シンプルなのが、ロバートの伝言の特徴。デイビッドからの「Good」も、デイビッドの言葉の特徴だった。アメリカのCEOはたぶん、世界中に「Good」を送って回っている。「Good」を受け取った人間が、それぞれ自分の仕事に戻る。戻る先がたまたま市ヶ谷の防衛省だった、というのが今日の遼だった。
もう一件は、詩織から。
『今日、終わったって聞いた』
遼は少し止まった。
なぜ詩織が知っているのか、と一瞬考えた。考えてから、たぶん由紀が伝えたのだろうと結論した。由紀は最近、詩織と連絡を取っている。取っている内容はたぶん、半分くらいが遼のこと。母と幼なじみが、遼のことを共有している。共有されている本人は、それをなんとなく察していた。察してはいたが、抗議しなかった。抗議しないのが、遼の選択だった。
返信を打った。
『終わった』
『お疲れ様』
『まあ』
『また来た』
『何が』
『なんでもない』
遼は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「また来た」「何が」「なんでもない」。詩織との会話の、ある特定のリズム。これは詩織が何かを察したけれど、それを口にしないと決めた時の、リズムだった。リズムを、遼は、最近、覚えてきた。覚えてきたが、何を察したのかは、まだ、聞いていない。聞かないのが、たぶん、今のところの正解だった。
『終わってよかったね』
『うん』
『またね』
『またな』
既読がついて、それで終わりだった。
遼はスマホを、机の上に置いた。置いてから、天井を見た。
天井は、白かった。
白い天井は何も言わなかった。
遼は二週間、防衛省のために書き続けた。書き続けて、直した。直したものはたぶん、十年から二十年は持つ。持っている間、誰かが安心して仕事ができる。安心して仕事ができるかどうかは、遼の知ったことではない。けれど知ったことではないままに、安心が生まれた。生まれたものはもう、遼の手を離れている。離れているのに、まだ机の上に何かが残っていた。
残っていたのはたぶん、「なんで行ったんだ」の問いだった。
あの日、詩織の職場のコピー機を直しに行った日の問い。あれがまだ残っている。直しても消えない。直したものは消えるのに、問いは消えない。問いと作業は、別の場所に保管されているらしい。
遼は机の上の、空いたコーヒーカップを見た。
カップは空だった。
空のカップをしばらく見ていると、頭の中で、別の言葉が、浮かんできた。
「俺は、どうしたいんだ」。
先週から続いている問い。今日、防衛システムが完成しても、消えない問い。消えないまま、また、夜が来る。
遼は立ち上がった。
空のカップを台所に持っていった。途中、リビングを通った。リビングでは由紀がテレビを見ていた。テレビの画面には夜のニュースが流れている。ニュースの内容はサイバーセキュリティに関するもの。最近、政府機関の防衛体制が強化された——というニュース。
由紀がテレビを見たまま、言った。
「あんた、関係してた?」
「……してた」
「そう」
「うん」
「ご苦労さま」
「ありがとう」
由紀はそれ以上、何も言わなかった。
遼は台所にカップを置いて、自分の部屋に戻った。途中、もう一度リビングを通った。由紀はまだテレビを見ている。テレビの中ではニュースキャスターが、別の話題に移っていた。世界の天気。明日は晴れ。
遼は自分の部屋のドアを、閉めた。
閉めてから、机の前に座った。座ってから、もう一度、天井を見た。
白い天井は、相変わらず、何も言わない。
言わないが、今夜はなぜか、少しだけ、白さが深く見える。深く見える理由は自分でも分からない。分からないが、見えた。たぶん何かが終わった夜の、特有の見え方なのだろう。
遼は目を閉じた。
閉じてから、一日、終わった。
(第54話「完成」 了)
---
完成の朝は、いつもの朝と同じだった。
朝七時。柊遼は端末の前に座って、最後のテストを走らせた。テストは三百ある。三百のテストが順に通過していく。緑、緑、緑、緑——。一つずつ緑の光が画面に並んでいく。並んでいく光を、遼はぼんやり眺めていた。
二週間、書き続けた。書き続けた結果がこれだ。
最後のテストが、緑になった。
遼は端末の画面をしばらく見ていた。見てから、ロバートにメッセージを送った。
*"Done."*
(直りました)
送信して、三秒。
ロバートから返事が来た。
*"Seriously?"*
(本当ですか)
*"Yes."*
(本当)
*"...what time is it now?"*
(……今、何時ですか)
*"7:07."*
(七時七分)
*"Hiiragi-san."*
(柊さん)
*"Yes."*
(はい)
*"Sending 'Done.' in one word at 7:07 in the morning is probably a world first."*
(七時七分に「直りました」と一言送るのはたぶん、世界初です)
*"Is it."*
(そうですか)
*"It is."*
(そうです)
遼は端末の前で、少しだけ笑った。笑った理由は自分でも分からない。分からないが、笑った。たぶんロバートの「世界初です」が、可笑しかったのかもしれなかった。
午前十時、市ヶ谷。
田所三佐がオフィスに入ってきた時、遼はコーヒーを飲んでいた。コーヒーは、宮脇係長が淹れてくれたもの。今日のコーヒーは、なぜか普段より、丁寧に淹れられていた。
「柊さん」
「はい」
「直りましたか」
「直りました」
「……直りすぎたくらいですか」
「直りすぎたくらいです」
田所は椅子に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。見ている田所の顔は、安心したような、寂しいような、判別のつかない顔だった。判別がつかないまま、田所はコーヒーを一口飲んだ。
「これ、あと十年は持ちます」
「もっと持つと思いますが」
「……もっと、ですか」
「もっと」
「具体的には」
「十五年から二十年」
「……」
田所はもう一口、コーヒーを飲んだ。コーヒーはたぶん、いつもより味がよかった。
「柊さん」
「はい」
「私は、自衛官になって、二十年です」
「はい」
「二十年で、こういう仕事は、初めてです」
「そうですか」
「『こういう』というのは——」
「はい」
「依頼した側が、依頼した内容を、超えた成果物を受け取って、戸惑う、という意味です」
「戸惑い、ですか」
「戸惑いです」
「すいません」
「謝らないでください」
「はい」
「……ありがとうございます」
田所は深く、頭を下げた。
遼も頭を下げた。下げ方が田所より少しだけ浅い。浅いのは、遼が誰かに頭を下げることに、まだ慣れていないから。慣れていない人間の浅いお辞儀を、田所は笑いもせず受け取った。受け取ったのが、田所という人だった。
午後、小さな送別会のようなものがあった。
送別会、というほど大袈裟ではない。会議室にコーヒーとお菓子が用意され、関係者が数人、立ったまま話す——その程度のものだった。
黒木統括官が、お菓子のあるテーブルの前で、遼に近づいてきた。
「柊さん」
「はい」
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
黒木はお菓子を一つ、取った。市ヶ谷の和菓子屋の最中。包み紙を、黒木はゆっくり剥がす。剥がしながら何か言いたそうにしていた。言いたそうにしているが、言葉が出てこない。出てこないまま、最中の包み紙が剥がれ終わった。
「柊さん」
「はい」
「またお願いすることがあるかもしれません」
「壊れてたら直します」
黒木は最中を、口に運ぼうとしていた手を止めた。
「……国防のことを、そういう感じで」
「他に言い方がないので」
「ない、ですか」
「ないです」
黒木は最中をしばらく見ていた。見てからゆっくり、口に運んだ。口に運んでから、咀嚼した。咀嚼している間、何も言わなかった。咀嚼が終わってから、もう一度、遼を見た。
「柊さん」
「はい」
「あなたの『他に言い方がない』が、私の『前例がありません』を、四ヶ月で書き換えました」
「……」
「いえ、報告でした。返事は不要です」
黒木は最中の二つ目を取った。取ってから、別のテーブルへ歩いていく。歩いている黒木の背中は五十三歳の背中。五十三歳の背中はいつもより少しだけ軽そうに見えた。気のせいかもしれない。気のせいでも、軽そうだった。
宮脇係長が、ノートを抱えて近寄ってきた。
「柊氏」
「はい」
「最後の議事録、よろしいですか」
「別にいいですが」
「では、読み上げます」
「はい」
宮脇はノートを開いた。開いてから、すっと、姿勢を正した。
「『七月、防衛省サイバー防衛隊・基幹システム改修案件、納品。柊遼氏、国家のサイバーインフラを普通に直す。以上』」
「……」
「以上です」
「以上、ですか」
「以上です」
遼の隣で田所が、コーヒーを噴きそうになっていた。噴きそうになるのを、必死で堪えていた。堪えながら、宮脇に向かって、ゆっくり言った。
「宮脇」
「はい」
「『普通に直す』は、議事録の表現として、適切なのか」
「適切です」
「根拠は」
「事実だからです」
「もう少し、なんというか、こう」
「『普通ではなく』ですか」
「まあ、そういう」
「事実を曲げることになります」
「曲げないけれど、書き方が」
「『国家のサイバーインフラを驚くべき速度と精度で完璧に直す』」
「……長い」
「冗長ですね」
「冗長」
「『普通に直す』に戻します」
「……戻すんですか」
「戻します」
田所はコーヒーを置いた。置いてから、宮脇のノートをしばらく見ていた。
「宮脇」
「はい」
「お前のキャリアの集大成が、『普通に直す』なのか」
「集大成では、ないと思いますが」
「集大成だ」
「そうですか」
「そうだ」
「……記録します」
「記録するな」
「記録します」
田所は深く、息を吐いた。
遼は二人のやり取りを黙って聞いていた。聞いていながら、お菓子のテーブルの方を少し見た。最中はもう、二つ減っている。減ったうちの二つは、黒木が食べた。残りはまだ十個くらいある。遼は最中を一つ取った。取ってから口に運んだ。最中は甘い。甘いのが、たぶん今日の味だった。
夕方、遼は柊家に帰った。
帰ると、リビングが、いつもと違っていた。
いつもと違うのは台所に二人立っていたこと。一人は由紀。もう一人は田中のおばちゃん。二人で何かを、作っていた。野菜を切る音と、お鍋の音が、混ざっていた。混ざっている音が、リビングまで届いていた。
「ただいま」
「お帰り」と由紀。
「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。
「……何してるんですか」
「お祝い」
「お祝い、というのは」
「あんた、今日、終わったでしょ」
「……なんで知ってるんですか」
「田中さんに聞いた」
「田中さんはなぜ知ってるんですか」
田中のおばちゃんが、野菜を切りながら答えた。
「宮脇さんから連絡もらって」
遼の顔が、ほんの少し、止まった。
「……宮脇さんが、田中さんに、連絡」
「そうなの」
「いつから知り合いなんですか」
「先週、一緒に廊下で会ってね」
「会ったんですか」
「あの人、私のことを『田中幸江氏』って呼ぶの。律儀でね」
「……」
遼はリビングのソファに座った。座ってから、しばらく天井を見ていた。
宮脇はいつの間にか田中のおばちゃんとも繋がっている。たぶん議事録の登録対象が、田中のおばちゃんにまで及んでいる。及んでいることに、遼は今、初めて気づいた。気づいたが、抗議する気力はもう、ない。
「お祝い、何作ってるんですか」
「ハンバーグ」
「またハンバーグですか」
「祝いの日はハンバーグ」
「我が家の伝統ですか」
「今日から伝統」
「……」
由紀がにこにこしながらハンバーグの種をこねている。田中のおばちゃんは野菜を切っている。二人は息が合っていた。合っているのは、ここ二週間以上、毎日のように顔を合わせている成果。成果という言葉が適切かどうかは分からないが、成果以外の言葉も見当たらなかった。
凛と華も帰ってきた。
「ただいま」と凛。
「ただいまー」と華。
「お帰り」と由紀。
「お帰りなさい」と田中のおばちゃん。
「……田中さんもいる」
「いるよ」
「ハンバーグ?」
「ハンバーグ」
「お祝い?」
「お祝い」
「遼の?」
「そう」
「やっぱり」
凛がリビングのソファに、遼の隣に座った。座ってから、遼の顔をしばらく見ていた。
「終わったの?」
「終わった」
「そっか」
「うん」
「お疲れ」
「ありがとう」
凛はそれ以上、聞かなかった。聞かないのは、聞いても遼が「まあ」としか答えないことを姉として知っていたから。知っているから聞かない。聞かないのが姉のやり方だった。
華がお菓子のことを聞いてきた。
「遼、お菓子もらってきた?」
「もらってない」
「えー」
「全部、その場で食べた」
「だれが」
「黒木さんが二つ。俺が一つ。あとは、田所さんと、宮脇さんと、他の関係者で」
「最中?」
「最中」
「いいなー、最中」
「華、ハンバーグ食べる方が先だよ」と由紀。
「両方食べる」
「順番に」
「分かった」
華は台所の方をちらりと見ていた。見ながらすでに、ハンバーグの匂いを味わっていた。味わうことが華の特技の一つ。匂いだけで八割、味が分かる。これは華が二十年で開発した、生活の小さな技術だった。
ハンバーグは、おいしかった。
由紀のハンバーグと田中のおばちゃんの作ったポテトサラダ。サラダにはマヨネーズが多めに入っていた。多めなのは、田中のおばちゃんの好みだった。多めなのを、由紀は何も言わなかった。言わないのが、最近の由紀の方針だった。
食卓は、賑やかだった。
賑やかなのは、五人いるから。柊家四人と田中のおばちゃん。田中のおばちゃんが食卓に加わるのはそれなりに珍しい。年に一度か二度。今日はその一度に当たった。当たったのはたぶん、宮脇の連絡があったから。宮脇の連絡が、田中のおばちゃんを柊家の食卓まで運んできた。運ばれてきた田中のおばちゃんはハンバーグをおいしそうに食べていた。
「あんた、よく頑張ったね」と田中のおばちゃんが、遼に言った。
「ありがとうございます」
「何やってたか、私はよく分からないけど」
「そうですか」
「分からないけど、頑張ったらしいから、頑張ったってことでいいわよね」
「いいです」
「いいわよね」
田中のおばちゃんはハンバーグを口に運んだ。運びながら、独り言のように、言った。
「あんたも、お父さんに似てきたわね」
遼の手が、止まった。
止まったが、すぐ、動いた。
「そうですか」
「そうよ」
「……」
「お父さんも、よく分からないこと、頑張ってたから」
「そうですか」
「うん」
田中のおばちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
由紀がハンバーグをゆっくり口に運んだ。運びながら、田中のおばちゃんをちらりと見る。田中のおばちゃんは、見られていることに気づいていたが、気づいていない顔をしていた。気づいていない顔のまま、ポテトサラダを食べた。
凛と華は両親の話に踏み込まなかった。踏み込まないのは、踏み込んでいい時と踏み込まない方がいい時があり、今日は後者だと二人とも判断したから。判断は、家族として二十年で身についた感覚だった。
遼はハンバーグをもう一口、食べた。
ハンバーグは、おいしかった。
夜、遼の部屋。
遼は机の前に座っていた。座ってから、スマホを見た。スマホには、メッセージが二件、入っていた。
一件は、ロバートから。
*"David's message:"*
(デイビッドからの伝言です)
*"Good. Tell him thank you."*
(いいね。彼にありがとうと伝えて)
*"That's all."*
(以上です)
遼は文面をしばらく見ていた。見てから、返事を打った。
*"Understood. Got the message."*
(了解しました。伝言は受け取りました)
*"Please return 'thank you' right back."*
(「ありがとう」もこちらこそ、と返してください)
*"Will do."*
(了解です)
ロバートからの返事はシンプル。シンプルなのが、ロバートの伝言の特徴。デイビッドからの「Good」も、デイビッドの言葉の特徴だった。アメリカのCEOはたぶん、世界中に「Good」を送って回っている。「Good」を受け取った人間が、それぞれ自分の仕事に戻る。戻る先がたまたま市ヶ谷の防衛省だった、というのが今日の遼だった。
もう一件は、詩織から。
『今日、終わったって聞いた』
遼は少し止まった。
なぜ詩織が知っているのか、と一瞬考えた。考えてから、たぶん由紀が伝えたのだろうと結論した。由紀は最近、詩織と連絡を取っている。取っている内容はたぶん、半分くらいが遼のこと。母と幼なじみが、遼のことを共有している。共有されている本人は、それをなんとなく察していた。察してはいたが、抗議しなかった。抗議しないのが、遼の選択だった。
返信を打った。
『終わった』
『お疲れ様』
『まあ』
『また来た』
『何が』
『なんでもない』
遼は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「また来た」「何が」「なんでもない」。詩織との会話の、ある特定のリズム。これは詩織が何かを察したけれど、それを口にしないと決めた時の、リズムだった。リズムを、遼は、最近、覚えてきた。覚えてきたが、何を察したのかは、まだ、聞いていない。聞かないのが、たぶん、今のところの正解だった。
『終わってよかったね』
『うん』
『またね』
『またな』
既読がついて、それで終わりだった。
遼はスマホを、机の上に置いた。置いてから、天井を見た。
天井は、白かった。
白い天井は何も言わなかった。
遼は二週間、防衛省のために書き続けた。書き続けて、直した。直したものはたぶん、十年から二十年は持つ。持っている間、誰かが安心して仕事ができる。安心して仕事ができるかどうかは、遼の知ったことではない。けれど知ったことではないままに、安心が生まれた。生まれたものはもう、遼の手を離れている。離れているのに、まだ机の上に何かが残っていた。
残っていたのはたぶん、「なんで行ったんだ」の問いだった。
あの日、詩織の職場のコピー機を直しに行った日の問い。あれがまだ残っている。直しても消えない。直したものは消えるのに、問いは消えない。問いと作業は、別の場所に保管されているらしい。
遼は机の上の、空いたコーヒーカップを見た。
カップは空だった。
空のカップをしばらく見ていると、頭の中で、別の言葉が、浮かんできた。
「俺は、どうしたいんだ」。
先週から続いている問い。今日、防衛システムが完成しても、消えない問い。消えないまま、また、夜が来る。
遼は立ち上がった。
空のカップを台所に持っていった。途中、リビングを通った。リビングでは由紀がテレビを見ていた。テレビの画面には夜のニュースが流れている。ニュースの内容はサイバーセキュリティに関するもの。最近、政府機関の防衛体制が強化された——というニュース。
由紀がテレビを見たまま、言った。
「あんた、関係してた?」
「……してた」
「そう」
「うん」
「ご苦労さま」
「ありがとう」
由紀はそれ以上、何も言わなかった。
遼は台所にカップを置いて、自分の部屋に戻った。途中、もう一度リビングを通った。由紀はまだテレビを見ている。テレビの中ではニュースキャスターが、別の話題に移っていた。世界の天気。明日は晴れ。
遼は自分の部屋のドアを、閉めた。
閉めてから、机の前に座った。座ってから、もう一度、天井を見た。
白い天井は、相変わらず、何も言わない。
言わないが、今夜はなぜか、少しだけ、白さが深く見える。深く見える理由は自分でも分からない。分からないが、見えた。たぶん何かが終わった夜の、特有の見え方なのだろう。
遼は目を閉じた。
閉じてから、一日、終わった。




