第53話「黒木統括官の話」
黒木統括官の朝は五時五十分に始まる。
目覚まし時計が鳴る三分前に、目が覚める。これは市ヶ谷二十七年で身についた習慣で、目覚まし時計は念のために鳴らしているだけで、もう十年以上、時計の音で起きたことがない。十年前にも、その前にも、たぶんなかった。妻にそう言ったら「気持ち悪い」と言われた。気持ち悪いと言われても、生体リズムは止められない。
黒木はベッドから出て、洗面所に向かう。鏡を見る。鏡の中に、五十三歳の自分がいる。五十三歳の顔は五十三歳の顔をしている。これも当たり前のことで、なのにたまに、当たり前のことに、少しだけ驚く。驚く理由は黒木にも分からない。分からないが、最近、その驚きが増えてきた。
顔を洗う。
台所で妻が朝食を出してくれる。
「今日も会議?」
「会議です」
「いつもの?」
「いつもの」
「『前例がありません』を言うやつ?」
「言うかもしれないし、言わないかもしれない」
「最近、言わなくなったって言ってなかった?」
「……減った」
「減ったの」
「減りました」
「珍しいわね」
「……まあ」
妻はコーヒーを注ぎながら、にこにこしていた。妻のにこにこは、夫のキャリア二十七年で、累計二万回以上、見てきた。二万回の中で、今日のは、上から五番目くらいに、機嫌が良かった。理由は分からないが、夫が「前例がありません」を言わなくなった、ということを、妻はなぜか喜んでいる。喜びの理由を問い詰めたことはない。問い詰めると、たぶん、何か出てくる。出てくるものに、五十三歳の黒木は、まだ向き合う準備ができていなかった。
朝食を終え、歯を磨き、シャワーを浴びる。スーツを着る。ネクタイを締める。
今日のネクタイは、紺の地に細い斜めのストライプ。妻が「あなた、最近そればっかり」と言うが、黒木の中ではそのネクタイが「会議のあるネクタイ」に分類されている。今日は会議がある。だから紺のストライプ。生体リズムとネクタイの分類は、黒木の人生を支える二大インフラだった。
地下鉄で市ヶ谷に向かう。
車内で、黒木はぼんやりと、最近のことを考えていた。
市ヶ谷二十七年。
前例を守り、手順を守り、稟議を通し続けてきた。黒木の仕事は要するに、変化を抑制することだった。新しいことが起きそうになったら、「前例がありません」と言う。言うと、たいてい、新しいことは止まる。止まると、組織は安定する。安定こそが、黒木の二十七年の、目的だった。
ところが、四ヶ月前、柊遼という人間が来た。
来た瞬間から、黒木の二十七年が、少しずつ、揺らぎ始めた。
最初は、些細なことだった。会議の手順を、遼は普通に飛ばした。手順を飛ばす、と言っても、悪意があるわけではない。遼の中では、手順を飛ばしている、という認識すらない。そういう認識がそもそも遼の中にはなくて、ただ、目の前の問題を解決しようとしているだけだった。
黒木は最初、遼を抑え込もうとした。「前例がありません」と五回くらい言った。言ったが、五回目あたりから、自分でも、その言葉の重みが、少しずつ薄くなっていくのを感じた。重みが薄くなる、というのは、変な感覚だった。同じ言葉を同じ強さで言っているのに、同じ強さで返ってこない。返ってこない理由は、遼が、「前例がありません」を、普通に受け流すからだった。受け流して、普通に、次の問題を解決していく。解決すると、それが新しい前例になる。
前例が、増えていった。
黒木は四ヶ月で生まれた前例を、数えていた。
三十七個。
四ヶ月で、三十七個。
月平均、九・二五個。
九・二五個の前例、というのは、黒木のキャリアの中で、見たことのない数字だった。前例というのは、本来、年に一個でも増えれば、防衛省では大きなニュースだった。それが、月に九個。十年分が、四ヶ月で、生まれた。
黒木は地下鉄の窓の外を、見ていた。窓の外には、トンネルの暗闇が、続いていた。
地下鉄を降りて、市ヶ谷の出口から、地上に上がった。
今日は本省での会議。月一回の局長会議があった。会議で、黒木はサイバー防衛隊の進捗を、報告することになっていた。
報告書は、すでに、用意してあった。
タイトルは「サイバー防衛隊・進捗報告(七月分)」。中身は十六ページ。一ページ目から、三十七個の新しい取り組みが、リストアップされている。三十七個のうち、半分以上が、四ヶ月前まで「前例がありません」と言って止めていた種類の案件だった。それが、今、全部、動いている。動いていて、しかも、組織が壊れていない。
黒木はエレベーターの中で、もう一度、報告書を確認した。
確認しながら、ふと、思った。
私の二十七年は、何だったのだろう。
思ってから、その問いを、頭の中で、二秒だけ、止めた。止めた理由は、その問いに、今日、これから出席する局長会議で、答えを出さなければならない気がしたからだった。答えを出せるかどうかは、分からなかった。
局長会議は滞りなく進んだ。
黒木は十六ページの報告書を、十二分で説明した。三十七個の新しい取り組み。そのうち、半分以上が「前例がありません」と言って止めていた案件であること。それが今、全部動いていること。動いていて、組織が壊れていないこと。
局長は、黒木の話を、聞いていた。聞きながら、ペンで、机を、ことこと、叩いていた。叩く速度は、局長の思考の速度と、たぶん、連動していた。今日の叩く速度は、いつもより、速かった。
「黒木統括官」
「はい」
「この報告は要するに、何が言いたい」
黒木は少し、止まった。
止まってから、答えた。
「……前例が、増えました」
「それは、書いてある」
「書いてあります」
「で、何が言いたい」
「……」
黒木はもう一度、止まった。
止まってから、もう一度、答えた。
「……前例が、変わりました」
局長が、ペンの動きを、止めた。
「変わった、というのは」
「前例がない、という状態の前例ではなく、前例があった、という前例に、変わりました」
「……」
「同じ『前例』という単語の、意味が、四ヶ月で、変わりました」
局長は、黒木を、しばらく、見ていた。
見てからペンを、机に、置いた。
「黒木」
「はい」
「君も、変わったか」
「……」
「答えなくていい」
「はい」
「会議は終わりだ」
局長は立ち上がった。立ち上がる時に、少しだけ、黒木の方を見て、なんとなく、頷いた。頷きの意味は、黒木には、よく分からなかった。分からないまま、局長は、会議室を出ていった。
黒木は一人、会議室に、残った。
残ってから、しばらく机を見ていた。机には報告書が、置いたままになっていた。十六ページの報告書。三十七個の前例。四ヶ月で生まれたもの。
黒木は報告書を、ゆっくり、閉じた。
午後。
黒木は、防衛省の自分のオフィスに戻った。
戻ると、田所三佐が、机のところに来て、何か言いたそうな顔をしていた。
「田所」
「はい」
「何か」
「いえ、特に」
「……特に、ないなら、なぜそこにいる」
「……特に、ないわけではないんですが」
「……」
田所はしばらく、何か言うか言わないか、迷っているように見えた。迷う時の田所は、椅子に座り直すか、コーヒーを飲むか、窓の外を見るか、その三つの行動を短い間隔で繰り返す。今日は、三つを順番に、やっていた。
「田所」
「はい」
「なぜ、迷っている」
「……黒木統括官に、一つ、聞きたいことがありまして」
「聞きなさい」
「変わってきましたか」
「……」
「いや、すいません、失礼でした」
「……いえ」
「忘れてください」
「……忘れません」
「忘れない、というのは」
「忘れない、というのは、忘れない、ということです」
「……」
「田所」
「はい」
「変わったかも、しれない」
田所は、椅子に深く、座り直した。今日、四回目の座り直しだった。
「……黒木統括官、座り直してませんけど」
「私は座っていない。立っている」
「立ったまま、変わったと言うんですか」
「立ったまま、言ってはいけないのか」
「いえ、別に」
「……」
「……そうですか」
二人はしばらく、何も、言わなかった。言わない時間が、ほんの少し続いた。続いた後で、田所が、もう一度、コーヒーを飲んだ。コーヒーはたぶん、もう冷めていた。冷めたコーヒーを飲む田所の顔は、安心したような、困ったような、二つの感情を、半分ずつ、混ぜたような顔だった。
夕方、柊家。
柊凛、柊華、柊由紀、そして遼。四人で、夕食を、食べていた。
食卓にはハンバーグと、サラダと、味噌汁が、並んでいた。ハンバーグを作ったのは由紀。サラダを作ったのは華。味噌汁を作ったのは凛。遼は何も作っていなかった。何も作っていない遼は、食卓に、座っている。これが、柊家の役割分担だった。
「遼」と凛。
「なに」
「最近、防衛省、どうなの」
「順調」
「順調って、どういう感じ」
「前例を、三十七個、作ったらしい」
「らしい?」
「らしい」
「……らしい、ってなんで他人事なの」
「他人事ではない。けど、数えたのは黒木統括官」
「黒木統括官って、誰」
「あの、固い感じの人」
「固い感じの人、って分かんないよ」
「五十代の、スーツの、市ヶ谷の人」
「……それも分かんない」
華が、サラダを口に運びながら、口を挟んだ。
「遼、前例ってなに」
「なかったことが、あったってこと」
華が、フォークを、止めた。
「……哲学だ」
由紀が、にこにこしながら、ハンバーグを口に運んだ。
「哲学ね、遼」
「違う」
「哲学よ」
「違う」
「事実の説明をしているつもりかもしれないけど、それは哲学」
「……そうか」
「お母さんは哲学が好き」
「そうか」
「あんたは哲学が好きなの?」
「……分からない」
凛が、味噌汁の椀を置いた。
「『分からない』が、最近、遼の口癖になりつつある」
「そうか」
「珍しい」
「……そうか」
「『そうか』も、口癖」
「……」
「『……』も、口癖」
「……」
華が、笑った。
笑った理由はたぶん、家族の食卓で、こういう、何でもない会話が、何でもなくできること、だった。何でもなくできる、というのは、本当は何でもないことではなかった。何でもなくできるためには、家族が、それぞれの場所で、それぞれのやり方で、生きていなければならなかった。それぞれが生きていることの、一つの証拠が、今夜の、ハンバーグと、サラダと、味噌汁だった。
由紀が、ふと、言った。
「遼」
「なに」
「あんた、前例を作りすぎると、変な人だと思われるよ」
「……もう思われてる気がする」
「そう」
「うん」
「思われたらどうするの」
「……どうもしない」
「どうもしない?」
「俺は、俺だから」
凛が、味噌汁をまた口に運んだ。
「……遼が、たまに、深いこと言う」
「深い?」
「深い」
「深いつもりはない」
「だから、深い」
「……」
華が、また、笑った。
由紀も、笑った。
遼だけが、笑わなかった。笑わないが、ハンバーグを、ちゃんと食べていた。食べる速度は、いつもと同じだった。同じ速度で、ハンバーグが、減っていった。
夜、市ヶ谷。
田所と宮脇が、空っぽの会議室で、二人、残っていた。
残っているのは田所が、何かを宮脇に聞きたかったから、と、宮脇が、何かを記録したかったから、の、両方だった。
「宮脇」
「はい」
「黒木統括官が、変わってきた気がしませんか」
宮脇係長は、ペンを、ノートの上に置いた。置いてから、答えた。
「変わっていません」
「……変わっていない?」
「変わっていません」
「でも、最近、『前例がありません』を、言わなくなりましたよ」
「言わなくなったのではなく、前例を認めるスピードが、速くなりました」
「……それが、変わったということでは」
「定義によります」
「定義?」
「『変わった』の定義」
「『変わった』の定義って」
「ある人間が、過去の自分と異なる行動を取ること、と定義するなら、変わった、と言えます」
「……それでいいでしょ」
「ただ、その人間の中の、根本の価値観が変わっていないなら、行動だけが変わったとも言えます」
「……宮脇、何が言いたい」
「黒木統括官は、前例を守ることで組織を守ってきました」
「はい」
「その『組織を守る』という根本は、変わっていません」
「……」
「ただ、組織を守るための手段として、前例を作ることが必要だ、と判断するようになりました」
「……それは」
「変わった、と言えるかもしれませんし、変わっていない、と言えるかもしれません」
田所は、宮脇を、見ていた。
見てから椅子に、深く、座り直した。今日、何回目の座り直しか、田所は、もう数えていなかった。
「……宮脇、難しいこと言うのね」
「事実の整理です」
「もっと簡単に言って」
「黒木統括官は、変わりました。でも、その変わり方はたぶん、黒木統括官にとっては、変わっていない方の変わり方です」
「……」
「分かりますか」
「分かったような、分からないような」
「では、記録します」
「記録するの?」
「『田所三佐、分かったような分からないような顔をする』と」
「やめて」
「記録します」
「……はい」
宮脇のペンが、さらさらと動いた。さらさらと動く音だけが、空っぽの会議室に、響いていた。
もう少し夜が更けて、黒木は自分のオフィスに、一人、残っていた。
残っている理由は、何かをするためではなかった。ただ、すぐに帰りたくなかった。帰る前に、もう少しだけ、考えたいことがあった。
考えたいことは一つだった。
前例が守るのは、組織だ。
組織が守るのは、人間だ。
人間が守るのは、国だ。
この順番が、正しいと、黒木は二十七年、信じていた。
でも、柊遼は、逆から動く。
まず、国を守る。
組織のことは、考えない。
前例も、関係ない。
そして、なぜか、組織も、壊れない。
黒木は、窓の外を見た。
窓の外には夏の夜の市ヶ谷が、広がっていた。街灯の光が、点々と、見えていた。光は、黒木のオフィスの窓まで届かないが、届かなくても、そこにあった。
私の二十七年は、何だったのか。
黒木はもう一度、その問いを、頭の中で、転がした。転がしながら、ふと、別の答えが、見えてきた。
たぶん、二十七年は二十七年として、そこにある。
今、変わるかどうかは二十七年の意味を、消すことではない。
変わるとしたら、それは二十七年の上に、何かを、足すこと。
黒木は、窓ガラスに、自分の顔が、薄く映っているのを見た。
五十三歳の顔だった。
五十三歳の顔は、何かを、足したような、足していないような、判別のつかない顔をしていた。判別のつかなさが、たぶん、今の黒木の、正直なところだった。
翌日、市ヶ谷。
黒木は、遼を、自分のオフィスに呼んだ。
呼んだ理由は、特に、なかった。なかったが、なんとなく、聞いてみたいことが、一つだけあった。
「柊さん」
「はい」
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、なぜそんなに普通なんですか」
遼は少し、止まった。
止まってから、答えた。
「普通ではないんですか」
「……普通ではありません」
「そうですか」
「……」
「他に何か」
「……」
「黒木統括官」
「はい」
「返答が、それですか」
「いえ、私が、聞いた側です」
「そうでしたか」
「そうです」
「なんでもないです」
「なんでもないですか」
「なんでもないです」
二人はしばらく、何も言わなかった。言わない時間に、宮脇のペンの音は、なかった。今日、宮脇は、別の部屋にいた。別の部屋で、別の議事録を、取っていた。
会話はそこで、終わった。
遼はオフィスを出た。
黒木は一人、机に、残った。
残ってから、ふと、笑った。
笑った理由は自分でも、分からなかった。分からないが、笑っていた。たぶん、五十三歳の自分が、二十二歳の遼に、「なぜそんなに普通なんですか」と聞いた、という事実が、どこか、可笑しかったのかもしれない。
可笑しいまま、黒木はもう一度、窓の外を見た。
窓の外は、昨日と同じ、夏の市ヶ谷だった。
同じなのに、少しだけ、違って見えた。
違って見えるのが、たぶん、変わった、ということだった。
変わっても、二十七年は、消えない。
二十七年の上に、今日の、夏の昼が、足されただけだった。




