第52.5話「アイドル作戦会議」
土曜の午後、柊家のリビングに、十人が集まっていた。
十人は多い。柊家のリビングは広いが、十人集まると多い。多いと感じる基準は、ソファの占有率で測れる。ソファは六人用。溢れた四人は、床にクッションを敷いて座っている。座っているのは福永颯、上野壮介、それから華と遼だった。クッションは柊華が押し入れから取り出した。華が取り出した時、「来客用クッション、三年ぶりに使う」と由紀が言った。
華は、この集まりをざっと見回した。
姉の凛、鷹野千夏、室田沙衣、春日芽衣。ここまでは分かる。SAKURA CRESTの四人だから。
次に、福永と上野。この二人はたぶん、華が呼んだ。呼んだ記憶はある。ある意味、呼んだ側の責任が華にある。
そして、黒瀬綺羅。黒瀬は「アイドルの専門家がいた方がいいよね」と華が軽く言ったら、本当に来てくれた。来ると言った時、華は驚いて「仕事、大丈夫?」と聞いた。黒瀬の返事は「大丈夫じゃないけど、こっちが優先」。AURUMのセンターが、女優の姉のアイドル化のために、こっちを優先する。何が「こっち」なのかは、華にもよく分からない。分からないが、黒瀬は来た。
母の由紀も、いる。由紀は最初、リビングに来る予定ではなかった。なかったのだが、お茶を運んできたタイミングでソファに座ってしまい、そのまま動かない。動かない母を、誰も動かそうとしない。母は家の主だから、仕方ない。
そして華と、遼。
遼は、部屋の隅のクッションに座って、基板を眺めている。基板はたぶん、半導体の何か。華にはよく分からないが、遼が部品を眺めている時は、遼の世界はリビングの騒ぎと完全に切り離されている。それは華が二十年で学んだ事実だった。
以上、合計十人。十人で、土曜の午後の柊家のリビングは、ぎゅっと、満員だった。
「なんでこんなに人数いるの」と凛が華に言った。
「呼んだから」と華。
「こんなに呼んだっけ」
「呼んだ」
「……いつ」
「昨日」
「昨日の何時」
「夜の十時くらい」
「華、夜の十時にまとめて連絡したの」
「緊急だから」
「何が緊急なの」
「お姉ちゃんがアイドルになることが」
「そうだった」と凛が、遠くを見ながら言った。
由紀が、にこにこしていた。
由紀のにこにこには、段階がある。家族の中で、華は、母のにこにこの段階を、いくつか分類してきた。今日のにこにこは、上から三番目——つまり、かなり面白がっている、段階。これが出ている時は、母は、絶対に途中で帰らない。
「面白くなってきた」と由紀が言った。
「まだ何も始まってないよ、お母さん」と華。
「始まる前が、一番面白いの」
「なんで」
「予測がつかないから」
華は、母の言うことを、〇・五秒考えて、たぶん正しい、と結論した。正しいが、今日は、なるべく予測可能な展開に持っていきたかった。そうでないと、凛がアイドルデビューの本番までに、何も進まない。
「じゃあ、始めます」と華が宣言した。
全員が、華の方を見た。
見られた華は、一瞬、どう切り出すか迷った。迷ったが、迷った顔を人前に出すのは、妹としての立場上、よくない気がした。たぶん、家族として、妹が迷ったらまずい。妹は、こういう時、勢いだけで押し切るポジションだから。
「お姉ちゃんが、二週間後に、アイドルとして、歌います」
「はい」と凛。
「でも、お姉ちゃんは、アイドルの歌い方が、分かりません」
「はい」
「なので、みんなで、どうしたらいいか、考えます」
「はい」
「以上です」
華の宣言は、以上、で終わった。
終わったのに、誰も、動かなかった。
「華」と凛。
「なに」
「以上じゃなくて、ここから考えるの」
「そうだった」
「進行役、できるの」
「できる……気がしてた」
華は、家族的な引き下がり方で、進行役の権限を、なんとなく手放した。手放したが、誰が受け取るかは決まっていない。決まらないまま、リビングは静かに混沌を始めた。
最初に口を開いたのは、黒瀬だった。
黒瀬は、腕を組んで、少し考えてから、言った。
「アイドルというのは、まず、目線が大事です」
「目線」と全員が繰り返した。
「目線で、八割が決まります」
「八割」と凛。
「残りの二割は、姿勢と、間の取り方と、口角です」
「それ、合計十割超えてる」と沙衣。
「……超えてますね」と黒瀬。
「アイドルの構成要素は、割合で計算できるものではないのかもしれない、というのが、私の仮説の一つ」と沙衣が付け加えた。
「沙衣、仮説とか言わないで」と千夏。
「言ったら何かが解けるかもしれない」
「解けない」
「解けないか」
「解けない」
沙衣は仮説を一つ、取り下げた。取り下げたが、仮説を取り下げること自体を沙衣は楽しんでいるように、華には見える。沙衣はこういうとき、冷静そうに見えて、実は一番、場を面白がっている。これは華が沙衣と三年付き合って学んだ、彼女の控えめな性質だった。
福永が、床のクッションから、手を挙げた。
「いや、凛さんは、雰囲気で押せばいい」
「雰囲気」と凛。
「凛さんは、ステージに立つだけで、空気が変わるタイプなんで」
「根拠は?」と千夏。
「根拠は、俺の感想」
「感想か」
「感想です」
「福永の感想に、作戦会議の判断を委ねていいのか、私にはまだ、決めかねる」と沙衣が冷静に言った。
「沙衣さん、言い方」と福永。
「事実の記述です」
「記述か」
「記述です」
沙衣と福永の、妙に丁寧な応酬を、華はぼんやり眺めていた。眺めながら、この二人、意外と相性がいいのかもしれない、と思う。思ったが、口には出さない。口に出すと、場がさらに混乱することは、目に見えていた。
上野が、もう一つ別の方向から、発言を投下した。
「曹操だって、アイドルだったんだよ」
リビングが、しん、と静かになった。
「……曹操」と凛。
「魏の曹操」
「……三国志の」
「うん」
「それが、今の話と、どう繋がるの」
「人望を、集めた。人を、鼓舞した。あれは、ある意味で、アイドルだった」
「曹操はアイドルじゃない」と、隅で、遼が言った。
遼が、リビングの会話に、初めて、参加した。
全員が、遼の方を見た。
遼は、部品から、目を上げていなかった。部品を眺めたまま、「曹操はアイドルじゃない」とだけ言って、また、部品に戻った。
「いや、遼、アイドルだって」
「違う」
「広義のアイドルとしてはありうる」
「ない」
「遼は、曹操を、過小評価している」
「過小評価じゃない。分類の話」
「分類でも、アイドルの範疇に入るよ」
「入らない」
福永が、上野の肩を、ぽんぽんと叩いた。
「壮介、いい。曹操の話はいい」
「なんで」
「作戦会議が、曹操で止まる」
「止まらないと思うけど」
「止まるの」
華はこの、福永と上野のやり取りを何度か見たことがある。福永はいつも上野を止める側。止める側の福永が、今日も止めている。止めても上野は、次の曹操をすでに頭の中に用意しているような気がしたが、それは華の妄想かもしれなかった。
黒瀬が、ノートを取り出した。
ノートに、「アイドルの定義」と、丁寧に、見出しを書いた。
書いてから、下に、箇条書きで、何かを書き始めた。
書いている間、リビングは、また、カオスに戻った。
「かわいくやればいい」と芽衣。
「かわいく、とは」と黒瀬が、ノートから顔を上げて言った。
「かわいい、は、かわいい」
「定義を教えてください」
「定義というか、かわいい、は、かわいい」
「……それは、定義になっていない」
「なってない?」
「なっていない」
「……じゃあ、私、かわいいを、再定義します」
「再定義」
「再定義」
「芽衣、再定義できるの?」
「分からない。やったことがない」
芽衣の「かわいいの再定義」はその後、三分間にわたって全員の前で展開された。展開されたが、結論は「やっぱり、かわいい、は、かわいい」。三分かけて、同じ場所に戻る。
「時間の使い方が、独特」と沙衣が言った。
「時間は、使い方より、過ごし方が大事だと思います」と芽衣が返した。
「芽衣、舞台の人は、いいこと言うね」と千夏。
「舞台は、関係ないと思います」
「関係ないのか」
「関係ないです」
「関係ないこと、はっきり言う人、好き」と千夏。
「千夏ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
話が、作戦会議の本筋から、どんどん離れていた。
離れていることに、全員が気づいている。気づいていたが、誰も戻そうとしなかった。戻そうとしないのは、戻すのが大変そうだったから。大変なことを、土曜の午後にやりたい人は、このリビングに、一人もいなかった。
玄関のチャイムが、鳴った。
二段階のインターフォンを飛ばして、直接、玄関チャイムが鳴った。
これは、柊家では、一人しか、できない。
「田中さんだ」と、全員が、口を揃えて、言った。
華がドアを開けに行った。
ドアを開けると、田中のおばちゃんが、プラスチック容器を両手で持って立っていた。
「なんか人がいっぱい来てるから、プリン持ってきたよ」
「……なんで知ってるんですか」
「マンションのエントランスを、五人くらい、連れ立って入っていったから」
「見てたんですか」
「見てたの」
「……コンシェルジュみたいですね」
「そうなの、私」
田中のおばちゃんは、プリンを持って、リビングに入ってきた。入ってきた瞬間、福永と上野が、「プリンだ!」と同時に叫んだ。叫んだ二人を、由紀が、にこにこしながら見ていた。
「あら、あなたたち、また来たの」と田中のおばちゃん。
「また来ました」と福永。
「曹操の人ね」
「!!」と上野。
「田中さん、また来た」と由紀。
「来たわよ。プリン作りすぎたから」
「いつも作りすぎるのね」
「そうなの。一人だと、つい多めに作っちゃう」
「分かる」
「分かるの」
「ミラノでも、つい多めに作ってた」
「料理する人は、みんな、そう」
「結論ね」
「結論」
由紀と田中のおばちゃんは、二週間以上、ほぼ毎日、顔を合わせている。会えば必ず何かを持ってくる田中と、必ず受け取る由紀。受け取る回数が増えていくと、二人の会話は、少しずつ短くなっていく。短くなるのは仲が悪いからではなく、逆だった。お互いに、説明しなくても通じるところが、毎日、ひとつずつ、増えていく。
華は、田中のおばちゃんが、この家の、ほぼ一員になっていることをあらためて、確認した。確認してから、黒瀬の方を、ちらりと、見た。
黒瀬は、無表情で、この状況を、観察していた。
観察しながら、小声で、何かを、呟いた。
「……この家、一体、なんなんだ」
呟きは、誰にも聞こえなかった。と、黒瀬は、思った。
思ったが、華には、聞こえていた。
華は笑わないようにした。笑うと、黒瀬が可哀想だった。
ホワイトボードがいつのまにかリビングに、運ばれていた。
運んできたのは、遼だった。
部品から顔を上げた遼が、「書くものがいるだろ」と言って、押し入れから、ホワイトボードを、出してきた。柊家にホワイトボードがある、ということ自体を、華は今日、初めて知った。
「なんでうちにホワイトボードがあるの」と華。
「俺が、昔、買った」
「なんで」
「設計で使うから」
「でも、今、埃かぶってた」
「……そうか」
遼は、ホワイトボードに、自分でマーカーを取り出して、何かを書いた。
書いた内容は、「機械を直す」だった。
華は、ホワイトボードを見た。
「機械を直す」。
それは、何を意味しているのだろう、と華は考えた。考えたが、意味が、分からなかった。
「遼」と凛が、遠くから言った。
「なに」
「それ、何」
「俺のできることを、書いた」
「なんで書いたの」
「作戦会議だから」
「アイドルの作戦会議だよ」
「でも、俺のできることは、それしかない」
「……関係ないじゃん」
「関係ないか」
「関係ない」
「そうか」
遼は「機械を直す」の下に、線を引いた。線を引いたが、消さない。残しておく意志が、たぶん、遼にはある。
黒瀬が、ホワイトボードに近寄って、遼の書いた「機械を直す」の横に、別の見出しを、追加した。
「アイドルの定義」と書いた。
下に、箇条書きで、書き始めた。
書いている間に、芽衣が横から、「なんとなくかわいく」と書き足した。芽衣のマーカーはピンク。なぜピンクのマーカーがあったかは、誰にも分からない。
沙衣が、「ビジュアルは問題なし」と書いた。
千夏が、「凛の強みは圧」と書いた。
「圧?」と凛。
「圧、です」と千夏。
「圧って、褒められてる?」
「褒めてます」
「圧、アイドルに必要?」
「必要」
「……そう」
上野が、「曹操」と、一文字だけ、書いた。
福永が、「曹操(意味は上野に聞いてください)」と書いた。書いてから、上野に、矢印を引いた。
由紀が、「あら、私も書いていい?」と言った。
全員が、「どうぞ」と言った。
由紀は、マーカーを受け取って、ホワイトボードの端に、「選択を背負う」と、書いた。
華は、母の書いた五文字をしばらく、眺めた。
母のはたぶん、正しかった。正しいが、今日の作戦会議の、文脈とは、ちょっと、ズレていた。
「お母さん、それ、どういう意味?」と凛。
「凛が、これから、アイドルになるかならないかは、凛が、決めることだから」
「……」
「お母さんは、それを、応援するだけ」
「……お母さん」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
由紀の五文字は、作戦会議の中で、一番、重たかった。重たかったが、その重たさが、場の空気を、少し、和らげた。重たいのに、軽い。母親の言葉には、たまに、そういう、不思議な性質がある。
ホワイトボードは、気づいたら、埋まっていた。
埋まっていたが、内容は、作戦会議の成果としては、あまり、機能していなかった。
凛が、ホワイトボードの前に立って、書かれた内容を、上から順に、読み上げた。
「アイドルの定義——黒瀬くん」
「はい」
「なんとなくかわいく——芽衣」
「はい」
「ビジュアルは問題なし——沙衣さん」
「はい」
「凛の強みは圧——千夏」
「はい」
「曹操——壮介くん」
「はい」
「曹操の意味、上野に聞いてください——颯くん」
「はい」
「機械を直す——遼」
「はい」
「選択を背負う——お母さん」
「はい」
「……」
凛は、読み上げを、一度、止めた。
止めてから深く、息を吐いた。
「これ、全部、関係、ないよね」
「……」と全員。
「私、二週間後に、歌うんだけど」
「歌うね」と千夏。
「かわいい歌い方で」
「かわいくね」と芽衣。
「……どうしたらいいの」
「……」
リビングが、静かになった。
静かなリビングで、一人、華がすっと、手を、挙げた。
「お姉ちゃん」と華が言った。
「なに」
「女優として、やればいいんじゃないの」
凛が、止まった。
華の発言は今日、初めて、筋の通った発言だった。筋が通っているかどうか、華自身は、よく分かっていなかったが、なんとなく、筋が通った気がした、という程度のものだった。
「……女優として?」
「うん」
「アイドルを、女優として?」
「うん」
「どういうこと」
「アイドルを、演じる女優、っていう役だと思えば、いいんじゃないの」
リビングが、もう一度、静かになった。
静かになった中で、黒瀬が、小声で、言った。
「……解釈一致」
黒瀬の「解釈一致」は、ほとんど、独り言だった。独り言だったが、近くにいた芽衣に、聞こえた。
「解釈、何ですか」と芽衣。
「こっちの話」と黒瀬。
「……?」
「こっちの話」
芽衣は、深く追及しなかった。黒瀬の「こっちの話」には、追及しない方がいい種類のものがある、ということを、芽衣は、数回の飲み会で、経験的に、学んでいた。
千夏がぱんと手を叩いた。
「それだ」
「それ?」と凛。
「凛は、役者だから。役として、引き受ければいい」
「役として」
「アイドルを演じる女優、という役」
「……」
沙衣が、頷いた。
「凛なら、できる」
「できるかな」
「できる」
「根拠は」
「六年の実績」
「……」
芽衣が、立ち上がった。
「凛ちゃんが、一番、うまいじゃないですか。なんでも」
「なんでも、はないよ」
「なんでもです」
「芽衣、褒めすぎ」
「褒めてません。事実です」
「事実か」
「事実です」
凛は、四人を、順番に、見た。見てから、華の方を見た。
「……なんで、華が、一番、正しいこと、言うの」
「普通のこと、言っただけだよ」
「普通?」
「うん」
「……」
由紀がにこにこしていた。今日のにこにこの中で、一番、段階が高い。上から一番目——つまり、娘が何かを成し遂げた時のにこにこ。華はその顔を、久しぶりに、見た。
「華、成長したね」と由紀。
「子供扱いしないで」と華。
「子供扱いじゃないわよ」
「扱ってた」
「扱ってない」
「扱ってた」
「……少しだけ」
「少しだけね」
華は、母の「少しだけ」を、受け取った。受け取ったが、受け取り方は妹のやり方。妹は褒められた時、素直に喜ばない。喜ばないことが妹らしい、と華は自分で思っている。
作戦会議は、解散した。
解散の挨拶は、特に、誰もしなかった。誰もしなかったが、なんとなく、全員が、立ち上がり、玄関の方に、向かい始めた。
黒瀬が、最後に、華に言った。
「華さん」
「なに」
「今日の、『アイドルを演じる女優』の定義、業界に、広めてもいい?」
「……なんで」
「筋が通っているから」
「広めないで」
「了解」
黒瀬はきれいなアイドルスマイルを浮かべて、玄関に向かった。スマイルの裏で何を考えているのかは、華には見えない。見えないが、たぶん黒瀬は今日の柊家の光景を、しばらく忘れないだろう——と華は思う。
福永と上野は、プリンを片手に、「ごちそうさまでした」と言って、帰っていった。
千夏、沙衣、芽衣の三人は、凛と一緒に、玄関で、最後の雑談を、していた。
田中のおばちゃんは、由紀と一緒に、台所で、洗い物を、していた。手伝うと言うより自分の家みたいに、食器を、洗っていた。
リビングには、華と、遼が、残った。
華は、ソファに、座った。
座ってから、ふう、と息を吐いた。
「疲れた」と華が言った。
「疲れたか」と遼。
「うん」
「作戦会議、進んだのか」
「進んだよ」
「何が」
「お姉ちゃんの、アイドル問題の、解決方法」
「それが、『女優として演じる』か」
「うん」
「そうか」
「遼は、どう思った?」
「悪くない」
「悪くないって、褒めてるの?」
「……褒めてる」
「珍しい」
「……そうか」
遼は、ホワイトボードの前に立って、自分が書いた「機械を直す」を、マーカーで、消した。消してから、言った。
「華」
「なに」
「よかったな」
「何が」
「お前が、言ったから」
「……」
華は、遼の背中を見ていた。
遼の背中は普段と同じ。同じなのに今日は、少しだけ頼もしく見えた。頼もしいと感じた理由を、華は自分でもよく分からない。分からないが、感じた。たぶん兄が兄として妹を褒める時には、こういう背中になる。
「……遼」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
廊下の、少し離れた場所で、由紀が、一人で、小さく、笑っていた。
笑っていたことは、華には、聞こえなかった。聞こえなかったが、後で、由紀本人から、「今日、全部、面白かったわ」と、言われることになる。
翌朝。
凛は、鏡の前に立っていた。
鏡の中の自分を、じっと、見ていた。
昨日、華が言ったセリフが、凛の頭の中で、まだ、鳴っていた。
「アイドルを演じる女優」。
凛は、鏡の中の自分に、向かって、少しだけ、表情を、変えた。
変えた瞬間、鏡の中の凛が、別の人間に、なった。
なった、ように、見えた。見えたのは、凛自身だけ。家族も、マネージャーも、まだ、見ていなかった。
「……できる、かもしれない」
凛は、鏡に、小さく、言った。
言ってから、少しだけ、口角を、上げた。
上げた口角は、プロの女優の、口角だった。プロの女優が、アイドルを、演じる時の、口角。
鏡の中で、凛はようやく、笑っていた。




