表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

204/217

第52.5話「アイドル作戦会議」

 土曜の午後、柊家のリビングに、十人が集まっていた。


 十人は多い。柊家のリビングは広いが、十人集まると多い。多いと感じる基準は、ソファの占有率で測れる。ソファは六人用。溢れた四人は、床にクッションを敷いて座っている。座っているのは福永(ふくなが)(そう)上野(うえの)壮介(そうすけ)、それから華と遼だった。クッションは(ひいらぎ)(はな)が押し入れから取り出した。華が取り出した時、「来客用クッション、三年ぶりに使う」と由紀が言った。


 華は、この集まりをざっと見回した。


 姉の(りん)鷹野(たかの)千夏(ちなつ)室田(むろた)沙衣(さえ)春日(かすが)芽衣(めい)。ここまでは分かる。SAKURA CRESTの四人だから。


 次に、福永と上野。この二人はたぶん、華が呼んだ。呼んだ記憶はある。ある意味、呼んだ側の責任が華にある。


 そして、黒瀬(くろせ)綺羅(きら)。黒瀬は「アイドルの専門家がいた方がいいよね」と華が軽く言ったら、本当に来てくれた。来ると言った時、華は驚いて「仕事、大丈夫?」と聞いた。黒瀬の返事は「大丈夫じゃないけど、こっちが優先」。AURUMのセンターが、女優の姉のアイドル化のために、こっちを優先する。何が「こっち」なのかは、華にもよく分からない。分からないが、黒瀬は来た。


 母の由紀も、いる。由紀は最初、リビングに来る予定ではなかった。なかったのだが、お茶を運んできたタイミングでソファに座ってしまい、そのまま動かない。動かない母を、誰も動かそうとしない。母は家の主だから、仕方ない。


 そして華と、遼。


 遼は、部屋の隅のクッションに座って、基板を眺めている。基板はたぶん、半導体の何か。華にはよく分からないが、遼が部品を眺めている時は、遼の世界はリビングの騒ぎと完全に切り離されている。それは華が二十年で学んだ事実だった。


 以上、合計十人。十人で、土曜の午後の柊家のリビングは、ぎゅっと、満員だった。


「なんでこんなに人数いるの」と凛が華に言った。


「呼んだから」と華。


「こんなに呼んだっけ」


「呼んだ」


「……いつ」


「昨日」


「昨日の何時」


「夜の十時くらい」


「華、夜の十時にまとめて連絡したの」


「緊急だから」


「何が緊急なの」


「お姉ちゃんがアイドルになることが」


「そうだった」と凛が、遠くを見ながら言った。


   


 由紀が、にこにこしていた。


 由紀のにこにこには、段階がある。家族の中で、華は、母のにこにこの段階を、いくつか分類してきた。今日のにこにこは、上から三番目——つまり、かなり面白がっている、段階。これが出ている時は、母は、絶対に途中で帰らない。


「面白くなってきた」と由紀が言った。


「まだ何も始まってないよ、お母さん」と華。


「始まる前が、一番面白いの」


「なんで」


「予測がつかないから」


 華は、母の言うことを、〇・五秒考えて、たぶん正しい、と結論した。正しいが、今日は、なるべく予測可能な展開に持っていきたかった。そうでないと、凛がアイドルデビューの本番までに、何も進まない。


「じゃあ、始めます」と華が宣言した。


 全員が、華の方を見た。


 見られた華は、一瞬、どう切り出すか迷った。迷ったが、迷った顔を人前に出すのは、妹としての立場上、よくない気がした。たぶん、家族として、妹が迷ったらまずい。妹は、こういう時、勢いだけで押し切るポジションだから。


「お姉ちゃんが、二週間後に、アイドルとして、歌います」


「はい」と凛。


「でも、お姉ちゃんは、アイドルの歌い方が、分かりません」


「はい」


「なので、みんなで、どうしたらいいか、考えます」


「はい」


「以上です」


 華の宣言は、以上、で終わった。


 終わったのに、誰も、動かなかった。


「華」と凛。


「なに」


「以上じゃなくて、ここから考えるの」


「そうだった」


「進行役、できるの」


「できる……気がしてた」


 華は、家族的な引き下がり方で、進行役の権限を、なんとなく手放した。手放したが、誰が受け取るかは決まっていない。決まらないまま、リビングは静かに混沌を始めた。


   


 最初に口を開いたのは、黒瀬だった。


 黒瀬は、腕を組んで、少し考えてから、言った。


「アイドルというのは、まず、目線が大事です」


「目線」と全員が繰り返した。


「目線で、八割が決まります」


「八割」と凛。


「残りの二割は、姿勢と、間の取り方と、口角です」


「それ、合計十割超えてる」と沙衣。


「……超えてますね」と黒瀬。


「アイドルの構成要素は、割合で計算できるものではないのかもしれない、というのが、私の仮説の一つ」と沙衣が付け加えた。


「沙衣、仮説とか言わないで」と千夏。


「言ったら何かが解けるかもしれない」


「解けない」


「解けないか」


「解けない」


 沙衣は仮説を一つ、取り下げた。取り下げたが、仮説を取り下げること自体を沙衣は楽しんでいるように、華には見える。沙衣はこういうとき、冷静そうに見えて、実は一番、場を面白がっている。これは華が沙衣と三年付き合って学んだ、彼女の控えめな性質だった。


   


 福永が、床のクッションから、手を挙げた。


「いや、凛さんは、雰囲気で押せばいい」


「雰囲気」と凛。


「凛さんは、ステージに立つだけで、空気が変わるタイプなんで」


「根拠は?」と千夏。


「根拠は、俺の感想」


「感想か」


「感想です」


「福永の感想に、作戦会議の判断を委ねていいのか、私にはまだ、決めかねる」と沙衣が冷静に言った。


「沙衣さん、言い方」と福永。


「事実の記述です」


「記述か」


「記述です」


 沙衣と福永の、妙に丁寧な応酬を、華はぼんやり眺めていた。眺めながら、この二人、意外と相性がいいのかもしれない、と思う。思ったが、口には出さない。口に出すと、場がさらに混乱することは、目に見えていた。


   


 上野が、もう一つ別の方向から、発言を投下した。


「曹操だって、アイドルだったんだよ」


 リビングが、しん、と静かになった。


「……曹操」と凛。


「魏の曹操」


「……三国志の」


「うん」


「それが、今の話と、どう繋がるの」


「人望を、集めた。人を、鼓舞した。あれは、ある意味で、アイドルだった」


「曹操はアイドルじゃない」と、隅で、遼が言った。


 遼が、リビングの会話に、初めて、参加した。


 全員が、遼の方を見た。


 遼は、部品から、目を上げていなかった。部品を眺めたまま、「曹操はアイドルじゃない」とだけ言って、また、部品に戻った。


「いや、遼、アイドルだって」


「違う」


「広義のアイドルとしてはありうる」


「ない」


「遼は、曹操を、過小評価している」


「過小評価じゃない。分類の話」


「分類でも、アイドルの範疇に入るよ」


「入らない」


 福永が、上野の肩を、ぽんぽんと叩いた。


「壮介、いい。曹操の話はいい」


「なんで」


「作戦会議が、曹操で止まる」


「止まらないと思うけど」


「止まるの」


 華はこの、福永と上野のやり取りを何度か見たことがある。福永はいつも上野を止める側。止める側の福永が、今日も止めている。止めても上野は、次の曹操をすでに頭の中に用意しているような気がしたが、それは華の妄想かもしれなかった。


   


 黒瀬が、ノートを取り出した。


 ノートに、「アイドルの定義」と、丁寧に、見出しを書いた。


 書いてから、下に、箇条書きで、何かを書き始めた。


 書いている間、リビングは、また、カオスに戻った。


「かわいくやればいい」と芽衣。


「かわいく、とは」と黒瀬が、ノートから顔を上げて言った。


「かわいい、は、かわいい」


「定義を教えてください」


「定義というか、かわいい、は、かわいい」


「……それは、定義になっていない」


「なってない?」


「なっていない」


「……じゃあ、私、かわいいを、再定義します」


「再定義」


「再定義」


「芽衣、再定義できるの?」


「分からない。やったことがない」


 芽衣の「かわいいの再定義」はその後、三分間にわたって全員の前で展開された。展開されたが、結論は「やっぱり、かわいい、は、かわいい」。三分かけて、同じ場所に戻る。


「時間の使い方が、独特」と沙衣が言った。


「時間は、使い方より、過ごし方が大事だと思います」と芽衣が返した。


「芽衣、舞台の人は、いいこと言うね」と千夏。


「舞台は、関係ないと思います」


「関係ないのか」


「関係ないです」


「関係ないこと、はっきり言う人、好き」と千夏。


「千夏ちゃん、ありがとう」


「どういたしまして」


 話が、作戦会議の本筋から、どんどん離れていた。


 離れていることに、全員が気づいている。気づいていたが、誰も戻そうとしなかった。戻そうとしないのは、戻すのが大変そうだったから。大変なことを、土曜の午後にやりたい人は、このリビングに、一人もいなかった。


   


 玄関のチャイムが、鳴った。


 二段階のインターフォンを飛ばして、直接、玄関チャイムが鳴った。


 これは、柊家では、一人しか、できない。


「田中さんだ」と、全員が、口を揃えて、言った。


 華がドアを開けに行った。


 ドアを開けると、田中(たなか)のおばちゃんが、プラスチック容器を両手で持って立っていた。


「なんか人がいっぱい来てるから、プリン持ってきたよ」


「……なんで知ってるんですか」


「マンションのエントランスを、五人くらい、連れ立って入っていったから」


「見てたんですか」


「見てたの」


「……コンシェルジュみたいですね」


「そうなの、私」


 田中のおばちゃんは、プリンを持って、リビングに入ってきた。入ってきた瞬間、福永と上野が、「プリンだ!」と同時に叫んだ。叫んだ二人を、由紀が、にこにこしながら見ていた。


「あら、あなたたち、また来たの」と田中のおばちゃん。


「また来ました」と福永。


「曹操の人ね」


「!!」と上野。


「田中さん、また来た」と由紀。


「来たわよ。プリン作りすぎたから」


「いつも作りすぎるのね」


「そうなの。一人だと、つい多めに作っちゃう」


「分かる」


「分かるの」


「ミラノでも、つい多めに作ってた」


「料理する人は、みんな、そう」


「結論ね」


「結論」


 由紀と田中のおばちゃんは、二週間以上、ほぼ毎日、顔を合わせている。会えば必ず何かを持ってくる田中と、必ず受け取る由紀。受け取る回数が増えていくと、二人の会話は、少しずつ短くなっていく。短くなるのは仲が悪いからではなく、逆だった。お互いに、説明しなくても通じるところが、毎日、ひとつずつ、増えていく。


 華は、田中のおばちゃんが、この家の、ほぼ一員になっていることをあらためて、確認した。確認してから、黒瀬の方を、ちらりと、見た。


 黒瀬は、無表情で、この状況を、観察していた。


 観察しながら、小声で、何かを、呟いた。


「……この家、一体、なんなんだ」


 呟きは、誰にも聞こえなかった。と、黒瀬は、思った。


 思ったが、華には、聞こえていた。


 華は笑わないようにした。笑うと、黒瀬が可哀想だった。


   


 ホワイトボードがいつのまにかリビングに、運ばれていた。


 運んできたのは、遼だった。


 部品から顔を上げた遼が、「書くものがいるだろ」と言って、押し入れから、ホワイトボードを、出してきた。柊家にホワイトボードがある、ということ自体を、華は今日、初めて知った。


「なんでうちにホワイトボードがあるの」と華。


「俺が、昔、買った」


「なんで」


「設計で使うから」


「でも、今、埃かぶってた」


「……そうか」


 遼は、ホワイトボードに、自分でマーカーを取り出して、何かを書いた。


 書いた内容は、「機械を直す」だった。


 華は、ホワイトボードを見た。


 「機械を直す」。


 それは、何を意味しているのだろう、と華は考えた。考えたが、意味が、分からなかった。


「遼」と凛が、遠くから言った。


「なに」


「それ、何」


「俺のできることを、書いた」


「なんで書いたの」


「作戦会議だから」


「アイドルの作戦会議だよ」


「でも、俺のできることは、それしかない」


「……関係ないじゃん」


「関係ないか」


「関係ない」


「そうか」


 遼は「機械を直す」の下に、線を引いた。線を引いたが、消さない。残しておく意志が、たぶん、遼にはある。


 黒瀬が、ホワイトボードに近寄って、遼の書いた「機械を直す」の横に、別の見出しを、追加した。


「アイドルの定義」と書いた。


 下に、箇条書きで、書き始めた。


 書いている間に、芽衣が横から、「なんとなくかわいく」と書き足した。芽衣のマーカーはピンク。なぜピンクのマーカーがあったかは、誰にも分からない。


 沙衣が、「ビジュアルは問題なし」と書いた。


 千夏が、「凛の強みは圧」と書いた。


「圧?」と凛。


「圧、です」と千夏。


「圧って、褒められてる?」


「褒めてます」


「圧、アイドルに必要?」


「必要」


「……そう」


 上野が、「曹操」と、一文字だけ、書いた。


 福永が、「曹操(意味は上野に聞いてください)」と書いた。書いてから、上野に、矢印を引いた。


 由紀が、「あら、私も書いていい?」と言った。


 全員が、「どうぞ」と言った。


 由紀は、マーカーを受け取って、ホワイトボードの端に、「選択を背負う」と、書いた。


 華は、母の書いた五文字をしばらく、眺めた。


 母のはたぶん、正しかった。正しいが、今日の作戦会議の、文脈とは、ちょっと、ズレていた。


「お母さん、それ、どういう意味?」と凛。


「凛が、これから、アイドルになるかならないかは、凛が、決めることだから」


「……」


「お母さんは、それを、応援するだけ」


「……お母さん」


「うん」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 由紀の五文字は、作戦会議の中で、一番、重たかった。重たかったが、その重たさが、場の空気を、少し、和らげた。重たいのに、軽い。母親の言葉には、たまに、そういう、不思議な性質がある。


   


 ホワイトボードは、気づいたら、埋まっていた。


 埋まっていたが、内容は、作戦会議の成果としては、あまり、機能していなかった。


 凛が、ホワイトボードの前に立って、書かれた内容を、上から順に、読み上げた。


「アイドルの定義——黒瀬くん」


「はい」


「なんとなくかわいく——芽衣」


「はい」


「ビジュアルは問題なし——沙衣さん」


「はい」


「凛の強みは圧——千夏」


「はい」


「曹操——壮介くん」


「はい」


「曹操の意味、上野に聞いてください——颯くん」


「はい」


「機械を直す——遼」


「はい」


「選択を背負う——お母さん」


「はい」


「……」


 凛は、読み上げを、一度、止めた。


 止めてから深く、息を吐いた。


「これ、全部、関係、ないよね」


「……」と全員。


「私、二週間後に、歌うんだけど」


「歌うね」と千夏。


「かわいい歌い方で」


「かわいくね」と芽衣。


「……どうしたらいいの」


「……」


 リビングが、静かになった。


 静かなリビングで、一人、華がすっと、手を、挙げた。


   


「お姉ちゃん」と華が言った。


「なに」


「女優として、やればいいんじゃないの」


 凛が、止まった。


 華の発言は今日、初めて、筋の通った発言だった。筋が通っているかどうか、華自身は、よく分かっていなかったが、なんとなく、筋が通った気がした、という程度のものだった。


「……女優として?」


「うん」


「アイドルを、女優として?」


「うん」


「どういうこと」


「アイドルを、演じる女優、っていう役だと思えば、いいんじゃないの」


 リビングが、もう一度、静かになった。


 静かになった中で、黒瀬が、小声で、言った。


「……解釈一致」


 黒瀬の「解釈一致」は、ほとんど、独り言だった。独り言だったが、近くにいた芽衣に、聞こえた。


「解釈、何ですか」と芽衣。


「こっちの話」と黒瀬。


「……?」


「こっちの話」


 芽衣は、深く追及しなかった。黒瀬の「こっちの話」には、追及しない方がいい種類のものがある、ということを、芽衣は、数回の飲み会で、経験的に、学んでいた。


 千夏がぱんと手を叩いた。


「それだ」


「それ?」と凛。


「凛は、役者だから。役として、引き受ければいい」


「役として」


「アイドルを演じる女優、という役」


「……」


 沙衣が、頷いた。


「凛なら、できる」


「できるかな」


「できる」


「根拠は」


「六年の実績」


「……」


 芽衣が、立ち上がった。


「凛ちゃんが、一番、うまいじゃないですか。なんでも」


「なんでも、はないよ」


「なんでもです」


「芽衣、褒めすぎ」


「褒めてません。事実です」


「事実か」


「事実です」


 凛は、四人を、順番に、見た。見てから、華の方を見た。


「……なんで、華が、一番、正しいこと、言うの」


「普通のこと、言っただけだよ」


「普通?」


「うん」


「……」


 由紀がにこにこしていた。今日のにこにこの中で、一番、段階が高い。上から一番目——つまり、娘が何かを成し遂げた時のにこにこ。華はその顔を、久しぶりに、見た。


「華、成長したね」と由紀。


「子供扱いしないで」と華。


「子供扱いじゃないわよ」


「扱ってた」


「扱ってない」


「扱ってた」


「……少しだけ」


「少しだけね」


 華は、母の「少しだけ」を、受け取った。受け取ったが、受け取り方は妹のやり方。妹は褒められた時、素直に喜ばない。喜ばないことが妹らしい、と華は自分で思っている。


   


 作戦会議は、解散した。


 解散の挨拶は、特に、誰もしなかった。誰もしなかったが、なんとなく、全員が、立ち上がり、玄関の方に、向かい始めた。


 黒瀬が、最後に、華に言った。


「華さん」


「なに」


「今日の、『アイドルを演じる女優』の定義、業界に、広めてもいい?」


「……なんで」


「筋が通っているから」


「広めないで」


「了解」


 黒瀬はきれいなアイドルスマイルを浮かべて、玄関に向かった。スマイルの裏で何を考えているのかは、華には見えない。見えないが、たぶん黒瀬は今日の柊家の光景を、しばらく忘れないだろう——と華は思う。


 福永と上野は、プリンを片手に、「ごちそうさまでした」と言って、帰っていった。


 千夏、沙衣、芽衣の三人は、凛と一緒に、玄関で、最後の雑談を、していた。


 田中のおばちゃんは、由紀と一緒に、台所で、洗い物を、していた。手伝うと言うより自分の家みたいに、食器を、洗っていた。


 リビングには、華と、遼が、残った。


   


 華は、ソファに、座った。


 座ってから、ふう、と息を吐いた。


「疲れた」と華が言った。


「疲れたか」と遼。


「うん」


「作戦会議、進んだのか」


「進んだよ」


「何が」


「お姉ちゃんの、アイドル問題の、解決方法」


「それが、『女優として演じる』か」


「うん」


「そうか」


「遼は、どう思った?」


「悪くない」


「悪くないって、褒めてるの?」


「……褒めてる」


「珍しい」


「……そうか」


 遼は、ホワイトボードの前に立って、自分が書いた「機械を直す」を、マーカーで、消した。消してから、言った。


「華」


「なに」


「よかったな」


「何が」


「お前が、言ったから」


「……」


 華は、遼の背中を見ていた。


 遼の背中は普段と同じ。同じなのに今日は、少しだけ頼もしく見えた。頼もしいと感じた理由を、華は自分でもよく分からない。分からないが、感じた。たぶん兄が兄として妹を褒める時には、こういう背中になる。


「……遼」


「なに」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 廊下の、少し離れた場所で、由紀が、一人で、小さく、笑っていた。


 笑っていたことは、華には、聞こえなかった。聞こえなかったが、後で、由紀本人から、「今日、全部、面白かったわ」と、言われることになる。


   


 翌朝。


 凛は、鏡の前に立っていた。


 鏡の中の自分を、じっと、見ていた。


 昨日、華が言ったセリフが、凛の頭の中で、まだ、鳴っていた。


「アイドルを演じる女優」。


 凛は、鏡の中の自分に、向かって、少しだけ、表情を、変えた。


 変えた瞬間、鏡の中の凛が、別の人間に、なった。


 なった、ように、見えた。見えたのは、凛自身だけ。家族も、マネージャーも、まだ、見ていなかった。


 「……できる、かもしれない」


 凛は、鏡に、小さく、言った。


 言ってから、少しだけ、口角を、上げた。


 上げた口角は、プロの女優の、口角だった。プロの女優が、アイドルを、演じる時の、口角。


 鏡の中で、凛はようやく、笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ