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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

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幕間 遼の考察「幽霊っているの?」

 華が「今日、みんな来るから」と朝に言ったのを、遼は覚えていなかった。


 覚えていなかったというより、その時すでに頭の中は別のことで占められていて、華の声は届いたが意味は通過する。机の下で組みかけているのは、ある研究室から譲り受けた古い計測器だ。中身を取り出して基板の一部を作り直している。遼にとってそれは「組みかけ」ではなく「話の途中」だった。機械にはそういう時間の流れがある。


 電源を入れた瞬間の立ち上がり波形が、どうにも気に入らない。オシロの画面に流れる線のへりに、微細なぎざぎざが乗っている。普通なら無視する量だ。ただし、この計測器は元々そういうノイズを切り落とすために作られた道具だった。道具の内側に道具が嫌う癖が棲んでいる、という状態は、遼の中で「このままにしておけない」の棚に置かれる。棚に置かれたものは、片づくまで消えない。


 だから、リビングに女の子三人の声が響きはじめたとき、遼はまだ机の下にいた。


「遼さんこんにちはー、おじゃましてます」


 遠藤美咲の関西寄りの標準語が、玄関から一直線に飛んできた。華が笑っている。


「相変わらず机の下?」

「入ってる」

「遼、美咲ちゃんたち来たよー」

「ん」

「ん、じゃないんだけど」


「おじゃましまーす、お久しぶりです」


 佐倉ひなの少し高い声が続いた。挨拶のトーンが、美咲より半拍だけ丁寧で、半拍だけ硬い。ひなはいつも、遼のいる空間に入った瞬間の一拍目だけ、少し姿勢が変わる。本人は気づいていない。気づいていないのは、ひなだけだと思っている。


 いちばん最後に入ってきたのが藤枝紡だった。声の出し方が他の二人と違う。小さいが芯がある。歌で食っている人間の発声だな、と遼は今日もまた思う。思っただけで机の下から出ない。


「お邪魔します」

「......ん」

「机の下、大丈夫ですか」

「大丈夫」

「そうですか」


 この一往復だけで、紡と遼のあいだの挨拶は終わった。紡は静かにリビングに入っていった。いつものことだった。紡は柊家に来ると、まずこのやり取りを一回やる。それをしないで奥に進むのは、紡にとって気持ちが悪いらしい。


 三人はリビングのソファに腰を下ろし、華が冷蔵庫を開ける音がして、グラスの触れる音がして、しばらくは普通にお菓子とドラマの話が続いた。遼はそのあいだ、古い計測器の電源ラインに載っているノイズがどこから来ているのかを追いかけていた。五〇ヘルツの整数倍が乗っているならただの電源由来だが、これは少し違う。もう少し高い帯にも棘がある。


 遼の意識は部屋の中にいなかった。


   


「あ、そうそう」


 華がぽんと手を叩いた音で、遼は少し浮上した。


「あのお化け屋敷の件、結局どうなったの」

「どうもなってないよ。お蔵入り。事務所のサーバーのどっかで眠ってる」

「ええー、もったいない」

「もったいないって美咲ちゃん、ひなちゃんにもう一回同じ質問してみな」


 ひながお茶のグラスを両手で持ったまま、真顔で首を横に振った。


「もったいなくないです。公開しなくて正解です」

「ひなちゃん怖かった?」

「怖かった以前の問題。あれは企画じゃなくて事件だから」

「事件」

「失禁者二名。失神者八名。泣いて動けなくなった人五名。体調不良が十二名」

「数字で言うとすごいな」

「数字で言うとすごいどころの話じゃないからね、現場にいた身としては」


 美咲が「え、ちょっと待って」と両手を上げた。


「それ華ちゃんがやったの? 衣装もメイクもなしで?」

「メイクはちょっとだけ仕込んだよ。血色抑え気味にしただけ」

「だけって......」

「あとは普通に立ってただけ」

「普通に立ってただけで失禁者二名出るの?」

「出た」

「出たんや......」


 紡は、話を聞きながらただ華の顔を見ていた。責めている顔ではない。ただ、この子がいま自分の口で説明している内容と、ソファでグラスをぶら下げている姿との間に広がっている距離を、静かに測っているような顔だった。


「田村さんに怒られて、『しばらくお化け屋敷関連の仕事は全部断る』って言われた」

「そりゃそうや」

「焼肉動画でリハビリさせられた」

「リハビリ......」

「再生数は焼肉のほうが伸びた。お化け屋敷の噂のせいで」

「皮肉な話やな」

「ひなちゃんとふたりで肉焼いて食べただけの動画が、一番コメント欄が平和だった」

「そらそうや」


 ひなが深く息を吐いて、グラスのお茶を一口飲んだ。


「あれね、私が一番最初にやられたのよ」

「一番最初って?」

「本番のお客さんの前に、第三エリアっていう一番怖いゾーンで、私だけ先に撮られたの。私、華ちゃんとスタッフさんが共謀してるの知らなくて」

「え、最悪じゃん」

「最悪でした。しかも衣装も何もなしで、ただ暗がりに立ってたんだよ華ちゃんが。普通にそこにいるのに、顔だけ『普通にそこにいる人間の顔』じゃなくなってて」

「どゆこと」

「だから説明できないの。見た瞬間『これ人間じゃない』って思って、そしたら足がもつれて、壁に貼り付いて泣いた」

「おお......」

「そのあと廊下から華ちゃんがひょっこり出てきて『ひなちゃん大丈夫?』って言ったとき、私、最悪って叫んだ」

「叫んだねー」華が静かに頷く。

「叫ぶでしょ普通。『ひなちゃん』の言い方がもう完全にいつもの華ちゃんだったから余計に腹立った」

「ごめんって」

「謝り方が軽い」

「ごめんって」

「ほら」


 美咲が声を出して笑った。紡が口を押さえて、やっぱり声を出さずに笑っている。


 三人のテンポが小気味よく転がる。遼は机の下で、プローブの先を基板の別のポイントに当て直した。


「でもさ」


 ひなが飲みかけのグラスを両手で持ったまま、少し声を落とした。


「あのとき私、華ちゃんのこと本気で人間じゃないと思ったんだよね」

「うん」

「で、思い出すと、今でも、あれってなんだったんだろうって考えるの」

「私も」

「華ちゃんも?」

「うん。自分で出したのに、出した側にもよく分かんないんだよね、あれ」


 紡が、そこで初めて口を開いた。


「......それ、幽霊の話になりそうですね」

「なりそう」


 ひなが紡のほうに向き直った。


「紡ちゃん、幽霊っていると思う?」

「私は......あるかもしれない、って思ってる側かな。否定しきれない、くらい」

「それそれ」

「華ちゃんは」

「私は絶対いる派」


 華は即答だった。


「なんで」

「だって私、一回やったから」

「......やったって」

「やったでしょ、この前。お化け」

「それは華ちゃんが演じたやつじゃん」

「そう。で、演じた側から言うとね、あれ完全に『自分の中から出した』感覚じゃなかったんだよね。どっちかっていうと、『もともとそこにいたものに場所を空けた』感覚だった」

「......」

「それ、田村さんにも言った?」

「言った」

「なんて言ってた?」

「なんか言いたそうな顔してた」

「そらそうや」


 紡が、小さく「なるほど」と言った。ひなは少し真顔になっていた。


 そのまま、ひなはふと机の下の方に視線を動かした。動かして、すぐ戻した。それからもう一回動かして、今度はそのまま声をかけた。


「ねえ、遼さんに聞いてみない?」

「えっ」

「ほら、あっち系の人でしょ、遼さん。理系の、データとかそういうの」


 言いながら、ひなは自分でグラスをぎゅっと持ち直した。聞きたくて言ったのか、話しかけたくて理由を作ったのか、自分でもよく整理できていない。後者だな、と心の中ではうっすら分かっている。


 美咲が遼の方を振り返った。遼は机の下から半分だけ出て、プローブを持ったままノイズを見ていた。


「遼さーん」

「......ん」

「遼さんって幽霊いると思います?」


 ひなが言った。声がほんの少しだけ高かった。


 遼はプローブを外した。基板の裏から顔を上げて、眼鏡の上からひなを見た。美咲も、紡も、華も、ひなにつられて遼を見ている。


 ひなは遼に見られた、と思った瞬間に、自分が何を聞いたか分からなくなった。幽霊。たしか幽霊って言った。幽霊について遼さんに聞いた。


 大丈夫。大丈夫な質問。


 この質問に、遼がどう答えるか。


 三人のうち少なくとも二人は、「いない」と答えると思っていた。理系の人間が、幽霊なんているわけないだろと笑って終わる、それで「ですよねー」となって話が別のところへ流れていく——普通ならそういう流れだ。


 華だけは少し違った。華は、兄が「いない」とは言わないだろうと感じている。兄は、自分の知っていることを基準に世界を区切る人間ではない。もっと別の区切り方をする人間だ。ただ、何をどう言い出すかまでは、華にも予想がつかない。


 遼は机の下から完全に出て、床にあぐらをかく。プローブを右手に、左手で眼鏡を外しながら、少しのあいだ天井を見る。


「いるな」


 三人は動かなかった。


「え」

「いるでしょ、普通に」


 遼はそう言って、プローブの先端を軽く指で触った。


「定義によるけど」


   


「定義」


 美咲が復唱した。


「うん。幽霊っていうのが何を指すかによる。ひなさんが今言ってる幽霊って、どういうやつ?」

「え、えっと......死んだ人の、なんかこう、出てくるやつ」

「人型、ってこと?」

「うん、たぶん」

「それだと難しいな」

「え、でもさっきいるって」

「いるって言ったのは別の意味で。順番に言っていい」


 遼はプローブを机に置いた。正座ではなくあぐら、背中を軽く丸めたまま、視線は床に落ちている。ただし機械を見ているときの目ではない。遼が何かを「まとめて話そうとしている」ときの目になっていた。


 華は、兄のこの顔を知っていた。知っていたが、兄が幽霊について話すためにこの顔をするのは初めて見た。


「まず、『いない』って言い切る方が、科学的には難しい」


 遼は静かに始めた。


「『ある』を証明するのは例を一つ出せばいい。でも『ない』を証明するには、宇宙のどこにも存在しないことを示さなきゃいけない。これは悪魔の証明って言って、原理的に不可能に近い。だから科学の世界で『いない』って断言する人は、正確には『観測されていない』って言ってるだけ」

「あ、それは聞いたことあるかも」紡が頷いた。

「それで、幽霊って言葉を一回分解する。大きく三つの成分がある」


 遼は指を立てた。


「一つ目、情報としての死者。つまり、亡くなった人の記憶・データ・画像・声が物理的に残ること。これは普通に『いる』。スマホに写真があるだけで、その人はある意味でそこにいる」

「え、それ幽霊って言う?」

「言わない。でも『死者が残す痕跡』って意味ではここが一番強い」


 美咲が身を乗り出した。完全に話を聞く姿勢になっている。


「二つ目、脳が作る像。人間の脳ってかなり適当にできていて、暗闇とか、疲れてるときとか、期待してるときに、ないものを見る。パレイドリアってやつ。シミが顔に見える、カーテンが人に見える、あれと同じ回路。これは脳科学の話で、ほぼ全人類に搭載されてる。だから『見える』のは事実なんだよ。見える側の神経がそう言ってるんだから」

「見える側の神経」

「網膜から視覚野まで、信号が通ってしまえば脳は『見えた』と認識する。元の光源が何だったかとは別の話」

「......それ、見えてないけど見えてるってこと?」

「そう。本人にとっては絶対に見えてる。嘘でも錯覚でもない。ただ、光源が外にあったかどうかはまた別」


 ひなが少し黙った。顔が「分かった気がするけど追いつかない」と言っている。


 紡は、さっきからずっと遼の方を見ていた。話の中身も聞いている。聞いているが、内容そのものより、遼が話しているときの目の動きと、指の角度と、声の抑揚のなさを、別のところで観察していた。この人がこの長さ話すのを、紡は初めて見た。長く話せる人ではあるんだろうな、と思っていただけで、現に長く話しているのを見たのは初めてだった。


 長く話している遼は、機械を見ているときの遼と、ほとんど同じ顔をしている。それが紡には少し意外で、少し納得もいく。話す内容と、話す姿勢のあいだに、距離がない。


 紡はそれを見ながら、ただ静かにそこにいた。


「三つ目」


 遼は三本目の指を立てた。


「これが厄介で。場所に記憶がある、って言う人がいるだろ」

「うん、聞く」

「あれを全部オカルトとして片づけると、ちょっと荒いなと俺は思ってる」

「え、遼さんが?」

「たとえば古い建物って、長い時間人が使うと、床とか壁にどうしても癖がつく。歪みとか、摩耗とか、磁気の向きとか。それで微弱な音響共鳴が起きやすいポイントができる。そこに立つと、妙に空気が重く感じたり、音が変に聞こえたりする。これは物理現象」

「ほんと?」

「ほんと。具体的に言うと、コンクリートの建物は打設したあと何十年もかけて少しずつ水分が抜けていく。そのあいだに内部の微細構造が変わるから、音の通り方がじわじわ変化する。新築の部屋と築六十年の病院で同じ音が出ていても、耳に届くまでの経路が別物になる。古い建物側は、人間の体にとって『違和感のある伝わり方』になりやすい」

「違和感のある伝わり方」

「これ、理屈はあるんだよ。人間の耳って、音の左右差と到達時間差で音源の方向を判断する仕組みなんだけど、部屋の反射が強いと脳が方向を特定できなくて、『どこから来てるか分からない音』として処理する。それが続くと脳は不安になる。不安になるように出来てる」

「......」

「あと、十七ヘルツくらいの超低周波音って、人間には聞こえないのに不安感を引き起こすことが実験で分かってる。古い空調とか、風の通り道とか、そういうのが原因で発生することがある。で、その部屋に入った人が『なんか嫌な感じ』って言う。これ、幽霊じゃなくて空気。でも、『なんか嫌な感じ』っていう報告は事実なんだよ」

「......えっ何それ怖」

「怖がるところそこ?」

「だって、見えないのにあるってことじゃん」

「むしろ逆で、見えないけどあるものの方が、この世界には多いんだ。電波とか、磁場とか、放射線とか、全部そう。人間が感じ取れる範囲って、実はすごく狭い。聞こえる音の帯域で言うと、二十ヘルツから二万ヘルツくらい。それより下は『不安』としてしか感じ取れないし、それより上は存在にすら気づかない。見える光もそう。虹で見えてる範囲が全部で、赤外線も紫外線も、目には何もない」

「それ......この前の華ちゃんのお化け屋敷の現場も」

「その話、華から少し聞いた。あの施設、廃病院モチーフだったって?」

「うん、設定はね」

「長年お化け屋敷として運用されてる建物なら、たぶん内部の音響特性は相当偏ってる。照明を落として反射条件を変えてるし、空調も通常とは違う動かし方をしてるはずだ。お客さんの脳は入った瞬間から『なんか違う』って信号を出し続けてる」

「そこに華ちゃんが立ってたってこと?」

「そこに華が立ってた、っていう事実が、脳の方にとってどれくらい余分な負荷になるかは、俺には測れない」


 華が少し笑った。


「遼、結構まじめに考えてくれてるね」

「華の話だからな」


 華は笑うのを止めて、少し遼の方を見た。見たが、何も言わなかった。


 紡が小さく笑った。笑ってから、すぐに遼の続きを待つ顔に戻った。


「で、ここからが本題」


 遼はそう言って、少しだけ身を乗り出した。


 本題、と遼が自分から言ったのを、華はたぶん生まれて二回目に聞いた。


「人間の脳って、死んだ直後も三十秒くらい電気活動してるって報告がある。マウスでも人でも、酸素が切れた瞬間に逆にある種の周波数が跳ね上がる。何が起きてるかは分かってない。一説には最後の走馬灯って言われてるけど、そこはまだ議論がある」

「え、走馬灯あるの?」

「脳波としては説明できる現象がある、ってだけ。見てる本人に聞けないから証明はできない。でも、ゼロじゃない」

「......」

「で、仮に、人の記憶とか感情が、ある種の情報として一時的に周囲に痕跡を残す、ってところまで認めたとする。俺は認めてない、まだ。でも仮に認めたとする」


 遼の声のトーンは、さっきからずっと同じだった。抑揚がほとんどない。機械の話をしているときと同じトーンで、幽霊の話をしている。


「その痕跡が、たまたま別の人間の脳の『見える側』の神経に干渉する条件がそろったとき、その人には何かが見える。これを完全にオカルトとして否定するのか、それとも、俺たちがまだ測れていないだけの物理現象として扱うのか。俺は後者の側で考えたい」

「......遼さん」

「だから、幽霊は『いる』と俺は思ってる。ただし、内訳は三つに分けられる。一つ目は情報として残る死者の痕跡。二つ目は観測者の脳が生成する像。三つ目は、場所と人の条件がそろったときに何かしら起きている未解明の現象。これ全部ひっくるめて『幽霊』って呼ぶなら、いる」


 しばらく誰もしゃべらなかった。


 華は、その「しゃべらなかった時間」を、たぶん他の誰よりも観察していた。


 ひなが、グラスを両手で持ったまま、まだ遼の顔を見ている。怖い、という顔ではない。怖い、の手前のところに、別の何かがある顔。


 紡が、ちょっとだけ呼吸を止めて、その止めた時間が普通より長くて、それから小さく息を吐いた。


 そういう、こまかいやつ。


 華はソファの上で姿勢を変えて、お茶を一口飲んだ。


(うん、知ってた)


 と、口の中だけで思った。妹は、兄に対する女の子の細かい挙動を、たぶん本人たちより先に分かるようにできている。誰にも言わないけど。言ったら遼に伝わる前にひなと紡が死ぬから。


   


 最初に口を開いたのはひなだった。


「えっ、なんか、めっちゃ怖くなった」

「怖くなるところ間違ってるでしょ」

「だって、いないって言われた方がまだ気が楽じゃん」

「まあ確かに」

「しかも遼さん、否定してくれると思ったらめっちゃ肯定してくるし」

「否定はしてないよ」

「そう、してないんです。そこが問題なの」

「問題かあ」

「問題です」


 ひなが本気で言うので、美咲が吹き出した。


「ひな、今ちょっと思考が一周しとるわ」

「だってさ、普通さ、理系の人ってこう、バシッと『いません』って言ってくれるじゃん。それで『ですよねー』って終わって、そのまま他の話になるじゃん。そういう流れ期待してたのに、遼さん全然違う方向に行くし」

「期待してたんや」

「期待してた」

「それ遼さんに失礼やろ」

「失礼じゃないよ。だって怖い方の答え出してくるんだもん」


 紡は、口に手をあてて声を出さずに笑っていた。笑いながら、少し真面目な顔で遼を見ている。


「遼さんって、こういう話もするんですね」

「......どういう話」

「普段、私がいても機械ばっかり見てるから」

「機械の話の方が短くていい」

「長くなっちゃったじゃないですか、さっきの」

「確かに」

「......珍しいですね」

「何が」

「いえ、なんでもないです」


 紡はそこで言葉を引っ込めた。引っ込めるのは紡にとっていつものことだった。出しかけた言葉のうち、二割くらいだけを口にして、残りの八割は自分の中に置いておく。それが紡にとっての「そばにいる」ということだった。本人は自覚していない。


 遼は少し困った顔をして、手元のプローブをまた取った。話題を終わらせるのが下手なのは自覚していて、こういうときは作業に戻るのが一番いいと経験で知っている。


「ちょっと待って遼さん」


 美咲がストップをかけた。


「一個だけ聞いていい?」

「何」

「じゃあ遼さん、お化け屋敷入ったら怖がるの?」


 遼は少し考えた。考えてから、真顔で答えた。


「怖がる」

「え、今の話したのに?」

「今の話をしたからこそ、怖がる。三つ目の可能性がある以上、暗い場所で変な音がしたら、物理的に何かある確率がゼロじゃない。それは普通に嫌だろ」

「なにそれ!」

「何」

「理系の人が一番怖がるやつじゃん!」


 三人が声を揃えて笑った。華も笑う。華は笑いながら、ソファの背もたれに頭をあずけて、天井を見る。


(遼、ちゃんと自分の中で筋が通っててすごいな)


 と華は思う。思ったが口にはしない。兄は褒められると「そうか」で終わるので、言っても仕方ない。それでも、ちゃんと考えて生きているんだな、と妹として思う。


「じゃあもし、華ちゃんがまたお化け屋敷系やるなら、遼さん一緒に行く?」

「美咲ちゃんその話やめて」ひなが真顔で止めた。「お蔵入りになった案件だから」

「分かってるけど、もしものもしもの話」

「もしもの話でもやめて」


 遼は少し考えた。


「行かない」

「即答!」

「華が行くなら迎えに行くけど、俺は外で待ってる」

「それ優しいのか冷たいのか分かんないやつ」

「迎えには行く」


 華は笑った。


「遼、幽霊の話より迎えに来るって言う方がちゃんとしてるよ」

「そういうことだろ」

「......うん、そういうことだね」


 紡はまだ、少し遼を見ていた。視線には重さがない。ただ、静かに、この部屋にある時間の流れをひとすじ確かめているような顔だった。


 ひなはグラスに口をつけて、まだ少し怖そうな顔をしている。


 美咲は「メモしとこ」とスマホを出す。バラエティで使えるネタが増えた、という顔だ。


 遼は机の下にまた戻った。電源ラインのノイズはまだ取れていなかった。高い帯に棘が残っている。もしかしたら、隣室の冷蔵庫のコンプレッサが共鳴源かもしれない。いや、それにしては周波数が合わない。


 遼は、たった今自分が話した三つ目の可能性について、実は内心ではもう少し本気で考えていた。場所に記憶が残る現象があるとしたら、どういう物理量に紐づくのか。質量ではない。電磁場でもなさそうだ。ではなんなのか。測れないと言って放置するのは、技術屋として筋が悪い。


(......いや、今じゃない)


 遼は首を振って、プローブを基板に当て直した。


 リビングでは女の子三人の会話が再開している。幽霊の話はもう終わっていた。華の新しいドラマの衣装合わせの話に変わっていて、美咲が「それ絶対見に行く」と言って、ひなが「私も」と言っている。紡は聞きながら、ときどき小さく頷いている。


 遼はノイズの中にいて、リビングの声はまた音の風景になった。


 その日、柊家は普通の夕方だった。


   


 ただ、ひなはその夜、自分の部屋で寝るとき、部屋の隅のカーテンをちょっとだけ意識した。


 遼のせいだった。


 見えないからこそ脳が勝手に補完して『いる』ことにする、という話を、さっき本人から聞いた。つまり今この瞬間にカーテンの向こうで何か動いたように感じたとしても、それは外側の事実とは別の層で起きていることで、つまりまあ、つまり、どう考えても安心する材料がない。安心する材料が論理的にない。


(遼さんのばか)


 ひなは枕に顔をうずめた。ばか、というのは、もちろん怒っているわけではない。ちゃんと答えてくれた人に対して使う「ばか」だった。


 ばか、と心の中でもう一回呼んで、それから少しだけ、別のことを考えた。


 今日、遼さんはひなの質問に、たぶん十分以上答えてくれた。最初に「いるな」と言ってから、定義の話、悪魔の証明、三つの分類、超低周波、走馬灯、未測定の物理現象まで、全部、ひなが「幽霊いると思います?」と聞いたことに対する答えだった。


 遼さんは、ひながどうとか、誰がどう聞いたとかには、たぶん意識を一ミリも向けていない。質問を質問として受け取って、答えたい長さだけ答えた。たぶん、そういうことだ。


 たぶんそういうことなのに、ひなは、その十分間ずっと、自分が遼さんに「見られていた」ような気がしていた。


 見られてはいなかった。話している遼さんは、視線を床に落としていることが多かった。それは知っている。


 でも、自分の質問が、あの人の口を十分間開かせたという事実は、消えない。


 ひなは枕の中で、もう一回小さく、ばか、と言った。


 その「ばか」は、最初の「ばか」とは少し違う「ばか」だった。


 美咲はその夜、事務所からもらった台本の余白に、遼の話をかいつまんで書き留めていた。『いないと言い切る方が難しい/脳が作る像/場所の癖と低周波』。箇条書きの上に、自分用のメモとして『使える。でも誰が話すかで印象が百八十度変わるやつ』とだけ書き添えた。たぶん遼本人以外が話すと、ただのオカルトか、ただの理系マウントになる。遼が話すとどちらにもならない。あの人のあの口調でしか成立しない話だな、と美咲は思って、ノートを閉じた。


 紡は、自分の部屋でギターを膝に乗せて、特に何も弾かずに座っていた。


 今日の遼さんを、何度か思い出していた。


 長く話したな、あの人、と思った。あれだけ話せる人なんだ、と思った。それが新しい発見だった、というほど大げさではない。ただ、知らなかった面を一つ知った、という感覚。


 紡が遼の家に行くようになって、もう何度目かになる。毎回、遼は機械をいじっていて、紡が来ても作業は止めない。紡もそれが嫌じゃない。むしろ、止められない方がいい。


 今日、遼が長く話しているあいだ、紡は遼の口元と指の動きを順番に見ていた。話の中身は半分くらい入ってきた。半分は聞き逃した。聞き逃しても困らないと思った。困らないと思った時点で、紡は自分が困っていることに気づいた。


 ——あ、これ。


 紡はそこで、ギターのネックを軽く一度握り直した。


 「これ」が何なのかは、まだ言葉にしない。言葉にすると形が決まってしまう。形が決まると、たぶんもう、戻せない。


 戻せない場所にはまだ行きたくない、と紡は思った。今日聞いた遼の声のテンポは、しばらく自分の中に置いておく。それでいい。それで十分。


 紡はギターを抱えたまま、もう一度小さく息を吐いた。


 華は、自分の部屋で、明日のセリフ合わせの台本を開きかけて、手が止まった。


(遼、ちゃんと考えて答えてたな)


 ひなから「幽霊いますか」と聞かれて、普通の人間なら面倒くさがって適当に流す。遼はそれをしなかった。ひなの質問を質問として受け取って、自分の知っていることを全部並べて、その上でちゃんと答えた。その姿勢は、別に幽霊の話に限った話じゃない。遼はいつも、機械に対してそういう接し方をしている。問いを問いとして受け取る。そういう人間だった。


 その遼が、幽霊について『いる』って言った。


 華はちょっとだけ、その事実が気に入っていた。


 遼は机に向かったまま、ようやくノイズ源の見当をつけつつあった。電源ラインではなく、基板の裏面、ある配線のループが小さなアンテナになって外来のノイズを拾っていた。普通はそんなループを作らない。昔の設計者が、たぶん別の理由であえてこうしていた。理由は今となっては分からない。


 分からないものを、頭ごなしに「間違い」と断じて切り捨てることは、遼にはできなかった。誰かが何らかの意図で残したものには、たいてい意味がある。意味がまだ見えていないだけで。


 その思考の癖が、ついさっきの幽霊の話にもそのまま出ていたことに、遼は自分では気づいていない。


 廊下からは、玄関の戸が閉まる音がした。三人が帰ったらしい。華が「またねー」と言い、美咲が「おじゃましましたー」と返し、ひなは「失礼しまーす」と小さく言って、紡は「......ありがとうございました」と、三人の声よりワンテンポ遅れて聞こえた。


 遼はプローブを持ち直して、基板の裏側に戻った。


 ノイズはまだ残っている。だが、もうすぐ取れそうだった。

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