第52話「分からない話」
夜、柊遼の部屋。
モニターの青白い光が基板の上に薄く落ちている。ハンダごての先は温まっている。温まっているのに手が伸びない。伸びない理由が遼には分からなかった。分からないまま三分が経つ。三分の停止は今日で三回目。〇・五秒、〇・八秒、三分。伸び方には規則性がある。規則性が見えたところで、解決にはならない。
「なんで行ったんだ、俺」
先日の問いがまだ残っている。詩織の職場のコピー機を直しに行った日、電車の窓に映った自分の顔。あの顔は答えを持っていなかった。今日の顔も同じ。昨日も一昨日もその前も、答えを持たないままモニターに映り続けている。
遼はハンダごての電源を切った。
椅子に深くもたれる。
天井を見た。
天井は白い。白い天井は何も言わない。何も言わないのは、最近の母の選択と同じ種類だ。母はこのところ追及しなくなった。追及する材料が増えすぎたからではなく、たぶん、材料の扱い方を変えたからだろう。変えた理由を遼は考えようとして、やめた。考えても分からないことは分からない。
ドアがノックされた。
「起きてる?」
凛の声。
「起きてる」
「入っていい?」
「いい」
凛が入ってきた。パジャマで、髪はゆるくまとめている。今日はアイドルの発声練習で、スタジオで三時間「かわいい声」を練習してきた——とさっき華から聞いた。練習の成果を、遼には判別できない。判別できないのは、遼の中にアイドルの発声の基準がないから。
「隣、座っていい?」
「いい」
凛は遼の横の床に腰を下ろし、ベッドの端に背中をもたせかけた。
「遼」
「なに」
「……なんか、変な顔してる」
遼は少し黙る。
「そうか」
「うん」
「変な顔、してるか」
「してる。最近、ずっと」
「最近、ずっと」
「うん」
凛は天井を見ていた。見ている凛の顔が、いつもの凛と少し違う。違うのは、女優としての凛の顔と、姉としての凛の顔の配分。今夜の凛は姉が八割を占めている。八割姉の凛は、家の中でも珍しい。
「珍しいね、遼が、変な顔するの」
「そうか」
「好きな人でも、できた?」
遼の手が止まった。
手というか、遼の中の何かが〇・八秒、止まる。
「……分からない」
凛が止まった。
凛の止まり方は、遼の〇・三秒後に来た。〇・三秒遅れたのは、凛の脳が遼の「分からない」を受け取るのに〇・三秒を要したから。要した理由は、凛が遼の「分からない」を、生まれて初めて聞いたから。
「……遼」
「なに」
「今、『分からない』って、言った?」
「言った」
「……分からない、って言ったの、初めてじゃない?」
遼は少し考えた。
思い当たらない。
「……そうか」
「そうか、じゃなくて」
「そうか」
「二回言った」
「……」
凛は遼の横顔を見ていた。見ているだけで、何も言わない。言わないのは、凛が遼の「分からない」の重みを受け取るのに、時間が必要だったから。凛の脳は、六年間の女優業で、相手の台詞の意味を〇・二秒で把握する訓練を積んでいる。でも今夜の「分からない」は、〇・二秒では把握できない。
遼はこの六年間、「分からない」と言わない人間として凛の隣にいた。凛は六年間、遼の「そうか」と「まあ」の中に、遼の全部を読み取ってきた。読み取れる量は限られている。限られた量で、六年、間に合ってきた。
今夜、その限界が少しだけ動く。
「遼」
「なに」
「分からない、って、どういう分からない?」
「……どういう、というのは」
「自分の気持ちが分からないのか、相手が誰だか分からないのか、そもそも何を考えてるか分からないのか」
「……たぶん、全部」
「全部」
「全部」
「……」
凛はもう一度、天井を見る。見ながら、小さく笑った。
「遼が、全部分からないって言うの、珍しすぎて、ちょっと、面白い」
「面白いのか」
「面白い。でも、心配」
「心配しなくていい」
「心配するに決まってる」
「……」
「姉だから」
「……そうか」
凛は立ち上がった。パジャマの袖を直し、ドアの方を見る。
「遼」
「なに」
「答えは、急がなくていいから」
「……」
「分からないまま、考えればいい」
「……」
「でも、分からない、って言えるようになったのは、たぶん、大事なこと」
遼は凛を見た。
凛は笑っている。笑っている凛の顔は、さっきより、姉としての凛が十割を占めていた。十割姉の凛は、六年で初めて。
凛は部屋を出ていく。
ドアが閉まった。
ドアが閉まってから、廊下で別の足音がした。
華だった。凛が入った時から、廊下の端で聞いていたらしい。遼はドアが閉まる少し前に気配に気づいていたが、何も言わなかった。柊家では、こういうことが、よくある。
華の足音が自分の部屋に戻っていく。
戻るのが、いつもより少し遅かった。
翌朝、六時。
遼はまだ寝ている。
寝ているのに、ドアがノックされた。
六時のノックは、柊家では災害に分類される。
「遼」
華の声。
「……なに」
「起きて」
「……なんで」
「聞きたいことがある」
「……」
遼は半分だけ目を開けた。
「……華、六時だよ」
「六時だよ!」
「うるさい」
「起きて」
「寝てる」
「起きて、寝てるって言わないで」
「……」
遼は起き上がる。起き上がりながら、柊家の妹という存在の、朝六時における対応可能範囲を〇・三秒で計算した。計算結果は「無限」。無限の妹に、有限の兄は太刀打ちできない。これは遼の二十二年の経験則である。
ドアを開けた。
華はパジャマのまま立っていた。髪には寝癖。寝癖のついた妹の、朝六時の直球質問は、柊家で最も回避困難な質問の一つ。
「遼」
「なに」
「好きな人、いるの?」
「……」
「昨日、お姉ちゃんに言ってた」
「盗み聞きしてたのか」
「廊下、通っただけ」
「三十分、通ってたのか」
「……通ってた」
「長いだろ」
「それで、好きな人、いるの?」
「……分からない」
「昨日も、そう言ってた」
「今日も、そう言う」
「明日も?」
「……たぶん」
「じゃあ、しばらく、分からないんだ」
「しばらく、分からない」
華は少し考える。
「分かったら、教えて」
「……誰に」
「私に」
「……なんで華に」
「家族だから」
「凛にも言えばいいだろ」
「お姉ちゃんには昨日言ったんでしょ」
「言ってない。分からないって言っただけ」
「同じだよ」
「……違う」
「同じ」
「違う」
「……同じ!」
華は自分の部屋に戻っていった。戻っていく背中は満足している。満足しているのは、遼が華にも「分からない」と言ったから。華にとっては、同じ「分からない」を自分も聞ける立場に入れた、という事実が重要だった。家族には、そういう、目に見えない順位表がある。華は凛の次の順位に、自分をしっかり配置した。
遼はドアを閉めた。
時計を見る。
六時五分。
寝られる気はしなかった。
昼、市ヶ谷。
遼の端末に着信が入った。
発信元は田所三佐。防衛省の直接の上司にあたる、自衛隊サイバー防衛隊の実務担当。田所からの業務時間内の直接電話は珍しい。珍しいことは、たいてい、何かが起きている。起きているのはたぶん、先週提出した防衛システムの設計書の件だろう。
「柊です」
「田所です」
「はい」
「……あの、柊さん」
「はい」
「本当に、これ、あなた、一人で、書きましたか」
「書きました」
「……二週間で?」
「二週間で」
「……」
田所の沈黙が二秒続いた。二秒の沈黙は、田所にとっては長い。普段、田所は一・二秒以内に返答する人間である。一・二秒を超える沈黙は、内部処理が追いついていない、というサイン。
「柊さん」
「はい」
「なぜ、この案件、引き受けたんですか」
遼は少し考えた。
答えはすぐに出た。
「……面白そうだったので」
「……面白、そう」
「はい」
「……」
また沈黙。
三秒。
「柊さん」
「はい」
「それで、十分です」
「……十分?」
「十分です。引き受けてくださった理由として、十分です」
「そうですか」
「これ以上、追及しません」
「はい」
「ありがとうございます」
「……」
電話が切れた。
遼は端末をデスクに置く。
「面白そうだったので」。自分の言葉を、頭の中でもう一度、再生してみる。普段の遼が仕事を引き受ける時に、使わない種類の言葉。普段使うのは「頼まれたので」「やれるので」「急ぎなので」あたり。「面白そう」は仕事の文脈では、遼の語彙にあまり入ってこない単語。でも今日、田所に対して、自然に出た。出たということは、本当に面白そう、と思ったのだろう——と遼は思う。思ってから、違和感が残った。違和感の正体は、分からない。
市ヶ谷、田所のデスク。
田所は電話を切ってから、しばらく端末の画面を見ていた。画面には柊遼の名前がまだ表示されている。
宮脇係長が横から言った。
「田所さん」
「なに」
「今の、柊氏の発言」
「『面白そうだったので』」
「はい」
「記録しますか」
「しなくていい」
「……記録対象としては、十分な情報量ですが」
「十分だからこそ、記録しない」
「……?」
「宮脇」
「はい」
「記録しないことが、最も重要な情報である場合が、業界二十年で、何回かある」
「……」
「今日は、そういう日だ」
「……承知しました」
宮脇はペンをノートの上に置いた。置きはしたが、ペンの上に手を乗せたまま動かさない。動かさないのは、宮脇の葛藤である。葛藤しているのは、記録する係として、記録しないという選択を上司から命じられた、という事態。事態は、宮脇のキャリア十二年で、初めて。
田所は窓の外を見た。
窓の外は夏の昼の市ヶ谷。晴れている。晴れているのに、田所の頭の中は晴れない。晴れないのは、柊遼が二週間で国家のインフラの設計書を完璧に書き上げた、という事実のせい。この事実のせいで、田所はキャリア二十年の最後の整理を始めていた。整理の結果、田所の中で柊遼という人間は、「面白そう」で国家を動かす、という新しいカテゴリに分類された。分類することで、田所は自分をなんとか保っている。
「面白そう」で、国家は、動く。
動かしてはいけないものが動いた場合、誰が責任を取るのだろう——田所はそう思った。思っただけで、答えは出ない。
夕方、遼は詩織にLINEを送った。
送ろうとしたわけではない。送ろうと思った時には、もう打ち始めていた。打ち終わる前に送信していた。送ってから、送ったことに気づいた。
《システムの設計が、面白い》
遼の近況報告としては、標準的な内容である。標準的なのに、「面白い」という感情語が入っている。感情語は、遼のLINEでは珍しい。珍しかったことに、遼は気づいていない。気づかないまま送信していた。
返信は五分後。
《そっか》
《何が面白いの?》
遼は少し考える。
《設計の構造が、想定より、きれいだった》
《ふうん》
《遼、今日、機嫌いいの?》
遼の手が止まった。
機嫌がいい、という概念を、遼はあまり自分に適用してこなかった。適用してこなかったが、詩織に指摘されると、確かに今日の遼は、普段より〇・五パーセントくらい、機嫌がいい気がする。
《……そうかもしれない》
《珍しい》
《そうか》
《うん》
既読がついた。
詩織から次の返信は来ない。
来ないのは、詩織が「何も言わない」という選択をした、ということ。詩織は遼の「面白い」と「機嫌いいのかもしれない」に、それぞれ〇・五秒、止まっていた。止まってから、何も送らない。何も送らないのが、今日の詩織の正解だった。
詩織はスマホを机に置いた。
置いてから、しばらく画面を見ている。
《システムの設計が、面白い》。
この一文を、詩織は何度か読み返した。読み返すたび、同じ一文がそこにある。同じなのに、読むたびに少しずつ違って見える。違って見えるのは、文字の問題ではなく、詩織の読み方の問題。
遼が「面白い」と書いた。
詩織は、遼が機械や技術に対して「面白い」と言うのを、これまで何度も聞いてきた。小学校の頃から、中学、高校、大学——ずっと。「面白い」は遼の語彙の中で、機械に対して使う専用の単語である。機械以外に対して「面白い」を使ったのを、詩織はあまり覚えていない。
でも、今日のLINEの「面白い」は書き言葉。機械の前で口に出す「面白い」とは、少し違う。書き言葉の「面白い」は、詩織に向かって送られた「面白い」だった。
詩織は、先日の由紀とのランチを思い出す。
由紀が言っていた。「あの子、最近、少し変わってきてる」「自分でも気づいてないと思うけど」。あの時の由紀の声が、耳の奥にまだ残っていた。残っているのを、今日、詩織は〇・三秒だけ確認した。
確認したが、確認したことを遼には言わない。言うのは、まだ先の話。先の話を今、先回りしても、何も起きない。起きないことを起こそうとしないのが、詩織の十二年で磨いた、唯一の技術だった。
詩織はパソコンを開く。
原稿の続きを始めた。
始めながら、スマホの画面は暗くなっていく。暗くなった画面の、「面白い」の四文字が、詩織の頭の中にはまだ灯っていた。
夜、遼の部屋。
遼は作業を再開していた。
ハンダごての先は温まっている。コンデンサを基板に固定する。テスターを当てる。導通を確認。問題はない。
手は動いていた。
動いていたが、頭の別の部分で、別の問いが動いている。
「俺は、どうしたいんだ」
先週から続いている問い。詩織の職場に行った帰りの電車の窓で、最初に遼の頭に入ってきた問い。入ってから出ていかない。出ていかないまま、今夜もそこにある。
普段なら、答えの出ない問いは〇・五秒で頭の隅に追いやられる。追いやられると、作業に集中できる。でも今夜の問いは追いやられない。追いやろうとしても、戻ってくる。戻ってくる問いは、遼の人生でほとんどなかった。
遼は手を止めた。
天井を見る。
天井は昨夜と同じ、白。白は答えを持たない。持たないことは分かっている。分かっているのに見た。見たのは、たぶん、答えがないことをもう一度確認したかったから。
「……分からない」
小さく、声に出してみる。
声に出すと、不思議と、少し軽くなった。軽くなった理由を、遼は考えようとして、やめた。考えても分からないことは分からない。分からないまま、今夜は少し長く考えた。いつもの遼より、二十分、長い。二十分の長さを、遼は自分で意識していない。意識しないまま、二十分、長かった。
窓の外で、夏の夜が続いている。
続いている夜の中で、遼の部屋のモニターの光だけが、ほんの少し、長めに点いていた。




