番外編「佐々誠一、感謝する」
佐々誠一はTechVisionに入社して二年が経つ。
二年で何が分かったかというと、自分は技術の話をしている時が一番楽しい、ということだ。それ以外のことはだいたいよく分からない。
たとえば同僚と昼食を食べに行く。お店で先輩が「最近見たドラマ、面白かったよ」と言う。誠一は「そうですか」と返す。返しながら、ドラマというものを最後に見たのは中学の時だっただろうか、と考える。中学の時にドキュメンタリーを母と一緒に見た記憶はある。あれもドラマに分類されるのだろうか。たぶん違うのだろう。違うとしたら、自分が言うべき適切な相槌は何なのだろう。
誠一の両親は教育方針としてテレビをほとんど見せなかった。見ていいのはニュースと教育番組だけ。それ以外の番組は家のテレビには映らない仕組みになっていた——ように誠一には感じられた。実際にはチャンネルを変えれば映ったのだろうが、変えるという発想を当時の誠一は持たなかった。持たないまま誠一は大きくなり、MITに進学し、TechVisionに入社した。
その間に世間というものが、テレビの中でいろいろ進行していたらしい。誠一はそれを入社してから少しずつ知った。同僚が「あの女優の新しいドラマ」と言う。誠一は「あの女優」が誰なのか分からない。分からないのに聞き返すのも申し訳ない。申し訳なくて「ああ、そうなんですね」とだけ返す。返した後で自分の声に、いつも薄いズレが残る。
そういう意味で誠一は、世間と少しズレている。ズレていることは自覚している。自覚しているが、直す方法をまだ見つけていない。
そんな誠一にとって、柊遼は貴重な存在だった。
遼は誠一と同い年——ではない。遼は二十二歳、誠一は二十七歳。五歳離れている。離れているのだが、二人で技術の話をしている時に年齢の差は消える。消えて、ただ「技術が好きな二人」になる。
ある日、廊下ですれ違った時に誠一が「この前のシステムの話なんですけど」と切り出した。遼が「ああ、あれ」と返した。その後の会話が二時間続いた。場所は廊下から会議室に移り、会議室からカフェスペースに移り、最後はビルのエントランスのソファに移った。誰にも邪魔されなかった。誰も二人の会話の意味が分からなかったから、邪魔のしようがなかった——というのが正確かもしれない。
その日以来、誠一の中で遼は「話の合う人」のカテゴリに入った。カテゴリの中身は遼一人。一人しかいないが、一人いれば誠一には十分だった。
お互いの席は離れている。それでもすれ違うたびに、何かしらの技術トピックを投げ合う。「あの論文、読みましたか」「読んだ」「あの実装、どう思いますか」「悪くない」「悪くない、というのは具体的には」——という調子で、立ち話が三十分続く。三十分後に二人とも普通の顔で席に戻る。普通の顔のままその日の作業に戻れる。誠一にとっては貴重な三十分だった。
ある時、別の同僚が誠一に言った。
「佐々さん、柊さんと話してる時だけ、楽しそうだよね」
「そうですか」
「女子のコイバナみたい」
「コイバナ、というのは」
「恋愛の話」
「……技術の話をしているんですが」
「分かってる。でも、傍から見ると、コイバナに見える」
誠一はその時、少し考えた。考えたが、コイバナを見たことがないので比較対象がなかった。比較対象がないまま「そうですか」と返した。返した後で自分の声に、また薄いズレが残った。
ある金曜の夕方、誠一と遼は珍しく定時で上がった。
TechVisionで定時上がりは珍しい。珍しい日に二人ともそうなった。これは偶然というより、ささやかな奇跡だと誠一は思った。
エレベーターで一緒になった。
「佐々さん」と遼が言った。
「はい」
「明日、暇ですか」
「暇です」
「家、来ますか」
誠一は止まった。
止まった理由は、遼から「家に来ますか」と言われたのが初めてだったから。誠一は遼の住所も電話番号も知っていた。知っていたが、家に呼ばれる文脈で知っているわけではなかった。業務上の連絡先として知っているだけ。それが急に、家に呼ばれる文脈に変わった。
「……家、ですか」
「家」
「なんで」
「面白い機材があるので」
「面白い、というのは」
「見せた方が早い」
遼の「見せた方が早い」は入社以来、誠一は何度か聞いていた。聞くたびに、その後に出てくる機材は確かに見せた方が早かった。説明を聞いてから見ると、たぶん感動が半減する。半減を防ぐために遼は「見せた方が早い」と言う。これは遼の誠実さの、一つの形だと誠一は理解していた。
「行きます」
「明日、夕方四時に、品川駅」
「品川」
「うちの最寄りが」
「分かりました」
エレベーターが一階に着いた。二人で外に出た。空は夏の夕方の薄いオレンジだった。
誠一は家に帰る電車の中で、明日の予定をもう一度、頭の中で確認した。「面白い機材」。何の機材だろう。試作の基板だろうか。それとも、もっと大型の何かだろうか。想像するだけで誠一の口元が少し上がった。上がったことに、誠一は自分で気づかなかった。気づかないまま家に着いた。
翌日、夕方四時。
誠一は品川駅の中央改札の前で遼を待っていた。遼は五分前に到着していた。誠一が来た時、遼は壁にもたれてスマホを見ていた。何のスマホ画面なのかは誠一には見えなかった。見えなかったが、たぶん技術系のニュースか、論文の何かだろう、と思った。
「お待たせしました」
「行こう」
遼が歩き出した。誠一も隣を歩いた。
歩きながら誠一は、「うちの最寄りが品川」という遼の発言をもう一度、頭の中で確認した。品川。品川の住宅地は、誠一の頭の中の地図ではいくつかの選択肢があった。一番可能性が高いのは駅から少し離れた、古い住宅街。マンションもそれなりにある。たぶんワンルームの小ぎれいなアパートだろう。遼は二十二歳。フリーランスとしての契約があるとはいえ、まだ大学を卒業して数ヶ月。家賃はそう高くないはず。
誠一は自分の月給と、遼が受け取っているはずの契約金を頭の中で軽く計算した。計算結果は「ワンルームか、せいぜい1Kのアパート」。たぶん駅から十五分くらい歩く。歩く道は夕方なので少し涼しい。涼しい道を歩いて遼の部屋に着く。部屋には機材がいくつか並んでいる。一つを遼が指差して「これ」と言う。誠一が「おお」と言う。それから二人で機材の話を二時間する。誠一はそれで十分だった。
遼が駅前の信号を、駅のすぐ向かいに渡った。
誠一は遼について信号を渡った。
渡った先には超高層マンションがあった。
誠一はそのマンションを見上げた。
マンションは見上げても終わらなかった。終わらないということは相当高い、ということだった。
「えっと、遼さん」
「ん」
「このマンション、どこに行くんですか」
「ここ」
「ここ?」
「ここ」
遼は超高層マンションのエントランスに足を踏み入れた。誠一はエントランスの自動ドアの手前で少し止まった。止まってから追いかけた。追いかけながら、これは何かの間違いだろう、と思った。たぶん遼の知り合いが住んでいて、その知り合いが機材を持っていて、見せてもらいに行くのだろう。そう、たぶんそうだ。そういうことなら辻褄が合う。
遼はエントランスのインターフォンで、何かを操作した。
誠一はその操作を横から見た。
見た結果、遼は自分の部屋番号を押していた。
「ご自分の」と誠一が小さく言った。
「俺の」と遼が普通に答えた。
誠一はもう一度、少し止まった。
止まった理由を誠一は自分でもよく分からなかった。分からないままエレベーターに乗った。エレベーターは上に、上に上がった。途中で止まらなかった。止まらないまま二十五階で止まった。
遼が玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
遼が言った。
誠一は「ただいま」を頭の中で変換した。「ただいま」はその家に住んでいる人が、家に帰った時に言う言葉。遼が「ただいま」と言ったということは、ここは確かに遼の家。誠一の頭の中の「ワンルームか1Kのアパート」の地図は、一瞬で書き換わった。
「お邪魔します」と誠一は言った。
言ってから、自分の声が少し固いことに気づいた。固いのはたぶん緊張しているから。緊張しているのは、目の前の状況が誠一の想定の五段階くらい上だったから。
廊下を進んだ。
リビングに入った。
リビングには二人の女の人がいた。
誠一はそこで止まった。
今日、三回目の停止だった。
女の人たちは二人とも綺麗だった。
綺麗、というのは誠一の語彙では、上から二番目くらいの褒め言葉だった。一番上は「美しい」。「美しい」は誠一にとっては博物館に展示されている古代の壺などに使う言葉で、人間に使う機会はこれまでの人生でほとんどなかった。今日、その機会が来たのかもしれない、と誠一は思った。思ってから、二人の顔をもう一度確認した。確認結果としては、たぶん博物館の壺と同じくらいの美しさだった。
二人のうち、一人は髪が肩より少し下まで伸びていて落ち着いた感じだった。もう一人はもう少し若くて表情が明るかった。
「お帰り」と落ち着いた方が言った。
「お邪魔します」と誠一はもう一度言った。たぶん二回言った方が安心だと思った。
「遼の同僚?」と若い方が言った。
「はい」
「初めまして」
「初めまして」
遼が誠一に言った。
「姉の凛と、妹の華」
「ご家族ですか」
「家族」
誠一はもう一度、二人の顔を見た。
見た結果、似ているような似ていないような、判断のつかない顔だった。判断がつかないが、家族だと言うのなら家族なのだろう。誠一は家族というものを顔で判定する習慣がなかった。ない習慣で判定しようとしても、当然できなかった。
「あの、遼さん」
「ん」
「ご両親は」
「父はだいたい海外。母も今は留守」
「お留守」
「うん」
「えっと、いつから、三人で?」
「いつから、というか、まあ、ずっと」
「ずっと」
「うん」
ずっと。
誠一は「ずっと」という言葉を頭の中で繰り返した。父が海外、母も留守。三人の兄妹だけでこの超高層マンションに住んでいる。住んでいるというより生きてきた、という感じだろうか。家賃は誰が払っているのだろう。生活費は。三人ともまだ若い。一番年上の凛さんはたぶん二十代半ば。妹さんはもっと若い。遼は二十二歳。
三人で、生きてきたのか。
誠一の目の奥が少し熱くなった。
熱くなる理由を誠一は自分でもよく分からなかった。分からないが熱くなった。たぶん感動したのだろう。感動の対象は、目の前の三人のこれまでの努力。
誠一はぐっとこぶしを握った。
握ってから、誰にも気づかれないように、握ったこぶしをポケットの中にしまった。
凛さんが台所の方に向かった。
誠一はその背中を見送った。
凛さんが台所でお茶を淹れているらしい音が聞こえた。お茶を淹れる音は誠一にとっては家庭の音だった。家庭の音をこの超高層マンションで聞いている。聞いている自分がなんだか申し訳ない気がした。申し訳ないというより、お邪魔している実感がようやく湧いた。
誠一はソファに案内された。座った。座ってからもう一度リビングを見回した。
リビングは広かった。広いし綺麗に整っていた。遼が普段、技術の話をしている人と同じ人とは思えないほど、リビングは整っていた。たぶん整えているのは遼ではなく、ご家族のうちの誰かだろう、と誠一は推察した。推察したが、誰がやっているのかは聞かなかった。聞くのは失礼な気がした。
ソファに座っている誠一の横で、遼が立ったまま何かを棚から取り出していた。たぶん「面白い機材」だ。誠一はそれを楽しみに待った。待ちながら目の端で、妹さんの華さんをちらりと見た。
華さんはリビングの隅で、何か長いものを持っていた。
長いもの。
黒い。
形は銃に見えた。
誠一は少し止まった。
今日、四回目の停止だった。
その時、凛さんのスマホが鳴った。
凛さんは台所からリビングに戻ってきて、スマホを耳に当てた。
「はい」
凛さんが電話に出た。
「おはようございます」
誠一はソファでもう一度、止まった。
今日、五回目だった。
誠一は左手で自分の腕時計を確認した。腕時計は夕方四時三十二分を指していた。夕方の四時三十二分。普通の感覚では「こんにちは」もしくは「お疲れ様です」と言う時間。「おはようございます」を夕方に使う職業は限られている。
限られている職業の一つを、誠一はテレビを見ない人生の中でも聞いたことがあった。
水商売。
水商売の人が自分たちの業界では、出勤時に「おはようございます」と言う、という話。これを誠一はいつだったか、誰かから聞いた覚えがあった。誰から聞いたのかは思い出せなかった。思い出せないが、聞いた事実だけは頭の中に残っていた。
誠一はもう一度リビングを見回した。
超高層マンションの二十五階。広いリビング。整った内装。三人だけで生きてきた、若い兄妹。
誠一の頭の中で、いくつかの点が線で繋がり始めた。
水商売。
夕方の「おはようございます」。
超高層マンション。
若い、綺麗な姉。
線が、繋がった。
凛さんはたぶん、夜のお仕事をしている。
誠一の中で凛さんは、一瞬で夜の銀座のナンバーワンに配置された。配置の根拠は薄かった。薄いが、誠一の中では確かに配置された。いったん配置すると、配置から動かすのはなかなか難しかった。
誠一は行ったことのない銀座を、頭の中で想像した。想像の中の銀座は夜の街で、綺麗な人がたくさんいた。たくさんいるが、その中でも凛さんはたぶんトップだろう。トップだからこんな超高層マンションに住める。住めるから遼と華さんを養える。
養ってきたのか。
誠一の目の奥がまた熱くなった。
二回目だった。
その時、華さんの手から長い黒いものが床に落ちた。
ガコン、と音がした。
硬い音だった。プラスチックのような金属のような、判別のつかない音。判別はつかないが、銃が落ちる時の音として十分に説得力のある音だった。
誠一はソファの上で少し固まった。
今日、六回目の停止だった。
華さんは「あ」と言ってしゃがんで、それを拾った。拾ってから誠一の方を見て「ごめんなさい、驚かせて」と言った。
驚かせて、と言われても誠一には答えられることがなかった。あったかもしれないが、その時の誠一の頭の中では、すでに別の物語が組み上がっていた。
銃。
なぜ、銃がここに。
ギャング。
いや違う。銀座。銀座は夜の街。夜の街には危ない輩がいるはず。誠一は行ったことがないので確証はない。確証はないが、テレビで見ない映画でも、夜の街にはたぶん危ない人たちがいる。
夜の街で働く姉。その姉を守る用心棒。
誠一の目は華さんに向けられた。
華さんは長い黒いものを抱えて立っていた。立っている華さんは確かに綺麗だった。綺麗なのに長い黒いものを抱えている。アンバランスだった。アンバランスのまま、誠一の頭の中の物語は組み上がっていった。
華さんは用心棒。姉を守る、用心棒。
でもこんな綺麗な顔をして。
たぶん用心棒の傍ら、自分もお店で接客している。接客しているということは、お店でナンバー何位かにいる。姉の凛さんがナンバーワンなら、華さんはナンバーツーくらいだろう。妹だから。順位は姉妹の関係を反映する。
ナンバーワンとナンバーツーの姉妹。
超高層マンションに住めるわけだ。
誠一の頭の中ですべての辻褄が合った。合ってしまった。合ったので誠一はソファから立ち上がった。
立ち上がって遼の方を見た。
遼は棚から取り出した何かをテーブルに置こうとしているところだった。
「遼さん」と誠一は言った。
「ん」
「あなたは」
「うん」
「この姉妹に」
「うん」
「感謝、しなければならない」
誠一はそれを、ぐっとこぶしを握って言った。
握っていたこぶしはポケットから出ていた。出ていることに誠一は気づいていなかった。
遼は誠一を見た。
数秒、何も言わなかった。
数秒経ってからゆっくり言った。
「……どうした、佐々さん」
「あなたは、感謝、しなければなりません」
「うん」
「お姉さんと、妹さんの、努力で」
「努力」
「努力です」
「努力」
遼はもう一度、止まった。
止まってからリビングの別の方向を見た。
別の方向には凛さんがいた。凛さんは電話を切ったところだった。切ったところで誠一の方を見ていた。見ているが、何も言わなかった。何も言わないのはたぶん、状況を把握していないから。把握していないのは当然のことで、把握する材料がまだ凛さんには与えられていなかった。
華さんもこちらを見ていた。長い黒いものを抱えたまま。
リビングが、しん、と静かになった。
静かなリビングで、誠一はもう一度、ぐっとこぶしを握った。
握った瞬間、誠一の右目から、一筋の涙が、頬を伝って落ちた。
涙は、誠一自身、予期していなかった。予期していなかったので、止める暇もなかった。頬の上を、まっすぐ、顎の方へ、一本の線が引かれた。引かれたことに、誠一は、落ちてから気づいた。気づいたが、拭かなかった。拭かないのは、たぶん、拭くと、自分の感動が、嘘になる気がしたから。
「……遼さん」
「うん」
「感謝しなければならない!!」
誠一は、今日二度目の「感謝しなければならない」を、リビングに響かせた。響いた声は、二度目の方が、一度目より、〇・三段階、大きかった。大きかったのは、誠一の中の感動が、涙と一緒に、外に出ようとしていたから。
リビングは、もう一度、しん、と静かになった。
「あの、佐々さん」と凛さんがゆっくり言った。
「はい」
「私、」
「いえ、商売に貴賤はありません!!」
誠一は、凛さんの言葉を、最後まで、聞かなかった。聞かなかったのは、凛さんの「私」の次に何が続くかを、誠一の頭の中の物語が、すでに、補完していたから。
「あなたたちは、尊敬できる姉妹です!!」
「あの」
「簡単に、銀座のナンバーワンとツーなど、取れるはずがありません!!」
「あの、佐々さん」
「血の滲むような、努力が、あったはずです!!」
「佐々さん、聞いて」
「聞きます!!」
誠一は、聞く姿勢を、作った。作ったが、姿勢は作っただけで、実際に何かを聞く準備は、できていなかった。できていないのは、誠一の頭の中が、すでに感動で、八割、占められていたから。
「私、銀座のナンバーワンとか、ではなく」
凛さんが、ゆっくり、言った。
誠一は、止まった。
止まってから、頭の中で、情報を、再計算した。
銀座のナンバーワンでは、ない。
では、どこだ。
誠一は、再計算の結果を、〇・五秒で、出力した。
「すいません、六本木でしたか!!!」
リビングが、さらに、静かになった。
静かさの段階で言うと、今日で、一番、静かだった。
「……違う」と遼が、横で、小さく、言った。
「違うんですか」
「違う」
「では、どこなんですか」
「どこでもない」
「どこでもない、というのは」
「いや、そういう話ではなく」
凛さんが、一歩、前に、出た。
「女優なんです」
「はい」
「妹も、女優」
「……」
「分かりますか。女優」
「……じょゆう」
「映画に出たり、ドラマに出たり、する仕事です」
「……」
誠一は、もう一度、止まった。
今日、何回目の停止か、もう、数えていなかった。
女優、という単語を、誠一の頭の中で、少し検証した。検証の結果、「映画やテレビドラマに出演する人」というカテゴリに辿り着いた。辿り着いてから、もう一度、凛さんを見た。凛さんはソファの近くで、ただ立っていた。立っている凛さんは確かに、テレビに出てもおかしくない人に見えた。
誠一は自分の頭の中で組み上がっていた物語を、一瞬で解体した。解体は、組み上げるより簡単だった。
「……失礼しました」と誠一は言った。
「失礼、というか」
「いえ、本当に、失礼しました」
「なぜ、いま謝ってるんですか」
「失礼しました」
誠一は深く頭を下げた。下げたまましばらく上げなかった。上げる勇気がなかった。
遼が横で小さく言った。
「……佐々さん」
「はい」
「うちの姉妹は、まあ、有名らしい」
「らしい」
「俺は、よく分からないが」
「……」
「佐々さんは、俺と気が合うな」
誠一は頭をようやく上げた。
上げてから遼を見た。
遼はいつもの普通の顔だった。普通の顔で誠一を見ていた。
誠一はなぜか、少し救われた気がした。
救われた理由は自分でもよく分からなかった。分からないが救われた。たぶん遼が自分と同じ側にいる、と感じたから。同じ側、というのは世間と少しズレている側のこと。誠一はこれまで自分一人だけがそっち側だと思っていた。今日、もう一人いる、ということを確認した。
確認できたことが誠一にとっては、今日一番の収穫だった。
機材はまだ見ていなかった。
でも今日は機材どころではなかった。今日はたぶん機材の話は、しない方がいい。次回にしよう。次回もう一度、誘ってもらえるなら、次回、見せてもらおう。今日は頭を下げて帰る方が、たぶん正しい。
「あの、お茶、淹れたんですけど」と凛さんが言った。
「あ、はい」
「飲んでいきます?」
「……飲んでいきます」
誠一はソファにもう一度、座った。
座ってからふと横を見た。
華さんが長い黒いものをテーブルに置いていた。
近くで見ると、長い黒いものは銃ではなかった。
銃の、模型だった。
それも明らかに模型と分かる、軽そうな、プラスチックの感触のあるもの。
誠一はもう一度、止まった。
止まってから、ゆっくり目を閉じた。
目を閉じている時間がいつもより長かった。長くしたのはたぶん、自分の中のいろいろな物語を、ゆっくり片付けるためだった。
目を開けた。
目の前には遼がお茶を運んでいた。
お茶は湯気を立てていた。
湯気を見ていると、誠一の頭の中の物語は少しずつ消えていった。消えていく物語の中で、誠一はようやく現実の柊家に辿り着いた。
現実の柊家はたぶん、誠一の想像していたどの物語よりも普通だった。
ただ女優の姉妹がいるだけの、普通の家だった。
品川の超高層マンション二十五階の、普通の家。姉と妹がそれぞれ国民的な女優の、普通の家。家族三人で住んでいる、普通の家。誠一の中で、それらの要素はすべて「普通」のカテゴリに収まった。収まった理由は、誠一の中で「普通」の定義が、今日、少しだけ広がったから。広がったのは、遼が自分と同じ側にいる、と確認できたおかげだった。
普通の家でお茶をいただいた。
お茶はおいしかった。




