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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

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第51話「何かを直す話」

 桜井(さくらい)詩織(しおり)は、朝から、職場のコピー機を睨んでいた。


 睨んでも、コピー機は直らない。これは物理的な事実であって、精神論ではない。でも詩織の職場では、朝のコピー機に対して、全員が一度は睨みを入れる。睨むこと自体が、職場の儀式になっている。儀式が終わると、次は「業者呼ぶ?」の議論に移る。毎朝、同じ流れが繰り返されている。繰り返されているのに、誰も改善しない。これは出版業界の伝統である、と詩織は一年目の頃に先輩から聞いた。


「桜井さん、これ、動きます?」


 後輩の藤井が呼んだ。詩織はコピー機の前に立った。紙が詰まっている、ように見える。ように見えるが、紙を取り出しても、ローラーが回らない。回らないから、また詰まる。詰まるから、また紙を取り出す。この無限ループを、詩織は今朝、三回通過した。


「業者、呼びます?」と藤井。


「朝一で呼ぶと、来るの午後なんだよね」


「午後だと、入稿間に合わないです」


「入稿、今日?」


「今日」


「……」


 高瀬(たかせ)が横を通りかかった。


「どうしました?」


「コピー機です」


「また」


「また」


「業者呼びました?」


「呼ぶと来るの午後です」


「午後だと」


「入稿間に合いません」


「……」


 三人で、コピー機の前で、黙った。


 黙ったところで、コピー機は直らない。これも物理的な事実である。


   


 詩織はスマホを手に取った。


 手に取ってから、少し、止まった。


 これから電話しようとしている相手は、編集部の緊急対応要員ではない。個人的な幼なじみである。幼なじみに、職場のコピー機のために、電話していいのか。いいわけがない。いいわけがないが、他に選択肢がなかった。選択肢がないとき、人間は、選択肢のないことを、する。これも一年目の頃に先輩から聞いた気がするが、このケースに適用していいのかは、分からなかった。


 詩織は、廊下に出た。


 出てから、電話をかけた。


 二コールで、出た。


「はい」


「遼、今、大丈夫?」


「大丈夫」


「あの、うちのコピー機が、朝から」


「壊れてるのか」


「壊れてるっぽい」


「型番」


「……え」


「コピー機の型番」


「ちょっと待って」


 詩織はオフィスに戻って、コピー機の側面の型番を読み上げた。遼が「分かった」と言った。


「買い替えは?」と遼が言った。


「予算出ないから、騙し騙し使ってる」


「何年目」


「十一年目」


「……寿命」


「だから騙し騙し」


「今から行く」


「え」


「今から行く」


「いや、別にいいよ。業者呼ぶから」


「業者、午後だろ」


「そう……なんで知ってるの」


「コピー機の業者は、朝一で呼んでも午後」


「業界知識」


「普通の知識」


「……普通?」


「今から行く」


「遼」


「なに」


「本当に来なくていいよ」


「行く」


「なんで」


「頼まれたから」


「頼んでないよ」


「……」


 電話が切れた。


 詩織は、スマホを持ったまま、廊下で、しばらく、立っていた。


 「頼まれたから」。遼は、そう言った。詩織は「頼んでない」と言った。これは事実のはずだった。でも遼は、頼まれた、と認識していた。認識にズレがある。ズレがあるまま、遼は、これから、三十分以内に、この職場に、来る。


 来るのか、と詩織は思った。


 来るのだ。


 遼が「行く」と言ったら、遼は、行く。これは、詩織が小学五年生の頃から、十二年間、観察してきた事実だった。観察してきた事実の前では、詩織の「頼んでない」は、〇・三秒で、無効化される。


   


 同じ頃、防衛省市ヶ谷地区。


 (ひいらぎ)(りょう)は、端末の前から立ち上がっていた。


 田所(たどころ)三佐が、その動作を、目で追った。


「柊さん、どこへ」


「桜井の職場に、コピー機を直しに」


 田所の手が、止まった。


 田所の手は、今日一日で、何度目か止まっていた。田所の手が止まる回数は、遼の発言の異常度に比例する。比例係数は、田所のキャリア二十年で徐々に調整されてきた。でも遼と働き始めて一ヶ月、係数はまだ、毎週、更新されていた。更新を止められないのは、遼の発言が、毎週、想定外の方向から来るからだった。


「……桜井さんの職場、というのは」


「出版社」


「出版社のコピー機を、柊さんが」


「はい」


「……なぜ」


「頼まれたので」


「頼まれるものですか、出版社のコピー機を、国家インフラの担当者に」


「頼まれるというか、結果として頼まれた形に」


「なった」


「なりました」


「……」


 田所は、椅子に、深く、座り直した。今日、二回目だった。時計を見た。まだ午前十時半だった。


 宮脇(みやわき)係長が、ペンを動かした。


「柊氏、桜井氏の職場のコピー機の修理のため、一時離席」


「書かなくていいです」と遼。


「書きます」


「無関係でしょう」


「関連情報の蓄積です」


「コピー機の修理が」


「関係者の関連事象は、記録対象です」


「桜井、関係者じゃないです」


「関係者です」


「なぜ」


「先月の議事録に、『柊遼氏、桜井詩織氏の電話を受ける』と記載があります」


「……一回の電話で、関係者に登録されるんですか」


「一回で登録、二回で固定、三回で永続化」


「三段階制度」


「三段階です」


「……桜井、何回登録されてますか」


「永続化済みです」


 遼は、宮脇を見た。見てから、見なかったことにした。田所の技術が、最近、遼にも少しだけ移っていた。見なかったことにするのは、市ヶ谷に通う人間が、全員、少しずつ身につけていく技である。


「三時間で戻ります」


「はい」


「進捗は、一時間ごとに業務メールで」


「一時間ごと?」


「規程です」


「三時間しかいないのに、三回も」


「三回、正確には四回です。出発時、一時間後、二時間後、戻り時」


「……普段そんなに報告してないですよね」


「普段は庁内にいらっしゃるので、物理的に把握できます」


「今日は外出だから増える」


「外出中の報告頻度は、別規程があります」


「別規程」


「ございます」


「……」


 遼は会議室を出た。


 エレベーターを待ちながら、遼は、自分が、なぜ、出版社のコピー機のために、市ヶ谷を出ようとしているのかを、考えた。考えたが、答えは出なかった。答えが出ないまま、エレベーターが来た。乗った。降りた。タクシーを呼んだ。乗った。タクシーの中で、また考えた。やはり、答えは出なかった。


 出なくても、行っていた。


   


 詩織の職場に、遼が来たのは、電話の二十八分後だった。


 予想より、二分、早かった。交通事情を考えると、二分早いのは、奇跡だった。


 オフィスの受付に、遼が立っていた。シャツに、スラックス。肩からバックパック。手にツールケース。詩織は、遼のその姿を見た瞬間に、あ、来た、と思った。来るのは分かっていた。分かっていたのに、来た瞬間に、あ、来た、と思った。人間の「分かっていたこと」と「起きたこと」の間には、いつも、〇・五秒のギャップがある。詩織は、そのギャップの中で、遼の顔を見た。


 遼は、普段の顔だった。


 普段の顔だった、というのが、詩織にとっては、一番、困る顔だった。普段の顔で、自分の職場に、平日の午前中に、来てしまう。来てしまう理由を、遼は説明しない。説明しないまま、遼は、コピー機の前に立った。


「ここ?」


「ここ」


「見る」


「見て」


 遼はバックパックを床に置いた。ツールケースを開いた。中には、ドライバーが数種類、テスターが一つ、謎の工具が二つ。謎の工具の名前を、詩織は、知らない。知らないのに、その工具がこれから役に立つことは、なぜか、確信できた。十二年、遼の工具を見てきた経験が、この種の確信を、勝手に生成する。


 遼はコピー機の側面を開けた。


 十秒、中を見た。


 それから、テスターを当てた。


 二十秒、何かを測った。


 それから、ドライバーを持った。


 四分後、コピー機が動いた。


「……え」


 藤井が声を上げた。


「動いた」


「動いた」


「動きましたよ!」


 詩織の後輩の藤井、先輩の高瀬、編集長の木崎、向かいのデスクの松本、隣のデスクの早川、その他、コピー機の半径三メートル以内にいた全員が、声を上げた。朝からの無限ループが、四分で、終わった。終わったことが、オフィスに、静かに、伝播した。


 遼は、ツールケースを、閉じた。


「ローラーのモーターが、熱で劣化してた。接点も、酸化してた」


「直せたの、四分で」


「応急処置。部品は後で送る。今週中に来るはず」


「四分で、直した」


「騙し騙し、あと半年は持つ」


「四分」


 詩織は、遼の手元を、見ていた。


 遼の手は、普段と同じ動きをしていた。ハンダごてを持っているときの手。基板を見ているときの手。中学生の頃、詩織の壊れたラジカセを直してくれた時の手。あの時から、詩織は、遼の手を、何度も見てきた。何度も見てきたから、この手の動きが「普通」であることも、知っていた。遼にとっては、普通の作業だった。普通の作業で、十一年使ったコピー機を、四分で、蘇らせた。


 編集長が、遼に近づいてきた。


「桜井くんの、ご友人?」


「幼なじみです」


「幼なじみ」


「小学校からの」


「……お仕事、何を?」


「エンジニアです」


「どちらの」


「フリーランス的な」


「的な、とは」


「正確には複数の契約先が」


「……詳しくは聞かないことにします」


「助かります」


「詩織ちゃん」


「はい」


「今度、ちゃんとお礼を」


「いえ、私からも」


「ちゃんと」


「はい」


 編集長が、ぺこりと、遼に頭を下げた。遼も、頭を下げた。下げ方が、やや、ぎこちなかった。編集者と名刺交換をする機会があまりない人間の、お辞儀の角度だった。


   


 遼が、帰る準備をしていた。


 藤井が、詩織の肩を、つついた。


「桜井さん」


「なに」


「……彼氏さんですか」


「違います」


「え、でも、三十分で来てくれて、四分で直して」


「幼なじみです」


「幼なじみ、ですか」


「はい」


「……絶対違う」


「絶対、幼なじみです」


「そうですか……」


 藤井は、納得していない顔だった。納得していないまま、自分のデスクに戻っていった。戻っていく背中に、遠くから、「絶対、彼氏」という呟きが、聞こえた気がしたが、詩織は、聞こえないことにした。


 遼は、バックパックを背負った。


「ありがとう」と詩織が言った。


「ん」


「わざわざ来なくて、よかったのに」


「……頼まれたから」


「頼んでないよ」


「……」


「頼んでないのに、来てくれたね」


「……そうか」


「そうか、って」


「……分からない」


 遼は、オフィスの出入り口の方を、見た。見てから、もう一度、詩織を見た。


「仕事、続けて」


「うん」


「またな」


「うん」


 遼は、オフィスを出た。


 詩織は、遼の背中を、廊下の角を曲がるまで、目で追った。追った後、自分のデスクに戻った。戻る時、藤井と目が合った。藤井は、詩織に、何も言わなかった。言わなかったが、顔に「絶対、彼氏」と書いてあった。詩織は、見ないことにした。見ないふりは、今朝、遼が会議室で身につけたのと、同じ技術だった。


 デスクに着いた。


 椅子に座った。


 座ってから、横を、見た。


 高瀬(たかせ)と、目が合った。


 高瀬は、コーヒーを淹れてきた帰りだった。マグカップを持ったまま、立っていた。立っていたが、何も言わなかった。ただ、詩織の顔を、一秒だけ見て、自分のデスクに戻った。戻る時、マグカップの持ち方が、いつもと同じだった。いつもと同じ、というのが、詩織には、ありがたかった。高瀬は、何も言わない、と決めていた。決めているから、言わない。決めていることを、詩織に、気づかせる程度には、高瀬は、高瀬だった。


 ——二ヶ月前に、高瀬は、詩織に、告白した。詩織は、断った。断る時、詩織は「たぶん、好きな人がいる」と言った。高瀬は「なんとなく分かってました」と言った。それから、二人の関係は、同僚に戻った。戻ったが、高瀬は、たぶん、詩織の「たぶん」の中身を、今日、初めて、見た。見たが、何も言わない。何も言わないのが、高瀬の、二ヶ月前からの、継続した選択だった。


 詩織は、パソコンを開いた。


 開いてから、ふと思った。あの日、高瀬に「たぶん」と答えたのは、詩織の中で、一番、正直な言葉だった。「たぶん」と「確か」の間には、距離があった。その距離を、先日の由紀とのランチで、「はい」と声に出したときに、詩織は少しだけ、自分で埋めた。そして今日、遼が職場に来たことで、埋めた場所が、もう一度、確認された。二つの出来事が、重なって、詩織の「たぶん」は、もう「たぶん」ではなくなっていた。


 でも、その変化を、高瀬に、言う必要はなかった。


 言わなくても、高瀬は、気づいている。気づいているが、気づいたことを、言わない。言わないから、詩織は、続けて、仕事ができる。これが、高瀬という人間の、詩織に対する、静かな親切だった。


 詩織は、原稿を開いた。


 赤字を入れ始めた。


 仕事は、進む。進むしかない。進まないものは、置いていくしかない。でも今日は、何も、置いていかなかった。全部、持ったまま、進んだ。持ったまま進めるのは、詩織が、去年の自分より、少しだけ、強くなった、ということかもしれなかった。強くなった、というのは、たぶん、由紀のランチのおかげ、でもあった。


   


 遼は、市ヶ谷に、戻った。


 戻ってから、ロバートに連絡した。


 正確には、連絡しようとした。しようとした瞬間、ロバートから、社内のメッセージが来ていた。


《柊さん、報告書、拝読しました》


 遼は、先週、ロバートに、防衛省案件の概念図を、TechVisionの社内セキュアシステム経由で共有していた。共有してから、返信が遅いとは思っていなかった。ロバートが資料を読む時には、いつもそれなりに時間がかかる。三分から二週間の間で、分散している。今回は、一週間だった。


《お時間、取れますか》


 遼は「今から」と返した。


 即座に、ロバートから「どうぞ」と返ってきた。


 TechVision東京オフィスの、ロバートの部屋。


 遼はドアをノックして、入った。


 ロバートが、デスクで、紙の資料を、並べていた。A3の紙が、十枚。A4の紙が、三十枚。紙の上に、手書きのメモが、書き込まれていた。ロバートは、デジタルで資料をもらっても、最終的に紙に印刷して、紙に書き込む。これは、ロバートが、三十年前に、MITの博士課程で身につけた癖だった。三十年経っても、紙の上でしか考えられない部分があるらしい、と遼は、以前、聞いた。


*"Please, sit."*

(どうぞ、座って)


*"Thanks."*

(はい)


 遼は、椅子に座った。


*"The diagram you sent me."*

(あなたが送ってくれた図面のことですが)


*"Yes."*

(はい)


*"……I need three minutes. To understand it."*

(……三分、時間をください。理解するために)


*"Okay."*

(どうぞ)


 ロバートが、紙を、もう一度、見始めた。


 遼は、椅子で、三分、待った。


 三分、というのは、絶対的な時間としては、短い。でも、誰かの前で、何もせずに、三分、椅子に座っている時間は、長い。遼は、時計を見なかった。時計を見なくても、三分が、長いことは、分かった。


 三分後、ロバートが、顔を上げた。


*"……Hiiragi-san."*

(……柊さん)


*"Yes."*

(はい)


*"This is a genius design."*

(これは、天才の設計です)


*"I think it's normal."*

(普通だと思いますが)


*"……It is not normal."*

(……普通では、ありません)


*"I see."*

(そうですか)


 ロバートは、紙を、もう一度、見た。見てから、遼を見た。


*"I will send this to David."*

(これをデイビッドに送ります)


*"……Please do."*

(……どうぞ)


*"His reaction will be predictable."*

(彼の反応は、予測できます)


*"……What is it."*

(……どんな)


*"'Give him everything.'"*

(「全部、彼に渡せ」)


 ロバートが、小さく、笑った。遼は、笑わなかった。でも、笑うべきなのかもしれない、と一瞬、思った。一瞬思って、やめた。やめたのは、今のロバートの笑いが、喜びの笑いではなく、少し、諦めを含んだ笑いに見えたからだった。


 ロバートが、メールを打ち始めた。


 遼は、部屋を出た。


   


 夕方、遼は、電車に乗っていた。


 市ヶ谷から、品川まで。途中で、乗り換えが一回。窓の外の景色は、いつもの景色だった。夏の夕方の、東京の、普通の景色。オフィスビルの窓が、夕日を反射していた。反射している光が、電車の車内に、時々、流れ込んできた。


 遼は、窓の外を、見ていた。


 見ていたが、景色を、見ていたわけではなかった。


 頭の中で、今日の自分の動きを、順番に、再生していた。朝、端末の前で作業していた。詩織から電話が来た。コピー機が壊れている、と聞いた。「今から行く」と言った。市ヶ谷を出た。タクシーに乗った。三十分で着いた。コピー機を、四分で直した。


 なんで行ったんだ、俺。


 電車の窓に、自分の顔が、薄く、映っていた。自分の顔は、答えを、持っていなかった。答えを持っていない顔と、目が合った。目が合って、逸らせなかった。逸らせないまま、電車が、駅に、止まった。


 降りて、乗り換えた。


 乗り換えた電車でも、同じ問いが、残っていた。


 遼が今まで、人の機械を直したことは、何度もある。田中のおばちゃんの冷蔵庫。凛の現場の音響機材。華の撮影現場のカメラリグ。数え切れないほど、直してきた。直すこと自体に、理由は、要らなかった。壊れていた。だから直した。毎回、その順番だった。


 でも、今日は、違った。


 今日は、市ヶ谷にいた。市ヶ谷で、国家のインフラを、書いていた。国家のインフラを書いている最中に、詩織の職場のコピー機のために、抜けた。田所三佐に「三時間で戻ります」と言って、タクシーで、出版社に行った。


 普通、しない。


 普通、しないことを、した。


 遼は、電車の窓の、自分の顔を、もう一度、見た。


 答えは、出なかった。


 でも、問いが、残っていた。問いが残っているのは、いつもと、違うことだった。いつもの遼なら、問いが残る前に、次の作業に、頭が切り替わっている。切り替わっていないのは、今日の自分の動きが、遼の中の、どこかの、整合性を、崩していたからだった。


 崩れた整合性は、自分で、修復する。修復するまでに、時間がかかる。かかる時間を、遼は、まだ、測れていなかった。


 電車が、品川に、着いた。


 遼は、降りた。


   


 柊家に、帰った。


「ただいま」


「おかえり」


 由紀(ゆき)が、リビングで、コーヒーを飲んでいた。


 (りん)は、現場で泊まり。(はな)は、撮影で、まだ帰っていない。柊家のリビングは、静かだった。夏の夕方の、静かな柊家。エアコンの音が、かすかに、聞こえていた。


 遼は、冷蔵庫から、麦茶を出した。コップに注いだ。飲んだ。


「遼」


「なに」


「なんか、顔してる」


「……してない」


「してる」


 由紀は、ソファから、遼を、見ていた。母親の視線は、今日、遼の中で、二番目に、答えにくい視線だった。一番目は、電車の窓の、自分の視線だった。


「疲れてるだけ」


「うん」


「仕事が、少し、多かった」


「うん」


「……」


「遼」


「なに」


「詩織ちゃん、元気?」


 遼の、コップを持つ手が、一瞬、止まった。


 止まったことを、由紀は、見ていた。見ていたが、追及しなかった。追及しないのは、母親の、今日の選択だった。選択の理由を、由紀は、説明しなかった。


「元気」


「そう」


「……なんで今、詩織の話?」


「なんとなく」


「なんとなく、じゃないでしょ」


「なんとなく、でいい日もある」


 由紀は、コーヒーを、もう一口、飲んだ。


 遼は、自分の部屋に、戻った。


 部屋のドアを閉めた。閉めてから、机の前に、座った。机の上に、作業中の基板が、ある。湿度センサのシステム。先週から、途中になっている。先週の遼は、この基板の、次の工程を、把握していた。今日の遼は、把握しているはずなのに、手が、動かなかった。


 ハンダごての電源を入れた。


 温まるまで、三十秒。


 三十秒、遼は、基板を見ていた。


 温まった。


 手を、伸ばした。


 伸ばして——一瞬、止まった。


 ほんの、一瞬だった。〇・五秒くらい。自分でも、気づくか気づかないか、ぎりぎりの、止まり方だった。


 止まってから、手が、動いた。作業が、始まった。ハンダが溶けた。コンデンサの足が、基板に、固定された。テスターを当てた。導通を、確認した。問題なかった。


 問題なかったのに、遼の手は、さっきの〇・五秒を、覚えていた。覚えているのは、手なのか、頭なのか、別の何かなのか、遼には、分からなかった。分からないまま、次のコンデンサを、はめた。


 窓の外で、夏の夜が、始まっていた。


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