第50.5話「アイドル宣言(罰ゲームで)」
罰ゲームというのは、日本のテレビ業界が四十年かけて磨き上げた、合意形成の失敗を笑いに変える装置である。
柊凛は、スタジオの照明の下で、その装置に捕まっていた。
番組の名前は『芸能界仲良しチーム対抗 真夏のテレビゲーム大会』だった。夕方六時台の、家族向け生放送。七月半ばの平日。凛は朝から事務所入りして、通しリハーサルを二回こなして、本番に臨んでいた。生放送は、カットできない。撮り直しもできない。失言の保存期限は永遠である。これはキャリア六年目の凛にとって、当たり前の前提だった。前提だと分かっているから、普段の凛は、生放送では失言をしない。しないはずだった。
番組の構成はシンプルだった。「日頃から仲良くしている四人組」という条件で、四つの友達チームを集める。チーム名はリーダー格の苗字で呼ばれる。「室田組」「瀬田組」「木崎組」「大山組」の四チーム。レースゲーム、格闘ゲーム、音楽ゲーム、協力型アクションゲームの四種目で総合順位を競い、総合最下位には罰ゲームが待っている。罰ゲームの中身は、スタッフだけが知っている。知っているから、本番前からスタッフの表情が微妙に浮ついていた。浮ついたスタッフを見て、凛は、イヤな予感がした。予感は、的中しやすい性質を持っている。
凛のチームは「室田組」だった。室田沙衣を筆頭に、凛、鷹野千夏、春日芽衣の四人。組長格が沙衣なのは、単に年齢順である。沙衣は本人に組長の自覚はまったくなく、「なんで私」と収録一週間前のグループLINEで言っていた。千夏が「年齢です」と返した。芽衣が「年功序列です」と返した。凛が「おめでとうございます」と返した。沙衣は「……ありがとう」と返した。組長の就任挨拶は、LINEで完結した。
四人の共通点は、所属事務所がバラバラであること、それでもプライベートで飲みに行く程度には仲が良いこと、そして四人とも、ゲームが壊滅的に下手であること。下手であることは、本番が始まってから、スタジオで順次、証明されていった。
画面映えは残っていた。そしてゲームの腕前は、残っていなかった。
一種目目、レースゲーム。凛はカーブの曲がり方が分からず、毎周コースアウトした。千夏は運転が丁寧すぎて、丁寧すぎるまま、最下位でゴールした。沙衣は「自分のマシンがどれか分からない」と冷静に言った。芽衣だけが三位に入ったが、芽衣のチーム貢献度では、総合順位は変わらなかった。
二種目目、格闘ゲーム。凛は一回もコンボを繋げられなかった。繋げられないまま、時間切れで負けた。千夏は「必殺技はどう出すんですか」とスタッフに質問して、質問している間に体力ゲージが削り切られた。沙衣は「これ、格闘しているように見えて、実は相手の反応を測定するだけのゲームではありませんか」と本番中に哲学的な問いを投げた。芽衣は格闘ゲームだけ妙に強く、連勝した。でも四人中一人が強くても、チーム平均は、底上げされない。
三種目目、音楽ゲーム。凛と千夏は運動神経の不足で、沙衣はタイミング感覚の独特さで、芽衣は興奮しすぎて画面を見ていなかった。四人全員が「FAIL」と画面に表示された。FAILが四つ並ぶ画面は、スタジオで妙に笑いを取った。笑いは取ったが、スコアには、何も加算されなかった。
四種目目、協力型アクションゲーム。凛のチームは協力するはずが、全員が別の方向に走った。「協力型」という単語の意味を、四人全員、ゲームの途中で再確認する羽目になった。確認しても、遅かった。
総合結果。四位。
つまり、最下位。
司会のお笑いコンビ『ほんだかんだ』がフリップを広げた。本田がツッコミ担当、神田がボケ担当。中堅の司会業、キャリア十五年目の二人組である。生放送のMCとしては信頼が厚く、スタッフが安心して進行を任せられる——安心して、というのは、業界用語で「予定外のことが起きても拾える」という意味である。予定外のこと。今日の罰ゲームのフリップ発表は、業界的に、予定外ではない。でも凛にとっては、予定外だった。
「それでは、今日の罰ゲームは——」
本田が言った。
ここで、たっぷり三秒、本田は間を取った。この三秒のための生放送である、と凛は思った。間を取っている間、隣で神田が小さく「早く言え」と呟いた。マイクに乗った。スタジオが笑った。これが『ほんだかんだ』の十五年のキャリアだった。
「——アイドルグループ、結成!」
スタジオが沸いた。
スタッフが沸いた。
千夏が「え」と言った。沙衣が無言で凛を見た。芽衣が「わっ」と手を叩いた。
凛は、罰ゲーム、という日本語の意味を、〇・三秒、検証した。検証して、合っている方の意味で使われている、と結論した。結論してから、顔を作った。
「……あの、本田さん」
「はい」
「これは、本気の話ですか」
「本気ですよ」
「本気ではないですよね」
「本気です」
「本気ではない部分を含む本気ですよね」
「いや、本気です」
本気、という単語を四回交互に重ねた人間は、おそらくこの国でもそう多くない。凛は四十五秒の間に四回、本気を重ねた。重ねるたびに、顔の筋肉が少しずつ疲れた。疲れても、顔は崩さなかった。顔を崩さない技術は、女優のキャリア六年で獲得した最大の技術だった。
「凛さん、本気の意味、辞書で調べてみました?」と神田が横から言った。
「調べてないです」
「調べなくても本気です」
「調べる前から本気です」
「調べた後も本気です」
神田のボケは、本田のツッコミを待たずに自己完結する。これが『ほんだかんだ』の芸風の一つで、ツッコミが追いつかないまま話が進んでいく構造だった。凛は、このコンビの漫才を、以前劇場で見たことがあった。その時と、同じ構造だった。生放送のスタジオで、十五年前と同じ芸を、プロとして、もう一度、やっている。
「ちょっと検討してみてくださいよ」と本田が続けた。
「検討——」
凛の脳内で、女優としての自分と、女の子としての自分と、長女としての自分が、同時に会議をしていた。三人の会議の議長は、女優としての自分だった。議長は、スタジオの空気を読み、瞬時に決めた。
議長の脳の片隅で、弟の顔が、〇・二秒、よぎった。
弟。柊遼。家で、機械をいじっている、無口な、二十二歳。弟は、たぶん、レースゲームなら初見で一位を取り、格闘ゲームならコンボの理論値を二分で計算し、音楽ゲームなら譜面の構造を解析して完璧にFULL COMBOを決める。協力型ゲームだけは、協力者がいないので、一人でプレイできない。できないが、協力者として凛が参加すれば、たぶん凛の分も遼が走ってくれる。
だから、本来、この番組は、遼が一人で出ていれば、総合一位を取っていた可能性が高い。
本来、という仮定の話を、凛は、〇・二秒の間に、頭の中で完成させた。完成させてから、すぐに捨てた。捨てたのは、今この瞬間、その仮定は、何の役にも立たないからだった。役に立たない仮定を抱えていると、顔に出る。顔に出ると、罰ゲームがさらに重くなる。
「……検討します」
スタジオが、また沸いた。
凛の内心は、検討もなにもしない、だった。しないのだが、内心を口に出すと、罰ゲームが罰ゲームとして成立しなくなる。成立しないと、スタジオの空気が重くなる。空気を重くしないために、凛は検討する、と言った。言ったことと、するかどうかは、テレビ業界では別の話である。これは業界に入ってからずっと、凛が信じてきた教義だった。
信じてきた教義が、今日、〇・五秒で、崩れる予感がした。
予感、というのは、大抵、当たる。凛はキャリア六年で、予感の的中率も、同時に学んでいた。
本番後の楽屋。
四人で座った。
ドアが閉まった瞬間に、千夏が「あれ、検討しちゃったよ」と言った。
「検討しちゃった」
「本当に検討するんですか」
「しない」
「でも言ったよ」
「言った」
「記録残ってるよ」
「残ってる」
凛はソファにもたれた。
疲れ、というものは、体力の疲れと、気力の疲れと、顔の筋肉の疲れの三種類に分かれる。凛は今、三種類全部を同時に経験していた。女優のキャリアで、一番疲れるのは、三種類の疲れが同時に来る時である。
「……私たち、ゲーム、弱すぎたね」
「弱かった」と千夏。
「四人で一人分のスコアも出せなかった」
「芽衣が一人で頑張ったけど」
「格闘ゲームだけ」
「格闘だけは、なぜか強かった」
「芽衣、格闘系だけ上手いのはなんで?」
「舞台で殺陣やりました」
「……殺陣と格闘ゲーム、繋がる?」
「間合いの感覚が同じです」
「具体的!」
芽衣の具体性は、こういう場面でも、発揮される。
「うちの弟、全部一位取ってたと思うよ」と凛が言った。
三人が、凛を見た。
「遼くん、ゲームするの?」と千夏。
「しない」
「しない人が、全部一位取るの?」
「初見で、ゲームシステムを解析するから」
「解析」
「解析」
「……解析で一位取れるの?」
「取れる。遼、画面のピクセル単位で、当たり判定を推定してる」
「推定って、ゲーム中に?」
「ゲーム中に」
「……凛さん、それ、普通じゃないです」
「だから、言ったでしょ。普通じゃない」
三人が、黙った。
黙ってから、沙衣が言った。
「凛、弟くんを代打ちで呼べばよかったね」
「一般人だよ、遼は」
「あ、そっか」
「それに、仮に出演交渉しても、『興味ない』で終わる」
「興味ないで終わる弟、強すぎる」
「大学生なのに、街でスカウトされるレベルで、全部断ってる」
「……えっ」
「顔も、まあまあだから」
「まあまあ、って言い方」
「姉の客観評価」
「……凛、ほんとに弟、連れてこられなかったのか」
「連れてこられないし、連れてくる発想もなかった。遼は芸能界と関係ない」
「残念」
「残念じゃなくて、そもそも最初から戦力外通告」
「戦力外通告じゃなくて、戦力扱いされたことがない」
「そう」
「けど、仮定の話では、一位取れる」
「仮定では」
「仮定に救われるタイプの話だね」
「仮定に救われても、現実は、最下位」
千夏がため息をついた。
「まあ、仮定の話は、しても仕方ない」と凛が言った。
「仕方ないね」
「現実に戻ろう」
「戻ろう」
「現実は、アイドルグループ結成の、検討中」
「……重い現実」
「事務所判断に丸投げしましょう」と沙衣が言った。
沙衣は冷静だった。沙衣はいつも冷静だった。沙衣の冷静さは、沙衣が生まれた時から持っていた特性ではなく、モデルとして十年近く、ハイブランドの撮影現場で鍛えた後天的な技能だった。後天的な冷静は、先天的な冷静より、信頼できる、と凛は思っていた。
「丸投げ」
「事務所が『やりません』と言えば終わり」
「事務所が『やりましょう』と言ったら」
「その時は、考える」
「沙衣さん、『考える』の具体的中身は」
「考えるの中身は、考える時に考える」
沙衣の思考には、時々、タブレットのフォルダみたいな構造がある。開くまで中身が分からない。開いても空だったりする。でも開かないわけにはいかない。
「やってみたいかもです」と芽衣が言った。
「芽衣、やめて」
「いえ、本気じゃないですよ、本気じゃないですけど、でも、なんか、ちょっとだけ、興味はあります」
「興味の粒度、今の発言に含まれる『ちょっと』の解像度は」
「七パーセントくらいです」
「具体的!」
芽衣の「ちょっと」はいつも具体的だった。芽衣は演技派女優として舞台に立つ人間で、抽象的な感情を具体的な数値に落とし込む訓練を、日常的にしている。その訓練が、楽屋でも発動してしまう。本人の意志ではなく、筋肉のように。
「芽衣、七パーセントって、冷蔵庫のビールが一本残ってる時と同じくらいの興味だよ」
「……」
「……」
全員が凛を見た。
「凛ちゃん、そのたとえ、何」と千夏。
「ビール一本が七パーセントの根拠、どこから出てきたの」と沙衣。
「え、芽衣分かった?」と千夏。
「……確かに、それくらいです」
「芽衣は分かったんだ」
「舞台で鍛えた感覚で分かります」
「舞台関係ないと思う」
「関係あります」
「芽衣、凛の変なたとえに、全部対応しないで」
「対応するのが、後輩の仕事です」
「……職業意識が高い」
「芽衣、そういうとこだよ」
「……はい」
「それでやるの、アイドル」
「そう言われると、やらないです」
「じゃあやらない」
「やらないです」
「決まりね」
決まった、と思った瞬間、楽屋のドアがノックされた。
ノックの音は、凛のキャリア六年の経験で言うと、二段階の不吉度がある。ノーマルノックと、キャリア破壊ノック。今日のノックは、後者の方に、一ミリ近かった。
入ってきたのは、事務所の担当マネージャーだった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「凛さん」
「はい」
「ちょうど、今の時期に、新番組の企画がありまして」
凛は、顔の筋肉を、もう一度作った。
マネージャーが持ってきた企画書は、A4で十八ページあった。タイトルは『SAKURA CREST ——四人の女優が一つのステージに立つまで』。
SAKURA CRESTというグループ名が、すでに企画書の一ページ目に、印字されていた。
印字されている、ということは、すでに、誰かが、決めた、ということだった。
凛はマネージャーを見た。マネージャーは笑っていた。マネージャーの笑顔は、凛のキャリア六年の中で、最も警戒すべき笑顔の一つだった。
「……マネージャー」
「はい」
「この企画、いつ、誰が決めたんですか」
「先週の企画会議で」
「先週」
「はい」
「沙衣さんと芽衣さんの事務所は」
「調整済みです」
「三事務所共同で?」
「三事務所共同で」
「……分かってる人たちが、水面下で、動いていた」
「水面下は、業界の基本姿勢です」
「今日の生放送、最下位」
「偶然ですね」
「偶然、とは」
「偶然、と書かれた書類がありまして」
「書類があるんですか」
「偶然を、担保する書類が」
「ある方が怖い」
「凛さんは頭が回るので、そこを突かれると、弱いんです」
「弱いんじゃなくて、矛盾してるんです」
「矛盾ではありません」
「じゃあ何ですか」
「業界では、これを、シナジーと呼びます」
凛はソファに、深く、深く、沈み込んだ。
業界のシナジーという単語は、凛が入った時から、凛の知らないところで、凛の運命を勝手に決めている。シナジーの語源はギリシャ語のsynergosで、「共に働く」という意味らしい、と凛はいつだったか、深夜のラジオで聞いた。共に働く。誰と誰が。凛は今日、それに、少し、納得したくなかった。
家に帰ると、母がリビングにいた。
由紀は、ソファに座って、テレビを見ていた。テレビの画面には、凛の出た生放送の再放送——ではなく、ニュースが流れていた。でも、テレビの横に、録画リモコンが置いてあった。録画リモコンは、凛の中で、最大級の警戒対象だった。
「ただいま」
「おかえり」
「母さん」
「なに」
「テレビ、見てた?」
「見てた」
「いつから?」
「夕方の六時から」
「……六時」
「あんたが生放送に出る日は、必ず見るのを、日課にしてる」
「……日課」
「日課」
「なんで教えてくれなかったの」
「教えると、娘が構える」
「それはそう」
凛はリビングに入って、ソファの、母の隣に座った。座ってから、すぐに、立ち上がろうとした。由紀の目が、凛を、静かに、逃がさなかった。
目で人を止める、という技術を、由紀はミラノで誰かから学んだのだろうか、と凛は思った。学んでいない、としたら、もっと怖かった。誰にも教わっていない技術を持っている人間は、その技術を、完璧にコントロールできる。コントロールされる側の凛は、逃げ場がなかった。
「あんた」
「はい」
「さっきテレビで、アイドルグループ結成って、言った?」
「言ってない」
「言ってた」
「言ってない」
「録画してある」
「……」
「再生する?」
「……しないで」
「じゃあ自分で言う?」
「……言った」
由紀は、微笑んだ。
微笑みに含まれる温度の幅は、人によって違う。由紀の微笑みは、摂氏マイナス二度から、プラス三十二度まで、幅広い温度で切り替わる。今の微笑みは、プラス五度くらいだった。冷たくはないが、温かくもない。観察、という温度だった。
華がリビングに入ってきた。
「お姉ちゃん、アイドルなるの?」
「ならない」
「テレビで言ってた」
「テレビと現実は違う」
「でも言葉にしたよ、お姉ちゃん」
「言葉と行動は違う」
「言葉と行動が違うのは、政治家だよ」
「政治家じゃないから違う」
「違わない」
「違う!」
華は笑いながら、ソファに倒れ込んだ。凛の太腿に頭を乗せた。二十歳の妹は、まだ、姉の太腿を、枕として使う。これは凛が諦めている現象の一つである。諦めているのは凛であって、華ではない。だから華は、永遠に、凛の太腿を枕にする。
「遼は?」と凛。
「部屋」
「見てた?」
「見てないと思う」
「確認して」
「めんどくさい」
「華!」
華はスマホを出して、遼にLINEを送った。三秒で返信が来た。華が画面を見せた。
《見てない》
凛は、深く、息を吐いた。遼がテレビで凛の失言を見ていないことが、今日、凛にとって最大の救いだった。遼は、見ていないことを、恥ずかしいとも、悪いとも思わない。遼の中で、凛の出演するテレビ番組は、録画するほどのものではなく、見逃しても別に困らないものだった。これは凛の、女優としての自尊心には、時々、ダメージを与えた。でも今日は、助かった。自尊心と、助かる、は、両立する。
「お母さん」
凛が、母を見た。
「なに」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「呆れてる?」
「呆れてない」
「じゃあ、何」
由紀は、もう一口、コーヒーを飲んだ。飲んでから、カップを置いた。置く音が、少し、慎重だった。
「……まあ、やればいいじゃない」
凛の、口が、開いた。開いたまま、何秒か、止まった。
「……母さん」
「なに」
「冷静すぎる」
「母は母なので」
「普通の母は、娘が罰ゲームでアイドルグループを結成する、って言ったら、止める」
「止めても、止まらないでしょ」
「止めようと、はする」
「止めようとする母の演技は、この家には存在しない」
「演技として、あってもいい」
「ない演技は、ない」
「まあ、やればいいじゃない」と由紀は、もう一度、言った。
「母さん、二回目」
「大事なことだから」
「大事って何が」
「あんたが、やったことのない仕事を、することに」
「意義を見出しちゃった?」
「見出した」
「なんで」
「母は、娘の挑戦を、応援する」
「罰ゲームでも?」
「罰ゲームでも」
「アイドルなのに?」
「アイドルでも」
「六年女優やってきた私に、アイドルを、二十四歳で?」
「時間は、誰にも止められない。二十四歳のアイドルが、いても、いい」
「そんな先進的なこと、母さんが言うの?」
「母は、常に、先進的である」
凛は、ソファに、もう一度、沈んだ。
華が笑った。華の笑いは、今日、三回目だった。三回目の笑いが、一番大きかった。凛は太腿から、華の頭を、押しのけた。押しのけられても、華は、笑っていた。笑いは、物理的な圧力には、屈しない。
その夜、凛は千夏に電話した。
十時半。千夏は、たぶん、家にいる。家にいるはず、と思って、かけた。千夏は、二コールで、出た。
「おつかれ」
「おつかれ」
「どう、家」
「母さんが、『まあ、やればいいじゃない』って、言った」
千夏が、三秒、黙った。
「……千夏?」
「……由紀さん、なんて言ったの。もう一度」
「『まあ、やればいいじゃない』」
「一字一句」
「一字一句」
千夏が、また、黙った。黙ってから、息を吸った。吸ってから、吐いた。吐いてから、言った。
「……それ、むしろプレッシャーじゃない?」
「だよね?」
「由紀さんの『やればいいじゃない』は、『やりなさい』の上位互換だよ」
「上位互換?」
「『やりなさい』だと、反発できる。『やればいいじゃない』だと、反発する場所がない」
「……千夏、なんで分かるの」
「うちの母もそういうタイプだから」
「母親って、そういう品種なの?」
「一部は、そういう品種だと思う」
「品種って言葉、母に使いたくないな」
「分かる。でも、そういう品種としか、表現できない時もある」
凛は、ベッドに、仰向けになった。
天井を見た。いつもの天井。昨日と同じ天井。でも今日の天井は、昨日の天井より、少し、重かった。重い、という感覚は、物理的な変化ではなく、心理的な変化である。凛はそれを、キャリア六年で、学んでいた。
「千夏」
「なに」
「私、本当にアイドルやるのかな」
「たぶん、やる」
「即答」
「『やればいいじゃない』が出た時点で、もう決まってる」
「……千夏の分析、怖い」
「怖いのは、母親だよ」
「……だよね」
電話を切った。
凛は、起き上がった。
部屋の鏡の前に、立った。
鏡の中に、自分が映っていた。いつもの顔。キャリア六年の、国民的女優、柊凛の顔。見慣れた顔。でも今日は、この顔に、アイドル、という属性が、追加されるかもしれない。追加される可能性が、〇・五秒で、〇パーセントから、八十パーセントに、上がっていた。
凛は、鏡の中の自分に、小さく、声を出した。
「……アイドル?」
鏡の中の自分は、何も、答えなかった。
答えなかったが、鏡の中の自分の顔は、少しだけ、アイドル、という単語から、遠い顔をしていた。遠い顔でも、やる可能性がある、というのが、今日の結論だった。
凛は、窓を、閉めた。
閉めてから、思った。
母が帰ってきて、九日が経った。九日で、凛の人生は、少し、ずれた。ずれた方向は、悪い方向ではないのかもしれない。悪い方向ではないのかもしれないが、想定していた方向でも、なかった。想定外は、日常の中に、時々、挟まる。挟まるたびに、日常は、少しずつ、形を変える。
形を変えた日常は、次の日になれば、また、日常として機能する。機能するから、生きていける。生きていけるから、アイドルを、やるかもしれない。
凛は、ベッドに戻った。
布団をかぶった。
布団の中で、もう一度、小さく言ってみた。
「……アイドル?」
返事は、なかった。
返事がないまま、凛は、眠った。




