第50話「由紀さんと詩織」
日曜の朝、桜井詩織はベッドの上でスマホを見つめていた。
見つめているのは、柊由紀からのLINEである。
《詩織ちゃん、明日のお昼、いかがですか。場所は私の方で決めます》
文末に絵文字はない。改行もない。お辞儀の角度がきっちり決まっている文面だった。詩織はミラノ帰りの母親からのLINEというものを今まで受け取ったことがなかったので、これがミラノ帰りの母親の標準なのか、それとも由紀の個人技なのか、判定がつかなかった。判定がつかないまま、詩織は二十分かけて返信を打った。
《はい。よろしくお願いします》
九文字。打つのに二十分。文字単価は一秒に〇・〇〇七五文字である。世界遺産級のスピードで詩織は文章を打った。世界遺産は、こういう速度の人間を保護するべきだ、と詩織は思った。
返信を送ってから、詩織はスマホを伏せた。伏せてから、また裏返した。裏返してから、もう一度伏せた。三回繰り返したところで、自分の心拍が速くなっていることに気づいた。気づいて、深呼吸した。深呼吸の効果は、おおむねゼロだった。深呼吸というのは、効くと言われている割に、本当に効いた経験のない呼吸法である。それでも詩織は深呼吸した。他に方法がなかった。
由紀から「遼には内緒で」とLINEが来たのは、四日前。ランチの場所と時間が決まったのは、今朝。間が四日空いている。この四日間、詩織は通常の生活を送っていたつもりだった。「つもり」というところが正直なところで、実際には、原稿を読んでも内容が頭に入らず、コーヒーを淹れても飲み忘れ、職場で一回、自分の名前を呼ばれて反応が遅れた。たぶん、通常の生活ではなかった。
詩織はベッドから起き上がった。
起き上がってクローゼットを開けた。何を着ていけばいいのか、本当に分からなかった。ランチで友人の母親と会う、というシチュエーションのドレスコードを、詩織は持っていなかった。
翌日、月曜。
詩織は午前中に職場の業務をひととおり片付けて、午後半休を申請して出てきた。半休の理由は「私用」と書いた。「友人の母親とのランチ」とは書かなかった。書いたら、たぶん、誰かに「友人の母親って、どういう関係?」と聞かれてしまう。聞かれた質問に答える準備が、詩織には今日、なかった。
高瀬には「すみません、午後抜けます」と一言だけ伝えた。高瀬は「了解です。お気をつけて」と言った。それ以上は何も聞かなかった。高瀬という人間は、聞かないところで、聞かない美徳を発揮するタイプの編集者である。詩織はその美徳に、今日、助けられた。
待ち合わせは銀座の小さなフレンチだった。由紀から指定された店は、詩織がGoogleマップで検索したら、口コミの星が四・七だった。星四・七のフレンチに昼間に来る人間と、自分との間にある社会的な距離を、詩織は店の前で改めて感じた。
でも、入った。入らないわけにはいかなかった。
由紀はすでに座っていた。窓際の二人席。白いブラウスに、紺のジャケット。ミラノ帰りという感じはなく、銀座にずっと住んでいる人のような佇まいだった。佇まい、というものは、人間の能力の中で最も後天的に獲得しにくい能力である、と詩織は思った。
「詩織ちゃん」
「お久しぶりです」
「久しぶりねえ」
由紀がメニューを差し出した。詩織はメニューを受け取って、目で文字を追ったけれど、意味は半分しか入ってこなかった。コース料理が三種類あって、価格帯がそれぞれ違う、ということだけは分かった。
「お任せでいい?」
「あ、はい」
由紀が店員に何かを注文した。詩織は注文の内容を覚えていない。覚えていないというより、聞いていなかった。聞いていない理由は、目の前の人が、遼の母親、という事実が頭の九割を占領していたからである。残り一割で、メニューの値段の桁を数えていた。
最初の料理が来た。
前菜の盛り合わせ、と説明された。皿の上に七つくらいの小さな何かが乗っていた。詩織は七つ全部の名前を覚えられなかった。でも、おいしそうだった。
「詩織ちゃん」
由紀が言った。
「はい」
「緊張してる?」
「……はい」
「正直ね」
「すみません」
「謝らないで。緊張する場面だと思う」
詩織はフォークを持った。持ってから、何を口に運べばいいのか分からなかった。七つあるうち、どれから食べるべきか、フランス料理の作法では決まっているのだろうか。決まっているなら、それを知らない自分が、今ここでフォークを動かすことの正しさが分からなかった。
「左から食べていけばいいと思う」と由紀が言った。
詩織は驚いた。
「分かりました? 考えてること」
「顔に書いてあった」
「……すみません」
「謝らないで」
詩織は左から食べた。最初の一口は、何の味かよく分からなかった。二口目で、ようやく「あ、おいしい」と思った。三口目で、自分の心拍が、わずかに落ち着いたことに気づいた。料理というのは、こういう時にも仕事をしてくれるのだ、と詩織は思った。
「詩織ちゃん」
「はい」
「遼のこと、好きでしょ」
詩織のフォークが、止まった。
止まったまま、しばらく、動かなかった。
由紀は責めているわけではなかった。確認しているわけでもなかった。ただ、「今日は雨ね」と言うのと同じ温度で、その質問を投げてきた。だからこそ、詩織は逃げ場がなかった。
窓の外を、銀座の昼の人通りが、ゆっくりと流れていた。サラリーマンが歩いている。OLが歩いている。観光客らしい人がカメラを首にかけて歩いている。詩織は、自分以外の全員が、自分のことを見ていないことに、感謝した。今、自分の顔を見られたら、たぶん、終わりだった。
「……はい」
詩織は答えた。
答えてから、自分が答えたことに、自分で驚いた。
由紀は微笑んだ。微笑んだだけで、何も言わなかった。それが詩織には少し怖かった。怖い、というか、由紀の沈黙は、詩織が今まで経験してきた沈黙の中で、一番、密度が高かった。沈黙にも密度があることを、詩織は今日初めて知った。
「いつから?」
「……たぶん、小学生のころから」
「小学生」
「はい」
「早いね」
「……早いです」
「自分で気づいたのは、いつ?」
「……高校二年の夏」
「ずいぶん、後になってから気づいたんだ」
「……そうですね」
「ずっとあったけど、名前がなかった、みたいな?」
「……そんな感じです」
「分かる」
「分かります?」
「私も、そうだったから」
詩織は少し驚いた。由紀も、と思った。でもそれ以上は聞けなかった。聞いたら、由紀の話になってしまう。今日は、詩織の話だった。
「あの子のどこが好きなの?」
詩織は少し考えた。
考えて、自分でも意外な答えが出た。
「……機械を直すときの顔、とか」
由紀が、わずかに目を見開いた。
「機械を直すときの顔」
「はい」
「具体的には」
「……何も考えていないように見えて、たぶん、世界で一番考えてる顔です」
由紀は、一秒、止まった。
止まってから、笑った。
声を出して笑ったわけではない。口元が、ほんの少し動いただけ。でも詩織には、笑ったことが分かった。
「詩織ちゃん、よく見てるね」
「……すみません」
「謝るところじゃないでしょう」
「はい」
「謝り癖、あるね」
「……謝り癖です」
詩織はうつむいた。うつむいた拍子に、フォークの先で前菜の何かを刺した。何を刺したかは分からないけれど、口に入れた。トマトとモッツァレラ、たぶん。詩織はその味を、たぶん、一生覚えていると思った。
メインの料理が運ばれてきた。
白身魚のソテー、と由紀が言った。お皿の上に、白い魚と、緑のソースと、何かの花がのっていた。詩織は花を食べていいのか分からなかった。分からないので、花を避けて魚を食べた。
「詩織ちゃん、花は食べていいのよ」
「あ」
「飾りじゃなくて」
「……知りませんでした」
「私も知らなかった、最初は」
「……そうなんですか」
「ミラノで一年目、ずっと避けてた」
由紀がそう言って、自分の皿の花を、フォークで刺して、食べた。詩織も、おそるおそる、自分の皿の花を、刺した。食べた。味は、よく分からなかった。よく分からないけれど、嫌な味ではなかった。
「あの子、鈍いから」
由紀が、ふと言った。
「はい」
「ちゃんと見てるかどうか、自分でも分かってない」
「……はい」
「でも、ちゃんと見てるよ」
詩織は、少し顔を上げた。
「……そうですか」
「うん。最近、少し変わってきてる」
「変わってる」
「うん。自分でも気づいてないと思うけど」
「……」
「詩織ちゃんが何かをした、ってことじゃない。あの子が、勝手に、変わってきてる」
「勝手に」
「うん。誰のせいでもなく」
誰のせいでもなく、と詩織は心の中で繰り返した。
誰のせいでもなく、人が変わることがある。あの遼が、自分に気づかないままで、変わることがある。それは詩織にとっては、希望でもあり、不安でもあった。希望と不安は、同じ場所から生まれる。詩織はそのことを、今までの人生で何度も確かめてきた。
「由紀さん」
「はい」
「私、何かしないといけないですか」
「何かって?」
「告白とか、行動とか」
「したい?」
「……分からないです」
「分からないなら、しなくていい」
「……いいですか」
「いい」
「でも、待ってると、誰かが先に……」
「先に?」
詩織は黙った。
アメリカの子の話を、由紀が知っているかどうか、分からなかった。たぶん、知っている。由紀は、たぶん、全部知っている。全部知った上で、詩織に「したくないなら、しなくていい」と言っている。
「詩織ちゃん」
由紀が、ゆっくり言った。
「あの子は、勝手に動かない子」
「はい」
「自分から、誰かのところに行く子じゃない」
「はい」
「だから、誰かが先に来ても、あの子はそっちには行かない」
詩織は、フォークを置いた。
置いてから、もう一度、由紀の顔を見た。
由紀は、笑っていた。微笑、ではなく、もう少し、温度のある笑いだった。
「……由紀さん」
「なに」
「それは、慰めですか」
「事実」
「……」
「母親は、息子のことについて、推測ではなく、事実だけを言う」
「……」
「推測を言うと、後で恥をかくから」
詩織は、笑いそうになった。
笑いそうになって、目の奥が少し熱くなった。熱くなったのを、由紀に見られないように、ナプキンで口を拭くふりをした。ふりはたぶん、由紀にバレていたけれど、由紀は何も言わなかった。
同じ日、午後一時。
柊遼は防衛省市ヶ谷地区の会議室にいた。
月曜の昼休みは、防衛省にも一応ある。一応あるが、遼にとっての昼休みは、要件定義書を読む時間に転用されていた。机の上に、三百ページの要件定義書がある。冊子になっている。冊子の重さで机が少し沈んでいる。沈んでいるように見えるのは気のせいかもしれないが、気のせいでも沈んでいる気がするくらいの厚さだった。
遼は二十二分でその冊子を読み終わった。
読み終わってから、田所三佐に向かって言った。
「これ、全部作り直した方が早くないですか」
田所三佐がコーヒーを噴くところだった。噴かなかったのは、コーヒーがまだ口の中に入っていなかったからである。入っていたら噴いていた。
「……全部」
「根本的な設計が古いので」
「……作り直すというのは」
「最初から書き直すという意味です」
「……どのくらいの規模で」
「二ヶ月もあれば」
田所が椅子に深く座り直した。今日の一回目である。
黒木統括官が机の端で書類を整理していた。書類の整理は、黒木の精神安定行為である。手を動かしていないと、市ヶ谷二十七年の経験が黒木を内側から落ち着かなくさせる。
「……前例がありません」と黒木が言った。
「前例がないと、作れないんですか」
「手順があります」
「手順が終わる前に、また攻撃が来たら、どうしますか」
黒木が、止まった。
手の動きが止まった。書類の整理が止まった。書類の整理が止まると、黒木の内側の不安定が、表面に出てくる。出てきた不安定は、沈黙の形で会議室に広がった。
宮脇係長のペンも、止まった。宮脇のペンが止まることは珍しい。記録対象が出てこない時間というのは、宮脇にとって不快ではないが、暇である。暇な宮脇は、ペンを構えたまま、黒木の沈黙を計測していた。
十五秒、沈黙した。
「……進めてください」
黒木が、言った。
宮脇のペンが動いた。
「ただいまをもって、前例が生成されました」と宮脇は書いた。書いてから、念のため、もう一度書いた。「前例の生成、午後一時十五分十二秒」。秒単位の正確さは、宮脇の自我を支える数値である。秒があれば、宮脇は安心して生きていける。
田所が二度目の座り直しをした。
「……柊さん」
「はい」
「本当に、二ヶ月で」
「二ヶ月で」
「短いです」
「短い分には」
「リスクが」
「リスクは増やしません」
「……そんなに簡単に」
「簡単に言っていません」
遼は要件定義書をめくり直して、メモを取り始めた。メモの内容は、田所には判別不能だった。判別不能なメモを取る人間が、国家のインフラを二ヶ月で書き直す。これが田所の現状認識である。現状認識を更新するのは、田所にとって、最近の主要業務になっていた。
午後二時。
詩織はランチを終えて、店を出た。
由紀は「私はもう少しお茶していくから」と言って、席に残った。詩織は一人で銀座の通りに出た。出てから、自分が今、お腹が空いているのか、いっぱいなのか、分からなかった。たぶん、いっぱいだった。気持ちが満杯すぎて、お腹のことを判定する余力がなかった。
地下鉄の駅まで歩きながら、詩織はスマホを取り出した。
遼のトーク画面を開いた。昨日の「おやすみ」「おう」で終わっている。
しばらく、スマホを見ていた。
それから、打った。
《今日、由紀さんと会った》
送信した。送信してから、しまった、と思った。「遼には内緒で」と由紀に言われていた。言われていたのに、開口一番、それを破ってしまった。詩織は地下鉄の入り口の前で、固まった。
返信は、三十秒で来た。
《そうか》
《なんか言ってたか》
詩織は、笑ってしまった。
笑ってしまってから、慌てて、口元を手で隠した。隠すまでもなく、銀座の地下鉄入り口で、誰も詩織のことを見ていなかった。詩織は、隠す必要のない口元を、しばらく、隠したまま、立っていた。
なんか言ってたか、と聞く遼の感覚が、詩織にはおかしかった。「言ってたか」じゃなくて「言われたか」だろう。母親がランチに呼んだということは、何かを言うために呼んだに決まっている。それを「言ってたか」と聞く。受動と能動の区別が、遼の中ではときどき曖昧になる。
詩織は、打った。
《……なんでもない》
返信は、また三十秒で来た。
《そうか》
詩織は、もう一度、笑ってしまった。
遼の「そうか」は、世界で一番、情報量の少ない返事である。情報量が少ないのに、なぜか詩織はその「そうか」が、一番、安心する。安心する理由を、詩織は説明できない。説明できないから、詩織は今、銀座の地下鉄入り口で、スマホを持ったまま、笑っている。
詩織はスマホをしまった。
地下鉄の階段を下りた。
ホームに立ったとき、詩織は気づいた。今日、由紀に「好き」と、声に出して言った。小学生の頃から、ずっと、誰にも言えなかった言葉を、今日、銀座のフレンチで、遼の母親に向かって、言った。
「はい」と一言、言っただけだったけれど、それは「好き」と言ったのと同じことだった。
誰にも、言えると思っていなかった。
言ってみたら、世界はあまり変わらなかった。
でも、自分の中で、何かが、ほんの少し、軽くなっていた。軽くなった、というより、置く場所ができた、という感じだった。胸の奥にずっとあったものに、今日、置く場所ができた。置いただけで、消えたわけではない。でも、置く場所ができたのは、初めてだった。
地下鉄が来た。
詩織は乗った。
窓に映る自分の顔を、ちらりと見た。
いつもの顔だった。
いつもの顔だけれど、ほんの少しだけ、違って見えた。違いは、たぶん、自分にしか分からない違いだった。それでよかった。詩織にとっては、自分にだけ分かる違いが、一番、大事だった。
夜、十時半。
遼は自分の部屋でモニターの前に座っていた。
要件定義書の書き直し、二ヶ月分の作業計画を組んでいた。スプレッドシートに、タスクと所要時間と依存関係を書き出していた。書き出していると、頭の中で全体図が組み上がっていく。組み上がっていくと、二ヶ月という期間が、長すぎるようにも、短いようにも見えた。たぶん、ちょうどいいのだろう、と遼は思った。「ちょうどいい」を二ヶ月の単位で言える人間は、世の中に少ないかもしれないが、遼は気にしなかった。
ふと、手を止めた。
午後の詩織からのLINE。「今日、由紀さんと会った」。
由紀が詩織に何か言ったんだろうな、と遼は思った。何を言ったかは考えなかった。考える材料がなかったし、考えても無駄だった。母親というものは、家族が知らないところで、家族に関係のあることを、勝手に動かしている存在である。これは遼が中学生の頃から経験的に知っている事実だった。
でも、少し、気になった。
気になったのは、気になった事実だけだった。何が気になっているかは、遼にもよく分からなかった。よく分からないことを、よく分からないまま、二秒くらい、考えた。
二秒考えてから、遼はモニターに戻った。
タスクの依存関係に、戻った。
頭の中で、二ヶ月分の作業計画が、また組み上がり始めた。
組み上がりながら、遼の頭のどこか、本当にどこかの隅で、「何か少し変わった気がする」という感覚が、ほんの一瞬、よぎった。
よぎったが、それを言語化しなかった。
言語化しないまま、遼はキーボードを叩き続けた。
窓の外で、東京の夜の灯りが、いくつか、消えたり、ついたりしていた。




