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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

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第49話「田所三佐が柊家に来る」

 土曜の朝、(ひいらぎ)(りん)は寝ていた。


 正確には、寝ていたというか、寝ているつもりだった。前の日の深夜まで台本を読んでいて、気づいたら三時過ぎで、気づいたら五時過ぎで、気づいたら外が明るかった。寝る時間というのは一日の終わりに来るはずなのに、どうして朝がここまで近いところまで来てしまうのだろうと思いながら、凛は目を閉じた。


 どのくらい眠れたのかは分からない。


 ドアの向こうで、遼の声がした。


「凛、起きろ」


「なにー」


「防衛省の人が来る」


 ——え?


 凛の脳は、その時点では「防衛省」という単語を処理する機能を持っていなかった。単語として認識できないと、意味も立ち上がらない。立ち上がらないまま、凛は「うん」と答えた。


 五秒、沈黙。


 五秒後、凛の脳が、やっと、単語の処理を始めた。


「ちょっと待って」


「待つけど、早く」


「うちに?」


「うち」


「なんで?」


「先週の案件のフォローで」


「先週」


「先週」


 凛は布団を跳ね上げた。起きるのに普段は三十秒かかるけれど、今日は七秒で起きた。人間の脳というのは、非常事態には、きちんと機能するらしい、と凛は思った。ただし、この非常事態、というのが、どの程度の非常事態なのかは、まだ、測定中だった。


 パジャマの上にカーディガンを羽織った。羽織りながら、この格好で防衛省の人に会うのはどうなのか、と考えた。考えたが、着替える時間はなかった。凛の女優キャリア六年で、国民的女優として何度も雑誌の表紙を飾ってきたはずだが、「防衛省の人が土曜の朝に自宅に来た時の服装」について、マニュアルは存在しない。存在しないなら、今ある格好で出るしかない。これが現場対応というものだ、と凛は自分を納得させた。


 ドアを開けた。


 廊下の向こうから、由紀(ゆき)のコーヒーの匂いがした。母が帰国九日目の土曜の朝にのんきにコーヒーを淹れているというだけで、今日は普通の日のはずだった。それが、普通の日ではなくなっている。普通の日に、防衛省の人は来ない。来る家は、普通の家ではない。でも凛にとってはここが普通の家なので、普通の家に防衛省の人が来たことになる。この整合性を取るのに、凛は五秒を要した。


 廊下を歩きながら、凛は昨夜の家族LINEを思い出した。日付をまたいで、深夜に、由紀から入っていた。《ミラノのアパートが急に工事になって、三週間入れない。仕事は先方と調整してリモートにできたから、あと二週間、東京にいる。ごめんね》。華が《やったー延長!》と返し、遼が《了解》と返し、凛は《気をつけて》とだけ返して寝た。返してから、「気をつけて」の意味が自分でもよく分からなかった、と思った。帰国延長のLINEに対して「気をつけて」は、たぶん、少し、ズレていた。でも送信は、もう終わっていた。送信の後に気づく違和感を、凛はキャリア六年で、何度も経験している。何度経験しても、慣れないものは、慣れない。


 結果として、由紀の滞在は二週間から四週間に変わった。四週間の母の滞在というのは、柊家の平穏にとって、重大な要素変更だった。要素変更は、凛の台本の中でも、重要な伏線の一つになる。台本の中では、それがドラマを動かす。現実でも、たぶん、何かを動かす。動かす方向は、現時点では、未知数だった。


 玄関の方から声がした。


「お休みのところ失礼します」


 低くて、落ち着いた声だった。


 もう一人の声もする。


「持参しました」「七箇所、ご署名を頂戴したく」「八箇所でした。一箇所増えました」


 凛は廊下で固まった。


 一箇所増えました、の理由をこの場で聞きたくはなかったが、たぶん、この家では今日一日、そういう話をずっと聞くことになる。そういう予感があった。予感というより、ほぼ確信だった。


 玄関で遼が、二人を中に通していた。凛は、遼が知らない人を家に通すのを久しぶりに見た。遼は基本的に、人を家に通すのを面倒がる。面倒がる性格なのに、仕事上、面倒がれない相手が来た時は、普通に通す。その切り替えは、凛には、いつも不思議だった。


 リビングに足を踏み入れたら、スーツの男が二人、ソファに並んで座っていた。二人とも背筋が同じ角度だった。こういう角度を、凛は今までの仕事でも見たことがなかった。ドラマの刑事役の俳優でも、ここまでは揃わない。揃う必要がないからだ。でも、この二人は、揃う必要があるらしかった。それがどういう職業なのか、凛にはうまく想像できなかった。


 由紀が立ち上がった。


「どうも、母の由紀です」


 うわあ、と凛は心の中で言った。母は普通にしている。ミラノで二十二年、演出家と揉めてきた人間にとって、スーツの男二人くらいは脅威ではないらしい。


 スーツの片方が立ち上がった。


「田所三佐です」


 もう一人はまだ座っていて、ノートに何かを書いていた。それから、立ち上がった。


「宮脇係長です」


「記録に入ります」


「何の記録ですか」と由紀。


「家族構成の確認です」


「確認の相手は」


「記録そのものです」


 由紀が笑った。凛は笑えなかった。というか、母が何で笑ったのかが、よく分からなかった。宮脇という人は、記録が記録に宛てた記録であると言っている。そのロジックが成立しているのか、していないのか、凛の眠たい脳では判定できなかった。


「凛です」と凛は言った。


「柊凛氏」


「女優の方の」と宮脇が続けた。


 凛は頷いた。頷きたかったわけではない。ただ、宮脇が勝手に補足を始めたので、反射的に身体が同意してしまっただけだった。


「柊凛氏、現役女優。主な出演作は」


「記録しなくていいです!!」


「記録します」


「なんで私に戸籍みたいな扱い」


「戸籍ではございません。訪問先の同席者の確認です」


「同じじゃないですか!」


「似ておりますが、非なるものです」


 凛は力が抜けた。


 田所三佐という人が、咳払いをした。宮脇のノートに「田所三佐、咳払い」と書かれた音が、凛にはなぜか聞こえた気がした。聞こえたと思ったら、宮脇が本当にそう書いていた。田所はそれを見て、見なかったふりをした。そのふりが上手で、凛はひそかに感心した。きっとこの人は、市ヶ谷で日々、こういうふりを練習させられてきたのだ。そうに違いなかった。


   


 インターフォンがまた鳴った。


 今度は、一段階目。下のエントランスである。


 凛がモニターに行った。


 映っていたのは、田中(たなか)のおばちゃんだった。


「なんで」と凛は口に出した。


 誰も答えなかった。答えられる問いではなかった。田中のおばちゃんが来る理由というのは、柊家においては「田中のおばちゃんだから」という同語反復に行き着く。二十年かけて凛もそれを理解してきた。理解してもまだ、毎回「なんで」が出てしまう。これは凛の性格の問題ではなく、人間というものが同語反復に耐えられない生き物である、という普遍的な事実のせいだった。


 凛はロック解除ボタンを押した。


 数分後、玄関のチャイム。田中のおばちゃんが上がってきた。


「由紀ちゃーん! お客さん来てるって聞いたから」


「誰から聞いた」


「コンシェルジュ」


 情報源がコンシェルジュ、と凛は思った。マンションのセキュリティとは一体。


「コロッケ、いつもの」


「いつもの」


「七個ある」


「七個?」


「多めに」


 田中のおばちゃんは両手に紙袋を提げていた。コロッケの匂いが、リビングまで一気に届いた。田所三佐の鼻が、わずかに動いた。凛はその動きを見てしまった。見てしまうと、それを無かったことにはできない。自衛隊の三佐が他人の家のリビングでコロッケの匂いに反応している。凛にはこの情報をどう扱えばいいのか分からなかった。


「田中のおばちゃんです」と由紀が紹介した。


「田中幸江です」


「田所です」


「宮脇です」


「記録します」


「何を?」


「田中幸江氏、到着」


「記録すんだ」


「記録の対象は訪問先の全同席者です」


「あたし同席者になんの?」


「本日以降、関連同席者として登録」


「ほえー」


「ほえー、も」


「書くの?」


「書きます」


 田中のおばちゃんは、さほど驚いていないようだった。驚かないのが、田中のおばちゃんの凄いところだった。凛は昔から思っていた。この人は、何を言われても「ほえー」と言って、それで話が終わる。話が終わった後、何事もなかったように、コロッケを差し出してくる。コロッケは反論不可能だった。反論不可能なものを持っている人間が、最終的に世界を制する。これが田中のおばちゃんの処世術だった。


「コーヒー淹れるね、みなさん」


「あ、私が」と由紀が言った。


「いいの。こっちがやるから」


「でも」


「由紀ちゃんは座ってて。帰国九日目だから」


「関係あります?」


「ある」


 由紀が笑った。凛も笑いそうになった。帰国九日目と、コーヒーを淹れる権利との間に相関はないはずだったけれど、田中のおばちゃんの言い方だと、あるような気がしてきた。田中のおばちゃんに宣言されると、世界の因果律は少しずつ書き換わる。これは凛が中学生の頃から気づいていた現象だった。


 田中のおばちゃんはキッチンに立った。持参してきた豆でコーヒーを淹れ始めた。持参してきたというところが、すでに普通ではない。普通ではないのに、誰もそれを指摘しない。指摘すると話が進まないからだ。


   


 書類の確認が始まった。


「こちらの書類にサインを」と宮脇。


 遼がペンを受け取った。一枚目、二枚目、三枚目の途中で、宮脇が「こちらは訂正印が必要です」と言った。訂正印、と凛は思った。土曜の朝に他人の家に上がり込んで訂正印を要求する人を、凛は初めて見た。


「朱肉はありますか」


「持参してません」


「持参してないんですか」


「朱肉は訪問先のものを使う慣例で」


「慣例?」


 田所がため息をついた。ソファに深く座り直した。彼は今日、これが二回目の座り直しだった。凛はなぜか数えていた。数えなくてもよかったけれど、数えないと気が済まない空気があった。田所の座り直しは、何か意味のある動作に見えた。意味は不明だったが、意味がありそう、というのは大事なことだった。


「朱肉なら、うちのがあるよ」と田中のおばちゃんが言った。


「なんで田中さんが持ってるの」と凛は思わず言った。


「惣菜屋は朱肉の消費が早い」


「消費しないよ、普通」


「領収書に捺印」


「するの?」


「する」


「そんなに頻繁に?」


「毎日何枚か」


「捺印文化、強いね」


「あたしらの世代は」


 田中のおばちゃんが、エプロンのポケットから朱肉を取り出した。


 凛は無言で見つめた。


 エプロンのポケットに朱肉を入れて電車に乗って来る人間が、日本にはまだいる。しかもそれが、凛の知っている人だった。知っている人が、自衛隊の三佐と事務方の係長がいる自分の家のリビングで、エプロンのポケットから朱肉を取り出している。この事実は、ドラマの脚本には出てこない。出てきても演じる女優が困る。凛が今、演じる立場だったとしたら、どうすればいいのか分からなかった。演じる立場ではなく、現実の自分としてここにいるのだから、どうすればいいのかは、つまり、どうしようもなかった。


 宮脇が朱肉を確認した。


「市販品ですね」


「そうよ」


「本件で使用可能です」


「使えるの」


「規程上、朱色であれば問題ありません」


「じゃあ問題ない」


「田中幸江氏、朱肉提供」


「書くのね」


「書きます」


「なんで田中さんまで記録されてるの」と凛が言った。


「書類を触ったため」と宮脇。


「触っただけで記録されるの」


「触ることは作為に分類されます」


 家が法律になってきた、と凛は思った。思ったけれど、口に出さなかった。口に出したら、「柊凛氏、法律への言及」と書かれそうだった。書かれないにしても、書かれる空気があった。


   


 コーヒーが出た。


 五人分。田中、由紀、凛、田所、宮脇。遼だけがテーブルの端でハンダごての前に戻っていた。


「遼くんはコーヒー飲まないの?」と田中が聞いた。


「作業中」


「作業中に飲むんじゃないの?」


「作業中は飲まない」


「なんで」


「手が遅くなる」


「コーヒーで手が遅くなる人、初めて見た」


「利き手がマグを持つと、利き手が別の仕事をする時間が減る」


「合理的だけど、切ない」


「合理的」


 凛は遼を見た。弟は、基板の前に戻っていた。


 この弟は、自衛隊の三佐がリビングに来ていても、基本的には基板のことしか考えていない。基板の方が、自衛隊の三佐よりも気になる。凛には理解できない感覚だったが、遼がそうなのは仕方がなかった。遼は昔からそうだった。小学生の頃、風邪をひいたときも、布団の中で壊れた目覚まし時計を分解していた。熱があるのに、壊れた目覚まし時計を分解する小学生というのは、凛の知る限り、遼以外にはいなかった。


 田所が遼のテーブルを見ていた。


「柊さん、それは」


「趣味」


「……趣味?」


「自宅での個人活動です」


「機密に関わる内容では」


「関係ないものです」


「本当ですか」


「個人の趣味の基板です」


「……ちなみに何を」


「湿度センサを少し」


「湿度」


「部屋ごとの湿度差を記録して、エアコンの制御を最適化するシステム」


「……趣味の範囲を超えていませんか」


「超えてません」


「超えてる気がします」


「気のせいです」


 田所は諦めた顔をした。諦める、というのが、田所の今日の主要業務だった。たぶん、毎日の業務のうちの三割くらいを、諦めることに充てているのだろう、と凛は推測した。推測は当たっている気がした。田所の顔には「諦めることに慣れている人間」の独特の表情があった。


   


「柊さん」と田所が言った。


「はい」


「本題に入らせていただいて」


「どうぞ」


「先週の件、正式に発注する運びとなりました」


「はい」


「仕様書をお持ちしました」


 田所が紙袋から封筒を出した。封筒からファイルを出した。ファイルを遼の前に置いた。遼はハンダごてをスタンドに戻して、ファイルを開いた。


 三秒半、開いた。


 閉じた。


「作りますが」


「作って……くださるんですか」


「依頼なので」


「期間は」


「二ヶ月で」


「二ヶ月で」


「はい」


「……国家のインフラを」


「はい」


「二ヶ月」


「はい」


 田所が三回、同じ確認をした。三回目で、遼が少し顔を上げた。


「期間、長いですか」


「いえ」


「短いですか」


「……短いです」


「短い分には問題ないかと」


「一般に、期間が短いことは、リスクを増やします」


「増やしません」


「増えます」


「増やさない設計にします」


「……そんなに簡単に言わないでください」


「簡単に言っていません」


 凛は、その会話を聞きながら、コーヒーを飲んだ。苦かった。田中のおばちゃんが淹れたコーヒーは、いつもより苦かった。苦さのパラメータを、田中のおばちゃんは今朝の土曜日に合わせて調整したような気がする。なぜそうするのかは、田中のおばちゃんに聞いても答えてくれない。聞いても「そうなのよ」と言って終わる。田中のおばちゃんの「そうなのよ」は、全ての疑問を溶かす魔法の言葉だった。


 田所はまた椅子に深く座り直した。今日の三回目。


 宮脇のペンが、さらさらと紙の上を走った。


   


 由紀がコーヒーを飲みながら、田所の顔をじっと見ていた。


「田所さん」


「はい」


「息子のこと、どう思ってらっしゃいます?」


 田所がコーヒーを止めた。


「どう、というのは」


「仕事の評価として」


「……率直に申し上げてよろしいですか」


「どうぞ」


「……異常です」


「異常」


「良い意味で異常です」


「良い意味の異常、というのは」


「通常の想定を超えている、ということです」


「なるほど」


「……お母様」


「はい」


「息子さんを、もう少し、評価してあげてください」


「評価してます」


「具体的に」


「ご飯多めに出してます」


「……」


「寝不足にしません」


「……」


「困ったら相談してって言ってます」


「……それが評価ですか」


「母親としては、それで十分です」


「……そうですか」


 凛は母を見た。


 母は、たぶん、本気でそう思っている。ご飯を多めに出すことと、寝不足にしないこと。困ったら相談してと言うこと。この三つが、母の、母としての仕事だと思っている。それ以上のことはしない。しない方がいい、と思っているのかもしれない。国家のインフラを二ヶ月で作る息子に対して、「ご飯を多めに出す」と言い切れる母親を、凛は他に知らなかった。


 田所は、返事をしなかった。


 返事をしないのは、田所が納得したからか、納得していないからか、凛には判断がつかなかった。判断をつける必要もなかった。田所がコーヒーをもう一口飲んだ。田所さんにも家族がいるんだろうな、と凛は思った。子供がいて、奥さんがいて、ふつうの家庭があって、その家庭の中で、ご飯を多めに出されたり、出されなかったりしている。もし田所さんの子供が、将来、国家のインフラを二ヶ月で作ると言い出したら、田所さんはどう言うだろう。「ご飯を多めに出す」と言えるだろうか。たぶん、言えない気がする。言えないから、田所さんは今、母の答えに対して、返事ができないのだった。


   


 遼と田所が書斎に移って、技術的な確認を始めた。


 リビングに残った凛、由紀、田中、宮脇の四人は、コーヒーとコロッケを囲んでいた。


「宮脇さん、お仕事楽しいですか」と田中。


「仕事に楽しさを求めておりません」


「そう」


「記録の正確性を求めています」


「ふーん」


「田中様」


「はい」


「先ほどの朱肉、弊省の予算より規格外でした」


「規格外?」


「本来使用すべき朱肉は、別途指定されております」


「じゃあ使っちゃダメだった?」


「使用は可能です。ただし、事後報告書で『非規定朱肉使用』と記載が必要です」


「記載してよ」


「記載します」


「じゃあいいじゃん」


「手続きが発生します」


「発生させてよ」


「発生させます」


「じゃあいいじゃん」


 田中のおばちゃんは、宮脇の規則性を、いつもの呼吸で押し返していた。押し返された宮脇は、押し返された分だけ丁寧に記録していた。凛は、宮脇と田中のおばちゃんの相性が、意外に悪くないことに気づいた。二人とも、自分のやり方を絶対に変えない。変えないことで、逆に噛み合っている。そういう関係もあるのだな、と凛は思った。


「宮脇さん」と凛が言った。


「はい」


「あの、映画」


「何の映画でしょうか」


「うちの妹が出てる」


「『MINA』ですね」


「知ってるんだ」


「クランクインの記事を保管しております」


「……保管?」


「関連情報として蓄積」


「なんで防衛省の議事録に、妹の映画情報が」


「柊遼氏の関係者情報は、網羅的な記録の対象です」


「家族まで?」


「関係者の定義は広めに運用しております」


「広すぎない?」


「規程です」


 凛は、うわあ、と思った。母がさっきと同じ声の高さで「うわあ」と思っているかは分からなかったが、たぶん思っているだろう。妹の映画がクランクインしたことまで、防衛省が記録している。これはプライバシーの侵害か、それとも業務の徹底か、凛にはよく分からなかった。分からないので、もう一つ聞いてみることにした。


「映画、公開したら観るんですか」


「鑑賞予定です」


「業務として?」


「私用としてです」


「……ちょっと意外」


「意外と、柊華氏のファンでして」


「ファン?」


「前作を三回観ました」


「三回」


「映画館で」


「映画館で三回」


「記録しておりますので、正確です」


「ファンも記録するの!」


「自己の行動も一部は記録対象です」


「一部?」


「自我に関わる所作は除外」


「除外するんだ」


「記録されると、自我が薄れますので」


「なるほど! そうなるよね!」


 由紀が笑った。田中のおばちゃんも笑った。田中のおばちゃんの笑いは、いつ聞いても大きかった。大きくて、リビング全体が震えた気がするくらいだった。ミラノから帰ってきた母が、この笑い声を今日はじめて聞いた、ということに凛は気づいた。母は、この笑い声を、九日ぶりに聞いた。九日ぶりに聞いて、笑った。笑ったことで、母の顔が、少しだけ、いつもの母の顔になった。


   


 一時間後、遼と田所が書斎から戻ってきた。田所の顔が、少し疲れていた。


「田所三佐、これで大丈夫ですか」と遼。


「……ええ、帰って検討します」


「分からない部分があれば連絡してください」


「ありがたいです」


「ただ、二ヶ月の件は」


「はい」


「変更しません」


「……はい」


 田所がコーヒーを飲み干した。


「お暇します」


 宮脇がノートを閉じた。


「本日の訪問記録を読み上げます」


「読み上げるの」と凛。


「規程です」


「短くして」


「短くは」


「短くしてよ」


「できません」


「一言で」


「一言では」


「言って」


「——訪問先:柊遼氏宅。同席者:柊凛氏、柊由紀氏(母・偶然在宅)、田中幸江氏(隣人・関連同席者登録)。田中氏より珈琲提供あり。朱肉供出あり。コロッケ供出あり。所要時間、一時間七分。以上」


「……それ一言じゃないよ」


「短縮版です」


「短縮版がそれ?」


「通常版は七ページ」


 凛は黙った。黙るしかなかった。


 田所と宮脇が立ち上がった。田中のおばちゃんが「コロッケ、お土産にどうぞ」と紙袋を差し出した。


「業務中の飲食物受領は」と宮脇。


「コロッケは飲食物ではない」と田中。


「……どういう定義ですか」


「コロッケは文化」


「文化」


「文化の贈与は業務上の利害に当たらない」


「……」


「と、あたしの孫の大学生が言ってた」


「大学生が」


「法学部」


 宮脇が一秒考えた。一秒で決めた。


「コロッケ二個、頂戴します」


「食べな」


「ありがたく」


 田所が横で、頭を抱えた。


   


 田所と宮脇が出ていった。


 玄関が閉まった。


 リビングには、凛と由紀と田中のおばちゃんが残った。遼は、書斎でもう作業を始めていた。田所が帰った瞬間から、遼の頭は二ヶ月先の完成図に切り替わっていた。切り替えの速度が、家族以外には奇妙に映る。家族にはもう奇妙に映らない。凛は、そのことを、今日改めて確認した。田所の顔を見ていたら、それが分かった。


「自衛官が家に来る日が来るとは思わなかった」と凛は言った。


「来たね」と由紀。


「来たね」と田中。


「宮脇さん、華のファンだって」


「三回観たって言ってたね、前作」


「記録してあるから正確って」


「自分のファン活動も記録してるの、何」


「でも『自我に関わる所作は除外』って」


「ファン活動、自我じゃないんだ」


「自我の基準がよくわからない」


「それも柊家の標準」


「標準が歪んでるの」


「歪みを受け入れるのが長女の仕事」


「なんで私!!」


 由紀がコーヒーをもう一口飲んだ。


「この家、ミラノで聞いてた通りね」


「聞いてた通り?」


「聞いてた通り」


「母さん、ミラノで何聞いてたの」


「凛と華と遼の話」


「誰から」


「凛から、華から、遼から」


「三人から」


「三人から」


「情報、全部こっちで」


「全部こっちで」


「でもこっちで確認するまでは確信しなかった」


「なんで」


「LINEは嘘をつける。顔は嘘をつけない」


「母さん、怖い」


「怖くない」


「怖い」


 凛は笑った。母も笑った。田中のおばちゃんの笑いは、三人の中で一番大きかった。リビングのグラスが、少しだけ震えた。


「あたし、そろそろ帰るね」と田中。


「もう?」


「コロッケの仕込みが残ってる」


「また来て」


「来る」


「いつ?」


「コロッケができたら」


「毎週じゃん」


「毎週じゃない」


「毎週だよ」


「毎週かもしれない」


 田中のおばちゃんが玄関を出ていった。


 ドアが閉まった。


 凛は由紀を見た。由紀は凛を見た。


「母さん」


「なに」


「疲れた」


「でしょう」


「一日の情報量が多すぎる」


「柊家の標準」


「標準にしないでよ」


「するしかない」


 由紀が湯飲みを両手で包んだ。湯気は、もう立っていなかった。それでも母は両手で包んだ。凛は、母がそうするのを、久しぶりに見た気がした。母が湯気の立たない湯飲みを両手で包む姿を、凛は十歳の頃から見てきた。十四歳、十八歳、二十歳。何度か、忘れていた時期もあった。でも、母が帰ってくると、また見る。見るたびに、家が少し、静かになる。静かになった家の奥で、遼がハンダごてを握り直した音が、かすかに聞こえた。遼は遼のやり方で、二ヶ月を始めていた。


 二ヶ月、と凛は思った。


 遼にとっての二ヶ月であって、凛にとっての二ヶ月ではない。凛には凛の現場があり、神崎の脚本があり、来週の本読みがある。遼の二ヶ月と、凛の二ヶ月と、たぶん華の二ヶ月と、母のミラノに帰るまでの残り日数が、それぞれ別の速度で進む。それぞれが、それぞれの時間を生きている。同じ家にいて、同じ時計の下にいて、それでも違う時間を生きている。家族というのは、たぶん、そういうものなのだと、凛は思った。


 凛はコーヒーの残りを飲み干した。苦かった。田中のおばちゃんのコーヒーは、いつも少し苦い。苦いのは、田中のおばちゃんの流儀なのかもしれない。流儀だとしたら、それはそれでいい、と凛は思った。

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― 新着の感想 ―
あそこで柊さんというと全員反応するネタを思い出したという。
田中のおばちゃんスゲー! ホームドラマの主役で3本脚本が書けるwww
一般的には、「(肩書き・職位)の(氏・(名))です。」と名乗るものでは?自衛隊は独特なのか?
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