第48話「由紀が来る」
柊由紀から火曜の夜十時に「明後日、午後の便で帰ります」とLINEが来た。五十二歳の女の文面は潔い。五文字に帰国と滞在と予定を全部畳み込んでいる。
「二週間」
由紀の続報だった。
華が「長い!」と返した。遼が「了解」と返した。二文字である。これで由紀は子供三人の状態をおおむね把握した。母親というのは恐ろしい生き物である。
凛がソファの上で笑った。
「遼、了解って何」
「ちゃんと読んだ、という意味だ」
「温度ゼロ」
「読んだ温度に温度はない」
「禅問答やめて」
華がキッチンから顔を出した。
「お姉ちゃん、母さん帰ってきたら何作ってもらおっか」
「まだ明後日だよ」
「今から考えとかないと」
「あんた、リクエスト多すぎるって毎回怒られる」
「それでも作ってくれる」
「母の愛を利用してる」
「母の愛は利用するためにある」
華の断言は時々、哲学的にすら聞こえる。内容は哲学ではないが、文体が哲学である。これが末っ子の仕様だった。
凛は吹き出した。
「遼は何がいい?」
ダイニングで遼が顔を上げた。
「なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るんだって」
「じゃあ、母さんが作りたいやつ」
「それは母さんが決めること」
「母さんは何作りたいと思う?」
「知るか」
「母さんに聞けば?」
「明後日聞く」
「今聞けば?」
「今聞いても明後日までに気が変わる」
「遼、母親の行動予測がうまいね」
「統計的推論」
統計的推論、と遼は言った。遼は時々、家族のことを統計的に処理する。その結果、柊家に対する予測精度は異常に高い。高いが、誰にも褒められない。褒められないことに遼は気づいていない。気づいていないことにも気づいていない。これが長男の仕様だった。
木曜の午後三時。
由紀がマンションのエントランスに立っていた。紺のブラウスに黒のワイドパンツ。ミラノ帰りの装備は、七月の東京に対して完璧に間違っていた。日本は湿度で敵を殺す国である。
インターフォンを押した。
華が出た。
「ただいま」
「おかえりーー!!」
華の「ー」が二つ伸びた。凛の出迎えはもう少し短かった。遼は会社である。
玄関を上がった由紀が荷物を置き、靴下を脱ぎ、足の裏を畳に向ける。これがミラノ帰りの由紀の第一儀式である。第二儀式は麦茶を飲むこと。第三儀式は「痩せた?」と誰かに言われることである。
「母さん、顔焼けた?」
華が来た。
「一週間だけ南の方行ってた」
「ずるい」
「ずるくない」
インターフォンが鳴った。二段階式の、一段階目である。柊家のマンションは国民的女優が二人住んでいる関係上、セキュリティがそれなりに重い。アポなしの来客を下のコンシェルジュが通すことは、基本的にない。
基本的にない。例外が一つある。
「田中のおばちゃん」
華がモニターを見て言った。
凛の肩が落ちた。
「通ったの」
「通った」
「コンシェルジュは」
「コロッケあげたとか前に言ってた」
「コロッケで通るの、このマンション」
「田中さんだけ通る」
「仕組みが破綻してる」
「破綻してても通ったら通る」
華がロック解除のボタンを押した。数分後、玄関のチャイムが鳴った。二段階目である。
「由紀ちゃん!」
田中のおばちゃんが、エプロン姿のまま立っていた。両手に煮物のタッパー二つ。惣菜屋は臨時休業にしてきたらしい。惣菜屋を臨時休業にしてコロッケでマンションを突破してくる女を、世の中では「田中のおばちゃん」と呼ぶのである。
「帰ってきたんでしょ!」
「さっき」
「華ちゃんが三日前に言ってたから」
「華、全部喋ったね」
「喋った」
「誇らしげ」
「当たり前」
田中が由紀の向かいに座った。旧居時代から二十年以上の付き合い。惣菜屋は今も旧居の隣で営業中。三兄妹が柊家マンションに移ってからは、田中が柊家に来るのは特別な日に限られる。本日はその特別な日である。本人は電車に乗ってきた。
「今夜、こっちでみんなで食べよう。あたし作るから」
「助かります」
「華ちゃん、買い物手伝って」
「はい!」
「凛ちゃんは台本」
「なんで私だけ」
「あんたは女優」
「華も女優だよ」
「華ちゃんはまだ若いから動く」
「偏った差別!」
田中が立ち上がった。動きが速い。四十年惣菜屋をやってきた人間の動作に無駄はない。華を連れて出ていった。
凛と由紀が残った。
由紀はシャワーを浴びて、十分で戻ってきた。部屋着はTシャツと綿のパンツ。ミラノの残香はもう消えている。髪をタオルで拭きながら、ソファの端に座った。
凛がテレビをつけていた。昼のワイドショーである。
画面にテロップが流れた。
《政府系インフラへのサイバー攻撃、未遂。対応した民間の技術専門家について新情報》
音声が続いた。
《——当該人物の氏名および所属について、防衛省は機密事項として一切の公表を見送っています——》
凛が台本を閉じた。由紀はソファの端に座ったまま、画面を見た。画面はすでにパンケーキの新商品に切り替わっていた。話題の転換速度でワイドショーの情報は死ぬ。死なないのはネットのスクショだけである。
パンケーキに生クリームが盛られた。司会者が「美味しそう」と言った。誰も異議を唱えなかった。ワイドショーには異議を唱える機構が実装されていないのである。
「母さん」
「なに」
「見てた? ミラノで」
「見てた」
「どう思った?」
由紀は答えなかった。
答えないというのは、答えではないという意味ではない。答えの内容を口に出さないと決めた、という意味である。母親という職業は、答えを口に出すか出さないかを、本人の技量で選ぶ。由紀の選択は出さない方だった。
「凛」
「なに」
「ニュースは、ニュース以上のことを言わないから」
「……」
「それ以上のことを言えるのは、当事者だけ」
凛はコーヒーカップを置いた。由紀の淹れ方は凛より濃い。濃さの差が母娘の差である。
「母さん、強いね」
「母親だから」
「母親って強いんだ」
「必要な時には」
「必要じゃない時は」
「普通のおばさん」
「切り替え早い」
「切り替えが早くないと、母親はやってられない」
テレビが天気予報に変わった。明日は晴れるらしい。晴れるのは天気であって家族ではない。家族は曇ったり晴れたりしながら、概ね曇っているのが普通である。
午後六時、遼が帰宅した。
「ただいま」
「おかえり」
由紀が言った。遼が玄関で一秒止まった。その一秒の停止を、母親は読み取る。再起動した遼がリビングに入ってきた。
「お帰り」
「ただいま」
再会の挨拶、終了。
「遼、挨拶短すぎない?」と凛。
「何を付け加える」
「もう少し何か」
「元気だったか、とか?」
「それでいい」
「元気だったか」
「元気だった」
「そうか」
遼は冷蔵庫からポテトサラダを出して電子レンジに入れた。五時間前に会社で食べたばかりだが、消化の速度は本人の都合である。
「それ、田中さんの料理が来るまでの繋ぎ?」
「腹が減ってる」
「消化が早い」
「早い」
「華は?」
遼がふいに聞いた。
「田中さんと買い物」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない可能性が常にあるけど、田中さんがついてるから、なんとかなる確率が八十パーセントくらい」
「残り二十は」
「コロッケで解決する」
「……コロッケ」
七時。
田中のおばちゃんが戻ってきた。華を連れて。田中の両手の袋が四つ、華の両手の袋が二つ、予想通りである。
「ただいま」
「おかえり」
華がキッチンに袋を置いた。置きながら、ソファの凛に言った。
「バレた」
「……やっぱり」
「魚売り場で」
「魚売り場」
「小学生に『柊華だ』って」
「で」
「田中さんが間に入って、『あんた、目がいいね』って」
「褒めるんだ」
「褒める。それから『おばちゃんのコロッケ食べるかい』って」
「コロッケ」
「袋に二つ持ってた。差し入れ用の」
凛が由紀を見た。由紀も凛を見た。
「田中さん」
「なに」
「スーパーに、コロッケ持って入ったんですか」
「入った」
「他の店の惣菜を、よそのスーパーに」
「持って入った」
「それ、普通は」
「普通しないから、誰も警戒しない」
「そこ?」
「コロッケ持って歩いてる女、スーパーの防犯カメラは無視する。警戒対象外」
「それは確かに」と由紀。
「母さん、納得するの?」
「理屈は通ってる」
通っていない。通っていないのに通ってしまうのが田中のおばちゃんの言語構造である。
「で、小学生はコロッケで静かになったの」
「なった」
「その子のお母さんは」
「あたしがコロッケもう一個渡した」
「二個持ってたの、そのため」
「そのため」
「備えすぎ」
「四十年惣菜屋やってると、備えるしかなくなる」
「四十年とコロッケ二個、どう関係してるの」
「関係してなくても用意する」
「関係してなくても」
「備えに理由はいらない」
華がソファに倒れ込んだ。
「帰り道、田中のおばちゃんが『顔バレしたら笑って通り過ぎる』って言ってた」
「基本だよ」
「芸能界の?」
「昭和の町内会の」
「同じなの?」
「同じ」
違う。違うのに同じと言い切るのが田中のおばちゃんの論法である。
「母さん、田中さん、うちの事務所に雇いたい」
「時給は」
「コロッケ付きで」
「あたしは店があるから転職しないよ」
「呼べば来てくれる?」
「コロッケ持って」
頼もしい。頼もしすぎて逆に怖い。柊家の人間は、だいたい田中のおばちゃんを前にすると、同じ感情のグラデーションを通る。
夕食。五人で囲んだ。
田中の煮物は、由紀の好物をほぼ網羅していた。魚の煮付け、大根、きんぴら、味噌汁、白米。二十年以上の観察データがそのまま食卓に並んでいる。記憶力ではない。生活への食い込み方である。
「田中さん、全部覚えてくれてるんですね」
「三十年近い」
「正確には二十数年ですけど」
「五年以内の誤差は全部三十年」
「そういうもの?」
「町内会では」
町内会では。町内会では時間の単位が違うらしい。由紀は聞き返さなかった。聞き返しても答えは「町内会では」で同じである。
「あんたたち、ニュース見た?」
田中が聞いた。
「何のニュース」と凛。
「サイバー攻撃の」
「見ました」
「あれさ」
「はい」
「遼くんだよね?」
ダイニングの空気が、〇・五秒、止まった。
遼が箸を置いた。
「田中さん」
「うん」
「その話は、うちではしません」
「……」
「ニュースで流れてる以上のことは、誰も知らないことになってます」
田中が遼を見た。それから凛を見た。由紀を見た。由紀は湯飲みを両手で包んだまま、何も言わなかった。
「……そっか」
田中はそれ以上踏み込まなかった。
「ごめんね、変なこと聞いて」
「いえ」
「あたしの甥、自衛隊のサイバーのとこにいるから、ついニュースを気にしてさ」
「勘で、他では言わないでください」
「言わない」
「どこでも」
「絶対」
田中は味噌汁を啜った。一口啜ってから、もう一度、遼を見た。
「あんた、偉いよ」
遼は返事をしなかった。
「——って、普通の勤め人にも、毎日言ってるセリフだけどね」
それきり田中は大根を食べ始めた。話題は終わった。由紀が煮卵を褒めた。田中のおばちゃんも煮卵で話題を拾い直した。長年の付き合いで分かる、場面の捌き方である。
「煮卵、半熟のまま固めるの難しいよね」
「火加減とタイミング」
「何分ですか、お湯」
「六分半」
「それで半熟になります?」
「なる。冷水に取る時間が勝負」
「冷水」
「十秒以上は冷やす」
「十秒」
「でも二十秒はやりすぎ」
「十秒と二十秒の差」
「十秒」
母親と田中のおばちゃんの間で、煮卵の話が延々続いた。遼と凛と華はそれぞれ皿を見ていた。話題が完全に煮卵に固定された。機密保持のためには煮卵が有効である、ということが今夜の学びになった。
夕食後、田中が帰った後で、プリン問題が発生した。
冷蔵庫にプリンが三個ある。家族は四人いる。差分は一。これだけの情報で、柊家では戦争が始まる。
「プリン、三個しかない」と凛。
「四人いる」と華。
「不足」と遼。
「不足は戦争」と由紀。
「お母さん、それ歴史用語じゃないの?」
「家庭にも適用される」
「なんで足りないの」
「昨日、誰かが一個食べた」
「誰」
全員が遼を見た。
「俺じゃない」
「その顔は食べた顔」
「俺じゃない」
「じゃあ誰」
「華」
「私じゃないよ! お姉ちゃんでしょ」
「私は一昨日食べた」
「一昨日?」
「一昨日のは別カウント」
「カウントの仕様、なんで凛が決めるの」
「長女の権限」
「権限の濫用」
由紀が湯飲みを置いた。
「犯人が分からない場合、母が一個出す」
「母が?」
「私は数に入らない」
「ずるい」
「ずるくない。母は争いの外にいる」
「神様みたいに言うね」
「母親は家庭内の上位概念」
由紀がエプロンのポケットからプリンを一個出した。空港から持ち帰った機内サービスの予備である。なぜ持ち帰ったのか。母親には、こういう備蓄能力がある。母親二十四年が、こういう局面のために存在している。
「四個」
「均衡」
「均衡は一番危ない」と由紀。
「なんで」
「均衡だと、誰かが他人のを欲しくなる」
「不足だと戦争。均衡でも戦争」
「どっちでも戦争じゃん」
「そう」
「逃げ場がない」
「家族には逃げ場がない」
全員が自分のプリンを取った。スプーンが同時に入った。食卓に静寂が戻る——はずだった。
由紀が一番ゆっくり食べ始めた。遼が一番早く食べ終わった。凛は途中で止まった。華はすでに母のプリンを狙う目をしていた。
「華、見てる」
「見てない」
「見てた」
「見てない」
「母の母親レーダーに映ってる」
「母親レーダー?」
「二十四年稼働中の監視装置」
「国防レベル」
「国防よりは下」
華が後ずさった。国防より下の監視装置でも、二十歳の妹には効果的である。
「この家ではプリンは人数の二倍が適正」と由紀が言った。
「八個」
「八個」
「誰か買ってきて」
「田中さんに言えば八個持ってくる」
「……明日、八個持ってくるよ、たぶん」
「持ってくる」
持ってくる。田中のおばちゃんの予知可能性は柊家でほぼ百パーセントである。百パーセントであることを柊家は既に諦めて受け入れている。諦めた瞬間、田中のおばちゃんは柊家のインフラの一部になった。
夜。
由紀と遼が二人になった。他の二人は部屋に引き上げている。柊家の長女は、母子の二人時間を必ず確保する。母子面談のプロデューサーである。
リビングの照明は落としてある。間接照明だけが点いていた。遼は机で基板をいじっていた。由紀は湯飲みを両手で包んでいた。湯気はもう立っていなかった。
「遼」
「なに」
「詩織ちゃん、元気?」
「元気」
「最近会った?」
「先週」
「何しに」
「詩織の職場、機材壊れてた」
「直したの」
「直した」
「何分で」
「三十分」
「……さすが」
「普通」
由紀は麦茶を飲んだ。「普通」は遼の防御呪文である。母親は呪文を解く資格を持っている。
「遼」
「なに」
「詩織ちゃんのこと、どう思ってる?」
「幼なじみ」
「属性」
「……」
「聞いてるのは、どう思ってるか」
「普通に、大事に思ってる」
ダイニングで遼の手が、一瞬、止まった。止まったことを、由紀は見逃さなかった。母親の視覚情報処理能力は、家庭内において常人の三倍である。
「あの子、ちゃんと見てるよ」
「……」
「あんたは見てる?」
遼は、しばらく答えなかった。
「見てる」
「ちゃんと?」
「ちゃんとは、分からない」
由紀が笑った。
「それで十分」
「分からない」
「分からないって言えるなら、十分」
「アメリカの子は」
由紀が続けて聞いた。遼の手がもう一度止まった。今度は完全に。
「……仕事関係」
「凛から聞いてる」
「……」
「華からも」
「……」
「母は全部知ってる」
「凛と華、何言ったんだ」
「秘密」
「秘密」
「母と娘の」
遼はため息をついた。由紀は笑った。母と娘の秘密というのは、この家庭の場合、実体としては存在しない可能性が高い。存在しないのに遼が信じている時点で、由紀の勝ちである。
由紀が一人になって、スマホを開いた。桜井詩織の連絡先を表示する。凛が昔勝手に交換していた。それがここで使える。
《詩織ちゃん、由紀です。日本に帰ってきました。近いうちに、一度お茶でもしませんか。遼には内緒で》
送信した。既読は二分後についた。
《はい。ご都合のよい時に、お知らせください》
敬語だが、冷たくない。冷たくないが、構えている。満点の文面である。二十二歳の女の子が、友人の母親からの「遼には内緒で」のLINEに返す文章として、これ以上の構造は存在しない。
由紀は微笑んで、スマホを伏せた。
翌朝六時、凛がキッチンに立っていた。由紀が起きてきた。
「お早う」
「お早う、母さん」
「早いね」
「台本の追い込み」
「凛」
「なに」
「昨日、遼に言ったの、効いてた」
「どれ」
「大事にしてあげて、ってやつ」
「効いた」
「母さん」
「なに」
「昨日遼に『凛と華から聞いてる』って言ってたじゃん。アメリカの子の話」
「言った」
「あれ、私何も話してないけど」
「華も話してない」
「じゃあなんで」
「勘」
「勘?」
「母親の」
「母さん、怖い」
「怖くない」
「怖い」
「職業病」
「汎用性高すぎる」
「アメリカの子のこと、本当に何も知らないの?」
「何も知らない。でも、遼の声のトーンで分かる」
「声のトーンで」
「『仕事関係』って言った時の遼の声、〇・五度低かった」
「〇・五度」
「母親レーダー」
「さっきの監視装置」
「同じ装置」
凛は卵を皿に移した。母親レーダーは家族の声のトーン〇・五度の差を検出する。これはもう特殊技能の領域である。遼が二十二年気づかなかった理由は、本人が観測対象だからである。観測者は観測装置の存在を知らされない。これが家庭内の仕様である。
六時四十分、遼が廊下に出てきた。身支度は済んでいる。
「お早う」
「お早う」
「朝食、食べる?」
「ジュースだけ」
遼は冷蔵庫からオレンジジュースを出し、コップに注ぎ、飲んだ。
「遼」
「なに」
「詩織ちゃんに会ったら、よろしく伝えて」
「分かった」
即答だった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関が閉まった。
由紀がコーヒーを注ぎ足した。
「凛」
「なに」
「今の『分かった』、速かった」
「速かった」
「昨日の夜から今朝までの間に、整理が進んだ」
「見える? それ」
「見える」
「なんで」
「二十二年観察してる」
凛は母を見て、小さく笑った。
「母さん、やっぱり怖い」
「怖くない」
「怖い」
「そう何回も言うもんじゃない」
「怖い」
華の部屋のドアが開いた。パジャマのまま出てきた。
「なんで二人とも起きてるの」
「時差ボケと台本」
「違う二人の理由じゃん」
「違う」
「私も起きる」
「どうぞ」
三人でテーブルを囲んだ。
母が帰ってきた家の朝は、母がいなかった家の朝と、表面上は何も変わらない。表面下のことは、家族にしか分からない。家族にしか分からないことを、家族は時々、わざわざ口に出さない。
卵と味噌汁とコーヒーの匂いが、リビングまで届いていた。
由紀がカップに口をつけた。
二週間が始まった。




