第13.5話 柊家アーカイブ04「泣いてもいい」
その日、華は一言も喋らなかった。
帰りの電車の中も、家までの道も、玄関を開けてからも。
由紀はそれを黙って見ていた。
華が受けたのは、子供向けの舞台のオーディション。地元の小さな劇団が年に一度開く公演で、子役を募集していた。華が「やってみたい」と言い出したのは自分からだった。台本を読んで、台詞を覚えて、一週間練習した。
結果は、不合格であった。
審査員の講評は「表現力はある。ただ、まだ自分の感情を出し切れていない」
由紀はその言葉を聞きながら、少し目を細めた。
華はその場では泣かなかった。
帰りの電車でも泣かなかった。
家に帰って、リビングのソファに座って、それでも泣かなかった。
ただ、膝の上で手を握っている。
凛が学校から帰ってきた。
玄関で華の靴を見て、リビングを覗く。
華の顔を見て、何かを察した様子だったが、何も言わなかった。そのまま自分の部屋に向かいかけて、一度だけ振り返った。
「……大丈夫?」
華は小さく頷いた。
凛は何か言おうとして、やめた。そのまま部屋に入った。
由紀はキッチンで夕食の準備をしながら、リビングの華を見ていた。
しばらくして、由紀は手を止めた。
エプロンを外して、リビングに入った。
華の隣に座る。
何も言わない。
華も何も言わない。
しばらく、二人でそのまま座っていた。
夕方の光が、リビングの窓から斜めに差し込んでいる。
華が、小さな声で言った。
「……自分の感情を出し切れていないって、言われた」
「うん」
「私、ちゃんとやったのに」
「うん」
「頑張ったのに」
「うん」
由紀は返事だけした。
華の声が少し震える。
「なんで……」
そこで声が途切れる。
由紀は何も言わずに、華を抱きしめた。
ただそれだけだった。
励ましの言葉も、次があるという話も、何もしなかった。
華が泣き始めた。
声を上げて泣いた。
帰りの電車でずっと堪えていたものが、全部出てきていた。
由紀は黙って抱きしめる。
「泣いていいよ」
一言だけ。
それだけだった。
華はしばらく泣いていた。
由紀の肩に顔を埋めて、子供らしく、全部出し切るまで泣いていた。
凛は自分の部屋のドアを少し開けて、リビングの方を見ていた。
華が泣いているのが聞こえてくる。
由紀が何も言わずに抱きしめているのが、ドアの隙間から見えた。
凛は少しだけそれを見て、静かにドアを閉めた。
自分の机に戻る。
教科書を開いたが、しばらく読めなかった。
母が「泣いていいよ」と言う声が、壁越しにかすかに聞こえてきた。
凛は一度だけ、自分の手を見る。
何かを考えるような顔をして、それから教科書に目を落とした。
夕食の時間、華は目が少し赤かったが、普通に食べた。
「おかわり」
「はいはい」
由紀がよそってやる。
遼が宿題をしながらご飯を食べようとして凛に怒られた。
いつも通りの夕食だった。
ただ、食事が終わって皿を片付けるとき、華が小さく言う。
「ママ」
「うん」
「また受けていい?」
由紀は華を見た。
目がまだ少し赤い。でも、さっきとは違う顔をしていた。
「いいよ」
「次は受かる」
「そうだね」
由紀は笑った。
華も笑った。
凛はそれを横目で見ながら、黙って皿を洗っていた。
それから五年後、華は芸能事務所のオーディションを受けた。
合格の電話が来たのは、平日の午後だった。
華は電話を切って、しばらく画面を見つめた。
それから走る。
凛の部屋のドアを叩く。
「お姉ちゃん!」
「何、うるさい」
「受かった」
ドアが開いた。
凛が華の顔を見る。
「……本当に?」
「本当に」
凛は少しだけ目を細めて、それから華の頭に手を置いた。
「よかったじゃない」
「うん!」
華はそのまま凛に抱きついた。
凛は少し驚いた顔をして、それから黙って抱き返した。
夜、華は自分の部屋でスマホを持った。
由紀にビデオ通話をかけた。
時差がある。でも由紀はすぐ出た。
「華、どうしたの」
「報告がある」
「何?」
「芸能事務所、受かった」
画面の中の由紀が、一瞬止まる。
それから笑った。
声を出さずに、ただ笑った。
華はその顔を見て、あの日のことを思い出した。
リビングのソファで、泣いていた自分。
何も言わずに抱きしめてくれた母。
「ママ」
「うん」
「泣いていいよ」
画面の向こうで、由紀が少し笑った。
それから、声を出さずに泣いた。
華はそれを見ながら、笑っていた。
いや、笑っているのか泣いているのか。




