第13.1話「高島の助言」
木曜日の昼。
大学のゼミ室は、いつも昼休みになると妙に静かになる。
授業の間の中途半端な時間で、わざわざここに来る学生は少ない。
遼にとっては、それがちょうど良かった。
卒論の提出まで、あと数日だ。
最終確認は昨日のうちに終わらせた。
今は待ち時間に、次のプログラムを書いている。
特に意味はない。
書きたいから、書いている。
窓から入る冬の日差しが、机の上に薄く伸びていた。
キーボードを叩く音だけが続いていた。
ドアが開いたのは、十二時を少し過ぎた頃だった。
「おう、柊」
高島だった。
紙コップを二つ持っている。
遼の机の前に、一つ置いた。
「自販機で買った。コーヒーでよかったか」
「ああ。ありがとう」
遼はキーボードから手を離した。
高島は向かいの椅子を引いて、ゆっくり座った。
特に急いでいる様子はない。
バッグを床に下ろして、自分のコーヒーを一口飲んだ。
「卒論、提出前か」
「数日後には出す」
「進んでるんだろ、どうせ」
「まあ」
「お前の"まあ"は、大体終わってる時の"まあ"だよな」
「……そうか?」
「そうだよ」
高島は少し笑った。
遼もコーヒーを飲んだ。
インスタントよりは、ましな味だ。
詩織が「ちゃんとしたの飲みなよ」と言うやつに近い。
そういえばしばらく詩織の顔を見ていない。
まあ、卒論が終わったら連絡すればいい。
「ところでさ」
高島が、少し声のトーンを変えた。
「TechVision、正式オファー出たってな」
遼はコーヒーを机に置いた。
「らしい」
「らしい、って。お前が本人じゃないか」
「もらった」
「……どうするんだ」
「まだ決めてない」
高島はそれを聞いて、少し間を置いた。
責めるでも、急かすでもない。
ただ、頷いた。
「そうか」
それだけ言って、また黙った。
ゼミ室の外を、誰かが歩いていく足音がした。
過ぎていって、また静かになった。
しばらく、二人は特に話さなかった。
高島はスマホを見ていた。
遼はまたプログラムの続きを書いていた。
気を使わなくていい沈黙は、悪くない。
高島が口を開いたのは、五分以上経ってからだった。
「外資って、説明会行ったことあるか」
「ない」
「俺、何社か行ったんだよ。TechVisionも含めて」
「そうか」
「聞くか?」
遼は少しだけ考えた。
「聞く」
高島は背もたれに少し体を預けた。
「まず前提として、外資は合理的だ。これは悪口じゃない」
「うん」
「成果を出したら評価される。シンプルに。日本みたいに"とりあえず三年様子を見る"じゃない」
「速いんだな」
「速い。で、逆に、成果が出なかった場合も速い」
遼はキーボードを打つ手を止めた。
「切られる、ってことか」
「そういう言い方もできる。でも向こうの感覚では、別に残酷な話じゃない。お互いの時間を無駄にしないってことだ」
「……合理的ならそれでいいんじゃないか」
高島は少し笑った。
「そう言えるなら、まあ向いてるのかもな」
「向いてるかどうかは別だけど」
「……お前、それよく言うな」
「何が」
「"別だけど"って。全部一個ずつ切り分けるじゃないか」
遼は首を傾げた。
切り分けているつもりはないが、そう見えるのか。
「会議も多い」
高島が続けた。
「週に何回もある。プレゼンも。自分の研究がどういう意義を持つか、どう事業に繋がるか、英語で説明して、質問されて、また説明して」
「技術だけじゃ足りないわけか」
「そう。技術を"言葉に変える"能力がいる。自分の考えを人に伝える、みたいな感覚」
遼はそれを聞いて、少し黙った。
伝える。
自分の考えを。
なんとなく、イメージがつかなかった。
「俺、そういうの得意じゃないな」
遼が言った。
高島は少し驚いた顔をした。
「……怒らないんだな」
「何が」
「俺、お前がコミュニケーションに向いてないって遠回しに言ったんだけど」
「分かってる」
「分かって怒らないのか」
「事実だろ」
高島は少し笑った。
今度は、最初より温かい笑い方だった。
「……お前、素直だな」
「そうか?」
「そうだよ」
昼休みが終わりに近づいてきた。
遠くで、廊下の人声が増えてきている。
高島がコーヒーカップを傾けて、残りを飲む。
「一個気になってることがある」
「何」
「日本企業は動いてないのか、って話だよ」
遼はパソコンの画面を見ながら答えた。
「知らない」
「普通、放っておかないだろ。あの規模の研究なら」
「知らない」
遼は繰り返した。
高島はその「知らない」を、少し観察した。
本当に知らないのか。
知っているが興味がないのか。
たぶん、両方だ。
「……まあ、お前は調べないよな」
「調べる理由がない」
「ないのか」
「今は卒論が先だから」
「それが終わったら?」
「その時考える」
高島は小さくため息をつく。
呆れているわけじゃない。
どこか、感心しているような顔だ。
「お前みたいなやつ、初めて会ったよ」
「そうか?」
「そうだよ。普通、就職のこととか、将来のこととか、もっとグルグル考えるもんだろ。不安とか焦りとか」
「あまりない」
「なんで」
「やりたいことは変わらないから」
「やりたいこと」
「機械をいじること」
高島は少し黙った。
窓の外で、風が通り過ぎた。
木の葉が揺れる音が、かすかに聞こえた。
「……シンプルだな」
「そうか?」
「そうだよ。シンプルすぎて、逆に怖い」
「怖い?」
「そのシンプルさのせいで、自分がどこに向かってるか見えなくなることがある、ってことだよ。俺みたいな人間は」
遼はそれを聞いて、少し考える。
「俺はどこに向かう、というより」
遼は言葉を探した。
「面白いものがある方向に行く、みたいな感じかな」
「……それは方向じゃなくて、重力だな」
「重力」
「自分で選んでるようで、引っ張られてる」
遼は少し止まった。
それは、当たっているかもしれない。
「まあ、それでもいいんじゃないか」
遼が言った。
「そうかもな」
高島は少し笑った。
「俺はちゃんと方向を決めたくて、だから外資を選ぶ。怖いけど、勝負してみたい」
「怖い、か」
「ああ。安全なところにいると、怖さを感じないから。怖さを感じないと、成長しない気がするんだよな、俺は」
遼はその言葉を、少し考えた。
「それは俺には分からないな」
「何が」
「怖くて飛び込む、っていう感覚が」
「怖くないのか」
「あまり」
「なんで」
「切られることを、そもそも想定してない」
高島は少し黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「……そうだな。お前に合理的とか怖いとか関係ないか」
「そういうわけじゃないけど」
「どういうわけだよ」
「興味があるかどうかで動いてる、みたいな感じだ。それ以外の軸があまりない」
高島はしばらく遼を見た。
それから、窓の外を向いた。
「……俺にはできないな、それ」
「そうか」
「できなくていい。俺は俺の選び方をするから」
遼はその言葉を聞いて、少し口角が上がった。
押しつけてこない。
ただ、それぞれのやり方で動いている。
それが、聞きやすかった。
「一個だけ言っていいか」
高島が言った。
改まった言い方じゃない。
でも、少しだけ声のトーンが変わった。
「どうぞ」
「自分の価値を安売りするな」
遼はキーボードを打つ手を止めた。
「安売り?」
「そう」
「……どういう意味だ」
「条件の話をしてるんじゃない」
高島はゆっくり言葉を選んだ。
「年収がいくらとか、待遇がどうとか、そういうことじゃない」
「じゃあ何の話だ」
「自分が何者かを分からないまま、どこかの都合にはまるな、ってことだ」
遼は黙った。
「世界的企業が正式オファーを出してくるのは、お前に価値があるからだろ」
「そうなのかな」
「そうだよ。向こうはボランティアじゃない。本気で欲しいから動いてる」
「まあ、そうか」
「でもお前は、自分に価値があるとあまり思ってない」
「……思ってないというか、考えたことがない」
「それが問題なんだよ」
高島は少し前のめりになった。
「価値を分からないまま、どこかに収まると、後で気づいた時に遅い。自分が何のためにそこにいるのか、分からなくなる」
遼は少し考えた。
価値。
自分の価値。
言葉としては理解できる。
でも、自分のこととして想像すると、なぜかピンとこない。
「俺、自分が何者かって、あまり考えたことがないな」
「知ってる」
高島はあっさり言った。
「だから心配してるんだよ、一応」
遼はその「一応」を聞いて、少し口角が上がった。
「一応か」
「一応だよ。うるさかったら言え」
「うるさくはない」
「そうか」
高島は椅子の背にもたれた。
しばらく、天井を見ていた。
「俺も偉そうなこと言える立場じゃないけどな。内定まだ一個しかないし」
「どこだ」
「外資のコンサル。でかい会社ではない」
「いいじゃないか」
「お前にそう言われると、素直に嬉しいのか腹が立つのか分からんな」
「なんで」
「基準がどこにあるか分からないから」
遼は少し首を傾げた。
基準。
自分の基準がどこにあるかは、確かに自分でも分からない。
高島が立ち上がった。
バッグを肩にかけて、使い終わったコーヒーカップをゴミ箱に放り投げた。
きれいに入った。
「俺、次の授業まで図書館にいる」
「ああ」
「答えは急がなくていいんだろうけど」
高島はドアの前で振り返った。
「ちゃんと考えろよ、一応」
「また一応か」
「また言ってるな、俺」
「ほんとだよ」
「……そうだな」
高島は少し笑った。
それから、少し真顔になった。
「遼」
「何」
「お前の"普通"は、他の人間の普通じゃない。それだけは覚えておけ」
遼は返す言葉を探した。
でも、何も出てこなかった。
「……そうか」
「そうだよ」
高島はそれだけ言って、ゼミ室を出た。
ドアが静かに閉まった。
一人になったゼミ室で、遼はしばらく動かなかった。
パソコンの画面が光っている。
書きかけのコードが、半分だけ完成していた。
安売りするな。
自分の価値を。
自分が何者かを分からないまま、どこかの都合にはまるな。
遼はその言葉を、頭の中で繰り返した。
価値、という言葉自体は分かる。
でも、自分の価値という話になると、途端に感覚がなくなる。
田中教授も、似たようなことを言っていた。
「普通じゃない」と。
正式オファーの書類にも、破格の数字が並んでいた。
でも、それが自分のこととして繋がらない。
機械は面白い。
プログラムは面白い。
それだけが、ずっとはっきりしている。
遼はコーヒーカップに手を伸ばした。
もう冷めていた。
飲んだ。
それから、また画面に向かった。
コードの続きを書き始める。
高島の言葉が、頭の隅に残っていた。
お前の"普通"は、他の人間の普通じゃない。
遼はその言葉を考えながら、それでも手は止めなかった。
コードを書くことと、その言葉の意味を考えることは、別々に進められる。
窓の外で、昼の風が木を揺らしていた。
葉の落ちた枝が、青い空の中で静かに揺れていた。
その日の夜、柊家のリビング。
夕食のあと、凛がソファでスマホを見ていた。
遼がキッチンで洗い物をしている。
「ねえ、遼」
「何」
「今日、大学で誰かと話してた?」
「同じゼミのやつ」
「どんな話?」
「外資の話」
凛はスマホから目を上げた。
「外資って、TechVisionみたいな会社のこと?」
「まあ、そういうことになるな」
「どんな話?」
「合理的な会社だって話と、自分の価値を安売りするなって話」
凛はしばらく黙った。
「……誰に言われたの」
「高島という。外資に行くやつだ」
「その人、いいこと言うね」
「そうか?」
「そうだよ。遼に必要な言葉だと思う」
遼は洗い物をしながら、少し首を傾げた。
「俺に必要なのか」
「必要だよ」
凛は真顔で言った。
「遼って、自分の価値に鈍すぎるから」
「鈍い、か」
「鈍い。でも、それを直せとは言わない。それが遼らしいから」
「……複雑だな」
「複雑でいいの」
凛は再びスマホに視線を戻した。
「それより、昼ご飯ちゃんと食べてた?」
「食べた」
「本当に?」
「食べた」
「何を食べたの」
「……コンビニのおにぎりと、コーヒー」
「それはご飯じゃない!」
凛が立ち上がった。
「冷蔵庫に昨日の鍋の残りがあるから、今すぐ温めて」
「もう夕食食べた」
「それとこれとは別!」
遼は少し考えた。
「……お腹は空いてないけど」
「食べれる?」
「まあ」
「じゃあ食べて」
遼は少し黙った。
それから、冷蔵庫を開けた。
凛は満足そうに、また座った。
その夜遅く、遼の部屋。
温めた鍋の残りを食べ終えた後、遼はベッドに横になっていた。
天井を見ている。
今日の高島の言葉が、まだ頭にある。
怖いから飛び込む。
高島はそう言っていた。
自分にはその感覚がない。
怖さという軸で考えたことが、あまりない。
高島はちゃんと方向を決めたいと言っていた。
自分はそうじゃない。
面白いものがある方向に引っ張られる、と言ったら、高島は「重力だ」と言った。
重力か。
遼は少し口元が緩んだ。
うまいことを言う。
でも、重力があるなら、それに乗ればいいんじゃないか。
そんな気もする。
価値。
自分の価値。
まだ、言葉として上手く掴めない。
でも、何かが少しだけ、引っかかっている。
小さな棘のようなものが、頭の隅に刺さっている。
それを抜くのは、今じゃないかもしれない。
卒論が終わったら、考える。
遼はそう思いながら、目を閉じた。
部屋の電気が消えた。
外は静かだ。
都会といっても夜は、けっこう静かだ。




