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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第一部「機械をいじっていたい、それだけなのに」

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第13話「正式オファー」

 月曜日の朝。

 大学の廊下は、まだ静かだった。

 一時間目が始まる前。

 学生がまばらに歩いている。

 遼はいつも通り、研究室に直行するつもりだった。

 だが、廊下の角で田中教授と鉢合わせた。

「柊くん。ちょうど良かった」

「おはようございます」

「今日、時間あるか?」

「昼以降なら」

「午後イチ、来てくれ」

 教授の顔が、少し硬い。

 いつもの「天才だが変わり者の弟子を見守る温厚な教授」ではなく。

 何かを決意した顔だ。

「……分かりました」

 遼は頷いた。


 午前中、遼は実験室で卒論の最終確認をした。

 データを見直す。

 グラフを確認する。

 計算を再チェックする。

 問題はない。

 提出まで、あと数日だ。

 遼はコーヒーを飲んだ。

 インスタントの、いつものやつ。

 詩織が「ちゃんとしたの飲みなよ」と言うやつ。

 十分休憩して、また作業に戻った。


 午後一時。

 遼は教授室のドアをノックした。

「どうぞ」

 入ると、田中教授が机の前に座っていた。

 そして——。

 もう一人、いた。

 遼は少し止まった。

 スーツ姿の男性。

 四十代くらい。

 日本人ではない。

 落ち着いた眼差しで、遼を見ている。

「柊くん、座って」

 田中教授が言った。

 遼は椅子に座った。

 男性と目が合った。

「Hi. I'm Kenji Mori, Japan representative of TechVision Systems.」

(こんにちは。TechVision Systemsの日本代表、森健二です)

 男性は流暢な日本語に切り替えた。

「森と申します。よろしくお願いします」

「……柊遼です」

「存じております」

 森は静かに微笑んだ。

 圧がある。

 でも、威圧ではない。

 遼はそれを感じながら、少し背を正した。


 田中教授が、机の上の封筒を遼の前に置いた。

「柊くん。これを」

 遼は封筒を手に取った。

 TechVision Systemsのロゴ。

 重みがある。

 中を開けた。

 数枚の書類が入っていた。

 遼は最初の一枚を読んだ。

 ……読んだ。

 もう一度、読んだ。

「……」

 遼は無言だった。

 田中教授が口を開いた。

「読んだか」

「はい」

「内容は理解できるか」

「……はい」

 遼はゆっくりと書類を置いた。

 正式なオファーレター。

 インターンではない。

 即戦力の研究員として、入社初日から扱うという内容。

 待遇の欄を見た。

 年収の数字を見た。

 遼は少し首を傾げた。

 これは、本当に自分に向けられた書類なのか。

「柊さん」

 森が静かに言った。

「これは、弊社が今まで新卒に提示した中で、最高の条件です」

「……そうですか」

「はい。ロバートCTOの直接指示です」

「CTOの」

「ええ。彼は、あなたの研究に強い関心を持っています。論文だけでなく、現場での問題解決の実績も含めて」

 遼は少し考えた。

「現場での実績、というのは」

「撮影スタジオでの音響トラブル、映像データの復旧、その他いくつか」

 遼の表情が、わずかに動いた。

「……調べてたんですか」

「弊社は、確かめてから動きます」

 森は淡々と答えた。

 嫌みではない。

 ただの事実だ、という顔だ。


 田中教授が口を挟んだ。

「柊くん。私から一つ言っていいか」

「はい」

「これは、断る話じゃない」

 教授の声は静かだが、力があった。

「君の卒論を読んだ。君の設計を見た。君が何気なくやっていることを、私は三十年かけてもできない」

「……教授」

「過大評価ではない。事実として言っている」

 遼は少し口を開きかけた。

「普通ですよ、と言うな」

 教授が先に言った。

「……」

「その言葉は、君にとっては正直なんだろう。でも、周りには通じない」

 遼は黙った。

 田中教授が続ける。

「せめて、話だけ聞いてほしい。先週もそう言ったが、今日はもう一度頼む」


 遼は書類に目を落とした。

 条件欄。

 研究内容欄。

 勤務地欄。

 海外拠点、東京オフィス、リモート対応可。

 遼はしばらく考えた。

 正確には、考えているというより——

 どう断ろうか、を整理していた。

 でも。

 田中教授の顔を見た。

 「私がこの仕事をして三十年になる。こんなことは初めてだ」と言った教授の顔を。

 森を見た。

 落ち着いていて、急かさない。

 ただ、待っている。

「……一つだけ、聞いていいですか」

 遼が口を開いた。

「もちろんです」

「CTOは、今も日本にいますか」

 森は少し驚いた顔をした。

 それから、頷いた。

「はい。今週中はいる予定です」

「直接、話を聞けますか」

「……ええ、もちろん」

 森の表情に、初めて温度が出た。

 田中教授も、小さく息をついた。

「書類に返事をする前に」

 遼は書類を置いた。

「本人の話を聞いてから、考えます」


 森が帰った後、教授室には遼と田中教授だけが残った。

 しばらく、沈黙が続いた。

「……柊くん」

「はい」

「断るつもりか?」

「……分かりません」

 遼は正直に答えた。

「今は、まだ。卒論を出してから、考えたい」

「それでいい」

 田中教授は椅子の背にもたれた。

「順番は大事だ」

「はい」

「でも、柊くん」

 教授は遼を見た。

「一つだけ聞いていいか」

「はい」

「君は、何がしたい?」

 遼は少し止まった。

 何がしたい。

「機械を、いじっていたい」

 すぐに答えが出た。

「それだけか?」

「……それだけです」

 田中教授は少し笑った。

 苦笑とも、温かい笑いともとれる顔だった。

「そうか」

 それだけ言って、教授は立ち上がった。

「コーヒーでも飲むか」

「……いただきます」


 同じ頃、都内のホテル。

 スイートルームのソファで、ロバートは森からの報告を聞いていた。

「We can arrange a direct meeting with him.」(本人との面談が設定できそうです)

「What did he say?」(彼は何と言った?)

「He wants to talk to you before giving any answer on the offer.」(オファーへの返事をする前に、CTOと直接話したいと)

 ロバートは少し止まった。

「He wants to talk to me directly?」(直接、私に話したいと?)

「Yes.」(はい)

「Not to negotiate the conditions?」(条件交渉のためではなく?)

「He just wants to hear what you have to say.」(ただ、あなたの話を聞きたいだけのようです)

 ロバートは窓の外を見た。

 東京の昼の景色。

「...Interesting.」(……面白い)

 ロバートは口元を緩めた。

 条件を見て飛びつく人間なら、世界中にいる。

 条件よりも先に「本人の話を聞きたい」と言う人間は——

 ほとんどいない。

「Arrange it.」(設定しろ)

「Understood. When would you prefer?」(かしこまりました。いつ頃がよろしいですか)

「As soon as possible. Before I leave Japan.」(できるだけ早く。日本を離れる前に)

「Got it.」(分かりました)

 ロバートはスマホを置いた。

 柊遼。

 やはり、変わった人間だ。

 世界中の優秀な人材を見てきたが——

 こういうタイプは、初めてかもしれない。

 ロバートはソファから立ち上がり、窓に近づいた。

 東京。

 この街のどこかに、自分が求める人間がいる。

「Don't run away, Hiiragi.」(逃げるなよ、柊)

 ロバートは静かに呟いた。


 夕方、柊家のリビング。

 遼が帰宅すると、凛がソファでスマホを見ていた。

「おかえり」

「ただいま」

「今日は早いね」

「まあな」

 遼はバッグを下ろし、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開ける。

 麦茶を取り出す。

「遼」

「何」

「今日、大学で何かあった?」

 遼はコップに麦茶を注ぎながら、少し間を置いた。

「別に」

「本当に?」

「……まあ、企業の人が来た」

「またあの会社?」

「ああ」

「どうだった?」

「書類もらった」

「書類……」

 凛はスマホを置いた。

「正式なオファー?」

「みたいな」

「どうするの?」

 遼は麦茶を一口飲んだ。

「とりあえず、CTOと直接話す」

「断るの?」

「……まだ分からない」

 凛は少し驚いた顔をした。

 遼が「まだ分からない」と言うのは、珍しい。

 いつもは「別に」か「断ります」で終わる。

「……そっか」

「うん」

 遼はコップを持ったまま、自室に向かった。

「遼」

「何」

「もし話したいことがあったら、聞くよ」

 遼は少し止まった。

「……ありがとう」

 それだけ言って、部屋に入った。


 凛は一人、リビングに残った。

 スマホを手に取ったが、何も見る気になれなかった。

 遼が「まだ分からない」と言った。

 あの子が、迷っている。

 凛は天井を見上げた。

 これまでずっと、遼は「断る」「興味ない」「普通だろ」だった。

 それが揺れている。

 世界が、本気で遼を欲しがっている。

 凛はそれを、どこか遠い話だと思っていた。

 でも違う。

 遼は本当に、そういう世界にいる人間なんだ。

「……知らなかったな」

 凛は小さく呟いた。

 弟のことを、何も知らなかった。


 その夜、詩織のスマホに遼からLINEが来た。

「卒論、明日提出する」

 詩織は少し驚いた。

「おつかれ! ちゃんと終わったの?」

「ああ」

「よかった。打ち上げしようよ」

「別に打ち上げは」

「するの!」

「……まあ」

 詩織は少し笑った。

 それから、もう一言打った。

「企業の話、どうなった?」

 少し間があった。

「CTOと話す」

「話す……断らないの?」

「まだ分からない」

 詩織の指が止まった。

 遼が「まだ分からない」と言った。

 そんな言葉、初めて聞いた気がする。

「……そっか」

 詩織はしばらく画面を見つめた。

 送ろうとした言葉が、いくつか浮かんで、消えた。

 最終的に打ったのは、一言だけだった。

「ゆっくり考えてね」

 遼から「ああ」と返ってきた。

 詩織はスマホを伏せた。

 遼が迷っている。

 それが嬉しいような、怖いような。

 不思議な気持ちだった。


 遼の部屋。

 遼はベッドに横になっていた。

 天井を見ている。

 書類の内容を思い返す。

 条件は、確かに破格だった。

 でも、それは関係ない。

 遼が気になるのは——

 あの森という男が言った一言だ。

「弊社は、確かめてから動きます」

 調べていた。

 撮影スタジオの件も、データ復旧の件も。

 遼は別に、見せようとしてやったわけじゃない。

 凛に頼まれて、華に頼まれて。

 やっただけだ。

 それを、誰かが見ていた。

 評価していた。

 遼にはその感覚が、少し、不思議だった。

 好きでやっていることが、外からはそう見えるのか。

 窓の外に、夜の空が見える。

 星は見えない。

 都会の夜は、いつも曇っている。

「……まあ、話くらいは聞いてみるか」

 遼は小さく呟いた。

 そして、目を閉じた。


 同じ頃、TechVision Systemsの東京オフィス。

 森はロバートCTOへ報告メールを送った。

To: Robert Chen, CTO

Subject: Update on Hiiragi


He agreed to a direct meeting with you.

Conditions were not the deciding factor.

He simply wants to hear what you have to say.


Recommend: Let him lead the conversation.


Mori

(ロバートCTO宛

件名:柊に関する続報

直接面談に応じることになりました。

条件は決め手ではありませんでした。

ただ、あなたの話を直接聞きたいとのことです。

推奨:彼に会話を主導させてください。

森)

 数分後、返信が来た。

Understood.

I'll be myself.


R.

(了解した。

素の自分で行く。

R.)


 森はメールを閉じた。

 そして、静かに思った。

 CTOが「素の自分で行く」と言った時——

 どちらの自分で行くつもりなのか。

 ビジネスマンとしての自分か。

 それとも——。

 まあ、どちらでも。

 柊遼なら、どちらも動じないだろう。

 森は小さく笑って、パソコンを閉じた。

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TechVisionSystemsいい加減しつこい。欧米諸国の会社は利益第一主義が多いし、会議やミーティングを重視しているから、コミュ障には向いてないんだけど。レイオフとか即解雇もあるし日本企業とは違…
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