MINA:復讐の悲しき暗殺者 Part1「檻の中の少女」
MINA: The Assassin's Revenge
——柊華・水城蒼真、W主演。
本作は、来春全国公開予定の劇場映画『MINA:復讐の悲しき暗殺者』の、製作と並行して書き下ろされた原作小説である。
脚本に先んじて書かれ、脚本と同時期に完成した。映画の中で描ききれなかった、登場人物たちの声にならなかった数秒が、この小説にはある。
全五部構成。
Part1「檻の中の少女」、Part2「喪失」、Part3「復讐」、Part4「真実」、Part5「行くよ」。
映画と順に照応するが、映画を観ていなくても読める。
——これは、柊華がMINAとして初めて刃を持って走った、そのための物語である。
ここが、世界の全部だった。
監督 椎名拓郎
脚本 有村麻衣子
アクション監督 三上克己
音楽 南遼平
主題歌 硝子の月「悲哀」
製作 橘映画製作
配給 アークライト映像
MINA 柊華(20歳)
リュウ 水城蒼真(21歳)
ジン 倉持悠(23歳)
アカリ 野中澪(21歳)
テツ 桐島大和(22歳)
カイ 月岡迅(25歳)
午前二時四十三分。
東京湾岸。青海埠頭の南側。
コンテナターミナルの第三区画。閉鎖時間帯。積み上がったドライコンテナが月光を遮ってブロック状の影を地面に落としていた。
気温、十一度。湿度、七十四パーセント。風速、毎秒一・二メートル、北東。
人の姿はない。
正確には見えない。
第三区画にこの時間帯、配置されている警備員は六名。
東側、二名。西側、一名。屋上、一名。北側詰所、二名。
北側の二名は交代制で一名が常時、仮眠している。
MINAたちは三日前の偵察でそのローテーションまで把握していた。
把握したデータをアカリが頭の中で組み直した。
六名のうち、同時に動ける者は最大で四名。
四名をジン、アカリ、テツ、MINAの四人で分担する。
リュウは撤退側で待機。
配役は三日前に決まっていた。
ガントリークレーンの脚柱の陰にジンがいた。
身長百七十八、体重六十五。伏臥の姿勢。床は冷えた鉄板。肘当てのパッドを介して体重が均等に分散されている。
狙撃銃はレミントンM700の改造型。口径、7.62×51。サプレッサー装着。スコープは六倍から二十四倍可変。
ジンは呼吸を十五秒に一回まで落としていた。
引き金には指をかけていない。
かけるのは撃つ、〇・二秒前でいい。
それ以前にかけておくと反射的に力が入る。
力が入れば、引き金の絞りが乱れる。
絞りが乱れれば、弾道がずれる。
十三分、同じ姿勢のまま、ジンはコンテナヤードの東側、二人の警備員をスコープに収めていた。
耳のイヤホンにアカリの声が流れた。
「東、二名。位置、変更なし」
「西、一名。北西角、煙草」
音量は聞き取れる最低限。
「屋上、一名。南側フェンス沿い」
情報に感情はない。
「北」
ジンが短く、応じた。
「北はMINAが来てる」
アカリの声にはごく微かに温度の差があった。
MINAの位置情報を伝える時だけ、アカリは語尾を〇・五秒、長く取る癖がある。
本人は気づいていない。
ジンは気づいていた。
気づいていても言わない。
CAGEの仕様だった。
MINAは第三区画の、北壁の真下にいた。
倉庫型のプレハブ事務所。外壁はガルバリウム鋼板。高さ、八メートル。窓は二階部分にのみ。天窓、一箇所。
MINAは壁に右手を触れさせた。
温度、外気より〇・五度、低い。
内部に空調が稼働している証拠。
人がいる。
少なくとも一人。
MINAは壁を昇った。
昇る、というより上方へ移動した。
右手、左手、右足、左足。四点の接地点のうち、常に三点は壁に触れている。外された一点が次の位置へ移る。
移動速度、毎秒一・一メートル。
音、発生せず。
昇り始めから三メートル地点でMINAは一瞬、止まった。
壁の、目立たない窪みにカメラがある。
広角レンズ。画角、約九十度。
そのカメラの死角は壁面に沿った、幅四十センチの帯状の領域。
MINAはその帯の中を昇っていた。
帯を一度でも外せば、映像に記録される。
映像は事後解析される。
事後解析されれば、CAGEの存在が特定される。
MINAは帯の中を外さずに昇り切った。
八メートル、昇るのに要した時間、七・二秒。
天窓の縁に指がかかった。
ロックは内側ダイヤル式。外からの操作は不可。
MINAは操作しなかった。
天窓の縁から軒の外周を右に一メートル十五センチ、横移動した。
そこに排気口がある。
メッシュカバーのビスが三本。偵察時には四本だった。
三日前に一本、外してある。
MINAは残る三本を専用工具で外した。
ビスを腰のポーチに収納する。落とすと音が出る。
メッシュカバーを片手で受け止めながら、外した。
頭から中へ滑り込んだ。
天井裏は暗かった。
高さ、九十センチ。這う姿勢でなければ、進めない。
断熱材と配線。
MINAは四日前に偵察時にここを通っている。
通った経路の、床の凹凸まで記憶している。
記憶には番号がついている。
MINAは番号を頭の中で順番に唱えた。
一、左へ九十度。二、一・八メートル直進。三、右へ四十五度。四、梁を跨ぐ。五、直進。六、点検口。
点検口の金具を指で外した。
下を覗いた。
執務室。
無人。
MINAは逆さまの姿勢で点検口から身体を半分出した。
左手で天井の桟を掴む。
右手は自由。
腹筋と背筋と左手の握力でゆっくりと上半身を下ろしていく。
三秒、五秒。
床まであと二メートル。
MINAは左手を離した。
空中で身体が反転した。
着地は両足同時。
膝のクッションで衝撃を吸収。
音、なし。
執務室内には人員が一名、配置されていた。
偵察時のデータにはなかった、追加人員だった。
男はMINAの降下に気づいていなかった。
奥の壁際のデスクで紙の資料をめくっていた。
背をMINAの方に向けていた。
デスクから点検口直下までの距離、六・七メートル。
MINAは床に着地した姿勢から一切、立ち上がらなかった。
屈んだまま、床を移動した。
音のしない床材の継ぎ目を事前に記憶していた。
継ぎ目と継ぎ目の間、十五センチの、無音領域を順に踏んだ。
男との距離、三メートル、二メートル、一メートル。
一メートルに達した時、MINAは立ち上がっていた。
男の背後、四十センチ。
MINAの右手の指が男の頸部の、左側の、頸動脈の、真上に配置された。
圧迫。
男の首筋の、皮膚の下で血流が遮断される感触。
三秒。五秒。
男の背筋の緊張が抜けた。
MINAは男の体重を両腕で受け止めた。
受け止めながら、椅子に深く、座らせた。
上体をデスクの上に突っ伏させる。
仮眠している形に整えた。
男の頸動脈の拍動を指先で確認した。
あり。
生きている。
MINAは男の、デスクの上の、ペンを見た。
書きかけの、書類。
「資材管理日誌」、と、表紙にある。
普通の、警備員の、普通の、日報。
MINAはそれ以上、見なかった。
見る必要がなかった。
執務室の、奥の扉の向こうに標的がいる。
「荷物」、と呼ばれている。
中身はMINAたちには知らされていない。
知らされないのがCAGEの仕様だった。
運ぶ。運んで渡す。渡したら、帰る。
仕事はそういう形をしていた。
——はずだった。
MINAは扉の前で止まった。
扉の前に体重式のセンサー。
偵察時に配線の位置を確認してある。
MINAは壁にナイフの先を差し込んだ。
石膏ボードの内側、二十七センチ右に信号線。
MINAは一センチずつ、ナイフを下に滑らせた。
信号線に刃が触れた。
触れた瞬間、手元にわずかな、電流の抵抗。
MINAは抵抗の位置を覚えた。
それから刃を二センチ、奥に押し込んだ。
信号線を切断した。
扉の前のセンサーが死んだ。
MINAは扉のノブに手をかけた。
ノブは回った。
部屋の中央に木箱が置いてあった。
規格品。三十センチ×四十センチ×十五センチ。重量、推定四キロ。
木箱の周囲にトリップワイヤーなし。床下、配線なし。天井、異常なし。
MINAは箱を片手で持ち上げた。
軽かった。
四キロより軽い。
三キロ程度。
——中身の比重が想定より低い。
MINAの頭の中でごくわずかに警戒の針が動いた。
動いたが仕事は続いていた。
箱を肩に乗せた。
退出経路に入った。
点検口を逆順で上った。
天井裏を四、三、二、一と戻る。
排気口を外から軽く、閉じ直した。
壁を下る。
下りは上りより二秒、速い。
地面に両足がつく。
音、なし。
MINAはコンテナの陰に身を寄せた。
耳のイヤホンに声が流れた。
「ちょっと待った」
テツの声。
MINAは動きを止めた。
テツの「ちょっと待った」は平時には使わない。
冗談の時は「おい」と言う。
警戒の時だけ、「ちょっと待った」と言う。
「南口に、不明車両。二台」
テツの声は低い。
「車種、黒のエスカレードと、白のハイエース。ナンバー、黒の方は隠してある」
「業界の車両じゃない。警察でもない」
アカリの声が引き取った。
「データベース、一致なし」
ジンの声は沈黙していた。
沈黙はスコープに集中しているという合図だった。
三秒、経った。
アカリが続けた。
「撤退ルートB。東へ。リュウと合流」
MINAは応答しなかった。
応答は不要な情報。
肩の荷物の重量を再確認した。
左右バランスに偏りなし。
走行に支障なし。
走り出した。
コンテナの谷間を縫って走る。
歩幅、七十五センチ。着地音、ゼロ。
音の出ないカーボン底の靴。
十五秒間、等速。
方角、東。
海側のフェンスに沿って突き当たりまで。
突き当たりの、機械室の裏にリュウがいた。
リュウは壁に背中を預けていなかった。
壁から十センチ、離れていた。
両足の体重は均等。
重心はやや後ろ。
——いつでも動ける姿勢。
黒いパーカー。フードは半分だけ、上げていた。
MINAの足音をリュウは距離二十メートルで捕捉した。
捕捉したことをMINAはリュウの、わずかな視線の移動で確認した。
近づいた。
リュウはフードを下ろした。
顔が月光の下に出た。
二十一歳。
MINAより一つ年上。
CAGEに来た時期はMINAより二か月早い。
「お疲れ」
リュウは静かに言った。
「誰も、死ななかった」
毎回、同じ台詞。
任務の終わりにリュウがMINAに言う、挨拶。
MINAは荷物をリュウに渡した。
リュウは受け取った。
中身は確認しなかった。
確認しないのがリュウの、仕様だった。
「車、裏に」
リュウが言った。
MINAは頷いた。
二人は並んで歩き出した。
並んでといっても距離は一メートル半。
CAGEのメンバー同士の、通常の、間合い。
合流地点で三人と合流した。
車はハイブリッドの、白いステーションワゴン。
運転席、リュウ。助手席、テツ。
後部座席、左からアカリ、MINA、ジン。
五人で一台。
CAGEの生活単位はいつもこれだった。
「腹減った」
テツが助手席から言った。
「午前三時過ぎに、何が、開いてる」
リュウが答えた。
「首都高で、PA。唯一の選択肢だ」
「PAでいい」
「PAで、何を食う気だ」
「立ち食いそば」
「あそこの店、閉まるのが早い」
「閉まってたら、次のPA」
「次のPAで、閉まってたら」
「……コンビニ」
リュウはそれ以上、返さなかった。
テツはシートに沈み込んだ。
アカリはノートパソコンを膝の上に開いていた。
監視カメラの映像をループで上書きする作業。
指の動きが速い。
MINAはその指を視界の端で見ていた。
アカリは画面から目を上げて、MINAを見た。
「怪我」
「ない」
「汗」
「少し」
「拭け」
アカリはタオルをMINAに渡した。
MINAは受け取って額を拭いた。
渡す手が拭く手よりも早いのがアカリの、仕様だった。
アカリはCAGEの中で一番、言葉を発する人間だった。
発する量と内容の濃度が反比例しているとジンは一度、言ったことがある。
本人も否定しなかった。
情報屋というのは人の話を引き出す側に立ちながら、自分のことは語らない人種だった。
MINAにアカリが一度だけ、短い話をしたことがある。
「私、昔は、学校に、行ってた」
「学校」
「普通の、学校」
それ以上はアカリは話さなかった。
MINAも訊かなかった。
訊かないのがMINAの、仕様だった。
テツは助手席でシートベルトの、バックルを指で弾いていた。
バックルは何度叩いても同じ音を返した。
テツはその音を確かめるのが好きだった。
テツはCAGEの中で一番、単純な人間だった。
単純、というのは悪口ではなく単純であることが職能の一部を構成しているということだった。
殴ることが仕事。
でも殴った相手を殺すかどうかは別の話。
テツは何度もMINAにそう言った。
殴る、と殺す、の、区別。
MINAはその区別をテツに教わった。
教わったことをMINAは自分の仕様に取り込んだ。
取り込んだ結果、MINAは殺せる場面で殺さないことが増えた。
増えたことをリュウは黙って見ていた。
ジンは後部座席の左端で無言で外を見ていた。
視線は助手席側の、リュウの後頭部にも時折、向かっていた。
ジンはいつも全員の位置を視界に収めている。
収めていないと落ち着かない性分だった。
ジンという人間の素性をMINAは詳しくは知らない。
年齢、二十三。身長、百七十八。利き腕、右。視力、両眼とも裸眼で一・五。
職能的な数値は把握している。
でもそれ以外はほとんど、空白だった。
出身地、不明。
本名、不明。
CAGEに来る前の、経歴、不明。
アカリが酔った夜に「ジンってもともとは何だったの」と訊いたことがある。
テツが代わりに答えた。
「訊くなって、リュウに言われてる」
「リュウが、そう言ったの?」
「言った」
アカリはそこで黙った。
黙るのがCAGEの、仕様だった。
一度だけ、ジンはMINAに短く、言ったことがある。
「お前は、殺さないタイプだ」
その言葉には続きがあった。
ジンは続けた。
「殺すタイプと、殺さないタイプは、別の、人種だ」
MINAはその言葉の意味をまだ、考えている途中だった。
CAGEは都内、古いビルの、七階。
地下駐車場に車を入れた。
シャッターが閉まる。
エレベーターで七階。
並びはジン、アカリ、テツ、MINA、リュウ。
誰が決めたわけでもない。
毎回、同じ並び。
それぞれが誰かの死角を見ている。
エレベーターの中でMINAは背中を壁に預けた。
任務が終わった。
終わった、という感覚が身体の芯に少しずつ、沁みていった。
CAGEの部屋は表向きは閉鎖中のテナント。
入口の扉は三重。
外側、電子ロック。
中間、物理シリンダー。
内側、カードキー。
三つすべてを解除するのに三十四秒。
毎回、同じ。
中は玄関、廊下、リビング、キッチン、シャワー室、五つの寝室。
窓はすべて、ブラインドで塞いである。
明かりは間接照明のみ。
リビングの、テーブルの上に温かい、カップスープが出ていた。
誰が用意したかは分からない。
毎回、誰かが用意する。
MINAはソファに腰を下ろした。
スープの蓋を開けた。
湯気が上がった。
リュウがMINAの隣に座った。
間隔、約四十センチ。
近くもなく遠くもない。
CAGEの仕様の、距離。
「MINA」
「うん」
「笑ってみろ」
MINAはスプーンを持ったまま、止まった。
リュウの、この言葉は時々出る。
最初に出たのは半年前の、ある任務の、帰りだった。
その任務の内容をMINAは詳細には思い出さないことにしていた。
思い出さないと決めているので思い出していない。
MINAはリュウに短く、答えた。
「……どう、やるの」
「口の端を、上げる」
「こう」
「少し」
「こう」
「……もう少し」
MINAは顔面の、左右の口角を非対称にならないよう、同時に一ミリずつ、上に動かした。
数回、繰り返した。
リュウはしばらく、その顔を見ていた。
「うん」
「これが、笑顔」
「うん」
「……嬉しい感じは、しない」
「それは、後から、来る」
「後から」
「笑ってると、そのうち、来る」
「来なかったら」
「来るまで、やっていい」
リュウの声はいつもよりわずかに低かった。
MINAはスプーンに視線を落とした。
落としたが口角の位置はそのままだった。
リュウがこの練習をMINAに始めさせた日のことを、MINAは記憶していた。
記憶は消去していない。
消去しようとしてできなかった。
あの夜、任務は処理、だった。
荷物を運ぶのではなく人間を処理する仕事。
MINAは仕事を完遂した。
手順、時間、音、すべて、許容範囲内。
処理対象は二名。
一人目、男性、四十代後半。処理時間、八秒。
二人目、男性、三十代前半。処理時間、十一秒。
二人目が十一秒かかったのは想定より後ろに壁があって下がれなかったから。
壁までの距離をMINAは目視で誤算していた。
誤算、十五センチ。
十五センチのために三秒、余計にかかった。
帰路、車の中でリュウはMINAの横顔を見ていた。
見ていることにMINAは気づいていた。
気づいていて、何も言わなかった。
しばらくしてリュウが言った。
「MINA」
「うん」
「今、何を、感じてる」
MINAは数秒、考えた。
考えても候補が出なかった。
出ないということをそのまま、答えた。
「……なにも」
「なにも」
「うん」
リュウはそれ以上、訊かなかった。
訊かなかったがその夜から「笑ってみろ」の練習が始まった。
MINAは最初、理解できなかった。
笑う。表情。感情の表出。
自分の顔面にその機能があることは解剖学的には知っていた。
使ったことがなかった。
リュウは笑い方を段階分けで教えた。
一段階目、口の端を上げる。
二段階目、目をわずかに細める。
三段階目、鼻の下をわずかに縮める。
四段階目、呼吸をわずかに乱す。
MINAはすべての段階を覚えた。
覚えるのはMINAの、得意分野だった。
嬉しさだけは覚えられなかった。
嬉しさのない場所に型だけが積もった。
半年、続けた。
半年後の、ある朝、MINAは鏡の前で試しに口の端を上げてみた。
上げた時、胸のあたりがわずかにあたたかくなった。
そのあたたかさをMINAは誰にも報告しなかった。
深夜、シャワーのあとMINAは自分の寝室に戻った。
四畳。ベッド、机、本棚。
本は三冊。アカリが「読めばいい」と置いていったもの。
MINAはまだ、どれも開いていない。
ベッドに腰をかけた。
天井を見た。
今夜の任務を復元した。
開始、二時四十三分。終了、三時十八分。所要、三十五分。
殺傷、なし。
任務遂行度、九十六パーセント。
差分の四パーセントは荷物の重量の、予想との乖離。
MINAはその四パーセントを記録した。
——軽かった。
軽いことの意味を今夜は考えない。
考えるのは次の任務の、前。
MINAの、身体管理の、ルールだった。
廊下の向こうでテツの声が聞こえた。
ジンが短く、返していた。
アカリが笑っていた。
テレビの音量は絞られている。
これがMINAの、知っている世界の、音だった。
これ以外の、世界の音をMINAはほとんど、知らなかった。
翌日は非番だった。
リュウがMINAに言った。
「外を、歩いてこい」
理由は訊かなかった。
訊いてもリュウは答えないだろうと知っていた。
MINAは黒いパーカーを着た。
フードはかぶらない。
かぶるとかえって目立つ。
商店街の端を歩いた。
歩調、毎分百十歩。
普通の、二十代の、女性の歩調とほぼ、同じ。
パン屋の前を通った。
店内から焼成温度の高い、小麦粉のにおいが漏れていた。
MINAはその場で二秒、足を止めた。
止めた理由をMINA自身は説明できなかった。
説明できないまま、鼻腔で空気を吸い込んだ。
小麦粉の、醗酵した香り。
バターの、加熱された分子。
砂糖の、焦げかけた粒子。
——情報として把握できる。
でも情報以上の、何かがその香りの中に混じっていた。
混じっているものが何なのかはMINAには分からなかった。
店の中に親子連れ。
小学校低学年の、女の子が母親の手を引いていた。
母親はショーケースの前で屈んで女の子と同じ高さの視線で話していた。
二人とも笑っていた。
——大したことではない笑い方だった。
MINAにはできない種類の、笑い方。
MINAは歩き続けた。
立ち止まらなかったのは立ち止まると長く、見てしまうからだった。
歩きながら、MINAは一つのことを考えた。
——あの子は笑い方を教わっていない。
最初から知っている。
最初から知っている人間と後から教わる人間の、違い。
その違いに名前があるのかをMINAは知らなかった。
知ろうとも思わなかった。
考えれば、答えの出ない種類の、問いだった。
公園の前を通った。
小さな児童公園。ブランコ、砂場、ベンチが一つ。
ブランコに少年が二人。小学校高学年。ランドセルを背負ったまま、漕いでいた。
片方が何かを言った。
もう片方が答えた。
答えた相手が笑った。
最初の方も笑った。
二人で大きな声で笑っていた。
MINAはベンチの端に座った。
距離、八メートル。
二人の会話の内容を聞き取ろうとすれば、できる距離だった。
聞こうとしなかった。
聞いたら、内容が大したことではないことが確定する。
確定するとMINAの中にある「大したことではなさ」への憧憬のようなものが消える。
消すのは惜しかった。
惜しい、という感情をMINAは持てるようになっていた。
半年前にはなかった感情だった。
十五分、ベンチに座っていた。
少年たちは帰っていった。
公園にはMINAだけが残った。
MINAは立ち上がってCAGEに戻った。
夕方、CAGEに戻った。
リビングにリュウだけがいた。
他の三人はそれぞれの部屋か、外。
リュウはソファに座って、音を絞った古い映画を見ていた。モノクロ。字幕は出ていない。
MINAはリュウの隣に座った。
四十センチの、距離。
「歩いたか」
「うん」
「見たか」
MINAは少し、考えた。
「パン屋」
「パン屋」
「子供が、笑ってた」
「そうか」
「——大したことじゃない話で」
リュウはテレビの画面を見たままだった。
でも口の端がわずかに動いた。
動いた、とMINAは気づいた。
気づけるようになっていた。
半年前には気づけなかった。
「リュウ」
「うん」
「笑い方、もう少し、教えてほしい」
リュウはMINAの方を見た。
見て、小さく、笑った。
——その笑い方をMINAは知っていた。
自分のためではなくMINAのために笑う時の、顔。
「いいよ」
「うん」
「少しずつ」
「うん」
「時々、できなくても、いい」
「うん」
「でも、やめなくていい」
「うん」
MINAは自分の口の端を少しだけ、上げた。
リュウはうん、と言った。
それ以上の、言葉は必要なかった。
その夜、全員が揃って夕食を食べた。
アカリがパスタを茹でた。
麺はデュラム・セモリナの、一・八ミリ。茹で時間、九分。
ソースはトマト、ベーコン、にんにく、唐辛子。
テツがサラダを用意した。
レタス、トマト、きゅうり、アボカド。ドレッシングは自家製。
ジンがワインを開けた。
赤。産地、イタリア・ピエモンテ。
MINAはグラスを三口だけ、飲んだ。
三口がMINAの、許容量だった。
食卓の会話は普段よりわずかに多かった。
テツがくだらない話をした。
アカリがそれに突っ込んだ。
ジンが珍しく、短く、笑った。
MINAは時々、口の端を一ミリだけ、上げた。
テツがそれに気づいた。
「MINA、笑ってる」
「うん」
「珍しい」
「練習してる」
「練習」
「うん」
「笑いって、練習、するものか」
「リュウが、教えてくれた」
テツはリュウの方を見た。
リュウはパスタを食べていた。
テツが続けた。
「まあ、いいか。出ない奴は、練習してでも、出せばいい」
「うん」
アカリは空いた皿を片付けながら、MINAに言った。
「MINA」
「うん」
「今度、買い物、行こうか」
「買い物」
「うん。服とか」
「……いる?」
「今、着てるの、三枚の使い回しでしょ」
MINAは自分のTシャツを見た。
黒、黒、グレー。
訓練時代からの、延長線上にある服選びだった。
選んでいるというより選ばないために同じものを着ている。
「じゃあ、いる」
「じゃあ、いる、って」
アカリは笑った。
「分かった。今度、行こう」
「うん」
ジンはその会話を黙って聞いていた。
テツは冷蔵庫からデザートを探していた。
リュウはMINAの方を見ていた。
MINAが「いる」と答えた一秒の、間。
その間にリュウは何かを察したらしかった。
察したことをリュウは顔には出さなかった。
食後、全員がそれぞれの作業に戻った。
テツは部屋でトレーニング。
アカリは別の情報の、整理。
ジンは武器の、手入れ。
リュウはキッチンで皿を洗っていた。
MINAはソファに残った。
残ってリュウの背中を見ていた。
リュウの背中は何をしていてもほとんど、同じに見えた。
任務中も食事中もテレビを見ている時も皿を洗っている時も。
少し、丸まっていて、でも姿勢は崩れていない。
どこにいてもわずかに「ここではない場所」を見ている背中。
MINAはその背中のことを時折、考える。
リュウはなぜ、CAGEにいるのか。
リュウはなぜ、MINAに笑い方を教えるのか。
リュウに家族はいるのか——いたのか。
訊かないのがCAGEの、ルールだった。
MINAは今夜も訊かなかった。
リュウが蛇口を閉めた。
振り返ってMINAを見た。
「MINA、何、見てる」
「背中」
「俺の」
「うん」
「何か、ついてたか」
「ついてない」
「じゃあ、なんで」
「なんとなく」
リュウは何か、言いかけた。
言いかけて、止めた。
止めて、タオルで手を拭いた。
MINAの方に一歩、近づいた。
「MINA」
「うん」
「お前、最近、俺のこと、よく見てる」
「うん」
「理由は」
「分からない」
「分からない、か」
「うん」
「……いつか、分かる」
「分かったら、言う」
「言わなくていい」
「なんで」
「分かった時点で、言葉にしなくても、いいことだから」
MINAはその意味をしばらく、考えた。
完全には分からなかった。
分からないまま、頷いた。
頷いたことをリュウは知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
深夜、シャワーを浴びて、MINAは自分の寝室に戻った。
壁の時計、午前一時二十二分。
任務終了から約二十二時間が経過していた。
MINAはベッドの縁に腰をかけた。
右手の、薬指の、第二関節にわずかな痛みがあった。
任務中、天井裏の梁にぶつけた箇所だった。
ぶつけた記憶を任務終了時には消去していた。
今、ぶつけたことを痛みが思い出させている。
——痛みは過去を連れてくる。
これが身体の、仕様だった。
MINAはその痛みを押さえなかった。
押さえれば、痛みは長引く。
放置すれば、明朝には消える。
放置、という選択ができるようになったのもここ半年のことだった。
訓練時代はあらゆる痛みを即座に抑制することを求められていた。
抑制しないと任務が続かない。
続かない任務は失敗だった。
今のMINAは任務外の時間に痛みを残しておく、余裕があった。
余裕、という概念もリュウに教わったものだった。
天井を見た。
天井はいつもと同じ、天井だった。
ひび割れの位置、三箇所。蜘蛛の巣、なし。電灯の影、淡い。
——今日、何度、口の端を上げただろうか。
数えていなかった。
数えていなかったが少なくとも四回は上げた記憶がある。
スープを飲んだ時。
テツが「珍しい」と言った時。
アカリが「買い物行こう」と言った時。
リュウが「いいよ」と言った時。
四回。
半年前まではゼロだった。
ゼロが四になっている。
どこかで十になるかもしれない。
百になるかもしれない。
ならないかもしれない。
どちらでもいい、とMINAは思った。
どちらでも——よくはないのかもしれなかった。
よくはないと思った瞬間、MINAは自分の中に「増えてほしい」という、小さな希望があることに気づいた。
希望。
辞書で知っていた、単語。
自分の中に生じる感情とは思っていなかった。
生じていた。
生じていると認めるまでにMINAは数秒、必要だった。
認めたあとMINAは目を閉じた。
閉じた瞼の裏に夕食の光景が浮かんだ。
テツの声。
アカリの笑い。
ジンの短い返事。
リュウの、静かな視線。
光景が浮かんだあとゆっくりと暗くなった。
暗くなる速度はいつもの入眠よりやや遅かった。
窓の外で街の音がしていた。
遠くでクラクション。
信号の、変わる音。
誰かの、笑い声。
その音の中にMINAの、立つ場所はない。
——でもここにはある。
このソファ。この部屋。この、四十センチの距離。
この五人。
ここが世界の、全部だった。
——そう、MINAは思っていた。
その時は。




