第45話「それぞれの打ち合わせ」
朝、柊遼は防衛省に行く支度をする。
スーツ。鞄。コーヒー。
リビングに凛がいる。台本を読みながらトーストをかじっていた。華はまだ起きていない。
「行ってきます」
「うん」
凛はページをめくった。顔も上げなかった。
玄関のドアが閉まる音。
凛はトーストを一口食べた。
(本当に普通に言う)
日本のサイバーインフラを直しに行く人間の「行ってきます」が、プリンを買いに行く人間のそれと完全に同じ音程だった。
まあ、遼だから。
凛は台本のページを戻した。朝から重い台詞が並んでいる。今日の神崎の現場は午後から。それまでに頭を作らなければいけない。
遼のことは忘れた。
防衛省市ヶ谷地区。五回目の会議。
入館手続きは十八分で終わった。先週より二分短い。宮脇係長がさらさらと何かを書いた。
「今日は何ページになりますか」と遼が聞いた。
「未定です」と宮脇が言った。
「そうですか」と遼が言った。
宮脇がさらさらと書いた。
会議室に入ると、黒木統括官と田所三佐がすでにいた。田所が遼を見て「お疲れ様です」とだけ言った。昨日の件を引きずっている顔だ。
資料が配られた。今日の議題——「民間技術者の権限範囲の策定について」。
三ページで読み終えた。
「黒木統括官」
「はい」
「これも前例がありませんか」
黒木が止まった。
「……前例がありません」
「前回も同じことを言っていましたが」
「……前回とは別の前例がありません」
しん、とした。空調の音だけが聞こえる。遼は資料の四ページ目を開いた。
「前例がないことの前例、というのは存在しますか」
黒木が止まった。完全に止まった。
一秒。五秒。十秒。
「……初めて、聞かれました」
「ただいまの問いを記録しました」と宮脇が言った。ペンがさらさらと動く。
田所が遼の隣で小声で言った。
「柊さん、めちゃくちゃ正しいことを言っています」
「そうですか」
「正しいんですが……」
「正しくてもまずいですか」
「正しいからこそ……」
田所が窓の外を見た。市ヶ谷の空。曇りだ。
黒木が水を一口飲んだ。慎重に、ゆっくり。
「柊さん」
「はい」
「今の問いは……」
黒木が言葉を探した。何秒も探した。
この組織の中で優秀であることと、この会議室の外で優秀であることが、同じ方向を向いていない。遼はそれを不思議に思う。悪意があるわけではない。全員が真剣で、全員が自分の職務を全うしようとしている。でも全部が少しずつ、ずれている。
「……手順があります」と黒木は言った。
「前例がないことへの手順ですか」
「……手順には前例があります」
「前例がないことへの手順の前例は存在しますか」
黒木が止まった。
田所がひそかに顔を覆った。
宮脇のペンがさらさらさらさらと動いた。いつもより速い。
「……」と黒木が言った。
「沈黙も記録します」と宮脇が言った。
「記録しなくていい!!」と黒木が言った。初めて声が大きくなった。
「記録します」
「宮脇係長!!」
「記録が職務ですので」
「今のは——今のは記録しなくていい!!」
「除外には上長の許可が必要でして」
「私が上長です!!」
「口頭指示だけでは——」
「書面を出す!!」と黒木が言った。「様式を持ってきなさい」
「承知しました」
宮脇が立った。ドアを開けて廊下へ出た。五秒後に戻ってきた。
「ただいま上長による記録除外申請書(第三号様式)をお持ちしました」
黒木が無言で受け取った。
遼は黒木を見ていた。
黒木統括官は、この書類に署名して、今の沈黙の記録を消せる。消せば、何も起きなかったことになる。
日本のどこかのシステムに、今この瞬間も脆弱性が十五カ所残っている。
その事実と、この会議室と、この様式と、この沈黙が、全部つながっている。つながっているのに、誰もそれを声に出さない。
遼はそれが不思議だった。
黒木が書類に署名した。
「……記録から除外します」
「承知しました」と宮脇が書類を受け取った。「ただし、除外申請の事実自体は記録いたします」
黒木が目をつぶった。
田所がまた窓の外を見た。
遼は「そうですか」と言って、資料の次のページを開いた。
会議が終わったのは昼過ぎ。
廊下を歩きながら、田所が遼の隣に並んだ。
「柊さん」
「はい」
「さっきの問いは——意図してやっていましたか」
「分からないことを聞いただけです」
「分からなかったんですか」
「前例がないことに手順があるなら、その手順には前例があるはずで、その前例に前例がないケースの話を、誰も教えてくれなかったので」
田所がしばらく歩いた。
「……正直に言います」
「はい」
「それは前例がないんです」
「はい」
「ですので、今日の会議を受けて、上の方で検討が始まります」
「何の検討ですか」
「前例がないことへの手順を策定するかどうかについての検討です」
遼が止まった。
「検討のための会議がありますか」
「……あります」
「何回くらいですか」
「……四回から六回程度かと」
遼が窓の外を見た。
「……そうですか」
「……そうなんです」と田所が言った。
二人でしばらく無言で歩いた。こつこつと足音が廊下に響く。
「田所三佐は」と遼が言った。
「はい」
「この仕組みについて、どう思っていますか」
田所が止まった。
「……私は自衛官ですので、組織の判断に従います」
「それは聞いていません」
「……え」
「田所三佐個人が、どう思っているかを聞いています」
田所はしばらく黙った。遼を見た。圧をかけているわけではない。ただ聞いている顔だ。
「……変えたいと思っています」
「そうですか」
「でも——」田所が少し声を落とした。「どこから変えればいいか、が分からなくて」
「今日の会議録を読めば分かると思います」
「……宮脇さんが記録していれば、の話ですが」
「除外申請の事実も記録すると言っていたので」
田所がしばらく黙った。それから、小さく笑った。
「……なるほど」
「宮脇さんは優秀だと思います」
「……同感です」と田所は言った。「本人には絶対に言いませんが」
遼は「そうですか」と言って、また歩き始めた。
同じ日の午後。
製作会社のスタジオに、柊華と水城蒼真がいた。
映画「MINA:復讐の悲しき暗殺者」の台本読み合わせ。
正確には、顔合わせ前の事前打ち合わせだ。プロデューサーが「事前に台本の感触を確かめていただければ」と時間を設けた。
前の現場から続いている感触が、空気に出ていた。最初の挨拶が短かった。「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」だけで、すぐに台本を広げた。初顔合わせの人間のやり取りではない。先週も会っていた人間のやり取りだ。
でも二人とも、それに気づいていない。
華が台本を開いた。付箋が三枚、貼ってある。
「このシーンなんですが」
「どこですか」
「三十四ページ、リュウとMINAが初めて向き合う場面」
蒼真がページをめくる。黙っている時間が、前の現場より短い。
「ここですね」
「リュウって、どういう気持ちでMINAを育てたんだと思いますか」
蒼真が少し考えた。台本のセリフを指でなぞる。
「……最初は、駒として育てたんだと思います」
「最初は?」
「どこかで変わったんだと思って。妹として扱い始めたのか、それとも別の感情が入ってきたのか——台本だと、そこの境目が書かれていないんですよね」
「そこが気になって」と華が言った。「書かれていないってことは、リュウ自身も気づいていなかったのかもしれなくて」
「自分の感情に気づかないまま動いた、ということですか」
「気づいていたら、あの選択をしなかったかもしれない。全部壊して一緒に来い、って言う前に——立ち止まれたかもしれない」
蒼真が台本を閉じた。
「……立ち止まれなかった人の話、ですね」
「そう思う」
「だからMINAが泣きながら刃を抜く、というのが分かる気がします。怒っているんじゃなくて——」
「悲しいんだよね」と華が続けた。「怒りと悲しみが混ざってる」
「その混ざり方が、演じる上で難しくて」
「蒼真くんはリュウがなぜ手を抜いたと思いますか」
蒼真が少し止まった。
「……どっちも正しいと思います」
「どっちも?」
「助けるために殺させる。MINAに生きてほしいから、自分が死ぬ側に回った。それが一つ。もう一つは——最後まで自分の感情に気づかないまま死んだ」
「それは愛情ですか、傲慢ですか」
蒼真が少し長い間、黙った。
華も黙った。
スタジオの中で、空調の音がかすかに聞こえる。
「……どっちでもある、と思います」と蒼真は言った。
「どっちでもある」
「愛情だから傲慢になれた。傲慢だったから愛情が本物だった。どちらかを消すともう一方が成立しない」
華が台本を開いた。
「……俺の話じゃないですか、それ」と蒼真が言った。
華が止まった。
「どういう意味ですか」
「台本の話ですけど——」蒼真が少し咳払いをした。「リュウの話をしているつもりで、どこかで自分の話をしているような気がして」
「蒼真くんにもそういう人がいますか」
「台本の話です」
「台本の話ですね」と華が言った。
二人でしばらく台本を見た。
「MINAが最後に「行くよ」と言うシーンなんですが」と華が続けた。
「はい」
「涙を拭いて「行くよ」。この「行くよ」は、誰に言っているんだと思いますか」
「仲間に、ですよね」
「他にも意味があるかな、と思って」
「他に誰に」
「死んだ人たちに——ジンとアカリとテツ、あとリュウにも——「行くよ」って言っている気がして」
蒼真が少し考えた。
「……前に進む、という宣言でもあるのかもしれない」
「そう。泣き終えた人間が言う「行くよ」って、また会いに行くんじゃなくて、ここから動くっていう意味で」
「演じる上で、どう捉えていますか」
「まだ分からない」と華は言った。「でも分からないまま演じてみようと思ってる。分かってから演じると、計算になるから」
「分からないまま演じる、って……できるんですか」
「できるかどうかも分からないですよ」
華が笑った。蒼真も少し笑った。
廊下の端。
宮本奈々がそこにいた。
別の仕事の合間に、このスタジオに用があって立ち寄った。廊下を歩いていたら、向こうの部屋のドアが半開きで、声が漏れてきた。
立ち止まった。
中の話は聞こえない。声の質だけが聞こえる。
華の声が、台本を読んでいるときと台本の外にいるときで、少し変わる。さっきは台本の外にいた。蒼真の声も同じで、どこか別のところから話していた。
(分かりやすいなあ)
奈々はショートピースをポケットから出した。ここは禁煙なのでしまった。
台本相談というのはいい道具だな、と思う。本人たちが気づかないまま、お互いの奥の方を話せる。怖くないから話せる。話せるから近づく。
華の方は、まだ気づいていないだろう。何かに当たった顔をしている。でも何に当たったのかを、本人がまだ整理していない。
蒼真の方は——だいぶ気づいている。でも言えない。前の現場でそれを確認済みだ。
奈々は壁に背中を預けた。天井を見た。
(本日の台本相談、何分になったんだろう)
正確には計っていないが、声の密度からすると一時間は越えている。
ドアが開いた。
華と蒼真が出てきた。二人とも少し顔が明るい。何か良いものに当たったときの顔だ。
「奈々さん、いたんですか」と華が言った。
「通りがかった」
「また通りがかり」
「この辺に用があったから」
蒼真が「お疲れ様です」と言った。奈々が「お疲れ」と返した。
「二人とも顔がいい」と奈々が言った。
「台本相談してたので」と華が言った。
「何分くらい」
華と蒼真が顔を見合わせた。
「……分からないですね」と蒼真が言った。
「長かったですか」と華が奈々に聞いた。
「声の感じからするとそれなりに」
「あんまり時計見てなかった」
「それはそれでいい」と奈々は言った。
二人が帰っていく後ろ姿を見ながら、奈々は廊下に一人で立っていた。
(本日の台本相談、八十七分くらいかな)
声の密度で推測しただけだ。廊下を通りかかったのはほんの数分前だが、あの二人の話し方からすると、相当前から続いていたはずだ。
ははっ、と小さく笑った。
今日の華の顔は、前の現場より少し変わっている。台本の中の人に当たった顔ではなく、台本の外の誰かに当たった顔。その「誰か」が誰なのかを、華はまだ言語化していない。
それでいい。
奈々はポケットのショートピースを確かめた。外に出たら吸おう。
夜、柊家。
遼が帰ってきた。キッチンで炊き込みご飯を作り始める。
凛が台本から目を上げた。
「遼、今日どうだった」
「前例がないことの前例が生成されそう」
「どういう意味」
「前例がないことを「初めて聞かれた」と言われたから、次の会議では前例になると思う」
「……分かるような分からないような」
「そういう話」
しばらくして、華が帰ってきた。玄関で靴を脱ぐ音。それからバッグを置く音。それから冷蔵庫を開ける音。
「お疲れ」と凛が言った。
「お疲れ。今日どうだった」と遼がキッチンから聞いた。
「MINAの台本相談」
「蒼真くんと?」と凛が言った。
「うん。リュウがなぜ手を抜いたのかって話を」
「どういう結論になったの」
「結論は出なかった。でも——」
華が少し止まった。
「でも?」と凛が聞いた。
「愛情と傲慢は、どっちも本物だと思う、って話になって。それが答えかもしれない」
凛がページをめくる手を止めた。
「……水城くんが言ったの」
「うん」
「どんな言い方で」
「どんな言い方……って、普通に台本の話として」
「普通に」
「普通に台本の話として」
凛と華がしばらく見合った。
「遼」と凛が言った。
「なに」
「華、顔赤い」
「赤くない!!」と華が言った。
「赤い」と遼がキッチンから言った。
「赤くない!! 台本の話をしてただけ!!」
「そうか」と遼が言った。
「遼!! もう少し言って!!」
「……台本の話にしては顔が赤い」
「遼!!!!」
凛が少し笑った。
「お姉ちゃん、遼、今日も防衛省に行ってたんでしょ」と華が言った。防衛省の話に変えようとしている。
「行ってた」と遼が言った。
「国守ってた?」
「まあ」
「まあって何よ!!」
「守ってたと思う」
「なんで他人事なの!!」
「自分でやってたので他人事じゃないんですが」
「なんで敬語!!」
凛が台本を置いた。華が遼の背中を見た。遼は炊き込みご飯をよそいながら「飯にするか」と言った。
翌朝。
宮脇から添付ファイルが届いた。
件名:「議事録(第五回)」。
開いた。
四十ページ。
遼はゆっくりスクロールした。
途中のページで、括弧書きの記録が目に入った。
「(柊氏、七秒間の沈黙の後、窓の外を見る)」
「(黒木統括官、十秒間の沈黙。その後「初めて聞かれました」と発言)」
「(田所三佐、窓の外を見る。三秒後、前を向く)」
遼は宮脇に返信した。
「沈黙の除外申請が記録されているページは何ページありますか」
返信は一分で来た。
「十七ページです」
遼はスマホを置いた。
「……」
三秒後、宮脇から返信が来た。
「ただいまの沈黙も記録します」
遼はスマホを置いた。
もう一度首をかしげた。
宮脇という人間は、本気で言っているのか冗談で言っているのか、いつも分からない。分からないまま四十ページの議事録が届く。
次の会議は来週だ。




