表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

186/193

第45話「それぞれの打ち合わせ」

 朝、(ひいらぎ)(りょう)は防衛省に行く支度をする。


 スーツ。鞄。コーヒー。


 リビングに凛がいる。台本を読みながらトーストをかじっていた。華はまだ起きていない。


「行ってきます」


「うん」


 凛はページをめくった。顔も上げなかった。


 玄関のドアが閉まる音。


 凛はトーストを一口食べた。


 (本当に普通に言う)


 日本のサイバーインフラを直しに行く人間の「行ってきます」が、プリンを買いに行く人間のそれと完全に同じ音程だった。


 まあ、遼だから。


 凛は台本のページを戻した。朝から重い台詞が並んでいる。今日の神崎の現場は午後から。それまでに頭を作らなければいけない。


 遼のことは忘れた。


   


 防衛省市ヶ谷地区。五回目の会議。


 入館手続きは十八分で終わった。先週より二分短い。宮脇(みやわき)係長がさらさらと何かを書いた。


「今日は何ページになりますか」と遼が聞いた。


「未定です」と宮脇が言った。


「そうですか」と遼が言った。


 宮脇がさらさらと書いた。


 会議室に入ると、黒木(くろき)統括官と田所(たどころ)三佐がすでにいた。田所が遼を見て「お疲れ様です」とだけ言った。昨日の件を引きずっている顔だ。


 資料が配られた。今日の議題——「民間技術者の権限範囲の策定について」。


 三ページで読み終えた。


「黒木統括官」


「はい」


「これも前例がありませんか」


 黒木が止まった。


「……前例がありません」


「前回も同じことを言っていましたが」


「……前回とは別の前例がありません」


 しん、とした。空調の音だけが聞こえる。遼は資料の四ページ目を開いた。


「前例がないことの前例、というのは存在しますか」


 黒木が止まった。完全に止まった。


 一秒。五秒。十秒。


「……初めて、聞かれました」


「ただいまの問いを記録しました」と宮脇が言った。ペンがさらさらと動く。


 田所が遼の隣で小声で言った。


「柊さん、めちゃくちゃ正しいことを言っています」


「そうですか」


「正しいんですが……」


「正しくてもまずいですか」


「正しいからこそ……」


 田所が窓の外を見た。市ヶ谷の空。曇りだ。


 黒木が水を一口飲んだ。慎重に、ゆっくり。


「柊さん」


「はい」


「今の問いは……」


 黒木が言葉を探した。何秒も探した。


 この組織の中で優秀であることと、この会議室の外で優秀であることが、同じ方向を向いていない。遼はそれを不思議に思う。悪意があるわけではない。全員が真剣で、全員が自分の職務を全うしようとしている。でも全部が少しずつ、ずれている。


「……手順があります」と黒木は言った。


「前例がないことへの手順ですか」


「……手順には前例があります」


「前例がないことへの手順の前例は存在しますか」


 黒木が止まった。


 田所がひそかに顔を覆った。


 宮脇のペンがさらさらさらさらと動いた。いつもより速い。


「……」と黒木が言った。


「沈黙も記録します」と宮脇が言った。


「記録しなくていい!!」と黒木が言った。初めて声が大きくなった。


「記録します」


「宮脇係長!!」


「記録が職務ですので」


「今のは——今のは記録しなくていい!!」


「除外には上長の許可が必要でして」


「私が上長です!!」


「口頭指示だけでは——」


「書面を出す!!」と黒木が言った。「様式を持ってきなさい」


「承知しました」


 宮脇が立った。ドアを開けて廊下へ出た。五秒後に戻ってきた。


「ただいま上長による記録除外申請書(第三号様式)をお持ちしました」


 黒木が無言で受け取った。


 遼は黒木を見ていた。


 黒木統括官は、この書類に署名して、今の沈黙の記録を消せる。消せば、何も起きなかったことになる。


 日本のどこかのシステムに、今この瞬間も脆弱性が十五カ所残っている。


 その事実と、この会議室と、この様式と、この沈黙が、全部つながっている。つながっているのに、誰もそれを声に出さない。


 遼はそれが不思議だった。


 黒木が書類に署名した。


「……記録から除外します」


「承知しました」と宮脇が書類を受け取った。「ただし、除外申請の事実自体は記録いたします」


 黒木が目をつぶった。


 田所がまた窓の外を見た。


 遼は「そうですか」と言って、資料の次のページを開いた。


   


 会議が終わったのは昼過ぎ。


 廊下を歩きながら、田所が遼の隣に並んだ。


「柊さん」


「はい」


「さっきの問いは——意図してやっていましたか」


「分からないことを聞いただけです」


「分からなかったんですか」


「前例がないことに手順があるなら、その手順には前例があるはずで、その前例に前例がないケースの話を、誰も教えてくれなかったので」


 田所がしばらく歩いた。


「……正直に言います」


「はい」


「それは前例がないんです」


「はい」


「ですので、今日の会議を受けて、上の方で検討が始まります」


「何の検討ですか」


「前例がないことへの手順を策定するかどうかについての検討です」


 遼が止まった。


「検討のための会議がありますか」


「……あります」


「何回くらいですか」


「……四回から六回程度かと」


 遼が窓の外を見た。


「……そうですか」


「……そうなんです」と田所が言った。


 二人でしばらく無言で歩いた。こつこつと足音が廊下に響く。


「田所三佐は」と遼が言った。


「はい」


「この仕組みについて、どう思っていますか」


 田所が止まった。


「……私は自衛官ですので、組織の判断に従います」


「それは聞いていません」


「……え」


「田所三佐個人が、どう思っているかを聞いています」


 田所はしばらく黙った。遼を見た。圧をかけているわけではない。ただ聞いている顔だ。


「……変えたいと思っています」


「そうですか」


「でも——」田所が少し声を落とした。「どこから変えればいいか、が分からなくて」


「今日の会議録を読めば分かると思います」


「……宮脇さんが記録していれば、の話ですが」


「除外申請の事実も記録すると言っていたので」


 田所がしばらく黙った。それから、小さく笑った。


「……なるほど」


「宮脇さんは優秀だと思います」


「……同感です」と田所は言った。「本人には絶対に言いませんが」


 遼は「そうですか」と言って、また歩き始めた。


   


 同じ日の午後。


 製作会社のスタジオに、(ひいらぎ)(はな)水城(みずき)蒼真(そうま)がいた。


 映画「MINA:復讐の悲しき暗殺者」の台本読み合わせ。


 正確には、顔合わせ前の事前打ち合わせだ。プロデューサーが「事前に台本の感触を確かめていただければ」と時間を設けた。


 前の現場から続いている感触が、空気に出ていた。最初の挨拶が短かった。「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」だけで、すぐに台本を広げた。初顔合わせの人間のやり取りではない。先週も会っていた人間のやり取りだ。


 でも二人とも、それに気づいていない。


 華が台本を開いた。付箋が三枚、貼ってある。


「このシーンなんですが」


「どこですか」


「三十四ページ、リュウとMINAが初めて向き合う場面」


 蒼真がページをめくる。黙っている時間が、前の現場より短い。


「ここですね」


「リュウって、どういう気持ちでMINAを育てたんだと思いますか」


 蒼真が少し考えた。台本のセリフを指でなぞる。


「……最初は、駒として育てたんだと思います」


「最初は?」


「どこかで変わったんだと思って。妹として扱い始めたのか、それとも別の感情が入ってきたのか——台本だと、そこの境目が書かれていないんですよね」


「そこが気になって」と華が言った。「書かれていないってことは、リュウ自身も気づいていなかったのかもしれなくて」


「自分の感情に気づかないまま動いた、ということですか」


「気づいていたら、あの選択をしなかったかもしれない。全部壊して一緒に来い、って言う前に——立ち止まれたかもしれない」


 蒼真が台本を閉じた。


「……立ち止まれなかった人の話、ですね」


「そう思う」


「だからMINAが泣きながら刃を抜く、というのが分かる気がします。怒っているんじゃなくて——」


「悲しいんだよね」と華が続けた。「怒りと悲しみが混ざってる」


「その混ざり方が、演じる上で難しくて」


「蒼真くんはリュウがなぜ手を抜いたと思いますか」


 蒼真が少し止まった。


「……どっちも正しいと思います」


「どっちも?」


「助けるために殺させる。MINAに生きてほしいから、自分が死ぬ側に回った。それが一つ。もう一つは——最後まで自分の感情に気づかないまま死んだ」


「それは愛情ですか、傲慢ですか」


 蒼真が少し長い間、黙った。


 華も黙った。


 スタジオの中で、空調の音がかすかに聞こえる。


「……どっちでもある、と思います」と蒼真は言った。


「どっちでもある」


「愛情だから傲慢になれた。傲慢だったから愛情が本物だった。どちらかを消すともう一方が成立しない」


 華が台本を開いた。


「……俺の話じゃないですか、それ」と蒼真が言った。


 華が止まった。


「どういう意味ですか」


「台本の話ですけど——」蒼真が少し咳払いをした。「リュウの話をしているつもりで、どこかで自分の話をしているような気がして」


「蒼真くんにもそういう人がいますか」


「台本の話です」


「台本の話ですね」と華が言った。


 二人でしばらく台本を見た。


「MINAが最後に「行くよ」と言うシーンなんですが」と華が続けた。


「はい」


「涙を拭いて「行くよ」。この「行くよ」は、誰に言っているんだと思いますか」


「仲間に、ですよね」


「他にも意味があるかな、と思って」


「他に誰に」


「死んだ人たちに——ジンとアカリとテツ、あとリュウにも——「行くよ」って言っている気がして」


 蒼真が少し考えた。


「……前に進む、という宣言でもあるのかもしれない」


「そう。泣き終えた人間が言う「行くよ」って、また会いに行くんじゃなくて、ここから動くっていう意味で」


「演じる上で、どう捉えていますか」


「まだ分からない」と華は言った。「でも分からないまま演じてみようと思ってる。分かってから演じると、計算になるから」


「分からないまま演じる、って……できるんですか」


「できるかどうかも分からないですよ」


 華が笑った。蒼真も少し笑った。


   


 廊下の端。


 宮本(みやもと)奈々(なな)がそこにいた。


 別の仕事の合間に、このスタジオに用があって立ち寄った。廊下を歩いていたら、向こうの部屋のドアが半開きで、声が漏れてきた。


 立ち止まった。


 中の話は聞こえない。声の質だけが聞こえる。


 華の声が、台本を読んでいるときと台本の外にいるときで、少し変わる。さっきは台本の外にいた。蒼真の声も同じで、どこか別のところから話していた。


 (分かりやすいなあ)


 奈々はショートピースをポケットから出した。ここは禁煙なのでしまった。


 台本相談というのはいい道具だな、と思う。本人たちが気づかないまま、お互いの奥の方を話せる。怖くないから話せる。話せるから近づく。


 華の方は、まだ気づいていないだろう。何かに当たった顔をしている。でも何に当たったのかを、本人がまだ整理していない。


 蒼真の方は——だいぶ気づいている。でも言えない。前の現場でそれを確認済みだ。


 奈々は壁に背中を預けた。天井を見た。


 (本日の台本相談、何分になったんだろう)


 正確には計っていないが、声の密度からすると一時間は越えている。


 ドアが開いた。


 華と蒼真が出てきた。二人とも少し顔が明るい。何か良いものに当たったときの顔だ。


「奈々さん、いたんですか」と華が言った。


「通りがかった」


「また通りがかり」


「この辺に用があったから」


 蒼真が「お疲れ様です」と言った。奈々が「お疲れ」と返した。


「二人とも顔がいい」と奈々が言った。


「台本相談してたので」と華が言った。


「何分くらい」


 華と蒼真が顔を見合わせた。


「……分からないですね」と蒼真が言った。


「長かったですか」と華が奈々に聞いた。


「声の感じからするとそれなりに」


「あんまり時計見てなかった」


「それはそれでいい」と奈々は言った。


 二人が帰っていく後ろ姿を見ながら、奈々は廊下に一人で立っていた。


 (本日の台本相談、八十七分くらいかな)


 声の密度で推測しただけだ。廊下を通りかかったのはほんの数分前だが、あの二人の話し方からすると、相当前から続いていたはずだ。


 ははっ、と小さく笑った。


 今日の華の顔は、前の現場より少し変わっている。台本の中の人に当たった顔ではなく、台本の外の誰かに当たった顔。その「誰か」が誰なのかを、華はまだ言語化していない。


 それでいい。


 奈々はポケットのショートピースを確かめた。外に出たら吸おう。


   


 夜、柊家。


 遼が帰ってきた。キッチンで炊き込みご飯を作り始める。


 凛が台本から目を上げた。


「遼、今日どうだった」


「前例がないことの前例が生成されそう」


「どういう意味」


「前例がないことを「初めて聞かれた」と言われたから、次の会議では前例になると思う」


「……分かるような分からないような」


「そういう話」


 しばらくして、華が帰ってきた。玄関で靴を脱ぐ音。それからバッグを置く音。それから冷蔵庫を開ける音。


「お疲れ」と凛が言った。


「お疲れ。今日どうだった」と遼がキッチンから聞いた。


「MINAの台本相談」


「蒼真くんと?」と凛が言った。


「うん。リュウがなぜ手を抜いたのかって話を」


「どういう結論になったの」


「結論は出なかった。でも——」


 華が少し止まった。


「でも?」と凛が聞いた。


「愛情と傲慢は、どっちも本物だと思う、って話になって。それが答えかもしれない」


 凛がページをめくる手を止めた。


「……水城くんが言ったの」


「うん」


「どんな言い方で」


「どんな言い方……って、普通に台本の話として」


「普通に」


「普通に台本の話として」


 凛と華がしばらく見合った。


「遼」と凛が言った。


「なに」


「華、顔赤い」


「赤くない!!」と華が言った。


「赤い」と遼がキッチンから言った。


「赤くない!! 台本の話をしてただけ!!」


「そうか」と遼が言った。


「遼!! もう少し言って!!」


「……台本の話にしては顔が赤い」


「遼!!!!」


 凛が少し笑った。


「お姉ちゃん、遼、今日も防衛省に行ってたんでしょ」と華が言った。防衛省の話に変えようとしている。


「行ってた」と遼が言った。


「国守ってた?」


「まあ」


「まあって何よ!!」


「守ってたと思う」


「なんで他人事なの!!」


「自分でやってたので他人事じゃないんですが」


「なんで敬語!!」


 凛が台本を置いた。華が遼の背中を見た。遼は炊き込みご飯をよそいながら「飯にするか」と言った。


   


 翌朝。


 宮脇から添付ファイルが届いた。


 件名:「議事録(第五回)」。


 開いた。


 四十ページ。


 遼はゆっくりスクロールした。


 途中のページで、括弧書きの記録が目に入った。


「(柊氏、七秒間の沈黙の後、窓の外を見る)」


「(黒木統括官、十秒間の沈黙。その後「初めて聞かれました」と発言)」


「(田所三佐、窓の外を見る。三秒後、前を向く)」


 遼は宮脇に返信した。


「沈黙の除外申請が記録されているページは何ページありますか」


 返信は一分で来た。


「十七ページです」


 遼はスマホを置いた。


「……」


 三秒後、宮脇から返信が来た。


「ただいまの沈黙も記録します」


 遼はスマホを置いた。


 もう一度首をかしげた。


 宮脇という人間は、本気で言っているのか冗談で言っているのか、いつも分からない。分からないまま四十ページの議事録が届く。


 次の会議は来週だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ