第44話「脆弱性」
三回目の会議が終わったのは先週の木曜で、四回目が今日だ。
三回目と四回目の間に何があったかというと、資料が届いた。「民間技術者の活用に関する基本方針(案)第二稿」。第一稿から変わった箇所が十三カ所ある。変わった内容は表紙の日付と、委員会名称の表記と、あとは全部「前例がありません」という文言の言い回しの調整だった。
柊遼は地下鉄の中でそれを読んで、スマホをポケットにしまった。
市ヶ谷の改札を出る。いつも通りの入館手続き。今日は二十分で終わった。先週より二十分早い。宮脇係長が「今日は書類の追加がございません」と言った。遼は「そうですか」と言った。宮脇がさらさらと何かを書いた。
会議室に入ると、黒木統括官と田所三佐がすでに着席していた。
「本日の議題ですが」と黒木が言った。「実際のシステムへのアクセスについて——」
遼は少し止まった。
「……今日から見られるんですか」
「はい。四回の会議を経て、ようやく許可が」
「四回でよかったんですか」
「……まあ、ケースによりますが」
遼は「そうですか」と言って、椅子を引いた。
システムへのアクセス端末は、会議室の隣の小部屋にあった。
白い机。モニターが二台。キーボード。部屋の窓は小さく、外の光が細く入っている。
田所が「こちらです」と言って、端末の前の椅子を示した。遼は座った。ログイン手続きを済ませて、モニターを見た。
しん、とした。
宮脇がドアの脇でノートを開いている。田所が遼の斜め後ろに立っている。黒木が入口近くに立っている。
遼はキーボードを触り始めた。
最初の十分で、構造の全体像が見えた。
二十分で、問題の場所が頭の中で整理できた。
三十分で、入口と出口が分かった。
昼ごはんの時間を挟んで、午後に戻ってきた。数えながら続けた。
三時間後。
遼はキーボードから手を離した。
田所が「……何が分かりましたか」と聞いた。声が少し慎重な種類の慎重さだった。
「全部」
田所が止まった。
「……全部、というのは」
「入口と出口と、あと三十二カ所の問題点」
「……三十二」
「数えました」
田所が少しの間、何も言わなかった。それから椅子を引いて、深く座り直した。
「我々は半年かけて七カ所しか——」
「そうですか」
「……三時間で、ですか」
「昼ごはん食べながらだったので少し時間かかりました」
田所がもう一度、椅子に深く座り直した。今度は少し時間をかけて座り直した。黒木が壁を見た。宮脇がさらさらと書いた。
「直せますか」と田所が聞いた。
「直せます。順番があるので、手順どおりにやれば」
「その手順を、次回の会議で——」
「会議の前に仮対処だけしておいた方がいいと思います」
「……仮対処というのは」
「緊急性の高い箇所だけ、先に塞いでおく」
「それは、手順が——」
「攻撃されてからでは遅いので」
田所がまた椅子に深く座り直した。三回目だった。今日の田所は椅子に深く座り直す日だ、と遼は思った。
「…………正論です」
「そうですか」
「ただ、手順が——」
「手順は手順として進めます。並行でできます」
田所が黒木を見た。黒木が田所を見た。宮脇のペンが一瞬止まって、また動いた。
窓の外に市ヶ谷の空。青い。雲が少しある。
「……分かりました」と田所が言った。「柊さんの判断を尊重します」
遼はうなずいた。
「では今夜、緊急性の高い箇所から始めます」
「……今夜、ですか」
「待ってる間に直せるところは直しておく方がいいので」
田所がまた椅子に——今日四回目、深く座り直した。
その夜。
遼は防衛省に残った。
田所が「お帰りになられますか」と言った。遼が「作業を進めてもいいですか」と聞くと、田所は少し止まって黒木に確認しに行った。十分後に「許可が出ました」と戻ってくる。顔が「どういう人なんですか」という顔をしていたが、何も言わなかった。
夜の防衛省は昼間より静かだった。廊下の人が減る。空調の音がよく聞こえる。
遼は端末の前に座った。一カ所直す。確認する。次へ。また直す。確認する。次へ。単純作業ではないが、手が覚えている種類の仕事だ。頭の半分が動いていれば十分で、残りの半分はぼんやりしていられる。
田所が「何か必要なものはありますか」と聞きに来た。遼が「水があれば」と言った。水が来た。
宮脇が「私も残ります」と言った。
「なんで」
「記録します」
「今夜は記録しなくていい」
「記録します」
そのままいた。
十七カ所目が終わったのは深夜だった。
遼は帰宅した。凛と華はすでに寝ていた。
翌朝。
遼は田所に連絡した。
「昨夜、十七カ所ほど直しました」
返信は三十秒で来た。
「……え」
返信はそこで止まった。
遼は「残りは手順が終わってから直します」と送った。
今度は返信が来るまで少し時間がかかった。
「……柊さん、それは」
「攻撃されてからでは遅いと思ったので」
また時間がかかった。
「……正論なんですが」
「そうですか」
「正論なんですが、その」
「何かまずかったですか」
「まずくは、ない、ん、ですが」
遼はスマホを見た。田所の句読点が増えている。何かに迷っている人間のメッセージの形だ。
「報告が必要ですか」と遼は送った。
「……必要、です。黒木統括官に」
「お願いします」
「……私が報告するんですか」
「田所三佐がした方がいいと思います」
また間が空いた。
「……分かりました」
スマホを置いた。
遼はコーヒーを飲んだ。
華が「おはよう」と言った。眠そうな顔だった。
「おかえりって、昨日の夜から帰ってなかったの」と凛が言った。台所から顔を出している。
「そう」
「防衛省に泊まったの?」
「泊まってない。深夜まで作業してた」
「何を」
「日本を直してた」
凛と華が少しの間だけ黙った。
「……朝からそういうこと言わないで」と凛が言った。
「事実だから」
「事実でも朝は重い」
「そうか」
華が「遼、ご飯食べてないでしょ」と言った。
「食べてない」
「作る」
「いい」
「作る」
華が冷蔵庫を開けた。凛が「何人分」と聞いた。華が「三人分」と言った。
遼はコーヒーを飲んだ。
「昨日、防衛省で何してたの」と凛が言った。
「システムを見てた」
「何が分かったの」
「三十二カ所問題があった」
凛が少し止まった。
「三十二カ所って何が」
「穴が」
「……日本に穴が三十二カ所」
「あった。十七カ所塞いだ」
凛がため息をついた。「朝から重い」
「事実だから」
「事実でも朝は重い!!」
華がフライパンをごとん、と置いた。「遼は三十二カ所見つけて十七カ所直したの?」
「そう」
「すごいね」
「普通だと思う」
「普通じゃない」と凛と華が同時に言った。
遼はコーヒーを飲んだ。
田所三佐は廊下を歩いていた。
黒木統括官の執務室まで、距離にして八十メートル。
田所は三十分、その八十メートルを歩けなかった。
廊下の窓から外を見た。市ヶ谷の空。雲が少しある。昨日と同じ空だ。
歩いた。七十メートル。また止まった。
手元のメモを見た。「昨夜、十七カ所、柊氏が個人的に修正」。文字で見ると余計に現実感が薄い。
六十メートル。止まった。
田所は一週間前の、あの会議室での遼の顔を思い出した。「我々は半年かけて七カ所しか」と言ったとき、遼は「そうですか」と言った。責めている感じではなかった。ただ確認した感じだった。それが余計に、ずっと頭に残っている。
五十メートル。止まった。
「田所三佐」
後ろから声がした。振り返ると宮脇係長が書類を持って立っていた。
「どちらに」
「……黒木統括官のところに」
「報告ですか」
「……そうです」
「柊氏の件ですか」
「……なんで分かるんですか」
「昨日から迷っている顔をされていましたので」
田所は少し止まった。
「……宮脇さんは、どう思いますか」
「私は議事録を作成する係ですので、意見は」
「それとは別に」
宮脇が少し考えた。
「……昨日の田所三佐の、椅子に深く座り直す動作が、四回ありました」
「……それは関係ないでしょ」
「記録しています」
「なんで!!」
「所作も含めて記録するよう心がけておりまして」
「そういう記録はいらない!!」
宮脇がさらさらと何かを書いた。今メモしているのか、とも思ったが田所はもう何も言わなかった。
「行ってきます」と田所は言った。
「お気をつけて」と宮脇は言った。
田所は残り五十メートルを歩いた。
ノックした。「どうぞ」という声。ドアを開けた。
黒木統括官が書類に目を落としていた。
「柊氏の件で報告があります」
黒木が顔を上げた。
「昨夜、柊氏が個人的に、十七カ所の脆弱性を修正しました」
黒木の表情が、少しの間だけ止まった。
「……十七カ所」
「はい」
「昨夜、一人で」
「はい」
「我々が半年かけて七カ所だったところを」
「はい」
黒木がペンを置いた。椅子に深く座り直した。
田所は「……私も昨日、同じことを考えました」と小声で言った。
黒木は何も言わなかった。
窓の外に、市ヶ谷の空が見えた。雲が少しある。
同じ日の昼過ぎ。
柊凛は、撮影所の廊下で封筒を受け取った。
マネージャーから渡された。神崎恒一の事務所からの封筒で、中に脚本が入っている。
「新作ですか」
「はい。読んでみてください、という伝言です」
凛はその場で封を切った。
脚本のタイトルページを開いた。役柄の説明書きが挟んである。
読んだ。
もう一度、読んだ。
役名は「須藤文」。三十代の女性。長年、感情を外に出さずに生きてきた。誰にも言えないことを抱えて、静かに笑って、折り合いをつけて生きてきた。それが最後の場面で、崩れる。
凛は少し止まった。
廊下を人が通る。スタッフの声が遠くから聞こえる。
脚本のページを閉じた。また開いた。最後の場面をもう一度読んだ。感情を押し込めてきた女が、一人の場面で、初めて声を上げる。台詞は短い。でも短い台詞の前後に、ト書きが細かく書いてある。神崎の脚本は、ト書きが細かい。細かいほど、その場面を大事にしているということだ。
廊下の窓から光が入っている。午後の光。
凛はスマホを取り出した。マネージャーに転送しようとして、止まった。
そうじゃない。
直接言うべきだ。
封筒をもう一度見た。差出人の住所の下に、事務所の番号が印刷してある。
かけた。
二コールで出た。
「神崎です」
「柊凛です。今、読みました」
「そうですか」
短い沈黙。神崎の沈黙はいつも短くて、でも密度がある。
「あなた、今ならできる」
凛は少し間を置いた。
「……やります」
「そうですか」
「やれるかどうかは分かりません。でも、やります」
「そうですか」
また短い沈黙。
「詳細はまた事務所を通じて」
「はい」
「楽しみにしています」
電話が切れた。
凛はスマホを持ったまま、廊下に立っていた。
心臓が少し速い。速いのか、それとも体の感じが変わったのかが、自分でもうまく区別できない。
「凛」
声がした。
鷹野千夏が廊下を歩いてきた。今日は同じスタジオで仕事が入っていた。
「なんか顔が違う」
「違う?」
「違う」千夏が立ち止まった。「何かあった」
「……神崎さんの新作に呼んでもらった」
「そりゃ顔も違くなる」
「断るという選択肢を、考えなかった」
「考えなかったの」
「考えなかった。怖いのに」と凛は言った。「怖いのに、やるって言ってた」
千夏が少し笑った。
「それが変わったってことでしょ」
「そうかな」
「そうだよ。前の凛だったら怖い仕事を「怖い」って思う前に全部計算してた」
「……今も計算してる」
「でも怖いって分かったでしょ」
凛は少し間を置いた。
「……分かった」
「ならいい。行こ、もう時間だよ」
千夏が歩き始めた。凛もその後を歩いた。
脚本は鞄の中に入っている。まだ温かい気がする。
夕方、凛が帰ってきた。
遼がキッチンにいた。華がリビングにいた。
「ただいま」
「おかえり」と華が言った。「お疲れ」と遼が言った。
凛はコートをかけて、椅子に座った。少し息をついた。
「神崎さんの新作、やることになった」
「そうか」と遼が言った。「頑張れ」
「もう少し言って!!」
「……内容は」
「感情を抑えてきた女が最後に爆発する話」
「似合いそう」
「どっちが? 抑えてきた方? 爆発した方?」
「どっちも」
凛が「なにそれ」と言った。遼が「どっちもできる方に見えるから」と言った。
凛は少し黙った。
「……ありがとう」
「普通のことを言った」
「普通じゃないよ、あんたには」
「そうか」
華がリビングから「おめでとうお姉ちゃん!」と言った。
「ありがとう」
「どんな役?」
「感情押し込めてる系」
「お姉ちゃんっぽいね!!」
「あんたに言われたくない!!」
「褒めてるの!!」
遼がキッチンで「飯にするか」と言った。
「何作ったの」と凛が聞いた。
「炊き込みご飯」
「いつもと違う」
「凛が何か良いことありそうな日だと思ったから」
「なんで?」
遼が少し止まった。
「……冗談」
「冗談!?」
「なんとなく言った」
「なんとなくでそういうこと言える?」
「……まあ、なんか」
凛が「遼、珍しいじゃん」と言った。
「そうか」
「変わった?」
「変わってない」
「変わったよ」と華が言った。「前はそういうこと言わなかった」
遼が「炊き込みご飯、食えよ」と言った。
「ごまかした」と凛が言った。
「ごまかしてない」
「ごまかした!!」
三人で夕飯を食べた。
凛が新作の話をした。遼は「そうか」と言いながら炊き込みご飯を食べている。
「神崎さんって怖くないの」と華が聞いた。
「怖い」
「なんでやるの」
「やれる気がするから」
「それって成長じゃん」と華が言った。
「うるさい」
炊き込みご飯が、思ったよりうまくできていた。




