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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第三部「守る人になりそうです」

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MINA:復讐の悲しき暗殺者 Part2「喪失」

MINA: The Assassin's Revenge


   


 帰ったら、誰もいなかった。


   


監督      椎名しいな拓郎たくろう

脚本      有村ありむら麻衣子まいこ

アクション監督 三上みかみ克己かつみ

音楽      みなみ遼平りょうへい

主題歌     硝子の月「悲哀」

製作      たちばな映画製作

配給      アークライト映像(架空)


   


MINA   ひいらぎはな(20歳)

リュウ  水城みずき蒼真そうま(21歳)

ジン   倉持くらもちゆう(23歳)

アカリ  野中のなかみお(21歳)

テツ   桐島きりしま大和やまと(22歳)

カイ   月岡つきおかじん(25歳)


   


 午前〇時十四分。


 CAGEのあるビルの、五十メートル手前でMINAは歩調を変えなかった。


 変えれば、見ている者に気づかれる。


 気づかれる、と仮定した時点でMINAの行動は確定する。


 歩調を通常通り、毎分百十歩に固定した。


 身体の、どの筋肉にも予備緊張をかけない。


 かければ、気配が変わる。


 変われば、上空からの目視でも赤外線でも識別される。


 ——何かが違う。


 MINAはその違和を言語化しなかった。


 言語化する前に感覚が警告を発していた。


 感覚の根拠は複数あった。


 一、向かいの商業ビルの、二階の、奥の照明が消えていた。


 普段、午前〇時まで点いている明かりだった。


 二、歩道の、電柱の下、普段は置かれていないダンボール箱が一つ、置いてあった。


 三、空気の、密度がわずかに重い。


 人の動いた気配の、残滓。


 ——一時間以内に複数人が通過している。


 MINAは計算を終えた。


 計算の結果、正面からは入らない。


   


 路地を一本、入った。


 東側の、搬入口の方へ回り込む。


 遠回り、二百メートル。


 遠回りの過程で周囲の監視カメラの、位置を再確認した。


 公道側、四台。


 うち、三台は角度が変わっていない。


 残り一台、ビルの入口に向いたものが五度、左に向きを変えていた。


 ——五度。


 わずかな変更。


 MINAが偵察でなければ、気づかない差。


 誰かが入口をよりよく、映るように動かした。


 MINAはそのカメラの視界に入らない経路を選んだ。


   


 建物の裏手、非常口。


 ドアが五ミリ、開いていた。


 MINAはその五ミリを三秒、見つめた。


 非常口のドアは内側からしか開かない機構。


 外から操作するには専用のピックが必要。


 MINAはそれを持っている。


 でも今夜は使っていない。


 つまり、誰かが中から開けた。


 中から出た、ということ。


 あるいは——出ようとして出られなかった、ということ。


 MINAはドアに指先を触れた。


 金属の温度、摂氏八度。


 外気よりも一度、低い。


 換気扇が外から空気を引き込んでいる。


 引き込まれた空気の流れの中に匂いが混じっていた。


 ——鉄。


 ——焦げた樹脂。


 ——燃焼後のガス。


 三つの匂いの組み合わせ。


 銃器の発射後、三十分から一時間の範囲で発生する組み合わせ。


 MINAはナイフを抜いた。


 刃長、十五センチ。


 抜いたあと腰の予備ホルスターから小型拳銃も抜いた。


 グロック19。マガジン、十五発。


 片手にナイフ。もう片手に銃。


 両手が埋まった。


 両手が埋まる装備をMINAが同時に選ぶのは訓練後、初めてだった。


   


 非常階段を音を立てずに昇った。


 七階まで百十四段。


 所要、九十秒。


 途中、一度も止まらなかった。


 止まれば、判断が先に立つ。


 判断が立てば、感覚の、警告を薄めてしまう。


 MINAは感覚の方を優先した。


 三階と四階の踊り場でMINAは階段の踏み板を指で触った。


 金属の踏み板。


 表面にわずかな湿り。


 ——昇った者の、靴底の水分。


 MINA以外の、誰かが最近、ここを通った。


 MINAは自分の手袋の、指先を湿らせた水滴を嗅いだ。


 無臭。


 雨でも汗でもない。


 水道水か、あるいは清掃に使われる、一般的な洗浄水。


 敵は侵入前に靴底を一度、洗っていた。


 痕跡を残さないため。


 ——プロの、仕事。


 MINAはその判断を追加した。


 追加してさらに昇った。


 五階、六階、七階。


 七階の廊下に出た。


 廊下の奥から二番目の蛍光灯が点滅していた。


 テツが「いい加減、替えないと」と数日前に言っていた蛍光灯。


 誰も替えていなかった。


 今夜はもう、誰も替えない。


 ——そういう日になるかもしれない。


 MINAはその予感を一度、頭から締め出した。


 締め出してCAGEのドアの前まで進んだ。


   


 ドアの、下の隙間からわずかに光が漏れていた。


 光が漏れていることそのものは異常ではない。


 CAGEでは夜中でも誰かが起きている。


 異常なのは光だけで音がないこと。


 MINAはドアの前で呼吸を止めた。


 止めて、三十秒、耳を澄ました。


 テレビの音、なし。


 キッチンの水音、なし。


 会話、なし。


 足音、なし。


 冷蔵庫のコンプレッサー音もなし。


 ——コンプレッサーが動いていない。


 停電、もしくは遮断。


 しかし、ドアの下から漏れる光は生きている。


 非常用電源だった。


 外部電源が意図的に切られている。


 MINAは電子ロックを起動した。


 カードキーをかざした。


 三重のロックの、一つずつを解除していく。


 三十四秒。


 普段と同じ時間。


 ドアを五センチだけ、開けた。


 匂いが強くなった。


 鉄。焦げた樹脂。燃焼後のガス。


 三つに加えて、もう一つ。


 人の、排泄物の、匂い。


 死後、括約筋が弛緩する時に発生する匂い。


 MINAはそれを知っていた。


 知っていて、認めたくなかった。


 認めたくなかったが鼻腔が先に認めていた。


   


 ドアを開けきった。


 リビングの床にジンが倒れていた。


 ソファの、前。


 うつ伏せ。


 右腕が前方に伸びていた。


 指先が床の一点を指していた。


 MINAはドアを静かに閉めた。


 閉めてから部屋全体を一度だけ、見渡した。


 リビング。キッチン。廊下。


 廊下の奥、アカリの部屋のドア、開いていた。


 テツの部屋のドア、半分、開いていた。


 リュウの部屋のドアだけ、閉まっていた。


 ——四つのドアの、状態が違っていた。


 MINAはその差分を記録した。


 記録の意味を今は考えない。


 考える順番は死体の、確認が先。


   


 ジンの傍にMINAは膝をついた。


 ジンの、首筋の、左側。


 細い刺創が一つ。


 長さ、三センチ。深さ、推定五センチ。


 頸動脈を正確に突いた跡。


 刺した道具は細身のナイフ。


 角度、斜め下から上に四十五度。


 立っているジンに下から突き上げた、ということ。


 ——下から。


 ジンの身長は百七十八。


 下から突き上げられるのは相手がジンより低い身長。


 もしくはジンが屈んでいる時に接近された。


 MINAはその可能性を記録した。


 ジンの右手の、指先の前。


 床に血で書きかけの文字。


「り」。


 もう一画、途中。


「ゅ」の、二画目が、途中で、ぶれていた。


 力が抜けた跡だった。


 MINAはその文字を見つめた。


 文字の意味を即断しなかった。


 即断すれば、先に進めなくなる。


 ジンの、拳銃が床に落ちていた。


 ベレッタM9。普段使いの、サプレッサー付き。


 マガジンを確認した。


 残弾、十三発。初期装填、十五発。


 二発、撃っていた。


 ジンが屋内で二発撃って仕留められないことは過去三年間でゼロ。


 今夜、仕留められなかった。


 仕留められなかった、ということは相手がジンの射線から外れる、速度、もしくは角度を持っていた。


 その種の人間は限られている。


 MINAはそこまで推論を進めて、止めた。


 止めて、ジンの瞼を閉じた。


 瞼はまだ、柔らかかった。


 死後、一時間以内。


 瞼を閉じる時、ジンの目の、光が失われていることをMINAは確認した。


 光、というのは比喩だった。


 死んだ人間の目と生きている人間の目の、違いをMINAは訓練の過程で何度も見てきた。


 違いは光の有無に近かった。


 ジンの目の、光はない。


 ないということが確定した瞬間、MINAの、視界の、隅がわずかに歪んだ。


 歪みは〇・五秒で戻った。


 涙ではなかった。


 涙腺はまだ、機能していない。


 機能させないとMINAは自分の身体に命じていた。


 ——涙は全部が終わってから。


 それが今夜、自分に課した唯一の、約束だった。


   


 アカリの部屋に進んだ。


 アカリはベッドの横で座り込んでいた。


 壁に背中を預けていた。


 片手にノートパソコンを抱えていた。


 もう片方の手は膝の上。


 MINAはアカリの正面に膝をついた。


 アカリの、顔を見た。


 目は開いていた。


 見開かれていたのではない。


 ただ、開いていた。


 口の端がわずかに上がっていた。


 ——笑っているように見える顔のまま、死んでいた。


 いや違う。


 違うかもしれない。


 この表情はアカリが画面の前で問題を解きかけていた時の、顔だった。


 何かを発見する直前の、顔。


 MINAはアカリの膝からノートパソコンを取り上げた。


 画面は起動したままだった。


 ディスプレイに半分、タイプ途中の、コード。


 画面の下端、ログウィンドウ。


 警告が連続して表示されていた。


 UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED


 INTERNAL SOURCE


 INTERNAL SOURCE


 INTERNAL SOURCE


 三回、繰り返されていた。


 ——内部からの、不正アクセス。


 アカリは検知していた。


 検知して対処しようとして間に合わなかった。


 アカリが最後に押したキー。


 キーの周辺に指紋の痕跡をMINAは目視で確認した。


 エンター、ではなかった。


 エスケープ、でもなかった。


 F12。


 F12の、キーの周囲に指の跡。


 アカリがログを外部に退避しようとした可能性がある。


 成功したかどうかはMINAには読めない。


 アカリがいれば、読めた。


 アカリはもう、いない。


   


 MINAはノートパソコンを閉じた。


 閉じて、アカリの、膝の上に戻した。


 それからアカリの顔をもう一度、見た。


 ——アカリは時々、MINAに話しかけた。


「今日のTシャツ、昨日と同じじゃない?」


「同じだけど」


「気にならない?」


「ならない」


「私が、気になるの」


 そういう会話をしてきた。


 してきたがもう、しない。


 アカリの瞼をMINAは閉じようと手を伸ばした。


 途中で止めた。


 アカリの、口元の、わずかな上がりを崩したくなかった。


 閉じれば、顔全体が変わる。


 変わった顔をMINAは見たくなかった。


 アカリの顔はそのままにした。


 代わりに机の上にマグカップを移した。


 コーヒーが半分、冷めて、残っていた。


 ——アカリが蹴ってこぼすといけない。


 そう思った瞬間にMINAは止まった。


 蹴ってこぼすことはもう、ない。


 分かっていた。


 分かっていて、身体が先に動いた。


 ——動いてしまった身体を叱らない。


 叱れば、身体が次から動かなくなる。


 MINAは身体の動きを記録して意識の外に置いた。


   


 テツの部屋。


 ドアは半分、開いていた。


 MINAはドアを全部、開けた。


 室内は他の二つとは様相が違った。


 荒れていた。


 椅子が倒れていた。


 テーブルの脚が片方、折れていた。


 壁に拳の跡が三箇所。


 テツの、拳の跡だった。


 拳の跡の、形、深さ、位置。MINAはその特徴を記憶していた。


 壁の、一箇所の跡には血が付着していた。


 テツのものではない。


 飛び散った方向、壁から室内側。


 テツが誰かを殴り、その飛沫が壁まで戻っていた。


 ——テツは少なくとも一人、打撃を与えた。


 打撃を与えた相手の、死体はない。


 誰かが運び出した。


 運び出せた、ということは仲間が回収した。


 回収する人員が複数、いたということ。


 MINAはテツの、位置を確認した。


 部屋の奥、窓の前、うつ伏せ。


 背中に刺創、四つ。


 うち、二つは浅い。


 残る二つは深い。


 深い方の一つは致命傷。


 心臓の、後背部への、直刺。


 刺した角度、真後ろから水平。


 ——真後ろから。


 テツは正面を殴っていた。


 正面の相手に拳を送り続けていた。


 その間に背後から別の一人が刺した。


 MINAはテツの、右手の拳を確認した。


 指の付け根の骨、骨折。


 皮膚の下が青黒く、腫れていた。


 自分の骨を折ってでも殴り続けた跡。


 ——テツは最後まで怒っていたか。


 MINAは小さく、声に出した。


 テツの眉間の、皺を確認した。


 皺は深かった。


 死後、弛緩していない。


 死ぬ直前までの、表情がそのまま、残っていた。


「テツは、怒ってたな」


 MINAはもう一度、声に出した。


 自分の、声を自分で聞いた。


 声が少しだけ、震えていた。


 震えをMINAは自分で記録した。


 記録して外に置いた。


 ——テツは以前、MINAに言った。


「殴る奴と、殺す奴は、別の人種だ」


 ジンが「殺さないタイプ」とMINAに言ったのと似ていて、少し、違った。


 ジンの言葉は観察だった。


 テツの言葉は選択だった。


 テツは殴る、と殺す、を自分で区別していた。


 区別した上で殴るほうを選んでいた。


 その選択が今夜、テツの、命を守らなかった。


 守らなかったことと選択が正しかったかどうかは別の問題だった。


 テツの選択は正しかった。


 正しかったからテツは最期までテツの、顔をしていた。


 MINAはテツの、拳を床に戻した。


 拳は冷たくなり始めていた。


 床の温度とほぼ、同じだった。


 あと一時間で完全に同じ温度になる。


 同じ温度になるということはテツが部屋の一部になる、ということ。


 ——部屋の一部になる前に出よう。


 MINAはそう、決めた。


 決めたあとテツの、瞼を閉じた。


 瞼の上から指で軽く、押さえた。


 押さえて、一秒。


 二秒。


 離した時、瞼は閉じたまま、固定された。


 MINAは立ち上がった。


 立ち上がる時、膝がわずかに鳴った。


 戦闘中でもないのに膝が鳴るのはMINAには珍しかった。


 ——疲労。


 疲労ではない別の何か。


 MINAはその区別を今はしないことにした。


   


 リュウの部屋の、ドアの前。


 三つの死体を確認し終えたあとMINAはここに来た。


 ドアノブに手をかけようとした。


 かけなかった。


 手がドアノブの、三センチ手前で止まった。


 理由は自分でも分からなかった。


 訓練された身体がこういう場面で止まることはない。


 それでも止まっていた。


 MINAは三秒、そのままの、姿勢で止まった。


 三秒後、ノブを回した。


 回したあとドアを十センチずつ、開けた。


 中は暗かった。


 電気が消えていた。


 MINAは壁のスイッチを左手で入れた。


 部屋が明るくなった。


 ——何もなかった。


 リュウの部屋はいつも通りだった。


 ベッドが整えられていた。


 机の上が片付いていた。


 本棚の本がいつもの並びの、ままだった。


 床に血の跡、なし。


 争った跡、なし。


 倒れた家具、なし。


 リュウの痕跡はある。


「いつも通り」の、形で、ある。


 でもリュウ自身がいない。


 死体も戦った跡も血もない。


 ——何もないのが一番、怖い。


 MINAは部屋の、中央に立った。


 立ったまま、動けなかった。


 死体があるのは悲しい。


 でも受容できる。


 受容できないのは死体も戦闘の痕跡もない部屋だった。


 可能性は三つ。


 一、さらわれた。


 二、逃げた。


 三、初めからここにいなかった。


 三が一番、嫌だった。


 嫌な理由をMINAは言語化しなかった。


 言語化すれば、認めたことになる。


 認めたくなかった。


   


 MINAは部屋を一周した。


 時計回りに一周。


 ベッド、机、本棚、クローゼット、窓。


 すべてがいつもと同じ位置。


 クローゼットを開けた。


 リュウの、服が掛かっていた。


 枚数を数えた。


 シャツ、七枚。ジャケット、三枚。ズボン、五本。


 一枚も欠けていない。


 ——着替えは持ち出していない。


 着替えを持ち出していないということは戻る前提。


 もしくは戻れないことを知っていて、服を捨てた。


 どちらの可能性もあった。


 MINAはクローゼットを閉めた。


 閉める音が室内に響いた。


 普段より大きく、響いた。


 リュウがいないことが音で証明されていた。


 ——リュウがいれば、音を吸う。


 人間は存在しているだけで音を吸う。


 吸っていた何かがなくなっていた。


 MINAは窓際に行った。


 ブラインドの、一枚を指で開けた。


 窓の外、深夜の街。


 七階から見下ろす、街路。


 車はまばら。


 歩行者、なし。


 ——リュウはどこかにいる。


 どこかにいると信じる根拠は、一つだった。


 死体がないということ。


 死体がないということが根拠として成立するためには「逃げた」もしくは「さらわれた」という、可能性を選ぶ必要があった。


 MINAはその、どちらかを選びたかった。


 選びたくても証拠はどちらの可能性も排除しない。


 排除しないということは第三の可能性も排除できないということ。


 ——初めからここにいなかった。


 MINAはその言葉を口の中で一度だけ、発音した。


 声には出さなかった。


 出せば、認めたことになる。


 認めたくなかった。


   


 机の上をMINAは観察した。


 ノート、一冊。


 ペン、一本。


 コップ、一つ。


 コップの中に水が半分、入っていた。


 水面に埃がわずかに浮いていた。


 ——置かれてから三十分以上、経過。


 リュウは水を飲みかけて、置いた。


 置いて、別の行動に移った。


 MINAはノートを開いた。


 最終ページ、白紙。


 その前のページ、白紙。


 さらに前のページ、白紙。


 リュウは何も書き残さなかった。


 書く時間がなかった。


 もしくは書かないという選択をした。


 MINAはペンを指で触った。


 ペンは冷たかった。


 最後に使われてから少なくとも三十分は経っている。


 ——三人が殺された時刻とリュウがここを去った時刻の、差。


 その差を正確に推定する道具をMINAは持っていなかった。


 アカリがいれば、推定できた。


 アカリはもう、いない。


 MINAはベッドの、脇にしゃがんだ。


 ベッドの、下を見た。


 普段、リュウはベッドの下に予備のバッグを置いていた。


 黒い、ナイロン製。中身は逃走用の装備。


 バッグはなかった。


 ——持って出た。


 持って出る、ということは準備する時間があった。


 準備する時間があったということは、予期していた。


 もしくは予期できる立場にいた。


 MINAはその「立場」という言葉を頭の中で一度、使った。


 使ってすぐに押しのけた。


 今は考える時ではない。


 まだ。


   


 リビングに戻った。


 ジンの傍にもう一度、膝をついた。


 ジンの、指先の、血文字をもう一度、見た。


「り」「ゅ」。


 ——ジンは最後に「リュウ」と書こうとした。


 他の三人はみんな、リュウの名前を知っていた。


 知っていて、それでもジンは書いた。


 書いた相手はMINA以外にいない。


 なぜなら、他の三人はもう、書いた文字を読めない。


 残るのはMINAだけだった。


 ——ジンはMINAが戻ることを信じていた。


 信じて、最後の、意識を使って名前の途中まで書いた。


 書ききれなかったのは頸動脈を突かれたあとの、時間が短かったからだった。


 頸動脈の、切開からの、失血死までの、平均時間、三分から五分。


 書きかけで途切れたのはその三分の、終わり際。


 MINAはその時間軸を頭の中で組み立てた。


 組み立てたあとしばらく、動かなかった。


   


 ソファに座った。


 座って四つのドアの方向を順に見た。


 ジンの、床に倒れた、位置。


 アカリの、開いたドアの、向こう。


 テツの、半分、開いたドアの、向こう。


 リュウの、閉まったドアの、向こう。


 ——四人中、三人の、抵抗が自然すぎた。


 ジンは撃たれなかった。


 狙撃手のジンが先に撃たれずに近接で倒された。


 アカリは座ったまま、死んだ。


 警報を鳴らそうとしていない。


 逃げようとしていない。


 テツは殴った。


 殴ったが殴った相手をよく、見ていた顔だった。


 知らない相手にあそこまで深く、殴り込む表情をテツは普段、持たない。


 ——三人とも相手を知っていた。


 知っていて、油断していた。


 油断する相手は限られる。


 CAGEの、もう一人。


   


 MINAは推論をこれ以上、進めなかった。


 進めると身体が動かなくなる。


 今、動かなくなれば、このあと何もできない。


 何もできないというのはMINAにとって一番、許容できない状態だった。


 MINAは立ち上がった。


 キッチンに行った。


 冷蔵庫は止まっていた。


 冷蔵庫の扉を開けた。


 中はまだ、冷たかった。


 ペットボトルを一本、取った。


 蓋を開けて、水を一口、飲んだ。


 冷たさが喉の奥を通った。


 通った冷たさをMINAは身体の、温度計にして自分の、心拍と呼吸を確認した。


 心拍、九十六。


 呼吸、一分間に二十八回。


 普段より高い。


 高いが動ける範囲。


 MINAはペットボトルの、キャップを閉め、冷蔵庫に戻した。


 戻して自分の、部屋に向かった。


   


 自分の寝室はいつも通りだった。


 ベッド、机、本棚。


 本棚の、本が三冊。


 どれも開いていなかった。


 MINAは机の、引き出しを開けた。


 予備のナイフ。


 訓練用ではない実戦用のもの。


 腰のベルトに差した。


 クローゼットを開けた。


 動きやすい、黒い服。


 着替えた。


 着替えながら、手が一度、止まった。


 ——アカリが「買い物、行こう」と言っていた。


 言っていた。


 行けなかった。


 MINAはボタンを一つずつ、留めた。


 指がぎこちなく感じられた。


 でも止まらなかった。


 止まれば、動けなくなる。


 止まるわけにはいかなかった。


   


 鏡を見た。


 鏡の中の顔はいつもの顔とは違っていた。


 表情がなかった。


 半年前の、リュウに「笑ってみろ」と言われる前の、顔に戻っていた。


 ——戻っていた。


 MINAは鏡の中の自分に向かって口の端を一度、上げてみた。


 上がった。


 上がったが嬉しい感じはしなかった。


 リュウは以前、「それは後から来る」と言った。


 ——今は来ない。


 今は来なくていい。


 MINAは鏡から目を離した。


   


 リビングに戻ってジンの、傍にもう一度、膝をついた。


「ジン」


 声をかけた。


 返事はない。


 返事がないことを確認する、儀式だった。


「……行ってくる」


 MINAは短く、言った。


 理由は言わなかった。


 言う相手がいなかった。


 アカリの部屋の前を通った。


 覗かなかった。


 テツの部屋の前を通った。


 覗かなかった。


 リュウの部屋の前に立った。


 ドアは開けたままにした。


 明かりもつけたままにした。


 ——リュウが戻ってきた時、すぐに気づくように。


 戻ってくるという前提はまだ、MINAの中に残っていた。


 残している自分をMINAは否定しなかった。


 否定すれば、MINAの中の、何かが壊れる気がした。


 壊れたら、元には戻らない。


   


 玄関のドアを開けた。


 廊下の、蛍光灯が点滅していた。


「テツ」


 MINAは小さく、言った。


「替えとく」


 返事はなかった。


 MINAはドアを閉めた。


 鍵はかけなかった。


 かける意味がなかった。


 CAGEはもう、守るべきものを失っていた。


   


 地下駐車場。


 蛍光灯が点滅していた。


 予備の車、白のハッチバック。


 普段は使わない。


 使う理由が今夜はできた。


 ドアを開けて、運転席に乗り込んだ。


 エンジンをかけた。


 エンジン音が地下の空間に反響した。


 反響音の中にいつもは混じるはずの、テツの話し声がなかった。


 アカリの、キーボードの音もなかった。


 ジンが新聞を折る音もなかった。


 ——静寂。


 MINAはその静寂の、容量を測った。


 測りきれなかった。


 測ろうとする、測定単位が自分の中になかった。


 ハンドルに両手を置いた。


 冷たかった。


 手のひらの、熱が吸われていった。


「行く」


 一言、MINAは口に出した。


 相手はいなかった。


 全員に向けたのかもしれなかった。


 ジン、アカリ、テツ、リュウ。


 四人中、三人はもう、返事をしない。


 一人はどこにいるか、分からない。


 分からないから——探す。


 探して会ったら、その時に決める。


 決めるという動詞を、MINAはCAGEに来て覚えた。


 覚えたのはリュウがいたからだった。


 ——リュウの、せい。


 MINAはその言葉を頭の中で使ってみた。


 使ってすぐに使わないことにした。


「せい」は、違う。


「おかげ」でも、違う。


 どちらの言葉も今のMINAには似合わなかった。


 別の言葉があるはずだった。


 その言葉を探すためにMINAはこれからリュウに会いに行く。


 そう、決めた。


 決めた瞬間、MINAは一つ、気づいた。


 ——今夜、MINAが殺されなかった理由。


 今夜、CAGEを襲った者はMINAが任務から戻る時間を把握していた。


 把握していた者はMINAが戻った時、ここにいなかった。


 いなければ、殺せない。


 いなかったのは殺さないと決めていた、ということ。


 ——殺さないでおくという、判断。


 その判断の主体に該当する人間は限られている。


 MINAはその名前を口に出さなかった。


 出さないまま、アクセルを踏んだ。


   


 車が駐車場を出た。


 シャッターが閉じた。


 夜の街路に出る。


 街灯の光がフロントガラスを撫でて、流れた。


 信号、青。


 交差点を直進した。


 次の信号、黄から赤へ。


 MINAは減速した。


 止まった。


 前方を見た。


 赤信号がフロントガラスを赤く、染めていた。


 ——血の色に似ていた。


 ジンの、指先が書こうとした文字の、色。


「り」の、一文字。


「ゅ」の、途中まで。


 MINAはその文字を今夜、もう、忘れないと決めた。


 決めたあとゆっくり、息を吐いた。


 吐いた息がフロントガラスの、わずかな冷気に白く、かかった。


 すぐに消えた。


 ——消えた痕跡だけがMINAが今、ここにいるという証拠だった。


 MINAは口の端を上げようとした。


 上げなかった。


 今夜は上げなくていい。


 今夜だけは。


 ——リュウがそう、言うはずだった。


「今夜だけは、やめていい」と。


「明日からで、いい」と。


 リュウの声はどこにもなかった。


 でもMINAの中にあった。


 あるから今夜は上げなくてよかった。


 信号が青に変わった。


 MINAは前を向いた。


 車が動き始めた。


 ——今夜からMINAは一人だった。


 一人だった、という自覚はまだ、浅かった。


 浅いが確かにあった。


 ハンドルを握り直した。


 握り直した時、手のひらに新しい汗がにじんだ。


 汗は夏の暑さの汗とは温度が違った。


 冷たい汗だった。


 ——交感神経の、異常な亢進。


 MINAはその生理反応を認識した。


 認識して対処しようとしてやめた。


 対処する必要はなかった。


 今夜は亢進したまま、でいい。


 亢進しているから止まらずに動ける。


 止まったら、崩れる。


 崩れたら、立ち上がれない。


 立ち上がれなかったら、次に辿り着けない。


 MINAはアクセルを一定の踏力で維持した。


 速度、法定の時速六十キロ。


 過速はしない。


 過速は注意を引く。


 引かれれば、時間を失う。


 今のMINAには失える時間はなかった。


 首都高の、入口の、標識が見えてきた。


 MINAは入るかどうかを一瞬、迷った。


 迷った瞬間をMINAは記録した。


 ——迷った。


 迷う、ということが今夜、MINAに起きている。


 迷うのは選択肢が複数あるから。


 選択肢が複数あるということはMINAが自分で選べる立場にあるということ。


 半年前までは選択肢は常に一つだった。


 命じられた通り、動く。


 命じた者がいなくなった今、MINAは初めて、「選ぶ」側に立っていた。


 立っていて、迷っていた。


 迷いながら、結論は自分で出さなければ、ならなかった。


 ——首都高には乗らない。


 一般道の方が時間はかかる。


 でも監視カメラの、網が首都高より緩い。


 MINAは交差点を右に曲がった。


   


 曲がった先の、夜の街路はいつもの、夜の街路だった。


 コンビニの、明かり。


 居酒屋の、閉店作業。


 タクシーの、空車表示。


 歩行者はわずか。


 誰もMINAの車を気にしていなかった。


 気にされないのはMINAが普通の車に乗っているからだった。


 普通の車の中に普通ではない人間が乗っていることは外からは見えない。


 ——見えないことが今夜、MINAを助けていた。


 MINAは赤信号で再び、止まった。


 止まった時、自分の、呼吸を確認した。


 呼吸、一分間に二十二回。


 CAGEを出る時より少しだけ、下がっていた。


 下がっているということは身体が落ち着きつつ、ある。


 落ち着くのはまだ、早かった。


 落ち着けば、感情が追いついてくる。


 追いついてくれば、動けなくなる。


 MINAは呼吸を意識的に速めた。


 一分間、二十八回に戻した。


 戻してハンドルを握り直した。


 信号が青に変わった。


 MINAはアクセルを踏んだ。


 車が動いた。


 走り続けた。


 走り続ける先に何があるのかはまだ、分からなかった。


 分からないまま、走る、という行為をMINAは今夜、初めて、選んだ。

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