第42話「辞令」
朝、ロバートに呼ばれた。
いつもと違う呼ばれ方だった。メッセージではなく、オフィスのドアをノックする音だ。遼が「どうぞ」と言ったら、ロバートが入ってきて *"Do you have a moment?"* と言った。顔がいつもより少し固い。
*"There are people waiting in the meeting room."*
(会議室に来客があります)
*"What kind?"*
(どんな)
*"……Three men in suits."*
(……スーツの方が三名)
*"From?"*
(どこから)
ロバートが一秒間を置いた。
*"The Ministry of Defense."*
(防衛省です)
*"……Okay."*
(……そうですか)
遼はキーボードから手を離して立ち上がった。
会議室に入ると、三人がぴしっと並んで座っていた。ぴしっという言葉がよく似合う三人組で、スーツの折り目が揃っているし、テーブルの上のファイルの角も揃っているし、背筋も揃っている。
「柊遼さんですね」と真ん中の男が言った。年齢は五十代の前半か。眉が濃い。「お噂はかねがね」
「はあ」
「もう少し驚いていただけると、こちらとしては助かるのですが」
「驚いています」
「顔に出ていません」
「すみません」
ロバートがそっと遠い目をした。
名刺が三枚、順番に置かれた。遼は一枚ずつ受け取って並べた。防衛省の名前が入っている。サイバー防衛関係の部署だった。
「ご説明します」と眉の濃い男——名刺には黒木と書いてある——が言った。「昨今のサイバー脅威の増大を受けまして、民間技術者との連携強化が急務となっております。その中で、柊さんの技術力は我々の要件に合致すると判断しまして——」
そこまで聞いたところで、遼はテーブルの上のファイルに目を向けた。
「そのファイル、見ていいですか」
「……え、あ、はい、どうぞ」
遼はファイルを手に取って、ぱらぱらとめくった。技術仕様書と現状報告書が半分ずつ入っている。図表が多い。三十ページちょっとある。
黒木が説明を続けようとして、遼がページをめくる速度を見て、少し止まった。
五分後。
遼はファイルを閉じた。
「直せそうなので、引き受けます」
しん、とした。
「……『直せそう』という表現が、少し気になりますが」と黒木が言った。
「直します」
「……そちらの方が安心しますが、根拠はありますか」
「さっきのファイルにある構造の問題が四つと、設計段階のミスが二つあります。時間があれば全部直せます」
黒木が隣の男——田所三佐と名刺に書いてあった——と目を合わせた。田所がわずかに眉を動かした。
「……五分で、全部ご覧になりましたか」
「読むのが少し速いので」
「少し、ではないと思いますが」
「まあ」
ロバートがさらに遠い目をした。深度が増している。
「ご質問があれば」と遼は言った。
「あります」と黒木が言った。どこか呆然とした声だった。「なぜ引き受けてくださるんですか。報酬はTechVision経由で調整しますが、それ以外に何か……」
「面白そうだったので」
また、しんとした。
「……面白そう」
「はい」
「日本のインフラを守る仕事が、面白そう」
「そうです。こういう規模のシステムは触ったことがないので」
黒木がゆっくりとメモを取った。田所が「柊さん、本当に大丈夫ですか」と小声で言った。遼が「大丈夫です」と答えた。
「以上ですか」と黒木が聞いた。
「以上です」
「……もう少し、国家への貢献とか、使命感とか、そういった」
「それは結果としてあるかもしれないですが、動機としては後から来るものだと思ってます」
黒木がペンを置いた。三人がまた目を見合わせた。
*"……Is he serious?"* と田所がロバートに英語で小声で聞いた。
(……この方、本気ですか)
*"Always."* とロバートが答えた。
(いつも)
田所がゆっくりと椅子に深く座り直した。
手続きの説明が続いた。守秘義務の書類、登録のフロー、連絡体制。黒木が淡々と読み上げて、遼が淡々と聞いた。途中、三枚目のスーツの男——宮脇係長と名刺にある——がずっと何かを書いていた。ものすごいスピードで書いていた。
「宮脇さん、何を書いているんですか」と遼が聞いた。
「議事録です」
「今の内容を全部?」
「はい。沈黙も記録しています」
「……沈黙も」
「『柊氏、一秒間の沈黙の後、次の発言へ移行』といった形で」
遼はしばらく宮脇を見た。
「……そうですか」
宮脇がさらさらと書いた。
「今の『そうですか』も記録します」
「……お願いします」
ロバートが窓の外を見た。完全に遠い目だった。東京の空が青かった。
会議が終わったのは昼過ぎだった。三人のスーツが立ち上がって、名刺を確認して、ぺこりと頭を下げて出ていった。黒木だけが最後に少し振り返った。
「柊さん」
「はい」
「今日のこと、ご家族には話さない方が……いや、話していただいて構いません。ただ、詳細は」
「分かりました。詳細は話しません」
「……大変飲み込みが早くて助かります」
「内容からそういう案件だと分かったので」
黒木がまた少し呆然とした顔をして、出ていった。
ドアが閉まった。
遼とロバートだけになった。
*"How are you feeling?"* とロバートが言った。
(どうですか)
*"Normal."*
(普通です)
*"You just got recruited by the Ministry of Defense."*
(防衛省に採用されたんですが)
*"I was asked, so I said yes. It's a job."*
(頼まれたから引き受けた。仕事です)
ロバートがため息をついた。深いため息だった。
*"Hiiragi-san."*
(柊さん)
*"What."*
(なんですか)
*"Nothing."*
(いえ)
また遠い目をした。
夕方、帰宅した。
今日は凛と華が両方いた。珍しく二人とも早い。リビングでそれぞれのことをしていて、遼が入ると凛が顔を上げた。
「おかえり。なんかあった?」
「なんで」
「なんとなく」
遼は荷物を置いた。コートをかけた。
「防衛省の仕事することになった」
シン、とした。
凛の目が止まった。華がスマホを持ったまま固まった。
「……は?」と凛が言った。
「日本のサイバーインフラを守る仕事らしい」
「は??」
「ちょっと頼まれたから」
「ちょっとって何よ!!」
華が「遼……日本守るの?」とおそるおそる聞いた。
「まあそういうことらしい」
「もう少し重大なことだと思って!!」と凛の声が大きくなった。「防衛省って! 国防って! なんかもっとこう——大変そうじゃない!?」
「大変かどうかは、やってみないと分からない」
「そういう話をしてるんじゃない!!」
華がそろそろとソファに座った。「お姉ちゃん、ちょっと落ち着いて」
「落ち着けない!!」
「まあまあ」
「まあまあって言える状況じゃないでしょ!!」
遼は台所に向かった。
「飯作る」
「逃げてる!!」
「逃げてない。腹が減った」
冷蔵庫を開けながら、遼は昼の会議を少し思い返した。
黒木が呆然としていた。田所が頭を抱えていた。宮脇が議事録を取り続けていた。ロバートが遠い目をしていた。
まあ、普通の仕事だと思う。
直せる仕事だと思う。
鶏肉があった。大根も残っている。煮物にしよう。
翌朝の朝食。
凛がまだ少し顔をしかめた状態でトーストを食べていた。寝ても整理できなかったのが顔に出ている。
「昨日の、本当に?」
「本当」
「なんで遼が」
「頼まれたから」
「頼まれたら行くの?」
「……面白そうだったから」
凛がトーストを置いた。
「面白そう、で日本守るの?」
「それが動機なのはそうだけど、ちゃんとやる」
「そういう問題じゃなくて」
「どういう問題ですか」
「……なんか」凛が少し言葉を探した。「危なくないの?」
「サイバー系だから机の前でやる」
「机の前ならいいんだけど」
華がお味噌汁を飲みながら遼を見た。「遼、日本守ってるのに普通に朝ごはん食べてる」
「朝ごはんは食べる」
「いや、そうじゃなくて」華が笑い出した。「なんか、すごいね」
「そうか?」
「すごいよ。普通にすごい」
遼は卵焼きを食べた。
凛がまたため息をついた。今回のため息は「疲れた」よりも「どうにもならない」に近い質だった。
「まあ、危なくないなら」
「危なくない」
「変なことになったら言いなさいよ」
「言う」
「絶対言いなさいよ」
「分かった」
華が「お姉ちゃん心配してるんだね」と言った。凛が「当たり前でしょ」と言った。遼はお茶を飲んだ。
いつもの朝食だった。
同じ頃、TechVisionのオフィス。
ロバートはデスクでデイビッドへの報告メッセージを打っていた。
*"Hiiragi accepted. Reason stated: 'It looked interesting.' I have no further comments."*
(柊、承諾しました。理由:「面白そうだったので」。以上です)
返信は十五秒で来た。
*"Good."*
(そうか)
ロバートはスマホを見た。
*"That's all you have to say?"*
(以上ですか)
*"What else?"*
(他に何がある)
*"He said 'it looked interesting.' About defending Japan."*
(「面白そうだった」と言ったんです。日本を守ることについて)
*"That sounds like him."*
(あの人らしい)
*"……Yes. It does."*
(……そうですね)
ロバートはスマホを置いた。
しばらくして、アリアからメッセージが来た。
*"How's Ryo?"*
(遼の様子は?)
*"He accepted a job with the Ministry of Defense today."*
(今日、防衛省の仕事を引き受けました)
少し間があった。
*"……What?"*
(……え?)
*"His reason was that it looked interesting."*
(理由は「面白そうだったので」です)
また少し間があった。
*"……Of course it was."*
(……そうだよね)
*"Indeed."*
(ですね)
*"Is he okay?"*
(大丈夫なの?)
*"He ate breakfast this morning as usual, according to his sister."*
(妹さんによれば、今朝も普通に朝食を食べていたようです)
*"……That's Ryo."*
(……遼だ)
ロバートは遠い目をした。
窓の外、東京の昼。
柊遼は今日も、どこかで普通にやっている。
夜、遼の部屋。
昼にもらった資料のコピーをデスクの端に置いて、作業をしていた。
本業の仕事が一段落したところで、資料をもう一度手に取った。ぺらぺらとめくる。
構造的な問題点が四つ。設計段階のミスが二つ。午前中に見た通りだ。直す順番はだいたい頭に入っている。どこから手をつけるかは、もう少し詳しく見てから決めればいい。
パチン、と資料を閉じた。
「……まあ、普通の仕事だろ」
誰もいない部屋に、小さく言った。
キーボードの音が再び始まった。




