第41話「アリアが来る(また)」
第三部にお越しいただき、ありがとうございます。よんまるよんです。
第一部、第二部と読んでいただいた方も、この話から初めて読んでいただいた方も、どうぞよろしくお願いします。
第三部のタイトルは「守る人になりそうです」です。
遼が何かを守ろうとしている話ではありません。本人はそのつもりは全くなく、気づいたらそういう立場に近づいていた、という話です。本人はたぶん最後まで「普通にやってるだけ」と言います。
柊家は引き続きうるさいです。凛がうるさい。華が甘える。遼が黙々と飯を食う。プリン争奪戦も続きます。防衛省の話が入ってきますが、夕食の席では「今日どうだった」「まあ」という会話が変わらず続きます。そういう話にするつもりです。
第二部を書き終えたとき、登場人物たちがそれぞれ「少しだけ動いた」状態で止まっていました。遼は初めて「俺はどうしたいんだ」という問いを持った。詩織は答えを出す手前にいる。凛は自分の中の「計算の外」に気づいた。華は何かが腑に落ちていない。
第三部では、その動きの続きを書きます。急ぎません。でも、止まりません。
相変わらず長くなりそうな予感がしています。書けるだけ書くつもりでいます。
どうぞよろしくお願いします。
また脱線話が増えたらすいません。最初に謝っておきます。
柊遼は今日も普通にやっている。
TechVisionに出社して三週間。
今週は水曜に会議が一件、木曜にロバートと打ち合わせが一時間、あとは自分の作業。仕事量としては多くも少なくもない。一日のリズムがだいぶ手に馴染んできた。
今日も七時ちょっと前に帰宅。電車は混んでいた。玄関を開けて「ただいま」と言ったが、誰もいない。
柊凛は撮影が遅いと朝に言っていた。柊華は夕方から外出すると聞いた気がする。
一人で飯を作った。卵と納豆と、冷蔵庫にあった豆腐で味噌汁。食べて、片付ける。静かな夜だ。
部屋に戻り、作業を始める。今は個人のプロジェクトが一つとTechVisionの持ち帰り分が一つ。今夜は個人のほうから手をつけた。
キーボードの音だけが響いている。
悪くない。
翌朝、電車の中でロバートからメッセージが入った。
*"Aria arrives today. Around noon."*
(アリアが今日着きます。正午ごろの予定です)
二週間前に「そのうち来る」とは聞いていた。そのうちがこんなに早いとは思っていなかったが、まあそういうものか。
*"Okay."*
(分かりました)
返信してスマホをしまう。向かいの席の中年男性が新聞を広げている。窓の外、朝の東京が流れていく。
遼は特に何も考えなかった。
昼休み。TechVisionのエントランスに、アリア・マクナマラが立っていた。
ロバートが案内してきたらしく、二人でガラス扉のそばにいる。金髪で長身、カジュアルなジャケット。フロアに入ると周囲の空気が少し変わる。そういう人間だということは、何度か会えば分かってくる。
「Ryo!」
遼を見て手を上げた。声が大きい。
「こんにちは」
「こんにちはじゃないよ」とアリアが日本語で言った。抑揚がまだ少し外国語っぽい。「もっと嬉しそうにして」
「嬉しい」
「その顔が嬉しい顔?」
「……笑えということか」
「笑えとは言ってないけど、そのくらいは」
アリアが「はあ」と肩をすくめた。ロバートが遠い目をする。いつもの遠い目で、今日も深度は深い。
*"How's work?"* とアリアが切り替えた。
(仕事はどう?)
*"Fine."*
(問題ない)
*"Anything interesting?"*
(何か面白いことあった?)
*"I fixed a server configuration error."*
(サーバーの設定ミスを直した)
*"Is that interesting to you?"*
(それって面白いの?)
*"Yes."*
(うん)
アリアが少し考えた顔をした。
*"I can't tell if you're serious or not."*
(本気なのか冗談なのかが毎回分からない)
*"I'm serious."*
(本気だよ)
*"I know. That's the problem."*
(知ってる。それが問題なんだよ)
ロバートが小さくため息をついた。
昼食は三人でビル近くのカフェへ。ロバートが「柊さんのご都合に」と言ったので遼が「どこでもいい」と返し、アリアが「決めてよ!」と言ったので、馴染みのカフェに入った。コーヒーが悪くない店だ。
*"So. Your answer?"* とアリアがパスタを頼みながら言った。
(で。返事は?)
遼は少し間を置いた。
*"Still thinking."*
(まだ考えてる)
*"Still."*
(まだ)
*"Still."*
(まだ)
アリアがメニューを閉じた。
*"Why."*
(なんで)
*"Because I'm not done thinking."*
(考えが終わってないから)
*"You've been thinking for over a month."*
(一ヶ月以上考えてる)
*"A month and a half."*
(一ヶ月半)
*"Why are you correcting me!"*
(訂正してどうするの!)
ロバートが水を飲んだ。表情を変えず、静かに、ただ水を飲んだ。
*"Fine. I'll wait,"* とアリアは言った。怒っているふうではない。*"I'll come back. I'll ask every time. And——"*
(分かった。待つ。また来る。そのたびに聞く。そして——)
一瞬止まった。
*"……and that's it."*
(……以上)
*"Something wrong?"* と遼が聞いた。
(何かあったか)
*"I almost used a Japanese word I don't like."*
(使いたくない日本語の言葉を使いそうになった)
*"Which word?"*
(どんな言葉)
「なんか……イエスかノーかみたいな。はっきりしすぎて、後がなくなる感じ」
遼は少し考えた。
「はっきりさせると後がなくなるときがある、ということか」
「……そう。そういう感じ」
「言わなきゃよかった。そういう終わり方になる言葉がある」
アリアがしばらく遼を見た。
「……うん。そういうこと」
アリアはしばらく遼を見た。
(遼が解説する話でもないんだけどな、それ)
ロバートが「勉強になりますね」という顔をした。
*"Anyway,"* とアリアが続けた。*"I'll ask every time I'm here. Tell me when you know."*
(とにかく。来るたびに聞く。答えが出たら教えて)
*"Got it."*
(分かった)
パスタが来た。アリアはよく喋った。新しい大学のこと、相撲の話、カリフォルニアとこっちの気候の違い。遼は必要なところだけ受け答えする。ロバートは時々相槌を打ちながら、ほとんど静かに皿を空にしていった。
普通の昼食だ。
夕方、オフィスを出ようとしたところでロバートに呼ばれた。
*"Do you have a moment?"*
(少しよろしいですか)
*"Sure,"* と遼は言って、ロバートの隣に立った。
(どうぞ)
ロバートは手元のスマホを一度見てから、向き直った。
*"I heard from David yesterday."*
(昨日、デイビッドから連絡がありまして)
*"About what?"*
(何について)
*"He said he may have a different kind of work for you soon."*
(近々、少し違う種類の仕事をお願いするかもしれない、と)
*"What kind?"*
(どんな仕事ですか)
ロバートが少し間を置く。
*"He didn't give me details. Just said…… 'work that protects Japan.'"*
(詳細は聞いていないのですが。ただ……『日本を守る仕事』と)
*"Protects."*
(守る)
*"That's all he said."*
(それだけです)
遼は特に表情を変えなかった。
*"Understood. Fill me in when you know more."*
(分かりました。詳細が分かったら教えてください)
*"Of course. ……You're not surprised?"*
(はい。……驚きませんか)
*"I'll decide whether to be surprised once I know what it is."*
(内容を聞いてから驚くかどうか決めます)
ロバートが *"I see,"* と言って、また遠い目をした。
(なるほど)
*"I'll let you know when I hear more."*
(また詳細が分かり次第)
*"Please."*
(お願いします)
先に出て、エレベーターを待ちながら「守る」という言葉を少し転がす。
守る仕事。
どんな仕事かはまだ分からない。そのときに考えればいい。
扉が開いた。
帰宅したら凛と華がいた。今日は二人とも早い。
「遅かったじゃん」と凛が言った。
「ロバートと話してた」
「なんの話」
「仕事の話」
「具体的に」
「まだ具体的じゃない」
「……それはどういう状態」
「今後の話があるかもしれない、という話」
凛が「意味が分からない」という顔をした。華が「まあいいんじゃない」と言った。
「今日アリア来たんでしょ」と凛が言った。
「来た」
「何回目?」
「……二回目だと思う」
「数えてないの?」
「なんか毎日のように来てたから」
「あんたね!!」と凛の声が大きくなった。「来日してるのよ、わざわざ!! 来日回数くらい覚えなさい!!」
「覚えていない方が自然な気がする」
「何が自然よ!!」
「……二回だと思う。確認した」
「今確認するな!!」
華が笑った。遼も少し笑った。
「で、また返事はまだ、って言ったの」と凛が聞いた。
「そう」
「何ヶ月待たせてるの」
「一ヶ月半くらい」
「それはさすがに」と凛が言いかけた。
「さすがに何」
「……なんか、よくないよ」
「考えてる途中だから」
「その途中がもう一ヶ月以上なのよ、という話」
遼は少し考えてから言った。
「アリアも待つって言ってる」
「アリアが言っても!! それはアリアが不憫なの!!」
「じゃあ俺はどうすればいい」
「考えを急がせなさいよ!!」
「急げる話じゃない」
凛がため息をついた。ため息の質が「疲れた」より「どうすればいいんだ」に近い。華は笑いながらお茶を飲んでいた。
「詩織ちゃんとはどうなの」と凛が言った。
「普通にしてる」
「普通にって何よ」
「普通に会ったりLINEしたりしてる」
「それは普通なの? 何もないの?」
「……何もないとは言ってない」
凛の目が細くなった。
「何があるの」
「……別に特別なことは」
「今のちょっと間があったよね」
「……」
「ね!? 今ちょっと間があったよね!? 華、聞いた?」
「聞いた」と華は言った。にやにやしている。
「聞いてない」
「聞いた!!」
遼は席を立った。
「飯作る」
「逃げてる!!」
「逃げてない。腹が減った」
「それとこれは別!!」
冷蔵庫を開けながら、遼は少し考えた。
詩織のことを「何もない」と言い切れなかった。言い切れなかった理由はだいたい分かっている。
ただ、今は飯のことを考える。
豚肉が残っている。白菜もある。
鍋だ、と遼は思った。
同じ夜、少し遅い時間。
桜井詩織は凛からのLINEを読んだ。
「またアリアちゃん来たよ。いつ帰国してたのかも知らなかったし、また来たことも今日まで知らなかった。あいつ何考えてんの」
詩織は少し笑った。
覚えてないのか。
でも覚えてない方が、あの人らしい。
「遼って大変だね」と打とうとして、止める。大変だね、は少し違う。他人事みたいだ。
「そうだね」と打った。
送信してスマホを置く。
窓の外を見た。マンションの灯りが並んでいる。四階の左から二つ目、遼の部屋の窓。今夜もついている。
しばらくそれを見ていた。
アリアが来るたびに何かが少し揺れる。言葉にするのが難しい揺れ方で、不安でも焦りでもない。ただ「このままでいいのか」という問いが、少しだけ大きくなる感じ。
答えは今日も出なかった。
明かりはついている。
詩織は目を閉じて、本を開いた。
翌朝、ロバートのデイビッドへの日報。
*"Aria's second visit to Japan completed. Ryo's answer: still pending. Lunch at a café near the office: uneventful. Note: Ryo explained the nuance of Japanese declarative expressions. Unexpectedly informative."*
(アリア二回目の来日完了。柊の返事:保留継続。オフィス近くのカフェで昼食:特記事項なし。補記:柊が日本語の言い切り表現の語感について説明していた。意外と参考になりました)
デイビッドからの返信は十秒で来た。
*"Good."*
(そうか)
*"……Is that all?"*
(……以上ですか)
*"What else?"*
(他に何がある)
*"Nothing. Just thought that might warrant more of a response."*
(いえ。もう少しリアクションがあってもいいかと思っただけです)
*"Ryo is working. Aria is trying. You're watching. Everything's on schedule."*
(柊は働いている。アリアは頑張っている。お前は見ている。全部予定通りだ)
ロバートはスマホを置いた。
遠い目をした。
*"……On schedule for what, exactly."*
(……何の予定通りなのかが気になりますが)
返信は来ない。
また遠い目をした。深度は昨日より少し増している。
柊家の夜。
鍋だった。白菜と豚肉と豆腐、遼が作った鍋で、湯気が上がっている。
凛が「あったかい」と言った。華が「ポン酢多め」と言う。遼は黙って食べた。
「アリアって相撲好きなんでしょ」と華が言った。
「好きだよ」
「なんで相撲なの。聞いたことある?」
「ある」
「なんて言ってた」
「……『迷いがないから』って」
「相撲の?」
「一瞬で決まるから、ということだと思う。迷いがない、という意味で」
華が「へえ」と言った。凛も少し考えた顔をした。
「好きなものの理由が技術系だ」と華が言った。
「そういうとこある」と凛。
「遼と合いそう」
遼は少し考えた。
「……そういう話じゃないと思う」
「なんの話なの」と凛が言った。
「まだ分からない」
凛がため息をついた。華がポン酢を追加する。
湯気が上がっている。いつもの夜だ。
全部が、少しずつ動いている。




