第40話「均衡」
TechVisionの仕事が始まって、二週間が経った。
柊遼の生活は、思ったよりあまり変わっていない。
朝、スーツを着る。柊華がネクタイを直す。電車に乗る。オフィスに着く。仕事をする。帰る。夕食を食べる。部屋で作業をする。寝る。
以前と変わったのは「部屋で作業をする」の内容だけだ。以前は自分のプログラムを書いていた。今はTechVisionの続きをやっている場合もあれば、個人の作業をやっている場合もある。
家は変わっていない。
ネクタイはまだ三秒で直してもらっている。コーヒーは一日二杯飲む。部品のケースはデスクの端に置いてある。オフィスに行けば誰かが何かを持ってくる。それを考えるのが、思ったより悪くない。
遼はそれを「まあ、問題ない」と言っていた。
夕食。
柊凛と華と三人で食べていた。いつも通りだ。
今夜のご飯は遼が作った。鶏肉と野菜の炒め物、味噌汁、ご飯。材料があったから作った。帰宅した凛が「珍しい」と言った。
「仕事どう?」と凛が聞いた。
「まあ」
「まあって何よ」
「問題ない」
「問題ないって何よ」
「普通にやってる」
「普通って何よ」
遼は箸を持ったまま少し考えた。
「……どう答えれば正解ですか」
「楽しいとか、面白いとか、そういう言葉を使いなさい」
「楽しいです」
「今の、言わされた感がすごかった」
華が「でも楽しいって言ったじゃん」と言った。
「言わされたのは事実でしょ」と凛。
「言わされたけど嘘でもない」と遼。
「それが聞きたかった!!」
「聞けた」
「……次から自分から言いなさい」
「善処します」
「善処って言葉が出てきた!!」
華が笑った。遼も少し笑った。凛がため息をついた。
「なんで遼とご飯食べると毎回こうなるんだろ」
「毎回こうだから」と遼。
「そうだけど!!」
「でもこれが普通じゃん」と華が言った。
「普通だよ!! 普通はいいんだよ!! でもなんか毎回疲れる!!」
「じゃあ聞かなければいい」
「聞きたいから聞いてる!!」
遼はご飯の二杯目をよそった。
凛が少し落ち着いて、お茶を飲んだ。
「ねえ、遼」
「うん」
「本当に問題ない?」
「……本当に問題ない」
「しんどくなったら言いなさいよ」
「言う」
「本当に?」
「……まあ」
「まあって!!」
華が「でもお姉ちゃん、遼は大丈夫なときも「まあ」って言うから」と言った。
「そうなの!!だからどっちなのか分からないの!!」
「まあ、大丈夫です」と遼が言った。
「今の「まあ」は大丈夫の「まあ」だった!! ちゃんと聞き分けられた!!」
「成長じゃん」と華が言った。
「二十二年かかったよ!!」
遼はご飯を食べ続けた。
いつもの夕食だ。何も変わっていない。
でも遼はふと、これがいつも通りでよかった、と思った。
思ったことに、少し驚いた。
以前はそんなことを思ったことがなかった。「いつも通り」は当たり前だと思っていた。当たり前のことに「よかった」と思うのは、当たり前でなくなる可能性を考えるからだ。
遼はいつからそれを考えるようになったのか、自分では分からない。
まあいい。今夜はご飯が美味しい。
食後の片付けを凛と華でやっていた。遼は台所の隅で部品を確認していた。
「遼、台所で部品触らないで」と凛が言った。
「邪魔してないので」
「邪魔の問題じゃない。食器と一緒にしないで」
「分けてます」
「分けてる範囲が狭い」
「……場所を変えます」
遼がリビングのテーブルに移動した。
「テーブルもご飯食べたばっかりだから!!」と華が言った。
「では部屋に」
「最初からそうして!!」
遼は部品を持って部屋に向かった。
凛がため息をついた。
「毎回これ」
「毎回だよ」と華が笑った。「でもなんか、安心しない?」
「何が」
「遼が変わんないことに」
凛は台所の水を止めた。
「……そうね」
少しだけ、口角が上がった。
片付けが終わって、凛は部屋に戻った。
台本を開いた。神崎監督の次回作。今夜は通しで読もうと思っていた。
読み始めたら止まらなかった。
やっぱり面白い。構造が面白い。どの場面も、何かが動いている。
三分の二くらいのところで、また少し顔が熱くなった。
手が止まる。
台本を閉じた。
最近、台本を読んでいると顔が熱くなる。台本のどの部分がそうさせているのかは、自分でも分からない。分からないけれど、毎回そうなる。
以前はこういうことがなかった。
凛はベッドに仰向けになって、天井を見た。
「あなたが変わったから」という言葉がまた頭の中に来た。
変わった、のか。自分では分からない。でも台本を読んでいたら顔が熱くなる。それは事実だ。
凛はもう一度台本を開いた。
続きを読む。熱いまま、読む。
華は部屋でスマホを持っていた。
蒼真にLINEを送ろうとして、止まっていた。
次の映画の台本がさっき届いた。まだ全部読んでいないが、少し読んで、気になる場面があった。誰かに話したくなった。
遼かお姉ちゃんか。
その考えが途中で止まった。
蒼真くんに話してみようか、という考えが出てきた。
華は天井を見た。
以前はそういう考え方をしていなかった。台本の相談は遼かお姉ちゃんだった。蒼真くんは共演者だから、という話ではなくて、単純にそういう発想がなかった。
それが今日、初めて出てきた。
腑に落ちない。でも出てきたものは出てきた。
華は「よろしくお願いします」と打って送った。理由は「新しい仕事の挨拶」ということにした。
すぐに返信が来た。
「こちらこそ。また一緒にやれて嬉しいです」
華はそれを読んで、少し赤くなった。
(また赤くなった)
腑に落ちない。全然腑に落ちない。
感嘆符を二個つけて返した。一個消そうとして、やめた。
感嘆符が二個でも、華は華だ。
夜遅く。
遼は部屋で作業をしていた。
今日のTechVisionの仕事の続きと、個人の設計メモを少し書いた。手が止まったとき、スマホを見た。
詩織に「今日飯作った。誘えばよかったな」と送った。
特に意味はなかった。今夜のご飯が美味しかったから、なんとなく送りたくなった。なぜ詩織に送ろうと思ったのかは、よく分からない。ただ、送った。
既読がついた。すぐに返信が来た。
「次は呼んでよ」
「わかった」
遼はスマホを見た。
「わかった」と送った後、少し止まった。
もう少し何か送ろうとした。何も思いつかなかった。
でも、「次は呼んでよ」に「わかった」と返せた。それは本当に「わかった」と思ったから返した。次に飯を作ったら、呼ぼうと思う。
スマホをしまった。
作業に戻った。
でも今夜は、なかなか手が動かなかった。
同じ夜。
桜井詩織はスマホを見て笑った。
「今日飯作った。誘えばよかったな」。
遼からこういうLINEが来るとは思っていなかった。何かの用件でも、報告でも、質問でもない。ただ「誘えばよかったな」だ。
笑いながら「次は呼んでよ」と打った。
「わかった」が返ってきた。
わかった。
詩織はスマホを置いた。
「わかった」の一言だったが、遼が「わかった」と言うのは本当に分かったときだ。適当に言う人じゃない。そういう人だということを、詩織はずっと前から知っている。
だから少し、嬉しかった。
なんかよかった、と思った。
窓の外に夜の東京。遠くにマンションの灯りが見える。
全部がゆっくり動いている。自分も、遼も、たぶんそれぞれに少しずつ。どこに向かっているかは分からない。でも今夜は、それでいい気がした。
詩織は本を開いた。
今夜はよく眠れる気がした。
柊家のリビングに、夜の灯りがついている。
凛が台本を読んでいる。華がスマホを見ている。遼の部屋からキーボードの音がしている。
いつもの夜だ。
何も変わっていない。
でも全部が、少しずつ動いている。
均衡、とはそういうものだ。
変わっていないように見えて、実は全部が動いている。
次に均衡が崩れるのがいつかは、まだ誰にも分からない。
ただ、崩れる日は来る。
第二部「普通にやっています」 完
第三部「守る人になりそうです」(予定)へ続く
第二部を最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
書いている間、ずっと楽しかったです。キャラクターたちが勝手に動いてくれる感覚があって、自分でも予想していなかった方向に話が転がることが何度もありました。そういう瞬間が、書いていて一番好きです。
第三部は、現在構想中です。少しずつ形にしていますので、もう少しだけお待ちください。
引き続き応援していただけると嬉しいです。




