第39.5話「九人の現在地」
佐倉ひなは、今日も柊家に来た。
来てしまった、というより、来るつもりだったから来た。
柊遼さんがリビングにいた。「あ、ひなさん。どうも」と言った。
「華ちゃんに呼ばれて」
「ああ、なるほど」
ひなは華と話しながら、横目で遼さんの手元を見ていた。ピンセットで何かを持ち上げて、別の場所に置く。迷いのない動き方だ。どこに何を置けばいいか、全部分かっている人の手だ。
顔が赤くなった。
(また赤くなってる)
次こそお茶が言えると思っていた。言えなかった。「お、お……」まで出たが、次が出なかった。
帰り際に遼さんが「またどうぞ」と言った。ひなは「はい!」と言えた。今日はそこまで。
帰り道。
ひなは思った。
(保留って決めたのに、また会ったら赤くなるんだろうな)
次会っても赤くなる。その次も赤くなる。たぶんずっとそうだ。でも、それでいい。華ちゃんの友達でいる限り、またいつか会う。
お茶くらい、いつか言える。
言えるようになるまで、それでいい、今は。
遠藤美咲はひなからの電話を切った後、しばらくスマホを持っていた。
また「顔赤くなった」の報告だった。前回も、前々回も、同じ報告だった。
美咲は毎回笑いながら聞く。「そっかー」と言う。「大変だね」と言う。ひなが「大変なんだよ!!」と言う。それで一通り終わる。
電話を切って、美咲はソファに横になった。
(ひなのこと応援してるんだけど、応援しかできないな)
でも、それでいい。ひなが「保留」と決めたことを、横で見ている。急かさない。引っ張らない。ただ、報告が来るたびに笑いながら聞く。
それが今の自分にできることで、それで十分だと思っている。
美咲はスマホを天井に向けて持って、ひなのトーク画面を見た。最後は「また赤くなった」「そっかー。次はお茶言えるといいね」「言う。絶対言う」「応援してる」「ありがとう」「頑張れ」「うん」。
いいやり取りだ、と美咲は思った。
次の電話も笑いながら聞こう。
藤枝紡は電車の中で、イヤホンをしていた。
スタジオで録った仮音源を聴いている。
「あなたは気づかないまま、今日も何かを直している——」
自分の声が耳に届く。
録音したばかりの声を聴くのは、少し不思議な気持ちになる。自分の声なのに、少し他人みたいに聞こえる。客観的に聞ける、ということだと思う。
今日の録音は悪くなかった。サビ前の入り方を変えたのは正解だった。あの一拍の溜めが、サビに重さをくれた。
曲にしたら、少し楽になった。
感じていたことを言葉にして、音にして、声にして、外に出した。全部は消えないが、軽くなった。そういうものだ、と紡は思っている。
でも消えたわけじゃない。
まあ、それでいい。消えなくていい。曲になっているなら、それで十分だ。
タイトル、まだ決めていない。
何かがある気がするが、今日は出てこなかった。
電車が駅に着いた。
ホームを歩きながら、頭の中でサビのメロディが流れていた。自分で書いた歌詞が、自分の頭の中を流れている。
少し可笑しくて、紡はホームで小さく笑った。
室田沙衣は鏡の前でヘアセットをしていた。
明日は雑誌の撮影だ。ライティングが難しい撮影なので、今日のうちにセットを確認しておく。
鏡の中の自分を見ながら、少し別のことを考えていた。
遼のことは、好ましい。今もそう思っている。好ましいで十分だ。それ以上でも以下でもない。整理ができている。
鏡の中の自分がそう言っている。
沙衣は少し止まった。
整理ができている、と思っている人間ほど、実は整理できていなかったりする。それは沙衣も知っている。知っているが、今のところ好ましいは好ましいだ。恋とは呼ばない。恋と呼ぶ気もない。
ただ、ひとつ気になることがある。
先日の凛との電話で、「芽衣ちゃんが遼のことを聞いてくるんだよね」という話が出た。沙衣は「そうなんだ」と言った。それだけ。でも、電話を切った後で少し考えた。
芽衣。
あの子は、分かりやすい。言葉にしない分、表情に出る。凛に「遼のことを聞いてくる」ということは、聞かずにいられない何かがある、ということだ。
沙衣は鏡を見た。
(気持ちを持っていることは、悪くない)
先日、芽衣に電話でそう言った。言いながら、自分に向かっても言っている気がした。
でも今は、これでいい。
ヘアセットを続けた。
春日芽衣は台本を読んでいた。
次の舞台の本読みが来週に迫っている。
でも、台本を開いてから三十分、あまり頭に入っていない。
昨夜の凛との食事を思い出していた。
「言えない話同士って、なんか安心するね」。
凛さんにも言えない話がある、と知った夜だった。凛さんも「いるかもしれない」と言った。自分と同じだ。言えない理由の種類は違っても、言えないまま何かを持っていることは同じだ。
(保留のまま、凛さんのそばにいよう)
そう決めた。それは変わっていない。
変だ。でも悪くない。
凛さんに言えない話を、凛さんと一緒に笑った夜だった。それで十分だ、今は。
芽衣は台本に目を戻した。
今度は少し頭に入った。
鷹野千夏は収録の待機中、隣に座った凛を横目で見ていた。
待機室はほかにも人がいるので、大声で話すような空気ではない。二人でスマホを見ていた。
凛の顔が、また変わってきた。
何があったかは分からない。聞けば「別に」と言う。そういう人だ。でも、前より少し柔らかい。目の周りが、というか、何かが少し緩んでいる気がする。
千夏は凛のことを長く見ている。デビューした頃から知っている。ずっと「完璧にしようとしている人だ」と思って見ていた。それは今も変わっていないが、最近は「完璧にしようとしながら、少し揺れている」感じがする。
揺れているのが悪いわけじゃない。むしろ、揺れられるようになった、ということかもしれない。
「凛、最近なんかいいことあった?」
小声で聞いた。
凛が少しこちらを見た。
「別に」
「そう」
「何かあると思った?」
「顔が違う」
「……そう?」
「うん。前より柔らかい」
凛が少し黙った。
「……柔らかい、か」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど」凛が小さく笑った。「自分では分からなかった」
「そういうもんだよ」
そこで話は終わった。
千夏はまたスマホを見た。
凛に何があったのかは、まだ分からない。でも、いいことがあったなら、それでよかった。
友人の変化を遠くから見ている。それが千夏のいる場所だ。
黒瀬綺羅は楽屋で手帳を開いていた。
ライブの段取りを確認するつもりだったが、気づいたら華へのLINEの画面を開いていた。
遼とアリアのその後が気になった。アリアが日本に来るという話を華から聞いていた。どうなったのか。返事はもらえたのか。そのあたりが気になって、聞こうとした。
打ちかけた。
止まった。
(友達の兄の恋愛に、なんで私が興味を持っているんだ)
自覚した。
LINEを閉じた。手帳に戻った。
ただ、構造的に気になるだけだ。遼とアリアの関係は、物語として面白い。直球で来るアリアに対して、まったく気づいていない遼。その構造が気になる。恋愛の話として気になっているわけではない。
……本当に?
黒瀬は手帳のページをめくった。
今はそれで十分だ。
楽屋のドアが開いた。白石奏斗が入ってきた。
「綺羅くん、スマホ見てた?」
「手帳見てた」
「その前」
「……見てない」
「華さんから?」
黒瀬が顔を上げた。
白石がいつも通りの穏やかな顔で笑っていた。
「答えなくていいよ」
「……」
「気になるよね、そりゃ」
「気になってない」
「そう」
白石がソファに座った。特に追及しなかった。
黒瀬はそれが少しありがたかった。
白石は楽屋のソファに座って、ペットボトルの水を飲んだ。
黒瀬の様子を横目で見た。手帳を開いているが、内容より別のことを考えている顔だ。
(AURUMが柊家と絡む日が来る気がする)
その予感は変わっていない。黒瀬が華さんと会う頻度が上がれば、いつかそうなる。もう少し時間がかかるかもしれないが、方向は決まっている気がする。
その日、どんな顔をするんだろう。
メンバー全員が柊家に行ったとして。遼という人間に会ったとして。
橘は「変なやつ」と言いながら気に入るだろう。東條は技術の話をして夢中になるだろう。玲央は懐くだろう。
自分はどうするか。
たぶん、笑いながら見ているだけだ。それが自分の場所だ。
白石は水を飲み終えて、ペットボトルをゴミ箱に入れた。
今夜帰ったら、トマトに水をやる。
それで今日は十分だ。
ロバートはホテルの部屋でデイビッドへの報告メッセージを打っていた。
*"Hiiragi completed his first day without incident. Everything is on track."*
(柊遼が初出社を無事に終えました。順調に進んでいます)
送信した。返信は三十秒で来た。
*"Good."*
(そうか)
ロバートはスマホを置いた。
(黒瀬くんとは、また秘密が増えた)
秋葉原の件だ。あれから数日経つが、誰にも言っていない。言うつもりもない。黒瀬リーダーも同じはずだ。互いに墓まで持っていくことは、あの夜の無言で決まっている。
悪い秘密ではない。むしろ、少し楽しい秘密だ。
ロバートは窓の外を見た。東京の夜。
アリアが明後日来る。遼には伝えていない。「見なかったことにします」と言ったメッセージは、見なかったことにしている。
遼の反応が少し気になった。「そうですか」と言うだけだと思う。驚かない。怒らない。それが遼という人間だ。
それがロバートには、少し面白かった。
スマホを持って、今日の日報を書き始めた。
「今日も特に何もありませんでした」と書いた。
保存した。
まあ、いいか。
デイビッドはカリフォルニアの自宅で、コーヒーを飲んでいた。
窓の外に午前の光。キャビネットの上に、銀のフォトフレームが置いてある。四人の写真。もう十年以上前だ。
ロバートからの報告を読んだ。「順調です」。一言で済む報告だ。遼という人間は、一言で済む報告になることが多い。それが良いことか悪いことか、デイビッドには判断しにくい。でも、悪くはない気がしている。
(日本に来るたびに、面白いものを見る)
次はいつ来られるか。
遼が入社したので、また来る理由はある。アリアも明後日に着くらしい。ロバートから「見なかったことにします」と言ってきたメッセージは、見た。全部知っている。それがロバートという人間だ。
デイビッドはコーヒーを飲んだ。
アリアに「傷つくな」と言った。言ってから、少し後悔した。言わなければよかったかもしれない。でも言った。
あの子は傷つくかもしれない。でも、傷つかないために動かないという選択肢が、あの子にはない。それは昔からそうだ。
デイビッドは写真を少し見た。
面白い国だ。
柊遼は、今日も部品を見ている。
TechVisionの仕事が終わって、帰宅して、夕食を食べて、また部屋に戻った。
部品が並んでいる。ケースが開いている。今日の仕事で気になった設計の続きを、家でも少し考えていた。
特に何も変わっていない。
窓の外に六月の夜。キーボードの音が静かに続く。
ひなは赤くなった顔で帰り道を歩いていた。
美咲は横になってひなのトーク画面を見ていた。
紡は電車の中で自分の声を聴いていた。
沙衣は鏡の前でヘアセットをしていた。
芽衣は台本を開いていた。
千夏は凛の横顔を見ていた。
黒瀬は手帳を閉じていた。
白石は水をやり終えたトマトのプランターを見ていた。
ロバートは日報を書いていた。
デイビッドはコーヒーを飲んでいた。
全部が少しずつ動いている。
遼は気づいていない。
今日も部品を見ている。




