第39話「初出社」
少し時間を遡る。
TechVisionへの初出社の日。
TechVisionの日本オフィスは、六本木の高層ビルの中にある。
柊遼は入り口の前で三秒止まった。
止まった理由は特にない。ただ、なんとなく三秒止まった。見上げると、ガラス張りの外壁が朝の空を反射している。きれいだな、と思った。
受付でロバートに連絡してもらった。しばらく待って、エレベーターで上がった。フロアに出たら、ロバートが待っていた。いつも通りのスーツだ。
*"Good morning."*
(おはようございます)
*"Good morning."*
(おはようございます)
*"Nervous?"*
(緊張してますか)
*"Not particularly."*
(してないです)
*"……I see."*
(……そうですか)
ロバートが案内を始めた。フロアの構造を説明しながら歩く。開発チームがどこにいるか。会議室がどこにあるか。遼が使う机がどこか。共用の機材室がどこか。
遼はそれを聞きながら、フロアを見回した。
机が並んでいる。モニターが並んでいる。人が十数人いる。エンジニアらしい格好の人たちが、全員こちらを見ていた。
新入りを確認している目だ、と遼は思った。
ロバートが「こちらが柊遼さんです。本日からジョインします」と紹介した。何人かが頷いた。何人かが「よろしくお願いします」と言った。遼も「よろしくお願いします」と言った。
一通り終わって、ロバートが遼の机に案内した。窓際の端の席で、外が見える。
遼は荷物を置いて、フロアをもう一度見た。
「ここ、部品どこで買えますか」
ロバートが止まった。
周囲の人間も少し止まった。
*"……Parts?"*
(……部品、ですか)
「電子部品です。ここから一番近い店を教えてもらえれば」
*"……There's a parts inventory in the office."*
(……オフィスに部品の在庫があります)
「何が置いてありますか」
*"……I'll check later."*
(……後で確認します)
ロバートが少し遠い目をした。
フロアが静かだった。
遼は「ありがとうございます」と言って、椅子に座った。
午前中の打ち合わせは、日本チームのシステム開発の現状共有だった。
遼はノートを開いて、話を聞きながら少し書いていた。
設計の話になったとき、遼の手が少し速くなった。現状のシステムに、いくつか気になる部分があった。ここの処理の順番を変えれば、もう少し早くなる。この部分の設計は、もっとシンプルにできる気がする。
話を聞きながら、改善案のスケッチを書いた。粗いが、方向性は見えた。
打ち合わせが終わって、昼前に少し時間ができた。
隣の席の西村さん——日本チームの先輩エンジニアが、少し気にしながら言った。
「柊さん、最初から打ち合わせに入って大丈夫でしたか」
「大丈夫でした。あのシステムの設計、少し面白いですね」
「そうですか?」
「ここの部分、もう少し効率的にできる気がして」
西村が遼のノートを覗き込んだ。
「……これ、どのくらいで書いたんですか」
「打ち合わせ中に」
「打ち合わせ中に!?」
「話を聞きながらだったので、粗いですが」
「粗いって……これ、ちゃんとした改善案じゃないですか」
「スケッチです。ちゃんと検証していないので」
西村が誰かを呼んだ。坂本さんという人が来た。二人でノートを見た。
「……これ、どういう発想ですか」
「制御系でよく使う手法を応用しただけで、普通だと思いますが」
二人が顔を見合わせた。
ロバートが遠くから見ていた。
(普通だと思いますが)
また来た。
ロバートは遠い目をした。
昼休み。
遼は購買でおにぎりを二個買って、机に戻った。
食べながら、午前中のノートを見直した。改善案のスケッチ。いくつか修正が必要だが、方向性は悪くない。
西村が隣に座ってきた。
「柊さん、お昼ここで食べるんですか」
「はい」
「外に出ないんですか」
「今日は様子を見たくて」
「……様子って」
「フロアの動き方。午前と昼でどう変わるか」
西村が少し止まった。
「……初日にそれを観察しようとする人、初めて見ました」
「普通じゃないですか」
「普通じゃないです」
遼はおにぎりを食べた。
「西村さんは、ここに何年いるんですか」
「三年です。前は別の会社で」
「どういう仕事をしてたんですか」
「組み込み系のエンジニアで。TechVisionに来てからは制御システムが多くなりました」
「制御系の経験があるなら、午前の打ち合わせで話が出た処理の順番の件、どう思いますか」
西村が少し考えた。
「……柊さんのノートに書いてあった案ですよね」
「はい。あれ、実装したとして、どのくらいコストがかかるか分かりますか」
「ちゃんと計算してないですが……一週間くらいですかね、検証まで入れると」
「検証も込みで一週間なら、試す価値はある気がします」
「……柊さん、初日からそういう話しますね」
「気になったので」
「いや、気になるのは分かるんですが」
西村が少し笑った。困った笑い方だったが、嫌そうではなかった。
「……後で坂本に話してみます。柊さんが言ってたって」
「お願いします」
遼はおにぎりの二個目を開けた。
午後。
隣のフロアから「すみません」と声がかかった。
機材の不具合が出ているらしい。担当のエンジニアが見ているが、原因が分からないという話だった。ロバートが「柊さん、少し見てもらえますか」と声をかけてきた。
遼がそちらに行った。
機材を見た。電源は入っている。インジケーターのランプが一か所だけ点滅している。パターンが不規則だ。
少し触った。
「ここの接続が緩んでいます」
「え、そこですか?」
「はい。何度か抜き差ししたときに少し曲がったんだと思います」
ドライバーを借りて直した。二分で終わった。インジケーターのランプが正常に戻った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「でも、次回は勝手に触らないでください」
「分かりました」
「……それは了解してもらえるんですね」
「機材には触り方があるので、手順を確認してからの方がいいと思います。今回は急いでいたので」
「……そうですね」
担当のエンジニアが少し複雑な顔をした。感謝しているのか、複雑なのか、両方なのか。
遼は「急いでいたので」と言ったが、正確には急いでいたわけではない。ただ、見えたから直した。
ロバートがまた遠い目をした。
夕方。帰り支度をしていたら、坂本さんが来た。
「柊さん、午前中の改善案の件なんですが」
「はい」
「少し見てみたんですけど、実装できそうで。月曜日に改めて話しませんか」
「もちろんです」
「……初日にこういう話になると思ってなかったんで」坂本が少し笑った。「驚いてます」
「打ち合わせを聞いていたら気になって」
「気になったことをその日のうちに改善案にまとめる人も、なかなかいないですよ」
「普通だと思いますが」
坂本が「西村から聞いてましたけど、本当に言うんですね」と言った。
「何をですか」
「普通だと思いますが、って」
遼は少し首を傾けた。
「普通じゃないですか」
「普通じゃないです。ただ……」坂本が言葉を選んだ。「普通じゃないけど、嫌な感じがしないのが不思議で」
「……そうですか」
「よろしくお願いします、改めて」
「こちらこそ」
坂本が先に帰った。
遼は荷物を持って、ロバートに「お先に失礼します」と言った。
*"How was it?"*
(どうでしたか)
*"Fine."*
(まあ)
*"……That's it?"*
(……それだけですか)
*"Problems weren't problems. That's fine."*
(問題が問題にならなかったので、問題ないです)
ロバートが少し間を置いた。
*"……That sentence was difficult to parse."*
(……少し解読が難しい文でしたが)
*"It was fine."*
(問題なかったです)
*"Understood."*
(了解です)
遼はエレベーターに乗った。
帰宅後。
詩織に「初出社終わった」とLINEを送った。
すぐに既読がついた。
「どうだった?」
「まあ」
少し間があった。
「毎回まあだね」
「……そうか?」
「そうだよ」
遼はスマホを見た。
「次は「普通だった」にする」
「それも似たようなもんだよ」
「では「問題なかった」」
「遼の語彙、全部似てるね」
「……そうかもしれない」
詩織から小さい笑い顔のスタンプが来た。
遼はしばらくそのスタンプを見た。
「何か一個、今日の話をしてもいいですか」と送った。
「どうぞ」と詩織が返した。
「打ち合わせ中にノートに改善案を書いていたら、「どのくらいで書いたんですか」と聞かれた」
「うん」
「「打ち合わせ中に」と答えたら驚かれた」
「そうだよ、普通は驚くよ」
「なんで」
「普通は打ち合わせ中に改善案は書かない」
「なんで」
「……追いつかないから」
「そうか」
少し間があった。
「普通じゃなかったのか」
「よかった、自分で気づいてくれた」
「……そうか」
「そうだよ」
「まあ」
「まあって言ったー!!」
絵文字がたくさんついたメッセージが来た。遼はそれを見て、少し笑った。
笑ったことに、少し後から気づいた。
やり取りがしばらく続いた。いつもより長く続いた。
詩織が「そろそろ寝る」と言ったのは、一時間後だった。
「おやすみ」と遼が送った。
「おやすみ」と返ってきた。
遼はスマホを置いた。
部屋に、静かな夜が戻った。
でも、何かが少し前より柔らかい気がした。何がどう柔らかいのかは、よく分からなかった。
同じ夜。アリアはロバートにメッセージを送った。
*"How did it go today?"*
(今日はどうだった?)
*"He worked."*
(仕事していました)
*"That's it?"*
(それだけ?)
*"He also fixed a piece of equipment that wasn't his responsibility, and submitted an improvement proposal on his first day."*
(担当外の機材を直して、初日に改善案を提出しました)
*"……And he called all of that 'normal'?"*
(……それを全部「普通」と言ったんでしょ)
*"Without hesitation."*
(迷いなく)
アリアはしばらく天井を見た。
*"Why is he so normal."*
(なんでこんなに普通なの)
*"I ask myself the same question daily."*
(私も毎日そう思っています)
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"I'm arriving the day after tomorrow."*
(明後日着く)
*"……I thought it was in two weeks."*
(……二週間後ではなかったですか)
*"I moved it up."*
(早めた)
*"……I see."*
(……そうですか)
*"Don't tell him."*
(言わないで)
*"……Understood."*
(……了解です)
ロバートはスマホを置いた。
遠い目をした。
三秒後、デイビッドに報告メッセージを送った。
*"Today was uneventful."*
(今日も特に何もありませんでした)
返信は十秒で来た。
*"Good."*
(そうか)
ロバートはまた遠い目をした。




