第37.5話「芽衣と凛の夜」
凛が誘った。
特に理由はなかった。春日芽衣と二人で食事する機会が最近少なかったから、それくらいの理由だ。
仕事終わりに待ち合わせて、個室の和食屋に入った。
席についてお茶を頼んで、最初は仕事の話をした。凛の次の仕事の話。神崎監督の次回作のこと。芽衣が今やっている舞台の話。共演者が面白い人で、という話が少し長くなった。芽衣は話しているとき、自然と表情が豊かになる。仕事の話になると特にそうだ。
料理が来て、しばらくして、凛が「最近どう?」と聞いた。
「……普通です」
「本当に?」
芽衣が少し止まった。
「……普通じゃないかもです」
「何かあった?」
少し間があった。
「……凛さんに言える話じゃなくて」
凛が箸を置いた。
「……そっか」
「すみません」
「謝らなくていい。言えない話があることは悪くない」
「……はい」
沈黙。料理の音だけがした。
芽衣は凛を見た。怒っていない。責めていない。ただ「そっか」と受け取っている。
(この人は、そういう人だ)
以前から知っていた。でも今夜また、確認した気がした。
「私も最近、言いにくいことがある」
芽衣が顔を上げた。
「凛さんも?」
「うん」
「……凛さんが言いにくいことって、どんなことですか」
「それが言いにくいことだから」
「……そうですね」
二人で少し笑った。
「言えない話同士って、なんか変ですよね」と芽衣が言った。
「変だね」と凛が言った。「でもなんか、安心する」
「……安心しますね」
「お互いに言えないことがあるって分かってると、変に探り合わなくていいから」
「……そうかもしれないです」
料理が続いた。
だし巻き卵が美味しかった。芽衣が「これ好き」と言ったら、凛も「私も」と言った。それで少し空気が柔らかくなった。
「凛さん、神崎監督の新作、引き受けるんですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「台本読んで、面白いと思ったから。でも、なんか」
「なんか?」
「台本読んでると、顔が赤くなることがあって」
芽衣が少し止まった。
「それって、台本のせいですか」
「……そこが分からないんだよね」
「凛さんが分からないことがあるんですね」
「あるよ」
「なんか、意外です」
「何が意外なの」
「凛さんって、自分のことが分かってる人だと思ってたので」
「分かってないことの方が多い」
「……そうなんですか」
「うん」
凛がお茶を飲んだ。
「芽衣ちゃんは? 舞台、楽しい?」
「楽しいです。でも、舞台と関係ないところで」
「うん」
「なんか、時々手が止まることがあって」
「手が止まる?」
「台本の読み合わせしてるときとか、ふと違うことを考えてしまって」
「違うことって」
「……それが言えないことで」
凛が少し笑った。
「また来た」
「また来ました」と芽衣も笑った。
二人でしばらく、料理を食べた。
外から雨の音がしていた。今夜は少し降っているらしい。
「好きな人、いますか」
芽衣が聞いた。
凛が少し止まった。箸を持ったまま、少し止まった。
「……いるかもしれない」
「かもしれない」
「言えない相手だから、いるかどうかも分からない」
「言えない相手、ですか」
「うん。いると認めたら、何かが変わる気がして。だから、かもしれない、って言ってる」
芽衣はそれを聞いて、少し間を置いた。
「……私もそうです」
「かもしれない?」
「自覚はあります。でも動けない」
「なんで動けないの」
「……言えない理由があって」
「そっか」
「凛さんも言えない理由があるんですか」
「うん。仕事の話だったり、立場の話だったり」
「……難しいですね」
「難しい」凛が少し遠い目をした。「難しいんだけど、でも」
「でも?」
「なんか、ちゃんと考えてしまう。以前はそういうことを考えなかったから、それが変化なのかもしれない、とは思う」
芽衣はそれを聞いて、少し黙った。
「ちゃんと考えてしまう」。
自分もそうだ、と思った。声には出さなかった。
「なんか」と芽衣が言った。「全然解決してないのに、少し楽になりました」
「そういうもんだよ」
「話すと軽くなるんですか」
「解決はしないけど、少し軽くなる」
「……それでいいんですか」
「それでいいんじゃない」
芽衣がお茶を飲んだ。
「凛さんのそばにいると、なんか安心します」
「なんで」
「……言えない話を持ったまま、ちゃんとしてるから」
凛が少し間を置いた。
「ちゃんとしてるかどうか、自分では分からない」
「ちゃんとしてますよ」
「……ありがとう」
しばらく沈黙があった。
いい種類の沈黙だった。何も解決していないが、何かが少しだけ軽くなっている。そういう静けさ。
「芽衣ちゃん」と凛が言った。
「はい」
「その言えない相手のこと、いつか言える日が来るといいね」
芽衣が少し止まった。
「凛さんも、ですか」
「私も」
「……そうですね」
二人でまた少し笑った。笑う理由はよく分からなかったが、笑った。
店を出た。雨が上がっていた。濡れたアスファルトに、街灯が映っていた。
「ありがとう、誘ってくれて」と芽衣が言った。
「また来よう」
「はい」
少し歩いて、角で別れた。
芽衣は帰り道を一人で歩きながら、今夜の話を少し振り返った。
言えない話を、言えないまま話した夜だった。解決は何もしていない。「かもしれない」が「確かに」に変わったわけでもない。
でも、凛さんも「いるかもしれない」と言った。
同じだ、と思った。言えない理由の種類は違う。でも、言えないまま何かを持っていることは、同じだ。
保留のまま、凛さんのそばにいよう。
それが今の自分だ。
それでいい、と思った。
帰り道は、思ったより短かった。




