第37話「条件」
ホテルのロビーにある小会議室。
柊遼は窓際の席についた。外は六月の空で、雲が少ない。
ロバートが向かいに座った。コーヒーが二杯、テーブルに置かれた。
*"Thank you for coming today."*
(今日はありがとうございます)
*"Of course."*
(こちらこそ)
*"I'll be direct. TechVision — are you in?"*
(単刀直入に聞きます。TechVisionへの入社、いかがでしょうか)
遼は少し間を置いた。
*"I have conditions."*
(条件があります)
*"I'm listening."*
(聞きます)
*"Three."*
(三つです)
*"Go ahead."*
(どうぞ)
遼はコーヒーに手を伸ばさずに、テーブルの上で指を一本立てた。
*"One. Japan-based. No overseas postings."*
(ひとつ。日本拠点での勤務。海外赴任はなし)
*"Understood."*
(了解です)
ロバートは何も書いていない。覚えているか、あるいは最初から了解するつもりだったか、どちらかだ。
*"Two. I keep control of my research. Consultation, not orders."*
(ふたつ。研究の裁量は自分で持つ。指示ではなく相談ベースで)
*"Understood."*
(了解です)
「みっつ」
遼が少し間を置いた。
*"Three. If my sisters have trouble at work, I need to be able to respond. That takes priority."*
(姉妹の現場でトラブルが起きたときは、優先的に対応できるようにしてほしい)
ロバートが止まった。
三秒くらい止まった。
表情が、ビジネスの顔から少し違う顔になった。
それから笑い出した。
*"……I'm sorry."*
(……すみません)
*"Is this something to laugh about?"*
(笑うことですか)
*"No, it isn't."* ロバートが笑いながら言った。*"I just didn't expect it."*
(いえ、笑うことではないんですが。想定していなかったので)
*"Unexpected?"*
(想定外でしたか)
*"I've interviewed engineers all over the world. No one has ever put their sisters in the third condition."*
(世界中の優秀なエンジニアと面談してきましたが、三つ目にそれが来たのは初めてなので)
*"You can remove it if it's a problem."*
(問題があれば外してもらっても)
*"We're taking all three."*
(いえ、全部呑みます)
*"Seriously?"*
(本当ですか)
*"Seriously."* ロバートが少し真顔に戻った。*"David will agree. If part of the reason you stay in Japan is to be near your sisters — that's worth including."*
(本当です。デイビッドも同意するはずです。あなたが日本にいる理由の一部が、お姉さんたちのそばにいることなら、それも込みで確保する価値があります)
遼は少し考えた。
*"You're not saying 'we'll do our best'?"*
(……善処します、ではなく、全部呑む、なんですか)
*"I don't use that phrase."*
(善処という言葉は使いません)
*"I see."*
(そうですか)
*"Deal."*
(Deal.)
ロバートが手を差し出した。遼が握った。
少し強めに握った。ロバートも少し強めに握り返した。
以上だった。
面談が終わって、ロビーに出た。
*"Thank you for your time today."*
(今日は時間をとっていただいてありがとうございました)
*"Same."*
(こちらこそ)
*"I'll report to David. He'll be pleased."*
(デイビッドに報告します。喜ぶと思います)
*"Will he."*
(そうですか)
*"Without question."*
(間違いなく)
遼は少し首を傾けた。
*"Why does David want me specifically?"*
(デイビッドさんは、なぜ私にこだわるんですか)
ロバートが少し考えた。
*"He has an eye for the real thing."*
(……本物を見分ける目があるので)
*"The real thing."*
(本物、ですか)
*"It's something he said first, not me. Everyone he's ever said that about — it's always turned out to be right."*
(私ではなくデイビッドが最初に言い出したことです。あの人が「確保しろ」と言った人間は、過去に何人もいますが、全員が後から正しかったと分かっています)
*"Is that so."*
(そういうものですか)
*"It is."* ロバートが言った。*"I expect the same will be true of you."*
(そういうものです。あなたも、後からそうなると思っています)
遼はそれを聞いて、特に何も言わなかった。
ロバートが先に歩き出した。
遼はロビーを出る前に少し立ち止まった。
「本物」という言葉が、頭の中に少し残った。
自分が「本物」かどうかは、遼には分からない。ただ面白いから作っていて、直したいから直している。それで十分だ。
でも、それを「本物」と呼ぶ人間がいるなら、まあそういうことなんだろう。
遼は外に出た。
六月の空はまだ明るかった。
夕食の時間。
柊凛と柊華がテーブルについていた。遼が席についた。
「TechVision、行くことにした」
凛と華が止まった。
凛が遼を見た。
「……本当に?」
「まあ」
「まあって何よ」
「本当に」
華の目が少し潤んできた。
「やだ泣きそう」と言いながら天井を向いた。
「なんで泣くの」と凛が言った。
「だって遼が就職するなんて」
「よかったことでしょ」
「よかったけど、なんか」
「なんか何」
「なんかじゃん!!」
凛が「何が「なんかじゃん」なの」と言った。華が「なんかはなんかだよ!!」と言った。
「でも日本だから」と遼が言った。
凛がまた遼を見た。
「……そう」
「場所は変わらない」
「……うん」
凛が箸を持った。
「じゃあ、ご飯食べな」
「うん」
華がまだ天井を向いていた。
「華、食べな」
「今泣きそうだから待って」
「泣かないで食べな」
「待って!!」
遼はご飯を食べ始めた。
凛が「遼、TechVisionって具体的に何するの」と聞いた。
「ロボット制御の研究と、あとは依頼があれば何でも」
「何でも」
「来たものをやる」
「……それって就職してる意味あるの」
「在籍してる方が色々と動きやすいらしくて」
「らしくてって、ちゃんと確認した?」
「ロバートさんに聞きました」
「ロバートさんが言ったからって」
「信用できると思っています」
「なんで」
「三つ目の条件を笑いながら全部呑んだので」
凛が少し止まった。
「三つ目の条件って何」
「姉妹の現場でトラブルが起きたら優先的に対応できるようにしてほしい、と言いました」
凛がしばらく遼を見た。
「……それを条件に入れたの」
「まあ」
「……」
華が天井から顔を戻した。目が潤んでいる。
「遼、それ言ったの?」
「言いました」
「……なんで」
「凛と華が困ってたら対応したいから」
「……」
華がまた天井を向いた。
「泣かないで食べな」と凛が言った。
「無理だって今は!!」
遼はご飯の二杯目をよそった。
いつもの夕食だった。
食後。
遼は部屋に戻って、スマホを出した。
詩織に「TechVision行くことにした」とLINEを送った。
既読がついた。
しばらく待った。三分くらい待った。
「おめでとう」
一言だった。
遼はその一言をしばらく見た。
「おめでとう」。
詩織が「おめでとう」と打つまでに三分かかった。三分で何を考えていたのかは、遼には分からない。分からないが、いつもより間が空いた気がした。
閉じようとして、閉じなかった。
何か返そうとして、何も思いつかなかった。
「ありがとう」と打った。
送ろうとして、止まった。
「ありがとう」だけでいいのか。何かが足りない気がした。何が足りないのかは分からない。
五分くらいそのまま止まった。
結局「ありがとう」だけ送った。
詩織から「うん」と返ってきた。
遼はそれを見た。
「うん」だった。
いつもより短い気がした。気のせいかもしれない。でも気になった。
スマホを置いた。
作業台に向かった。
でも今夜は、なかなか手が動かなかった。
同じ頃、アリアはロバートからのメッセージを読んでいた。
*"He accepted. All conditions agreed."*
(入社が決まりました。条件は全部呑みました)
アリアはすぐ遼にLINEを送った。
*"I heard you're joining TechVision."*
(TechVisionに入るって聞いた)
*"Yes."*
(そうです)
*"That means I have another reason to come back to Japan."*
(じゃあまた日本に来る理由ができた)
*"……That's not what this is about."*
(……そういう話じゃないです)
*"For me it is."*
(私はそういう話です)
遼は少し間を置いた。
*"……Is that so."*
(……そうですか)
*"Yes. See you soon."*
(そう。またすぐ会いに行くから)
LINEが切れた。
遼はスマホを見た。
「またすぐ会いに行くから」。
そうか、と思った。アリアにとってはそういう話なんだ、と思った。
自分にとってはどういう話なのか、まだよく分からない。
でも、「どういう話なのか」を考えていることは分かった。
以前は考えていなかった。それは確かだ。
遼は作業台に向かった。
今夜は部品の整理でもしよう。手を動かしていると、少し落ち着く。
それはずっと前から変わっていない。




