第38話「それぞれの朝」
六月の朝。
柊遼はネクタイを結んでいた。
結んでいる、というより、格闘していた。
鏡の前で三回やり直した。長さが毎回違う。なぜ違うのか分からない。毎回同じ手順でやっているはずなのに、結果が違う。何かの変数が安定していないはずだが、その変数が特定できない。
「遼、ネクタイ曲がってる」
柊華が廊下から覗いて言った。
「分かってる」
「直す?」
「自分でできる」
「できてないじゃん」
「……じゃあ頼む」
華がリビングから来て、三秒で直した。
「なんで三秒で終わるの」
「お姉ちゃんのやつ毎回やってるから」
「凛もできないの?」
「できるけど面倒くさいって言って頼んでくる」
「……そうか」
遼は鏡を見た。確かに真っ直ぐになっている。
「TechVision、どんな服で行けばいいか分からなかった」
「スーツでいいんじゃない?」
「スーツは合ってないと言われた気がする」
「誰に」
「前に凛に」
「お姉ちゃんに聞けばよかったじゃん」
「朝早いから声かけにくい」
華が「遼って、そういうとこ気を遣うんだね」と言った。
「普通だろ」
「普通じゃないよ」
遼はコーヒーを飲んだ。台所のカレンダーを見た。六月。TechVisionへの出社が始まって、まだ少ししか経っていない。慣れているとも慣れていないとも言えない。ただ、毎朝ネクタイと格闘するのは想定外だった。
「凛は?」と遼が聞いた。
「まだ寝てる。今日は昼から」
「そうか」
「起こさなくていいの?」
「いい」
「伝言は?」
「ない」
華が「行ってらっしゃい」と言う前にドアが開いていた。
「行ってきます」
「頑張って!!」
「まあ」
「まあじゃない!!」
ドアが閉まった。
華はリビングに戻って、朝ごはんを食べ始めた。
窓の外に六月の空。遼は今頃、電車の中でモニターの設計でも考えているんだろうな、と思った。スーツを着ていても、頭の中は変わらない。それがあの人の普通だ。
同じ朝。
柊凛は起きていた。
起きていたというより、台本を読んでいた。
部屋のベッドの上で、台本を膝に置いて、ページをめくっていた。昨夜から読み始めて、途中で止まって、朝また続きを読んでいる。
神崎監督の新作台本。
面白い。純粋に面白い。役が面白いというより、全体の構造が面白い。どこにいてもどの場面も、何かが動いている。脚本家の呼吸が、ページから伝わってくる気がする。
これが仕事だ、と思った。こういう台本に向き合うために、ここまで来た。
読んでいると、自然と役の感情に引っ張られる。このシーンの主人公は、この瞬間何を感じているのか。怒りか、哀しみか、あるいはもっと名前のつかない何かか。凛はページの前でそれを探す。答えが見えたとき、次のページに進む。それが凛のやり方だ。
三分の二くらい読んだところで、ふと顔が熱くなった。
止まった。
台本の内容を振り返った。今読んでいたのは、主人公が誰かに何かを言えずに場面が終わるシーン。言葉が出なくて、でも目を離せなくて、そこで終わる場面だった。
特に熱くなるような展開ではない。
なのに熱い。
凛は台本を閉じた。
ベッドに仰向けになった。天井を見た。
(神崎さんが、次回作でまた一緒にやりたいと思ってくれた理由)
「あなたが変わったから」という言葉が、また頭の中に来た。
変わった、のか。何が変わったのか。自分ではよく分からない。ただ台本を読んでいたら顔が熱くなって、それが台本のせいなのかどうかも分からない。
以前はこういうことがなかった。台本を読んでいたら顔が熱くなる、という現象が、以前はなかった気がする。
なぜ今はあるのか。
答えは出なかった。
凛はもう一度台本を開いた。続きを読んだ。
熱いまま読んだ。
それでいいかもしれない、と思った。
同じ朝。
桜井詩織は出版社のデスクで、企画書に赤を入れていた。
昨日の打ち合わせを踏まえて、構成を少し組み替える。こういう作業は好きだ。何かがぴったりはまる瞬間がある。文章の話でも、構成の話でも、そのはまる瞬間が気持ちいい。
充実している、という言葉が最近よく頭に浮かぶ。仕事が楽しい。担当させてもらっている著者との打ち合わせが、毎回発見がある。この人の文章が、まだ先に行けると思えている。それを一緒に考えていいのが、嬉しい。
昼休み、スマホを開いた。
特に理由はなかった。ただ習慣的に、昼になるとスマホを見る。
遼のトーク画面。最後は先日の「ありがとう」「うん」で止まっている。
詩織は「うん」を見た。
返事のつもりで打った「うん」だったが、今見ると短い。もう少し何か書けばよかった、とまた思った。「おめでとう」を打つのに三分かかっておいて、「うん」で返したのは、少しちぐはぐだった気がする。
でも、あのとき「うん」以外の言葉が出なかった。
TechVision、行くことにした。
その一言を受け取ったとき、詩織は何かが動いた気がした。よく分からない動き方だった。よかった、と思った。同時に、何かがまた少し遠くなった気がした。遠くなる、というのは正確ではないかもしれない。ただ、何かが変わった、という感覚がした。
今日は遼の出社二日目だ。昨日は「初出社終わった」「どうだった?」「まあ」のやり取りがあった。まあ、か、と思いながら笑った。でも「毎回まあだね」と返したら「……そうか?」と来て、それが少し可笑しくて、その夜は何度かスマホを開いた。
何を送ろうとしたかは、もう覚えていない。送らなかった。でも開いた。
詩織はスマホをしまった。
午後の仕事に戻った。
夕方、また開くかもしれない。たぶん開く。
それでいい。それが今の自分だ。
同じ朝。アメリカ。
アリアは部屋の窓から外を見ていた。
荷造りはもう終わっていた。スーツケースが二つ、部屋の端に並んでいる。一つは衣類。もう一つは本と、日本で使うための細々したもの。
帰ってきてから少し経つ。大学の手続きを片付けて、父と夕食を一回食べて、友人と会った。全部終わった。やることがなくなったので、また日本に行く。
単純な話だ、とアリアは思っている。やることがあれば行く。なければ待つ。今はやることが日本にある。
返事はまだもらっていない。でも、もらえていないだけで、断られたわけでもない。アリアの理解では、それはまだ可能性がある、ということだ。
ロバートに送ったメッセージへの返信が来た。
*"……I'll pretend I didn't see this message."*
(……このメッセージは見なかったことにします)
アリアは少し笑った。
ロバートはいつも「見なかったことにします」と言いながら、全部把握している。それがロバートという人間だ。
*"Do what you want."*
(ご自由に)
送信した。
アリアはスマホを置いて、また窓の外を見た。
サンフランシスコの朝は青い。でも今は東京の空が見たい気分だった。
遼は今日も仕事に行ったらしい。ロバートが昨日「二日目も問題なく出社しました」と報告してくれた。「問題なく」の一言で済む人間だ、とアリアは思う。問題が起きないのではなく、起きても問題にしないのだ、あの人は。
スーツケースの取っ手を確認した。準備は全部終わっている。
突然来ても、遼は「そうですか」と言うだけだ。驚かないし、怒らない。それがあの人だ。
それでいい。むしろ、それがいい。
アリアは部屋を出た。
父に今朝のコーヒーをもらいに行く。出発前に、少し話をしておきたかった。
同じ日の午前。サンフランシスコのリビング。
デイビッドはコーヒーを二杯、カウンターに置いた。アリアが椅子に座った。
*"When do you leave?"*
(いつ発つ)
*"Tomorrow."*
(明日)
*"Again?"*
(また行くのか)
*"Again."*
(また行く)
デイビッドはコーヒーを飲んだ。何も言わなかった。
*"You're not going to say anything?"*
(パパは何も言わないの)
*"What should I say?"*
(何を言えばいい)
*"That I'm going too much."*
(行き過ぎだとか)
*"That's for you to decide."*
(行き過ぎかどうかは自分で決めることだ)
*"……So you're okay with it?"*
(……それって賛成してるってこと?)
*"I'm not against it."*
(反対もしていない)
アリアがコーヒーを飲んだ。
*"You're useful like this, Dad."*
(パパって、こういうとき便利だよね)
*"How so."*
(何が)
*"You never say no."*
(反対しない)
*"You've made your decision. There's no reason for me to oppose it."*
(お前が決めたことに、私が反対する理由がない)
*"But you like Ryo, don't you."*
(でも遼のことは気に入ってるんでしょ)
デイビッドが少し間を置いた。
*"In terms of work, yes."*
(仕事の話なら、気に入っている)
*"That's all?"*
(それだけ?)
*"That's all."*
(それだけだ)
アリアが*"……Really?"*と聞いた。デイビッドは何も言わなかった。
*"Just don't get hurt."*
(傷つくな)
小さく言った。
アリアが止まった。
*"……Dad."*
(……パパ)
*"That's all."*
(それだけだ)
デイビッドは立ち上がって、キッチンに戻った。
アリアはしばらくコーヒーカップを見ていた。
父がああいうことを言うのは、珍しい。言わない人だ。でも言った。
(傷つくな)
傷つくかもしれない。それは分かっている。でも、傷つかないために何もしないという選択肢が、アリアにはなかった。
アリアはコーヒーを飲み干した。
立ち上がって、キッチンに顔を出した。
「ありがとう、パパ」
デイビッドは振り返らなかった。でも、少しだけ肩が動いた気がした。
同じ朝。
華は事務所で連絡を待っていた。
次の映画の件だ。監督から「水城くんと再共演でどうですか」という話が来ていた。返事は今日中にする予定だった。
午前中に田村から電話が来た。
「決まりました。水城くんも了承してくださいました」
「ありがとうございます」
電話を切った。
華はスマホを持ったまま、少し止まった。
決まった。
蒼真くんと、また一緒にやれる。
台本のことを考えた。次はどんな役だろう。誰に相談しようか。遼に聞いてみようか、お姉ちゃんに聞いてみようか。いや、まだ台本が来ていないから相談する内容もない。
その考えの途中で、蒼真くんの顔が来た。
急に浮かんだ。
華は一人で少し赤くなった。
なんで急に顔が浮かぶんだ。台本のことを考えていたのに、なぜ浮かぶ。
腑に落ちない。全然腑に落ちない。
でも浮かんだのは事実だ。
「まあいっか」と華は言った。声に出て言った。事務所の廊下だった。通りかかったマネージャーの田村が「何かありましたか」と聞いた。
「決まって嬉しいなって」
「そうですよね」田村が笑った。「水城くん、上手な方ですよね」
「はい」
「いいお仕事になりますよ」
「……はい」
田村が先に歩いていった。
華はまた一人になった。
(水城くんが上手な方、という話で、なんで少し違う気持ちになったんだ)
よく分からなかった。
腑に落ちないことは、腑に落ちないまま置いておく。そういうことにした。
華はスマホを出して、黒瀬にLINEした。
「次の映画、蒼真くんと再共演になった」
既読がすぐついた。
「そう」
「うん」
「……顔赤くなった?」
「なったけどなんで分かるの!!」
「なんとなく」
「なんとなくで分かるの!?」
「華がそういうの送ってくるときはだいたいそう」
「だいたい!? 何回そういうことあった!?」
「数えてない。おめでとう、仕事」
「……ありがとう」
「顔が赤くなったこともおめでとう」
「それはおめでとうなの!?」
「おめでとうでしょ」
「腑に落ちないんだけど」
「腑に落ちなくていいわ」
既読がついて、返信が来なくなった。
華はスマホをしまった。
腑に落ちないまま、午後の仕事に向かった。
夕方。TechVisionの日本オフィス。
遼は一日の作業をまとめていた。
今日はシステムの仕様確認が長くなった。途中で疑問点が出て、それを潰していくうちに夕方になった。問題があったわけではない。ただ、確認に時間がかかった。
同僚の西村に「今日はありがとうございました」と言われた。何がありがとうなのか、遼にはよく分からなかった。疑問点を整理しただけだ。
「いえ」と答えた。
「柊さんって、説明が分かりやすいですよね」
「そうですか」
「こちらが理解できているかどうかを、ちゃんと確認してくれる感じで」
「説明しても伝わっていなければ意味がないので」
「……それが自然にできる人と、できない人がいるんですよ」
「そうなんですか」
「そうなんです」
遼は「普通だと思いますが」と言いかけて、止めた。
普通、と言うたびに相手が少し複雑な顔をすることに、最近気づいていた。理由はまだよく分からない。
「……ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
帰り道、電車の中で遼は少し考えた。
TechVisionは、今のところ悪くない。条件は整っている。研究の裁量もある。来たものをやっていれば、今のところ問題が出ない。
ただ、毎朝ネクタイと格闘するのだけが、想定外だった。
同じ夕方。
凛は事務所でマネージャーの田中と打ち合わせを終えて、廊下を歩いていた。
神崎の次回作、引き受けることにした。
台本を読んで、迷った。迷ったのは、仕事の判断としてではなく、別の理由だった。でも、仕事の判断としては「行く」が正解だと分かっていた。
エレベーターを待ちながら、スマホを見た。
神崎監督からのメッセージが来ていた。
「楽しみにしています」
凛は少し止まった。
短い一文だったが、何かがじわっと来た。
楽しみにしている。
この台本を作った人間が、自分に「楽しみにしている」と言っている。それがどういう意味を持つか、凛には分かる。分かるから、少し重かった。
「私もです」と返した。
エレベーターが来た。
凛は乗り込んで、ロビーまでの短い時間、外の景色を見た。
今夜は家に帰って、また台本を読む。
顔が熱くなってもいい。なんのせいかは分からなくても、読む。
それが今の自分のやり方だ。
夜。柊家のリビング。
凛と華が夕食の後片付けをしていた。
「遼、今日どうだった?」と華が聞いた。
「普通」と遼が答えた。
「普通って何」
「問題なかった」
「問題なかったって何」
「……まあ、仕事になってる」
「なってるって何」
「なってるから、まあ、なってる」
「遼って、日本語使ってるのに伝わらないことある」
「伝わっているけど」
「伝わってないよ!!」
凛が「つまり初日より慣れてきたってこと?」と聞いた。
「まあ」
「まあ、ってことは慣れてきたね。よかった」
「お姉ちゃんってたまに遼語が分かるよね」と華が言った。
「二十二年だから」
「お姉ちゃんすごいよ」
「すごくない。慣れただけ」
遼は洗い物を終えて、「お先に」と自分の部屋に戻った。
凛と華が洗い物の残りをやりながら、少し話した。
「お姉ちゃん、神崎監督の次回作、引き受けるんでしょ」
「うん」
「楽しみだね」
「……うん」
「顔が赤い」
「赤くない」
「赤いよ」
「……台本の読みすぎで目が疲れてるから」
「目が疲れたら顔は赤くならないよ!!」
凛が「洗い物してなさい」と言った。華が「はーい」と言った。
リビングがいつも通りのうるさい夜になった。
遼の部屋からは、キーボードの音がしていた。
六月の、普通の夜だった。




