第36話「できた」
深夜一時四十分。
柊遼の部屋に灯りがついていた。
モニターが二台。コーヒーが一杯、冷めたまま端に置いてある。部品が少し散らばっている。いつも通りだ。
遼はコードを走らせた。ログが流れる。数値が並ぶ。止まった。
見た。
もう一度走らせた。
また数値が流れた。止まった。
見た。
三回目。
数値。
「……できた」
誰もいない部屋で、小さく言った。
以上だった。
特に感情が出なかった。出なかったというより、出る前に確認作業が始まった。本当にできているか。どこかに見落としはないか。遼はログをもう一周確認した。もう一周した。三周した。四周目に入りかけて、止めた。
問題ない。
できている。
遼は椅子の背にもたれた。
モニターを見た。
二台のモニターに、数値と波形が並んでいる。バランス補正の挙動が設計通りだ。通信遅延が十八ミリ秒。全関節の同期が取れている。
正直に言えば、途中で二回詰まった。一回目は関節制御の同期がずれるバグで、三日かかった。二回目は転倒防止の予測モデルで、一週間粘った。
それが今日、全部繋がった。
遼は冷めたコーヒーを飲んだ。
まずい。
でも今夜はそれでよかった。
翌朝の朝食。
柊凛と柊華がテーブルについていた。凛が味噌汁を飲んでいた。華が卵焼きを食べていた。
遼が席についた。
「プログラム、終わった」
凛が顔を上げた。
一瞬だけ、目が止まった。
「……いつ」
「昨日の夜中」
「起こしてよ!!」と華が言った。
「起こす必要がないと思って」
「そういうことは起こすの!!」
「なんで」
「なんでって、嬉しいことがあったら一緒に喜びたいじゃん!!」
「……そういうものか」
「そういうものだよ!!」
凛がお茶を置いた。
「……おめでとう」
「ありがとう」
「何がおめでとうなのかは、よく分からないけど」
「ロボット制御プログラムが——」
「聞いてないよ」
「聞いてほしいかと思って」
「聞いてない!!」とまた華が言った。「遼のこと分からなくてもおめでとうって言えるの!!」
「……そういうものか」
「そういうもの!!」
遼はご飯をよそいながら、少し考えた。
「では改めて」
「うん」
「おめでとうと言ってくれてありがとう」
「……遼って、なんかたまにこういうことするよね」と華が凛に言った。
「する」と凛。
「急にちゃんとしてる」
「ちゃんとしてるのか、ズレてるのか分からない」
「どっちでもある」
二人が静かに頷いた。遼はご飯を食べ始めた。
凛がもう一度遼を見た。
「……ちゃんと寝た?」
「少し」
「少しって何時間」
「三時間くらい」
「……今日は早く寝なさい」
「まあ」
「まあって言うな」
華が「お姉ちゃん遼にまあって言うなって言っても無駄だよ」と言った。
「あなたは黙ってなさい」
「なんで私が」
「遼の援護射撃をするから」
「援護じゃなくて事実を言っただけ」
「そうそう事実なの!!」
「あなたも黙ってなさい」
遼はご飯の二杯目をよそった。
午前中。
遼はロバートにメールを送った。
件名:完成しました。本文:プログラムが完成しました。全機能、仕様通り動作しています。遅延は十八ミリ秒です。
簡潔に、それだけ書いた。
返信は三分で来た。
*"When can you start?"*
(いつから来られますか)
遼は少し止まった。
早い。
予想はしていたが、三分は早い。ロバートが今何時にいるかを考えると、さらに早い。向こうはまだ夜明け前のはずだ。
遼は返信を打たずにスマホを置いた。
華が部屋を覗いて「どうしたの?」と聞いた。
「ロバートさんから返信が来た」
「何て」
「いつから来られますか」
「早い!!」
「早い」
「どうするの」
「考える」
「今すぐ考えて!!」
「今すぐではない。順番がある」
「順番?」
「行くかどうかを決める。行くなら条件を整理する。条件が整ったら返事をする」
華が「……なんか段取りはしっかりしてるんだね」と言った。
「普通だろ」
「遼の「普通」って信用できないんだよね」
「なんで」
「範囲が広いから」
遼は「そうか」と言って、スマホを机に置き直した。
今日は条件を整理する日にした。
昼過ぎ。
ロバートの方では、もう少し別の展開が起きていた。
ロバートはデイビッドに電話した。
*"David, the program is complete."*
(デイビッド、プログラムが完成しました)
*"Already?"*
(もう?)
*"Yes. Eighteen millisecond latency. All joints synchronized. Full functionality."*
(はい。遅延十八ミリ秒。全関節同期。完全動作です)
少し間があった。
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"How long did I say it would take?"*
(私は何ヶ月かかると言った)
*"You said six months at minimum."*
(最低でも六ヶ月、とおっしゃいました)
*"And he did it in?"*
(それが何ヶ月で)
*"…Approximately two months."*
(……約二ヶ月です)
また少し間があった。
*"Interesting."*
(面白い)
*"You're not surprised?"*
(驚かないんですか)
*"I'm surprised. But I said 'interesting' first."*
(驚いている。でも最初に「面白い」と言った)
ロバートはため息をついた。
*"When can he start?"*
(いつから来られる)
*"I asked. He hasn't replied yet."*
(聞きました。まだ返信がありません)
*"Of course he hasn't."*
(そうだろうな)
デイビッドが少し笑ったのが、電話越しに聞こえた。
*"Don't push him, Robert. He'll come when he decides to come."*
(急かすな、ロバート。あの人間は、決めたときに来る)
*"……Yes, sir."*
(……了解です)
電話が切れた。
ロバートはスマホを置いて、天井を見た。
(早く返信してほしい)
言わなかったが、そう思った。
同じ昼過ぎ。
アリアはロバートからのメッセージを読んでいた。
*"The program is complete. He'll decide about TechVision soon."*
(プログラムが完成しました。TechVisionについての判断は近いうちに)
アリアはロバートに電話した。三コールで出た。
*"So the answer?"*
(で、返事は?)
*"That's a separate matter from the program completion, apparently."*
(プログラム完成とTechVision入社は別の話、ということらしいです)
*"Why are they separate?"*
(なんで別なの)
*"Because they are separate, he says."*
(別だから別、ということです)
*"That's circular logic."*
(それは循環論法だわ)
*"……I know."*
(……私もそう思います)
アリアはしばらく天井を見た。
*"So what about my answer?"*
(じゃあ私の返事は)
*"Also separate, apparently."*
(それもまた別の話らしいです)
*"Everything is separate with him."*
(あの人、全部別なのね)
*"……Yes."*
(……そうですね)
*"Japanese people have so many drawers."*
(日本人って、なんでこんなに引き出しが多いの)
*"……I think it's less about being Japanese and more about him specifically."*
(……日本人というより、あの人固有の問題だと思いますが)
*"Same difference."*
(同じことよ)
*"It's really not——"*
(それは実際に違うと——)
*"Robert."*
(ロバート)
*"Yes."*
(はい)
*"When he decides, will you let me know first?"*
(あの人が決めたら、私に先に教えてくれる?)
少し間があった。
*"……That's not really my place to——"*
(……それは私の立場上——)
*"Please."*
(お願い)
また間があった。
*"……I'll see what I can do."*
(……考えます)
*"Thank you."*
(ありがとう)
電話が切れた。
ロバートはスマホを見た。
(板挟みとはこういうことだ)
遠い目をした。
夜。
遼は詩織に「プログラム終わった」とLINEを送った。
すぐに既読がついた。
少し間があった。
「おめでとう……。じゃあ、TechVisionに行くの?」
「……まだ分からない」
また少し間があった。
「そっか」
遼はその「そっか」を見た。
詩織の「そっか」はいつも短い。短いのに、何かが入っている気がすることがある。今日の「そっか」も、何かが入っている気がした。
何かが、という部分が特定できなかった。
聞けばよかったかもしれない。「そっかってどういう意味か」と。でも聞くには何かが足りない気がして、聞かなかった。
スマホを置こうとして、止まった。
何か送ろうとした。
何も思いつかなかった。
しばらくトーク画面を見た。
凛から「遼、明日のご飯何がいい」というLINEが別のトークから来た。
遼は「なんでも」と返して、詩織のトーク画面に戻った。
「そっか」がまだそこにあった。
遼は「ありがとう」と打った。
少し止まった。
消した。
「返事ありがとう」と打った。
また少し止まった。
消した。
結局、何も送らなかった。
スマホをしまった。
作業に戻った。
でも今夜は、いつもより少しだけ、手が止まることがあった。




