柊家の夜明け前 Episode 12「そして、柊家になる」
九月の終わりから、柊家の夜が少し変わった。
一つ増えた、小さな呼吸のせいで。
由紀は夜中に目を覚ます。凛が泣いている。抱き上げる。温かい。重い。この重さが毎晩、由紀の腕に刻まれていく。
台所の窓から、幸江の惣菜屋の灯りが見える。まだ消えていない。夜遅くまで仕込みをしているのか、眠れない夜があるのか。由紀には分からなかった。でも、灯りがあるだけで少し心強い。
それだけのことで、十分だった。
朱里が来たのは、凛が生まれて三ヶ月が経った頃だった。
新幹線で来て、玄関に立って、最初に言ったのは「太った?」だった。
「産後三ヶ月の人間に言う言葉じゃないよ」
「じゃあ顔色がいい」
「本当に?」
「まあまあ本当」
朱里は玄関で靴を脱ぎながら、まっすぐ座敷に向かった。来慣れた人間の歩き方だった。
凛を覗き込んだ。
凛は布団の上で、天井を見ていた。何も見えていないのに、見ようとしている。
「……強い目だね」
「みんな、そう言う」
「海斗さんも言ってた?」
「生まれた日に、病院で」
「そうか」
朱里は凛の手の甲に、指先でそっと触れた。
「由紀の目に似てる」
「私の目?」
「舞台の端に立ってるときの目。何かを決めた人間の目」
由紀は凛の顔を見た。
生後三ヶ月の、小さな顔。まだ笑顔が出るかどうかの頃。でも確かに、その目には何かがある。
「……大変な子になりそう」
「なるね」朱里が笑った。「でも、いい意味で」
昼過ぎ、縁側で二人でお茶を飲んだ。
朱里は煙草に火をつけながら、庭の梅の木を見ていた。
「ヨーロッパに行こうと思う」
由紀は少し間を置いてから答えた。
「知ってた」
「え、なんで」
「手紙の書き方が変わったから」
朱里は少し笑った。
「……何年やっても分かるもんだね、あんたには」
「そういうわけじゃない」
「いや、そういうわけだよ」
朱里は煙草の煙を吐いた。秋の空に、細い白い線が消えていく。
「フランス行き。知り合いが向こうに劇団作って、来いって言ってるんだよね。本格的にやるなら今が最後の機会だと思って」
「いつ発つの」
「三月。雪が溶けてから」
「……そうか」
「引き止めないの」
「引き止めない」
朱里は由紀を見た。
「なんで」
「行くべき人が行くだけだから」
しばらく、朱里は由紀の横顔を見ていた。
「……あんたって、こういうときだけ強いよね」
「こういうとき?」
「他人が何かを決めたときに、背中を押す方に回るとき。すっと、強くなる」
由紀は答えなかった。
「自分のことは後回しにして」
「後回しじゃない」
「じゃあなんだよ」
「……今は、ここにいたいの」
由紀は凛の方を見た。
「理由はそれだけじゃないけど、今は、そう」
朱里は少し黙っていた。
それから、煙草を縁側の灰皿で押し消した。
「由紀」
「何」
「席、空けておく」
由紀は朱里を見た。
「……どういう意味」
「どういう意味だと思う」
「……朱里」
「向こうでやることが見つかって、軌道に乗ったら、劇団を作るつもり。そこに、あんたの席を作る。来るかどうかは、あんたが決めること。来なくてもいい。でも、空けておく」
由紀は返事ができなかった。
凛が台所の方から小さく声を出した。目が覚めたらしい。
「……行ってくる」
由紀は立ち上がった。
「うん」
朱里は庭の梅の木を見たまま、そう言った。
その夜、海斗が帰ってきた。
玄関に工具箱を置いて、まず凛の顔を見た。
「大きくなったな」
「三ヶ月でそれほど変わらないと思うけど」
「変わった。顔が締まってきた」
由紀は少し笑った。
「朱里が来てたよ」
「そうか。会えなかった」
「ヨーロッパに行くって」
海斗はしばらく黙った。
「いつ発つの」
「三月だって」
「そうか」
海斗は凛を見ていた。凛は海斗の顔を、ゆっくりと確かめるように見ていた。
「……強い目だ」
「また言ってる」
「朱里も、生まれた日も言ってた」
「正しい表現だと思う」
「私はもう少し違う言い方をしたい」
「どんな言い方?」
「……分からない。でも、強いだけじゃない気がして」
由紀は凛の顔を見た。
何かを決めた目。でも決めることの重さも、もう知っているような目。そんなはずはない。生後三ヶ月の子が知っているはずがない。でもそう見えた。
「……あなたのことも、好きになると思う、この子は」
海斗が少し間を置いた。
「それ、どういう意味?」
「どういう意味かな」
「……由紀は時々、分からない言い方をする」
「あなたも、よく言われるでしょ」
「言われる」
二人で少し笑った。
凛が、また声を出した。
三月。
朱里が発つ日は、よく晴れていた。
由紀は凛を抱っこして、空港まで見送りに来た。海斗は仕事の都合で来られなかった。
朱里は大きなキャリーケースを引いていた。ウールのコートに、大きなショルダーバッグ。保安検査の前で、振り返った。
「じゃあね」
「うん」
「泣かないの」
「泣かない」
「由紀らしい」
朱里は凛の顔を覗き込んだ。凛は朱里をじっと見ていた。
「この子に、いつか話して」
「何を」
「あんたがどういう人だったか。舞台に立ってたとき、どんな目をしてたか」
「……やめてよ」
「やめない」朱里は立ち上がった。「この子が大きくなったら、話して。それで十分だから」
「……分かった」
「ほんとに分かってる?」
「ほんとに」
朱里は笑った。
「行くよ」
「うん」
「元気でね」
「朱里も」
朱里はゲートを通った。
振り返らなかった。
由紀は朱里の背中が見えなくなるまで、立っていた。
凛が由紀の腕の中で身じろぎした。
「……見えなくなったよ」
由紀は凛に言った。
凛は何も言わない。まだ言葉を知らない。でも、ちゃんとそこにいた。
由紀は少しだけ止まった。呼吸が、一度だけ止まった。
それだけだった。
出発ロビーで、人が行き交っている。出発する人と、到着する人と、見送る人が、全部同じ場所にいる。
由紀は凛を少し抱き直して、駅を出た。
外は三月の光だった。冬が終わる光。
翌日、幸江が煮物を持ってきた。
由紀が玄関に出ると、幸江はエプロンのまま立っていた。
「昨日、友達を見送りに行ったんでしょ」
「どこで聞いたの」
「朝、旦那さんが出かけるとき話しかけたら、教えてくれた。海外に行くんだって」
幸江は煮物を渡しながら、由紀の顔を見た。
「泣かなかったの?」
「泣きませんでした」
「そうか」
「変かな」
「変じゃない。あんたらしい」
幸江は少し笑った。
「でも、泣いてもよかったんだよ」
「……分かってる」
「分かってて泣かないのか」
「泣けなかったというより、……泣く場所が分からなかった」
幸江はしばらく黙っていた。
それからエプロンで手を拭いて、言った。
「あんた方、変な家族だなって、ずっと思ってたよ」
「変な家族?」
「旦那さんは引越しの初日に隣の冷蔵庫を直してくるし。あんたは舞台の人で。友達がヨーロッパに行って、泣く場所が分からないって言ってるし。子供はこんな目をしてるし」
由紀は苦笑した。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
幸江は凛を覗き込んだ。
「変な家族だけど、いい家族だよ」
由紀は少し目が潤んだ。
さっき泣けなかったのに、今は泣きそうになっている。おかしいと思った。でも幸江は気づいていて、それ以上は何も言わなかった。
「煮物、食え。温かいうちに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
幸江はエプロンのまま帰っていった。
その夜、海斗が縁側に工具箱を持ち出していた。
夜の空気はまだ少し冷えていた。凛を寝かしつけた由紀が縁側に出ると、海斗はドライバーを一本持って眺めていた。
「何してるの」
「確認してる。海外に持っていくやつと、置いておくやつを選り分けてる」
由紀は海斗の隣に腰を下ろした。
縁側から、梅の木が見える。春の初めで、もう葉が出てきていた。
「……朱里が言ってた」
「何を?」
「凛に、私がどういう人だったか話してほしいって」
海斗は手を止めた。
「……舞台のことか」
「たぶん。そうだと思う」
「話すか」
「……どうかな」
梅の木を、由紀は見た。
「あの子が大きくなったとき、自分がどういう顔をして話すのか、想像がつかなくて」
「想像しなくていいと思う」
「なんで?」
「その頃の由紀は、その頃の顔をしているはずだから」
由紀は少し笑った。
「……あなたって、そういうこと言うよね」
「おかしかったか」
「おかしくない。ちゃんと考えてるんだなと思って」
「いつも考えてる」
「何を?」
「由紀のことを」
由紀は少し黙った。
海斗がこういうことを言うのは珍しくない。でも毎回、どう受け取っていいか分からなくなる。不器用だが、嘘ではない。それは確かだ。
二人は並んで縁側に座っていた。
庭の梅の木が、春の夜風に少し揺れた。
「由紀」
「何」
「今日は、泣けたか」
由紀は少し驚いた。
「……幸江さんに聞いたの?」
「帰り道で会った。由紀が泣く場所が分からないと言っていた、と教えてくれた」
「……幸江さんは」
「あの人は、全部言う」
「そうだね」
由紀は少し笑った。
「……結局、泣けないままだった」
「そうか」
「変だよね」
「変じゃないと思う。泣くべきときに泣けない人は、泣かなくていいタイミングを知っているということだから」
「……それは慰め?」
「分析だ」
由紀はそれを聞いて、笑いながら泣いた。
声は出なかった。ただ目から出てきた。
海斗は工具箱をそっと縁側に置いた。
由紀の隣に、ただいた。
何も言わなかった。でも、いた。
梅の木が揺れた。
春の夜が、静かに深くなった。
凛が歩き始めた。
一歳を過ぎた頃、縁側から庭に降りようとして転んだ。泣かなかった。立ち上がって、また縁側を見た。降り方を考えている目だった。
幸江がその場面を見ていて、「だから言っただろ」と笑った。
「あの子、転んで泣かないよ。原因を探してる」
「まだ一歳だよ」
「一歳でも、そういう子はそういう目をしてるんだよ」
翌朝、海斗が縁側に工具箱を持ってきた。蓋を開けた。
凛が這って近づいてきた。工具箱を覗き込む。
ドライバー、ペンチ、レンチ。整然と並んでいる。金属の匂い。
凛はしばらく動かなかった。見ていた。触らなかった。ただ、見ていた。
海斗が凛の隣にしゃがんで言った。
「触っていいよ」
凛は少し考えてから、一番小さなドライバーに手を伸ばした。持ち上げた。重そうにした。でも落とさなかった。
由紀はそれを見ていた。
なんでもない朝だった。縁側で、一歳の子と父が工具箱を見ている。でもこの光景が何か大事なものだという感じがして、由紀は動けなかった。
凛が二歳になった頃、遼が生まれた。
遼は最初から静かだった。凛の泣き声が大きかった分、余計に静かに感じた。
幸江は赤ちゃんの遼を抱いて言った。
「この子は由紀ちゃんに似てる」
「そうですか」
「観察する目。見てから動く目。凛ちゃんは決めてから動く目だけど、この子は先に確かめる」
由紀はしばらくその言葉を持っていた。
凛が遼の顔を覗き込んでいた。二歳の姉と、生まれたばかりの弟。凛は遼の顔を、自分なりの方法で確かめていた。
その光景を、由紀は少し離れた場所から見ていた。
これがここにある、と思った。
朱里が言っていた席は、まだ向こうにある。でも今は、ここがある。
どちらかを選ぶのではない。今は、ここにいる。
それで十分だった。
凛が四歳になった年、華が生まれた。
華は最初から声が大きかった。泣き声が、凛の倍はあった。
幸江が「役者になる」と言った。由紀が「根拠あるの?」と言った。幸江が「声だよ。声がある子は表現できる」と言った。
遼は華の泣き声を聞いて、少し顔をしかめた。うるさい、という顔ではなかった。なんの音か確かめている顔だった。
凛は華を覗き込んで、黙っていた。それから由紀を見た。
「……妹?」
「そう」
「弟じゃなくて」
「そう」
凛はまた華を見た。
「……小さい」
「生まれたばかりだから」
「私もこんなだったの?」
「もう少し静かだったけど、同じくらい小さかったよ」
凛はしばらく考えた。
「……大きくなる?」
「大きくなるよ」
凛は頷いた。何かを決めた顔で。
その頷き方が、由紀には懐かしかった。
生まれた日に、病院で見た目と同じだった。
三人の子供が揃ってから、柊家の音が変わった。
凛の足音、遼の静けさ、華の声が重なった。
幸江は毎週何かを持ってきた。海斗は帰るたびに三人の顔を確かめた。由紀は引き出しの奥の台詞集を時々手に取った。読みはしなかった。ただ、そこにあることを確かめた。
朱里から、年に何度かメッセージが来た。
向こうで劇団が動き始めたこと。仲間が増えたこと。小さな公演が評判を呼んだこと。
由紀はそれを読んで、返事を書いた。
凛が最近転ばなくなったこと。遼が台所の引き出しを何度も開けることを止めないこと。華が声だけで部屋中を支配していること。
たわいのない話だった。でも由紀には、それが必要だった。
凛が七歳、遼が五歳、華が三歳の秋。
幸江が縁側で遼と話していた。遼が惣菜屋のコロッケについて、なぜ揚げると固くなるのかを延々と聞いていた。
幸江は最初は答えていたが、途中から「分からない」と言い始めた。遼は「そか」と言って、しばらく考えた。それから「分からないままにしておく」と言った。
幸江が笑った。大きな声で。
「あんた、面白いね」
「そうですか」
「そうだよ。分からないことを分からないままにしておける子は、強いよ」
遼はまた少し考えた。
「工具みたいに?」
「……工具?」
「工具は、ちゃんとした目的があるから強い、って父が言ってた」
幸江はしばらく黙って、台所の方の由紀を見た。
由紀と目が合った。
幸江は何も言わなかった。でも口の端が上がっていた。
遼が小学二年生になった秋。
タイから段ボールが届いた。
宛名は「柊遼へ」。
由紀は段ボールを受け取りながら、笑った。
約束通りだ。
差出人の欄は、海斗の字だった。
凛が「何が入ってるの」と駆けてきた。遼は段ボールの前にしゃがんで、黙って見ていた。
由紀が紙を取り出した。英語だった。読んだ。
一文だけ、すぐに訳せる言葉があった。
「……お父さんから」
「何て書いてあるの?」
凛が聞いた。
由紀はその紙を持ったまま、動けなかった。
目が熱くなった。
由紀は目を拭った。笑った。
手紙にはこう書いてあった。
「壊していいぞ」
凛が「え?」と言った。
遼が段ボールを見た。
少し前に出た。
その目は、由紀が何度も見た目だった。世界がどうなっているかを、先に知りたがっている目。見てから動く目。
でも今日、その目の中に、海斗がいた。
遠くにいる夫の目が、息子の中で生きていた。
「ままー、開けていい?」
凛が聞いた。
「開けていいよ」
凛が段ボールのテープを剥がし始めた。
遼がそれを横で見ていた。
幸江の惣菜屋から、コロッケの匂いが流れてきた。
秋の光が、縁側に差し込む。
梅の木の葉が、少し揺れた。
柊家は、こんなふうにして、柊家になった。
才能が血から来るのか、選択から来るのか。
それはまだ誰も分からない。
でも確かなことが、一つある。
この縁側から、この家から、何かが始まった。
そしてそれは、今も続いている。
<柊家の夜明け前 完>




