第35.5話「白石奏斗の観察日記」
白石奏斗は、AURUMで一番よく笑う。
笑いながら全部見ている。
これは意識してやっていることではない。ただ、周りで起きていることが面白いので、自然と笑っている。気づいたらいつも笑っていて、気づいたらいつも全部見ている。
今月で言えば、黒瀬綺羅のスマホ確認頻度が上がった。
楽屋でも移動中でも、少し前より画面を気にする。着信が来るたびに確認する速度が、一テンポ早い。
白石は気づいている。
何も言わない。ただ笑っている。
今日はリハーサルの後、楽屋で五人が休んでいた。
橘悠真がペットボトルの水を飲んでいた。東條理人がタブレットで何かを確認していた。朝倉玲央がストレッチをしていた。
黒瀬がソファに座って、スマホを手に持ったまま、少し止まった。
画面を見て、小さく「は」と笑った。
それからポケットにしまった。
白石は「今だ」と思った。
「華さんから?」
黒瀬が顔を上げた。
「……」
「答えなくていいよ」
黒瀬がスマホをポケットにしまい直した。何も言わなかった。
でも口角が戻っていなかった。
白石は笑った。
悠真が「あ、俺分かった。絶対そうだ」と言った。
理人がメガネを押し上げながら「統計的に見て、リーダーのスマホ確認頻度がここ一ヶ月で有意に上昇しています」と言った。
玲央が「柊さんってどんな人なんですか」と顔を上げて言った。
「うるさい」と黒瀬が全員に言った。
声が低かった。全員が一瞬静かになった。
三秒の沈黙。
それから全員が笑った。黒瀬も少し笑った。
「笑うな」
「笑わないと損ですよ」と玲央が言った。
「何が損なんだ」
「なんか損な感じがするじゃないですか、こういうとき」
「こういうときって何だ」
「リーダーがほんの少し照れてるときです」
「照れてない」
「照れてますよ」と理人が言った。「体温が上がっています。耳が——」
「東條、お前うるさい」
「事実の報告です」
「事実の報告がうるさい」
悠真が「ははっ」と笑った。玲央も笑った。
白石は笑いながら、黒瀬の耳を見た。
耳が赤い。
(やっぱりそういうことか)
笑いながら、心の中でそっとメモした。
楽屋でのひとしきりが落ち着いて、各自が次の準備を始めた。
白石は衣装袋を受け取って、鏡の前で確認をしていた。
横に玲央が来た。
「白石さん」
「うん」
「さっきの、どこまで分かってたんですか」
「何が」
「リーダーの話」
「全部」
玲央が少し驚いた顔をした。
「全部って」
「だいたい全部。気づいてた」
「なんで言わなかったんですか」
「言う必要がなかったから」
白石は衣装の肩のラインを直した。
「言う必要がある、って、いつですか」
「リーダーが本人に話したいとき。それが来てから言えばいい。今はまだそこじゃないから」
玲央がしばらく考えた。
「……白石さんって、なんか怖いですね」
「怖くないよ」
「笑いながら全部見てるじゃないですか」
「見てるのは怖くないでしょ」
「なんか……罠みたいな感じがします」
「罠は仕掛けてないよ」
白石は笑った。
「ただ楽しいから見てるだけ」
玲央が「それが怖いんです」と言った。
白石はまた笑った。
リハーサルが再開した。
白石はいつも通り歌った。ポジションを確認して、フォーメーションを合わせて、コーラスのバランスを調整した。
リハーサル中の黒瀬は完璧だ。
スマホのことも、耳が赤かったことも、全部消えたような顔をしている。センターに立って、完璧なフォームで踊って、完璧な声を出す。
これがAURUMのリーダーだ。
白石はそれを見ながら、隣でコーラスを合わせた。
(この人は、この場所では本物だ)
それが好きだった。
黒瀬が舞台の外でどんな人間でも、ここに立ったときに完璧になる。その意志の強さが、白石には単純に格好いいと思える。
リハーサルが終わった。
黒瀬が「悪くなかった。ただ三番のサビ前、タイミングずれてた」と言った。
「どこですか」と玲央。
「お前じゃない。悠真と理人」
「俺か」と悠真。
「俺も?」と理人。
「二人で変なタイミングで目が合って、一瞬乱れた」
「目が合ったのは俺のせいじゃない」
「合わせに来たのはお前の方だろ」
「統計的に見て、あの位置で目線がそちらに向くのは——」
「うるさい」
悠真と理人がまた言い合いを始めた。
白石は横で笑っていた。
夜。
白石は帰宅して、一番最初にベランダに出た。
プランターが三つ並んでいる。ミニトマトだ。
去年の夏に試しにやってみたら思ったよりうまくいって、今年も続けている。品種を少し変えた。今年はアイコとイエローミニトマトを混ぜて植えた。
水をやりながら葉の状態を確認する。
今年の苗は調子がいい。葉の色が濃くて、茎が太い。花も出てきた。あと数週間で実がなり始めるはずだ。
誰にも言っていない。
AURUMのメインボーカル、癒し系お兄さんポジションの白石奏斗が、ベランダでミニトマトに水をやっている。
その光景は、なんとなく人に言いにくかった。言いにくい理由はよく分からないが、なんとなくそうだった。トマトが悪いわけじゃない。ただ言いにくかった。
じょうろで水をやりながら、今日の楽屋を思い出した。
黒瀬の耳が赤かった。
あの人が動揺するのは珍しい。表でも裏でも、基本的に動揺しない人間だ。推しカプについて語るときは別だが、それ以外は動揺しない。
それが今、月に何回か会う女優さんのLINEで耳が赤くなっている。
(面白いな)
純粋にそう思った。
恋愛とかそういう難しい話ではなく、単純に「あの黒瀬が」という部分が面白い。五年間一緒にいて、あの人がああいう顔をするのを初めて見た。
じょうろの水が切れた。
水道に戻って補充した。
もう一回ベランダに出て、プランターの土を触った。いい湿り気だ。
AURUMがあの柊家と絡む日が来る気がする。なんとなく、そういう気がしていた。黒瀬が華さんと会う頻度が上がれば、いつかそうなる。
その日、どんな顔をするんだろう。
リーダーも、悠真も、理人も、玲央も。
楽しみだな、と思いながら、白石は二回目の水やりをした。
翌日。
午前の練習が終わって、昼休憩になった。
白石は購買でおにぎりを二個買って、楽屋に戻った。
悠真が先に戻っていた。床に座って、足首をほぐしている。
「悠真、足大丈夫?」
「まあ。昨日から少し張ってる」
「無理すんなよ」
「するかよ」
悠真が足首を回しながら言った。
「最近、お前いつも楽しそうだな」
「そう?」
「うん。なんかあった?」
「……」
「何?」
「トマト、うまく育ってるから」
悠真が止まった。
「……は?」
「トマト」
「トマトって」
「ミニトマト。ベランダで育ててる」
悠真がしばらく白石を見た。
「……何それ」
「趣味」
「お前の趣味がトマト?」
「そう」
「……いつから」
「去年の夏から」
「去年の夏から!?」
「意外とうまくいって」
悠真がまだ白石を見ていた。
「……なんで言わなかったんだよ」
「なんとなく言いにくくて」
「なんで言いにくいんだよ。べつにいいじゃんトマト」
「うん、いいんだけど」
「いいんだけど何」
「なんか、言いにくい」
悠真が「意味が分からん」と言った。白石は笑った。
おにぎりを一個食べた。ツナマヨだった。
「悠真、トマト好きか?」
「まあ」
「今年うまくいったらあげるよ」
「……くれるのか」
「うん。アイコとイエローの二種類あって」
「アイコって何」
「品種。細長いやつ」
「……」
悠真がまた少し白石を見た。
「お前、思ってたより詳しいな」
「好きだから」
「……まあ、くれるならもらう」
「うん」
白石はおにぎりの二個目を出した。昆布だった。
悠真が「トマトか……」とまだ繰り返していた。
昼休憩の後半。
理人と玲央も帰ってきた。
理人が自分の定位置のパイプ椅子に座って、タブレットを開いた。
「悠真さん、白石さんから何か聞きましたか」と玲央が言った。
「トマト」と悠真が答えた。
「そうです、トマトです」
「聞いてたのか」
「廊下から聞こえてきてしまって」
理人がタブレットから顔を上げた。
「トマト?」
「白石さんがベランダでトマトを育てています」と玲央が言った。
「去年の夏から」と悠真が言った。
「誰にも言ってなかったらしいです」と玲央が言った。
理人がメガネを直した。
「……それは、知らなかった」
「私も今日知りました」と玲央。
「統計的に見て、白石さんが趣味を秘匿していた期間は——」
「別に秘匿してたわけじゃなくて」と白石が言った。「言いにくかっただけで」
「なぜ言いにくかったんですか」と理人。
「なんとなく」
「なんとなくでは統計が取れない」
「統計取らなくていいよ」
玲央が「でも白石さんが隠してた趣味があったって知ると、なんか嬉しくなりますね」と言った。
「なんで嬉しいんだ」と悠真。
「なんか、意外なところがあったって分かるじゃないですか」
「白石はいつも意外なところあるだろ」
「そうですけど、トマトは特に意外です」
「トマトがそんなに意外か」
「意外ですよ! 白石さんてトマトじゃないじゃないですか」
「トマトじゃない、って何だ」
「なんか、バジルとかハーブとかそっちじゃないですか、イメージ的に」
「バジルも育ててる」
玲央が「え!!」と言った。悠真が「バジルも!?」と言った。
「トマトとバジルは相性がいいから」
「バジルの次は何ですか!?」と玲央。
「今はそれだけ」
「増やす予定はないんですか」
「来年、もし続けてたらきゅうりをやってみたいと思ってる」
「きゅうり!!」
玲央が楽しそうに「白石さんのベランダ、野菜畑になりそうですね」と言った。白石が「なったらなったで」と言った。理人が「栽培面積と管理コストを試算してみましょうか」と言った。白石が「しなくていいよ」と言った。
悠真がおにぎりを食べながら「……なんか、いい話だな」と言った。
「なんで」と玲央。
「なんとなく。トマトとバジルて」
「なんとなくだけで感想言うの、悠真さんっぽいですよね」と玲央。
「うるさい」
白石は笑った。
夕方。
黒瀬が戻ってきた。午後の仕事が終わったらしい。少し疲れた顔をしていたが、楽屋に入ると普通の顔に戻った。
「何の話してたんだ」
「白石さんのトマト」と悠真が言った。
「トマト?」
「ベランダで育ててる」
黒瀬が白石を見た。
「……知らなかった」
「去年から」と白石。
「なんで言わなかった」
「言いにくくて」
「何が言いにくいんだ、トマトで」
「なんとなく」
黒瀬がため息をついた。
「バジルも育ててるらしいですよ」と玲央が言った。
「バジルも」
「はい」
「……」
黒瀬がパイプ椅子を引いて座った。
「白石」
「うん」
「お前、他に何か隠してるか」
「特にない」
「本当に?」
「トマトとバジルが全部」
「……まあ」
黒瀬がスマホを出した。
少し打った。送った。すぐ返信が来た。黒瀬が読んで「ははっ」と笑った。また打って、送った。
白石は見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
ただ笑った。
黒瀬が「なんで笑ってるんだ」と言った。
「なんでもない」
「なんでもなくはないだろ」
「なんでもないよ」
白石は笑ったまま言った。
「リーダー、今日のリハーサルよかったよ」
「……そうか」
「本当に。三番のサビ前は悠真と理人のせいだったけど」
「俺のせいにするな」と悠真。
「統計的には——」と理人。
「うるさい」と黒瀬。
楽屋がいつも通りの音になった。
白石はおにぎりの袋を丸めながら、窓の外を見た。
今夜帰ったら、トマトに水をやる。
明日はリハーサルが午前から入っている。
来週は雑誌の撮影がある。
再来週、黒瀬は華さんと会う予定があるらしい。
(また耳が赤くなるのかな)
楽しみだな、と白石は思った。
そういうことを考えながら、笑っていた。
帰り道。
玲央が横に来た。
「白石さん」
「うん」
「さっきリーダーのスマホ確認、また見てましたよね」
「見てた」
「何か思いましたか」
「楽しそうだなって」
「楽しそう……」
「リーダーがああいう顔するの、初めて見たから」
玲央がしばらく歩きながら考えた。
「白石さんって、リーダーのこと好きですよね」
「好きだよ」
「……そういう意味ではなく」
「あはは。リーダーのこと、好きっていうより、面白いって思う。人間として。あの人がああいう顔するのが、なんか嬉しい」
「嬉しい?」
「完璧な人が、ちょっとだけ崩れる瞬間って、なんか……いいじゃないか」
玲央が「……なるほど」と言った。
「玲央はどう思う」
「俺は、なんか、リーダーに幸せになってほしいな、って思います」
「うん、それも分かる」
「でも言えないじゃないですか、直接」
「言わなくていいよ」
「言わなくていいんですか」
「うん。言わなくても伝わってるから」
玲央が少し考えた。
「……白石さんって、なんか怖いですね」とまた言った。
「昨日も言ったよそれ」
「昨日より怖いと思いました」
「なんで」
「なんか全部見えてそうで」
「全部は見えてないよ」
「半分以上は見えてそうです」
「そんなに見えてない」
「……トマト育てながら全部考えてるんでしょ」
白石は笑った。
「トマトはただ育ててるだけ」
「怪しい」
「怪しくないよ」
駅の改札が見えてきた。
「また明日」と白石が言った。
「また明日です」と玲央が言った。「あの、白石さん」
「うん」
「トマト、できたら一個ください」
「あげるよ」
「ありがとうございます」
玲央が改札を抜けた。
白石は少し後ろで改札をくぐって、ホームに向かった。
電車を待ちながら、今夜水をやろうと思った。




