第34.5話「ひなの独り言」
佐倉ひなは今日も柊家に来てしまった。
柊華に「来ない?」と言われたので来た。そういうことだ。遼さんがいるかもしれないからとか、そういうことは全然関係ない。全然関係ないのに、インターフォンを押す前に一回深呼吸した。意味はない。でもした。
ドアが開いた。
「ひなちゃんいらっしゃい!」
華だった。よかった。
リビングに入ったら、テーブルで部品を触っている人間がいた。
よくなかった。
「あ、ひなさん。来たんですか」
顔は部品を見たまま、柊遼が言った。
「華ちゃんに呼ばれて」
「そか」
終わった。会話が二往復で終わった。でも「そか」って言ってもらえた。「そか」でいい。「そか」で十分だ。なんで十分なんだ自分。
ひなは華の隣に座った。
しばらく華とドラマの話をしていたら、華が「ちょっとお菓子取ってくる」と台所に行った。
ひなと遼、二人になった。
機会だ。
何の機会かよく分からないが、機会が来た気がする。
何か言おう。何でもいい。「最近どうですか」とか「お仕事はどうですか」とか、なんか。お茶。お茶いりますかとか。そのくらい言える。八文字だ。言えないわけがない。
「お、お」
出てきた。
「……お」
続かない。
「……お」
三回目だ。
遼が顔を上げた。
「何か言いましたか」
「おつかれさまです!!」
出た。
遼がひなを見た。二秒くらい見た。どこかで処理が起きている顔だ。
「……どうも」
部品に戻った。
ひなは前を向いた。
(おつかれさまです、じゃないんだよ私)
お茶が言いたかった。なのに「おつかれさまです」が出た。どこから来たのか分からない。遼さんは疲れていない。撮影もしていない。部品を触っているだけだ。なのにおつかれさまですを言った。
でも「どうも」って返してもらえた。
丁寧な人だ。
なんで好きになってしまったんだ。
華が「はい」とお菓子を持って帰ってきた。
「何話してたの」
「おつかれさまですって言いました」
「え、なんで」
「分かんない」
「遼に?」
「遼さんに」
華が遼を見た。遼は部品を見ている。
「遼、ひなちゃんになんか言った?」
「どうも、と言った」
「ちゃんと返したじゃん」
「そうですね」とひなが言った。「ちゃんと返してもらいました」
「……なんか、そこだけ聞くとまともなやり取りだね」
「まともでした」
華がひなを見た。
ひなが少し笑った。
「……ひなちゃん大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「そっか」
「でも大丈夫です」
「どっち」
「両方」
華が「うん」と言って、お菓子を開けた。
帰り際。
玄関で靴を履いていたら、廊下から遼が出てきた。台所に向かうところだったらしい。ひなに気づいて立ち止まった。
「帰りますか」
「はい、お邪魔しました」
「どうも」
台所に消えた。
ひなは靴のかかとを踏んだまま、三秒止まった。
来たときも「どうも」で、帰るときも「どうも」だった。
一貫している。すごく一貫している。
でもなんか、いいんだよな。
「なんか、いいんだよな」が、一番困る。
マンションを出て、駅に向かいながら、遠藤美咲に電話した。三コールで出た。
「ひなちゃんどした」
「もうやだ」
「何が」
「会うたびに顔赤くなる」
「え、誰と会ったの」
「遼さんに」
「あー」
「「あー」って何」
「そういう感じね、っていう「あー」。で、何があったの」
「お茶いりますかって言おうとして「お、お、おつかれさまです!!」って言った」
電話口で美咲が止まった。
「……おつかれさまです?」
「おつかれさまですって言った」
「なんで」
「分かんない」
「遼さんなんて言ったの」
「どうも」
美咲が笑い出した。
「笑わないで!!」
「だって!! おつかれさまですに対してどうも!!」
「そうなんだよ!!」
「なんで急におつかれさまですが出たの!!」
「分かんないって言ってるじゃん!!」
「ひなちゃん、それ本当にお茶言おうとしてたの」
「言おうとしてた!! お・ち・ゃ・い・り・ま・す・か!!」
「それ八文字じゃん。そこまで言えてたら十分じゃない?」
「頭の中だけで言えてたの!! 口から出なかったの!!」
「そこじゃない!!」
美咲がまた笑った。ひなも笑った。笑いたくないのに出てくる。
「帰り際にも遼さんと遭遇して」
「遭遇」
「玄関で。「帰りますか」「はい」「どうも」で終わった」
「少な!! 来るときと合わせても五往復しかない!!」
「でも全部のやり取りだから」
「それが全部なの!!」
「全部」
「……ひなちゃん、それで今日どんな気持ちで帰ってきたの」
「充実してた」
「五往復で!!?」
「充実してた」
「なんで!!」
ひなは駅の改札前で足を止めた。
「美咲」
「なに」
「「それはもう好きじゃん」って言って」
「……それはもう好きじゃん」
「わかってる」
「人に言わせといてそれかい!!」
「でも言ってほしかった」
「なんで言ってほしいの!!」
「なんか落ち着く」
「落ち着くんだ!!」
少し間があった。
「次はお茶言えるといいね」
「言う。絶対言う」
「応援してる」
「ありがとう」
「頑張れ」
「うん」
電話を切った。
改札をくぐった。
ホームで電車を待ちながら、ひなは思った。
次こそ言う。
お茶、いりますか。
「お、お、おつかれさまです!!」にはならない。
絶対にならない。
——なるかもしれないけど。
電車が来た。




