第35話「それぞれの現在地」
五月の終わり。
柊遼は今日もプログラムを書いている。
モニターが二台。コーヒーが一杯。部品が少し散らばっている。いつも通りだ。
世界が少しずつ動いているが、遼は知らない。
同じ日の午前。
映画『春を告げる鐘』のクランクアップ。
「終わったー!!」
柊華が両手を上げた。隣で水城蒼真が静かに笑った。空が青い。五月の撮影所の外。
少し後ろで、柊凛がスタッフに頭を下げていた。一人ひとりに。丁寧に。
「終わったー!!」の声が、また聞こえた。まだ言っていた。
宮本奈々が壁際でショートピースに火をつけながら、それを見ていた。
華と蒼真が、同じ空を見ている。並んで。距離が近い。
(分かりやすい)
四十回目くらいになるそのツッコミを、奈々は心の中でひとりで言った。
凛がスタッフ対応を一通り終えて、奈々のそばに来た。
「終わりましたね」
「終わったね」
二人でしばらく、ぼんやり外を見た。
「撮影、楽しかったです」と凛が言った。
「私も」と奈々が答えた。
「奈々さんと話せたのが、特によかった」
「私も。続き、また今度」
「ぜひ」
ショートピースが短くなってきた。
奈々は煙を一口吸って、横目で蒼真と華を見た。まだ並んで空を見ている。
「凛さん、あの二人どう思います」
「どう、って」
「どう、ってそういう意味で」
凛がちらっと見て、また前を向いた。
「……まあ」
「まあって」
「まあ、そうだろうな、とは」
「凛さんって、そういうとき急に男前になりますね」
凛が少し止まった。
「……そう?」
「そう」
「……心外だ」
「事実だから」
二人でまた、ぼんやり外を見た。
同じ日の昼。
桜井詩織は出版社の自席で、資料を読んでいた。
仕事は充実している。今月から担当させてもらっている著者との編集作業が、思ったより面白い。昨日も夜遅くまでやっていたのに、疲れていない。充実している、という感覚がある。
昼休み。スマホを出した。
何となく、遼のトーク画面を開いた。
最後のやり取りは三日前。「今日、少し進んだ」「そっか」。
それで終わっている。
何か送ろうとして、止まった。
何を送るか。
「今日も頑張って」は普通すぎる。「ご飯食べてる?」は凛みたいだ。「また差し入れ行こうか」はそれをする理由が薄い。
三十秒考えて、スマホをしまった。
午後の仕事を始めた。
夜も一回開いた。
スマホをしまった。
同じ日の午後。
柊家のインターフォンが鳴った。
遼は「開いてます」と言った。
アリアが入ってきた。コンビニの袋を持っている。三日ぶりだ。
*"Hi."*
(来たよ)
*"Yes."*
(どうも)
*"Still working on the program?"*
(まだプログラムやってる?)
*"Almost done."*
(もうすぐです)
*"You said that three days ago."*
(三日前もそう言ってた)
*"I'm closer than three days ago."*
(三日前よりは近いです)
*"……Fair enough."*
(……まあ、そうね)
アリアがいつもの椅子を引いた。コンビニの袋からコーヒーを二本出して、一本を遼に差し出した。
*"No answer yet."*
(返事、まだもらってないけど)
*"I know."*
(分かってます)
*"Not forgetting?"*
(忘れてない?)
*"Not forgetting."*
(忘れてないです)
*"Okay."*
(よし)
それで終わった。
アリアが技術書を開いた。遼がキーボードを打ち始めた。
リビングがまたいつもの静かさに戻った。
三日に一回来ている。来るたびに「返事はまだ」と確認して、「よし」と言って技術書を開く。それだけだ。
遼にはそれがよく分からないが、アリアには分かっているらしいので、遼は黙っている。
同じ日の夕方。
凛は事務所のロビーで、マネージャーの田中と話していた。
「神崎監督から連絡が来てまして」
「神崎さんから」
「次回作の話らしいです。出演の打診で」
凛は少し間を置いた。
「……どんな役ですか」
「詳細はまだで。ただ、監督が一言だけおっしゃってたことがあって」
「何て」
「「凛さんが変わったから」と」
凛が止まった。
変わったから、か。
「……分かりました。スケジュール確認して、返事します」
「はい」
田中が資料を持って先に歩いていった。
凛はロビーのガラス窓の前に立って、外を少し見た。
変わったから。
変わった、のか、自分は。
いつから。何が。
答えは出なかった。でも嫌な気持ちではなかった。
同じ日の夜。
華は部屋でスマホを見ていた。
蒼真からLINEが来ていた。
「今日でクランクアップですね。また一緒にやれたら嬉しいです」
読んで、顔が熱くなった。
なんで熱くなるんだ。
「また一緒にやれたら嬉しいです」。これは普通のメッセージだ。共演者から来ても普通だ。普通なのに、顔が熱い。なんで熱いんだ。
返信を三回書き直してから「私もです! 楽しかったです!!」と送った。感嘆符が二個ついていた。一個消そうとして、やめた。
そのまま黒瀬に電話した。
「どうしたの」
「聞いてほしいことがあって」
「何」
「蒼真くんから「また一緒にやれたら嬉しいです」って来たんだけど」
「……それで?」
「顔が熱い」
少し間があった。
「自覚した?」
「何を」
「何をってそういうことよ」
「そういうことって何が」
「……華、もう少し自分の顔に正直になりなさい」
「正直なんだけど! なんか、うまく言えないんだよね。ただ蒼真くんのことだけ、なんか違う感じがして」
「……それが答えよ」
「そうなの?」
「そうよ」
「うーん」
「うーんって何なの」
「なんか腑に落ちないんだよね」
「腑に落ちなくていい。顔が熱くなった事実があるでしょ」
「熱くなったのは認める」
「じゃあそういうことだわ」
「でも腑に落ちない」
「腑に落ちなくていい!!」
華が「うーん」と言った。黒瀬が「うーんって言わないで」と言った。
「でも腑に落ちたら教えてね」
「分かった」
「待ってるから」
「うん。ありがとう」
電話が切れた。
華は天井を見た。
腑に落ちない。でも顔は熱い。
とりあえず、返信の感嘆符が二個だったことは黒瀬に言わなくてよかった。
同じ日の夜。東京時間。
ロバートはホテルの部屋で、日報を書いていた。
アリアの訪問記録。柊遼のプログラム進捗。それくらいしか書くことがない。
しかし今日は、なんとなく気になって他のことも調べてしまった。
柊凛の映画がクランクアップしたらしい。芸能ニュースサイトに出ていた。
アリアから「今日も行ってきた。コーヒー持ってったら飲んでもらえた」と連絡が来ていた。
柊遼については「プログラム作業継続中」としか書きようがない。
保存ボタンを押してから、ロバートは少し考えた。
なんで柊家のことをこんなに把握しようとしているんだ、自分は。
(なんで私だけこんなに全部知ってるんだ)
誰に言うことでもない問いだった。
答えも出ない。
ロバートはため息をついて、デイビッドへの報告メッセージを打ち始めた。
*"Today was uneventful."*
(今日も特に何もありませんでした)
三十秒後に返信が来た。
*"Is that so."*
(そうか)
ロバートはスマホを置いた。
(「そうか」で済む話じゃないんだが)
また天井を見た。
深夜。
柊家のリビングに灯りがついている。
遼はモニターに向かっていた。コーヒーが一杯、端に置いてある。
今日もプログラムが少し進んだ。あと少し。本当にあと少しだ。昨日もそう思ったが、今日は昨日よりもっとそう思う。
キーボードを打ちながら、ふと手が止まった。
止まった理由が、よく分からなかった。
なんでもない夜だ。いつもと同じだ。
でも、ふと思った。
「……俺、どうしたいんだ」
声に出ていた。
聞いていた人間はいない。遼しかいない部屋だ。
どうしたい、とは何の話か。プログラムのことか。TechVisionのことか。アリアのことか。詩織のことか。
どれでもないような、全部のような。
答えは出なかった。
遼はまたキーボードに向かった。
プログラムの続き。あと少し。
今夜は答えが出なくてもいい。でも問いかけてしまった。初めて、自分で問いかけてしまった。
その問いだけが、夜の部屋に少し残った。




