第12.5話 柊家アーカイブ03「照明の灯が落ちた夜」
舞台の袖は、暗かった。
客席からは見えない場所に、由紀は立っていた。
本番まであと十分。
小さな劇団の、小さな公演。客席は五十席もない。でも由紀にとっては、毎回が本番だった。
その時、照明が落ちた。
舞台全体が、真っ暗になった。
「え?」
誰かが声を上げた。
本番前の照明チェックで、メインの照明盤がショートしたらしかった。スタッフが走り回り、劇団員が顔を見合わせた。
「どうする、中止か?」
「客が来てるのに中止にできるか」
「でも照明がなければ」
騒ぎの中、由紀は舞台の端に立ったまま、暗い客席を見ていた。
そこへ、見知らぬ男が入ってきた。
工具箱を持っていた。
劇団員の誰かが呼んだらしい。近くに住んでいる、機械に詳しい知人だと後で聞いた。
男は特に慌てた様子もなく、照明盤の前にしゃがんだ。
懐中電灯を口にくわえ、盤の中を覗く。
誰も話しかけなかった。話しかけられる雰囲気でもなかった。
七分後、照明が戻った。
スタッフが歓声を上げた。
男は工具をしまいながら立ち上がり、何か一言二言スタッフに言って、帰ろうとした。
由紀は気づいたら、声をかけていた。
「ありがとうございました」
男が振り返った。
年は自分と同じくらいだろうか。無造作な黒髪、無表情に近い顔。工具箱を持ったまま、由紀を見た。
「いえ」
短い返事だった。
それだけで終わるはずだった。
男が少し首を傾げた。
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「さっき、舞台の端で暗い客席を見ていましたよね」
由紀は少し驚いた。
「見ていました」
「あの立ち方、本番前の役者さんの立ち方じゃなかった」
「……どういう意味ですか」
男は少し考えてから言った。
「演出を考えていた。客席のどこから見てもらうか、どこに間を作るか。役を生きるより先に、空間を計算していた」
由紀は言葉が出なかった。
その通りだったから。
「でも」と男は続けた。「台本を渡されたとき、最初に読んだのは台詞より、ト書きの間のはずだ」
「……なんで分かるんですか」
「さっきの立ち方がそうだった」
男は特に得意げでも、褒めているふうでもなかった。ただ、見たことを言っていた。
「君の間の取り方は、計算じゃない」
由紀はしばらく黙っていた。
演劇を始めて五年。上手いと言われたことはあった。光ると言われたこともあった。でも誰も、こういう言い方はしなかった。
「……照明の修理の人が、なんでそんなこと分かるんですか」
「機械も、間が大事なんです」
男はそれだけ言って、工具箱を持ち直した。
「本番、頑張ってください」
踵を返して、出て行った。
名前も聞かなかった。
由紀はしばらく、男が出て行った扉を見ていた。
「由紀、本番五分前!」
仲間の声で、我に返った。
その夜の舞台は、いつより少しだけ、間が長かった。
誰も気づかなかったが、由紀は気づいていた。
あの言葉が、舞台の上でも頭の中にあった。




