第12話「違和感」
木曜日の朝。
柊家のリビングに、朝の光が差し込んでいた。
凛は台本を読みながら、トーストを食べていた。
今日は撮影が午後からだ。
「遼、今日は?」
「大学。卒論の最終チェック」
「そっか」
遼はコーヒーを飲んでいる。
インスタントの、安いやつ。
凛はそれをちらりと見た。
昨日の夜、詩織から連絡が来ていた。
「遼、ご飯ちゃんと食べてる? 確認して」
そういう内容だった。
詩織らしい。
凛は遼のトーストを見た。
一枚だけ。
「……遼、それだけ?」
「腹減ってない」
「食べて」
「後でいいだろ」
「今食べて」
遼は少し考えて、もう一枚焼いた。
凛は満足した。
これも、詩織の功績だ。
午後一時。
都内のドラマ撮影スタジオ。
凛は収録前の最終確認をしていた。
今日のシーンは、主人公が古い工場跡地を訪れる場面。
感情の起伏が大きい、難しいシーンだ。
監督の田村が声をかけてくる。
「柊さん、準備OK?」
「はい。大丈夫です」
「今日のシーン、機械がたくさん映るから」
「はい」
「雰囲気出したいんだよね。廃工場の、あの独特な空気感」
「分かりました」
凛は頷いた。
そして、撮影位置についた。
三十分後。
撮影が止まった。
「音響、待って」
音響スタッフが機材を確認している。
眉をひそめた表情だ。
「どうしました?」
監督が聞く。
「ワイヤレスマイクのゲインが、なんか安定しなくて……」
「また?」
「前回とは違う症状なんですが……」
音響スタッフが困った顔をした。
「受信機のレベル調整がうまくいかなくて。感度が急に落ちたり上がったりするんです」
「どれくらいかかる?」
「ちょっと……正直、分からなくて」
スタジオに重い空気が流れた。
凛は控室に戻った。
スマホを取り出す。
遼にLINEを打とうとして、少し躊躇した。
前回も、前々回も、遼に助けてもらった。
さすがに毎回頼むのは、と思う。
でも。
遼の「ワイヤレスなら、電波干渉かもな」という言葉を思い出した。
あの一言で、問題が解決した。
今回も、なんか分かるかもしれない。
凛はLINEを打った。
「撮影中にワイヤレスマイクの受信機のゲインが安定しないんだけど、なんか分かる?」
すぐに既読がついた。
「受信機って、どこに置いてる?」
凛は音響スタッフに確認して、返信した。
「スピーカーの隣みたい」
少し間があった。
「それだ。スピーカーの磁界が干渉してる。一メートル以上離せばたぶん直る」
「……え、それだけ?」
「それだけ」
「ありがとう」
「ああ」
凛はスマホをしまい、音響スタッフのところへ向かった。
十分後。
受信機を別の場所に移動した音響スタッフが、ヘッドフォンを装着した。
信号レベルを確認する。
五秒。
十秒。
「……安定してます」
スタッフが呟いた。
「本当に?」
「はい。完全に安定してます」
監督が驚いた顔をした。
「なんで分かったんだ?」
「柊さんが……」
「柊さん?」
「弟さんに聞いたそうで」
監督は少し黙った。
それから凛を見た。
「柊さん、弟さんに連絡したの?」
「はい。すみません、勝手に」
「いや、助かった。でも……」
監督が首を傾げる。
「一瞬で分かるもの? そういうの」
「分からないです、私には」
「でも弟さんは……」
「機械が好きみたいで」
凛はそう答えた。
それ以上、説明できなかった。
「機械が好き」という言葉では、全然足りない気がしていたが。
撮影が再開された。
凛は演技に集中した。
カット、カット、カット。
いくつかのシーンが積み重なっていく。
夕方、本日分の撮影が終わった。
「お疲れ様でした。柊さん、今日も完璧でした」
「ありがとうございます」
凛は頭を下げた。
片付けをしながら、音響スタッフが近づいてきた。
「柊さん、今日もありがとうございました」
「いえ、私は何も……」
「弟さんに、またよろしくお伝えください」
「はい」
音響スタッフは続けた。
「あのう……少し聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「弟さん、音響の専門の方なんですか?」
凛は少し考えた。
「いえ。工学部の大学生です」
「大学生……」
「電子制御が専門で。音響は、たぶん専門じゃないと思います」
「でも、前回も今回も……」
音響スタッフは困ったような顔で言った。
「私、音響の仕事を十年やってるんですけど」
「はい」
「今回の症状、すぐには原因が分からなかったんです。受信機の位置は盲点で……」
「そうなんですか」
「はい。あれはプロの視点だと思います。専門外の方が言えることじゃない」
凛は、その言葉に少し固まった。
「プロの、視点」
「ええ。普通の大学生には無理です、あれは」
帰りの車の中。
凛はシートに深く座り、窓の外を見ていた。
マネージャーが運転している。
ラジオが静かに流れている。
「お疲れ様でした、凛さん」
「ありがとう」
凛は目を閉じた。
音響スタッフの言葉が、頭の中で繰り返される。
「あれはプロの視点です」
凛はゆっくりと思い返した。
前回の音響トラブル。
「LED照明の干渉かも」という一言で解決した。
その前の映像データの復旧。
プロの業者が「難しい」と言ったものを、三十分で直した。
そして今日。
症状を聞いただけで、一言で解決した。
遼は毎回、「普通だろ」と言う。
凛は毎回、「すごいね」と言う。
遼は毎回、首を傾げる。
本当に、分かってないんだ。
凛は目を開けた。
窓の外に、東京の夜景が広がっている。
弟のことを、自分は何も知らなかった。
姉として、一緒に暮らしてきたはずなのに。
「……遼」
凛は小さく呟いた。
あの子は、いったい何者なんだろう。
同じ頃。
都内、渋谷。
センター街の入口に、一人の男が立っていた。
ロバート・チェン、四十五歳。
TechVision SystemsCTO。
今日も私服だ。
ジーンズ、パーカー、キャップ、サングラス。
秋葉原の時と同じ変装。
だが今日の目的は、少し違った。
「Shibuya...」(渋谷……)
ロバートは呟いた。
部下が今日も「午後はご自由に」という空気を出していた。
昨日の打ち合わせが早く終わったのだ。
ロバートは迷った。
また秋葉原に行く。
それが本来の選択だった。
しかし。
「Japanese youth culture...」(日本の若者文化……)
ロバートはマンガで読んだ渋谷の描写を思い出した。
スクランブル交差点。
センター街。
若者たちのリアルな空気感。
「I should experience this too...」(これも体験すべきだ……)
ロバートはそう判断した。
それは純粋な知的好奇心だった。
アニメやマンガで見た「渋谷」を、生で確かめたかった。
それだけだ。
絶対に。
スクランブル交差点。
信号が変わった瞬間、人の波が四方から押し寄せる。
ロバートはその真っ只中にいた。
「This is incredible...」(これは信じられない……)
どこを向いても人だ。
サラリーマン、学生、観光客、カップル。
全員が、自分のペースで歩いている。
なのに誰もぶつからない。
「How do they do this...」(どうやってるんだ……)
ロバートは思わず立ち止まった。
後ろから人が来る。
横から来る。
ロバートだけが、流れに乗れていない。
「Excuse me—」(すみません—)
ロバートは慌てて歩き出した。
なんとか対岸に辿り着いた。
息を整える。
「The synchronized chaos...」(同期した混沌……)
ロバートはスクランブル交差点を振り返った。
美しい。
本当に美しい。
でも、怖い。
センター街に入った。
若者たちが群れている。
ファッション店、カフェ、タピオカ、クレープ。
ロバートは看板を読みながら歩いた。
日本語は読める。
だが、何かが違う。
秋葉原とは、明らかに空気が違う。
秋葉原は、「同士」の匂いがした。
好きなものへの熱量が、街全体に漂っていた。
だがここは。
「Fashion...」(ファッション……)
ロバートは周りを見渡した。
おしゃれな人が多い。
全員、自分よりずっとおしゃれだ。
四十五歳、ジーンズにパーカー。
完全に浮いている。
「I might have made a mistake...」(間違えたかもしれない……)
ロバートは小さく思った。
しばらく歩いて、ロバートはある店の前で足を止めた。
大型の書店だ。
入口に「マンガ・アニメグッズ」のポスターが貼ってある。
「Oh.」
ロバートの目が輝いた。
迷わず入った。
一階はビジネス書、文芸書。
ロバートは素通りした。
エスカレーターで上に向かう。
三階。
コミックのフロアだ。
「There it is...」(あった……)
ロバートは棚を見て回った。
秋葉原の中古マンガ店とはまた違う。
新刊が綺麗に並んでいる。
ロバートは目当てのシリーズを探した。
「Volume 13... volume 13...」(13巻……13巻……)
棚を指でなぞる。
11巻。
12巻。
13巻。
「Found it!」(あった!)
ロバートは13巻を手に取った。
表紙を確認する。
間違いない。
「Yes...」
小さくガッツポーズをした。
周りの客が、ちらりとこちらを見た。
ロバートは咳払いをして、元の表情に戻った。
レジに並んでいると、隣の棚が目に入った。
ライトノベルのコーナーだ。
ロバートは横目でタイトルを読んでいった。
あるタイトルで、手が止まった。
「……」
『俺の設計した義手が、世界を変えるらしい』
ロバートは表紙を見た。
絵柄はアニメ調だが、タイトルは技術系だ。
機械義手を持つ青年が表紙に描かれている。
「Hm.」
手に取った。
裏表紙のあらすじを読む。
天才エンジニアの主人公が、自分の作ったものの価値に気づかないまま周囲を振り回す、という話らしい。
「...Interesting premise.」(……面白い設定だ)
ロバートはそれも購入した。
後で読もう。
特に理由はない。
ただ、なんとなく。
書店を出たロバートは、そのままカフェに入った。
スタバではなく、地元のカフェ。
コーヒーを注文して、窓際の席に座った。
買ったマンガを一冊開く。
ページをめくる。
引き込まれる。
二十分後、気づいたらカップが空になっていた。
ロバートは顔を上げた。
窓の外、渋谷の街が見える。
人が絶えず流れている。
「Shibuya is interesting...」(渋谷は面白い……)
ロバートは静かに思った。
秋葉原ほど「自分の場所」という感じはしない。
だが、東京の別の顔が見えた気がする。
スマホが鳴った。
部下からのメッセージだ。
「Sir, Professor Tanaka has replied. He's willing to arrange a meeting with Hiiragi.」
(サー、田中教授から返信がありました。柊との面談を設定する用意があるとのことです)
ロバートの表情が切り替わった。
CTOの顔に戻る。
「Good. Arrange it for early next week.」
(よし。来週早々に設定しろ)
「Understood.」
(了解しました)
ロバートはスマホをしまった。
コーヒーカップを置く。
そして、ふと思った。
さっき買ったライトノベル、「機械をいじっていたい」男の話。
主人公は無欲で、周りが振り回される設定らしい。
「...Reminds me of someone.」(……誰かを思い出す)
ロバートは苦笑した。
柊遼のことを思い浮かべながら。
世界的なオファーを「今は」と断るあの青年のことを。
まったく、本当に、困った人間だ。
夜。
ロバートはホテルに戻った。
ベッドの上に、今日の戦利品を並べた。
マンガ13巻。
そして、ライトノベル。
ロバートはライトノベルを手に取った。
第一章から読み始める。
天才エンジニアの主人公。
自分が作ったものの凄さに、まったく気づいていない。
「これくらい普通だろ」が口癖。
周囲だけが振り回される。
「...This protagonist.」(……この主人公)
ロバートはページをめくりながら、しみじみと思った。
「Hiiragi... this feels familiar.」(柊……なんか既視感があるな)
もちろん、ただの小説だ。
偶然だ。
でも、なんとなく、笑えてきた。
ロバートは一人でくくっと笑った。
四十五歳のCTOが、ホテルのベッドで深夜にライトノベルを読んでいる。
「Nobody can know about this either...」(これも誰にも知られてはいけない……)
ロバートは苦笑しながら、続きを読んだ。
翌朝、金曜日。
柊家のリビング。
凛が朝食を食べていた。
遼はもう大学に行ったらしい。
テーブルに、食べかけのトーストが残っている。
「……食べ残してる」
凛はため息をついた。
華が起きてきた。
「お姉ちゃん、おはよ」
「おはよ。遼、もう出た?」
「うん。早かった。卒論の最終確認があるって」
「そっか」
凛はコーヒーを飲んだ。
昨日の音響スタッフの言葉がまた浮かんだ。
「あれはプロの視点です。専門外の方には無理です」
凛は華を見た。
「ねえ、華」
「なに?」
「遼って、昔から機械が好きだったじゃない」
「うん。ずっと前から」
「すごかった? 子供の頃から?」
華は少し考えた。
「どうだろ……私、気にしてなかったな」
「そうだよね」
「でもさ」
華はトーストを一口食べた。
「中学の時、ロボコンで全国優勝したじゃない、遼」
「そうだった」
「あの時も、なんとなく普通だと思ってたんだよね、私たち」
「……そうだね」
「でも今考えると、全国優勝って普通じゃないよね」
凛は静かに頷いた。
「そうだよ。全然普通じゃない」
「なんで気づかなかったんだろ、私たち」
華は不思議そうに言った。
「遼が『普通だろ』って言い続けるから、普通だと思ってたのかな」
「……たぶん、そうだね」
凛はコーヒーカップを両手で包んだ。
窓から朝の光が差し込んでいる。
遼のいない食卓。
いつも通りの朝。
でも、何かが少し違う気がした。
ずっと隣にいたのに、見えていなかったものが。
じわじわと、輪郭を持ち始めていた。
その頃、大学の廊下。
遼は研究室に向かって歩いていた。
スマホに着信履歴がある。
知らない番号だ。
「……また」
遼は着信履歴を見た。
海外の番号。
昨日も来ていた。
先週も来ていた。
遼はスマホをしまった。
知らない番号には出ない。
それが遼のポリシーだ。
用があるなら、メールか教授経由で来るはずだ。
遼は研究室のドアを開けた。
田中教授が待っていた。
珍しく、早い時間から来ている。
「柊くん、おはよう」
「おはようございます」
「座って」
遼は椅子に座った。
田中教授が、机の上のメールのプリントアウトを押した。
遼はそれを見た。
TechVision Systems。
ロバート・チェン、CTO。
「読んで」
「……」
遼はメールを読んだ。
短い文章だ。
面談を希望している。
逃してはならない機会だ、と書いてある。
遼はプリントアウトを置いた。
「CTOが直接来るって話ですか」
「そうだ」
「前に会いましたよ」
「分かってる。でも今回は違う」
田中教授は眼鏡を外した。
「柊くん。私がこの仕事をして三十年になる」
「はい」
「こんなメールを受け取ったのは、初めてだ」
「……そうですか」
「CTOが直接、一学生に面談を申し込んでくる。そんなことは普通ない」
遼は少し考えた。
「断れますか」
田中教授は、長い沈黙の後に言った。
「……断れない話ではない」
「じゃあ」
「ただ」
教授は遼を真っすぐ見た。
「一度だけ、話を聞いてほしい。それだけ頼む」
遼は少し間をおいた。
窓の外で、他の学生が歩いている。
普通の朝だ。
「……分かりました」
遼は静かに答えた。
「話を聞くだけなら」
田中教授は、初めて表情をゆるめた。
その夜、柊家のリビング。
三人が夕食を食べていた。
「遼、今日は?」
「普通」
「何も変わったことなかった?」
「別に」
遼は淡々と答える。
凛は少し口を開きかけた。
昨日の音響スタッフの話を、しようかと思った。
でも、やめた。
遼に言っても「普通だろ」で終わる。
華が口を挟んだ。
「遼、昔ロボコンで全国優勝したじゃない」
「ああ」
「あれって、すごいよね。改めて考えると」
「そうか?」
「そうだよ。全国だよ?」
「まあ、運も良かったし」
華が凛を見た。
凛も華を見た。
二人の目に、同じ感情が浮かんでいた。
呆れ、と。
少しだけ、もどかしさ。
「遼って、なんで自分のことそんなに低く見るの?」
華が聞いた。
「低く見てるわけじゃない。事実だろ」
「事実じゃないよ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
華は少し大きな声を出した。
遼は首を傾げた。
何が問題なのか、本当に分かっていない顔だ。
凛はその横顔を見た。
穏やかで、マイペースで、何も気にしていない。
あの子は本当に、自分の凄さが見えていない。
見えていないのではなく。
そもそも、そういう尺度で物を測る気が、ないのかもしれない。
「……そっか」
凛は小さく呟いた。
「何?」
遼が聞く。
「ううん、なんでもない」
凛は少し笑った。
帰りの車の中で感じた「違和感」が、少し形になってきた気がした。
弟はすごい人間なのかもしれない。
それも、自分たちとはまったく別の意味で。
その夜、遼の部屋。
遼は卒論の画面を前に、少し止まっていた。
今日の田中教授の顔を思い出す。
「CTOが直接、一学生に面談を申し込んでくる。そんなことは普通ない」
そうなんだろうか。
遼にはよく分からない。
自分は、好きなことをやっているだけだ。
設計も、修復も、制御も。
全部、面白いからやっている。
それが、そんなに珍しいことなのか。
遼はパソコンに向かった。
卒論の最終確認を再開する。
スマホを見た。
着信履歴の海外番号。
来週、また来るんだろうか。
まあ、その時に考えよう。
遼は画面に集中した。
夜が、静かに更けていく。




