第32.5話「芽衣の葛藤」
夜の十一時に、人は妙なことを考える。
春日芽衣は布団の中で天井を見ながら、スマホを握っていた。
室田沙衣さんとのLINEのやり取りが、数日前で止まったままだ。
最後に送ったのは笑っているウサギのスタンプ。
その前のやり取りを少し遡れば——沙衣さんが「「好ましい」と思った」と送ってきた夜がある。「沙衣さんも人間なんだな、って」と返したら、「人間だよ」と言われた。台所の引き出しの工具の話で笑った。
あの夜、芽衣の中で何かが少し変わった。
一人だと思っていたものが、一人じゃなくなった感じ。「知っている者同士」というか、沙衣さんと自分だけが共有している何かができた感じ。
それはよかった。
よかったのだが。
(それ以降の方が、むしろしんどい)
芽衣は布団を顔まで引き上げた。
「知っている者同士」になってから、逆に気持ちが整理しにくくなった。
一人で抱えていた頃は「誰にも言えない」という重さがあって、その重さが蓋になっていた。でも今は蓋が取れている。取れたら中身が動き始めた。
(動き始めてどうするんだ)
動かしてどうにかなるものでもない。
凛さんの弟さんだ。
それは変わらない。
スマホを開いた。
沙衣さんのトーク画面。
ウサギのスタンプで止まっている。
何か送ろうか。「おやすみなさい」は唐突すぎる。「ちょっと聞いていいですか」は深夜に送る内容じゃない気がする。
(でも、聞きたい)
何を聞きたいかというと——「沙衣さんは、「好ましい」で安定したまま、本当に大丈夫ですか」。
なぜそれを聞きたいのかというと——自分が「好ましい」で安定できていないから。
芽衣のは「好ましい」よりもっと前に出てしまっている。出てしまっていることに、沙衣さんとLINEしてから逆に気づいた。
電話した。
三コールで出た。
「もしもし。芽衣ちゃん、こんな時間にどうしたの」
「沙衣さん、起きてましたか」
「起きてた。コンビニから帰ったとこ」
「シュークリームですか」
「そう」
「よかった」
「なんで」
「タイミングよかったなと思って。沙衣さんが食べながら聞いてくれそうで」
少し間があった。
「……何か話したいことがあるんだね」
「あります」
「どうぞ」
芽衣は布団の中で少し姿勢を正した。
「沙衣さんとLINEしてから、逆に気持ちが整理できなくなってて」
「整理できなくなった」
「はい。一人で抱えてた頃は、蓋みたいなものがあったんですが。あの夜、沙衣さんと話してから蓋が取れた感じがして」
「取れたら」
「動き始めた感じがして」
沙衣さんがシュークリームを食べている気配がした。少し間があった。
「それは……私がLINEしなければよかった、ってこと?」
「違います。してくれてよかったです。でも、してくれたことで分かったことがあって」
「なに」
「私のは、「好ましい」より前に出てます。たぶん」
また少し間があった。
「……そうだと思ってた」
「思ってたんですか」
「うん。芽衣ちゃんのLINEの感じが、「好ましい」より少し熱量があったから」
「……分かるんですか、LINEの熱量」
「モデルと女優だから。表現された言葉の温度は読める」
芽衣は少し黙った。
「……沙衣さんは大丈夫ですか。「好ましい」で安定してますか」
「してる」
「本当に?」
「本当に。私の「好ましい」は、自分でもびっくりするくらい揺れない」
「揺れない理由って、何かあるんですか」
少し間があった。
「あの人が私を特別扱いしないから、かな」
「……特別扱いしない」
「そう。モデルだからって何も変わらない。それが居心地いいだけで、それ以上を欲しいという気持ちにならない。不思議なんだけど、ならない」
「……私は、なります」
「知ってる」
「なんで知ってるんですか」
「照明を直した後ろ姿の話、凛から聞いたことがあったから」
芽衣の手が少し止まった。
「……凛さんから」
「うん。「芽衣ちゃんが遼の後ろ姿について聞いてきた」って」
「…………凛さん、話してたんですか」
「不思議そうに、でも嬉しそうに話してた。「芽衣ちゃんって観察眼あるな」って」
芽衣は枕に顔を埋めた。
「……嬉しそうに」
「そう」
「バレてますよね、完全に」
「バレてるかどうかは、凛に聞いてみないと分からないけど」
「バレてます」
「……そうかもしれない」
芽衣は枕から顔を上げた。
「沙衣さん」
「うん」
「そういうの、どうして先に言ってくれなかったんですか」
「だって、芽衣ちゃんが「なんでもないです」って言ってたから」
「……そうですね」
「言える段階じゃなかったでしょ、あのとき」
「そうですが……」
沙衣さんがまた何かを食べる気配がした。
「でも今は言える段階になったんだね」
「……なったみたいです。困ったことに」
「困ったことに」
「深夜に電話してるので」
「それもそうか」
芽衣は少し笑った。
「沙衣さん、一個聞いていいですか」
「どうぞ」
「沙衣さん自身は、本当に「好ましい」だけで完結してるんですか。正直に」
今度は少し長い間があった。
「正直に言う」
「はい」
「「好ましい」は本当。揺れないのも本当。ただ」
「ただ?」
「芽衣ちゃんから「また一人増えましたね」とか言われたら、少しだけムッとするかもしれない」
「……なんでですか」
「「また一人」と思われるのは、なんか違う気がするから」
「それって「好ましい」だけの人の反応じゃないのでは」
少し間があった。
「……芽衣ちゃん、役者だね」
「少し見えました」
「……私のことは、私が決めることだから」
「はい」
「余計なことを言わせるのが上手だな」
「すみません」
「謝らなくていい」
沙衣さんが少し笑った。
「ただ、言っとくけど」
「はい」
「私は動かない。それは確か」
「分かってます」
「動かないし、揺れない。でも「好ましい」は本物で」
「はい」
「それ以上の言葉は持ってない。今のところ」
「……今のところ」
「今のところ、ね」
芽衣は布団の中で少し考えた。
「沙衣さんって、正直ですよね」
「そう?」
「「今のところ」って付けるじゃないですか。言い切らないで」
「確かじゃないことは言い切れないから」
「……私もそうしようかな。「好きかもしれない、今のところ」」
「それでいいと思う」
「保留のまま」
「保留のまま」
二人でしばらく黙った。
電話口に沙衣さんの部屋の静かな空気が流れていた。
「芽衣ちゃん」
「はい」
「凛には、言った?」
「……まだです」
「言う?」
「……どうしよう」
「言わなくていいと思う、今は。凛は待ってくれる人だから」
「凛さんって、そういう人ですよね」
「そうだよ。言いたくなったときに言えばいい」
「……分かりました」
「でもひとつだけ」
「はい」
「気持ちを持っていること自体は、悪くないから」
芽衣はそれを聞いて、少し胸のあたりが緩んだ。
この言葉、前にも似たようなことを言ってくれた気がする。LINEの中で。でも声で聞くのは違う。温度がある。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。眠れそう?」
「眠れると思います。話せたので」
「よかった。私も少しすっきりした」
「沙衣さんも、何かすっきりしましたか」
「……「今のところ」って声に出したら、少し整理できた気がした」
「言語化って大事ですね」
「そうだね。役者の言葉だ」
「お互いに、ですね」
沙衣さんが笑った。
「おやすみ、芽衣ちゃん」
「おやすみなさい。シュークリーム、美味しかったですか」
「美味しかった。次、一緒に食べよう」
「ぜひ」
電話が切れた。
部屋が静かになった。
布団の中で、芽衣はスマホを胸の上に置いた。
「今のところ、好きかもしれない」。
その言い方は、少し楽だ。断定しない。でも否定もしない。今ここにある気持ちを、今ここにあるものとして持っておく。
柊遼さんは、今頃デスクの前にいるか、深夜まで起きてプログラムを書いているかのどちらかだ。誰かが布団の中で電話していることなんて、一ミリも知らない。
(知らないだろうな)
そう思ったら、少し可笑しかった。
沙衣さんの「今のところ」も可笑しかった。あれは絶対に何かある。でもそれは沙衣さんが決めることで、芽衣が追及するものじゃない。
(次にシュークリームを食べながら、少しだけ聞いてみよう)
そう思いながら、目を閉じた。
今夜は眠れる気がした。
翌朝。
沙衣さんからLINEが来ていた。
「昨日はありがとう。話せてよかった」
「こちらこそ。あと」
「うん」
「「今のところ」の続きが気になります」
既読がついて、しばらく来なかった。
一分後。
「……それは企業秘密」
芽衣は声に出して笑った。
その日の夕方。
凛との収録が終わって、控室でコートを着ていたら、凛が「ちょっといい?」と入ってきた。
「うん」
「あのさ」凛がドアを閉めた。「聞いていい?」
「はい」
「遼のこと、気になってる?」
芽衣はコートのボタンを留める手を止めた。
少し間があった。
「……凛さんに、言えることと言えないことがあります」
「そうだね」
「言えないことが、少しあって」
「うん」
「でも……凛さんのことが大事なのは、本当です。それだけは言えます」
凛がしばらく芽衣を見た。
何も言わなかった。
それから「そっか」とだけ言った。
「……凛さん」
「うん」
「怒ってますか」
「怒ってない。ただ」
「ただ?」
「遼は、本当に気づかないから」凛が少し笑った。「それだけは言っとく」
「……分かってます」
「二十二年一緒にいて、断言できる。あいつ、こっちが向いてないと信号が届かない」
「凛さん、それってひどくないですか」
「ひどいよ! 私もそう思う」
二人で少し笑った。
凛が先にドアを開けた。
「まあ、芽衣ちゃんが決めることだから」
「はい」
「でも、友達でいてね」
それだけ言って出ていった。
芽衣はしばらく控室に一人で立っていた。
「友達でいてね」。
そういう言い方をする人だ、凛さんは。責めない。急かさない。ただ「でも」を一個だけ置いて、出ていく。
(この人が友達でよかった)
弟さんのこととは別に、そう思った。
コートのボタンを留めて、控室を出た。
夜、沙衣さんにLINEした。
「凛さんに少し話しました」
「そうなんだ。凛はなんて?」
「「遼は気づかない、断言できる」と言ってました」
少し間があって、返ってきた。
「……そっか。どうだった?」
「怒られなかったです。「友達でいてね」って言われました」
「凛らしいね」
「そうですね」
「よかった」
「はい」
また少し間があって。
「芽衣ちゃん」
「うん」
「「今のところ」で、続きはまた今度ね」
「シュークリームのとき」
「シュークリームのとき」
芽衣はスマホを置いた。
窓の外に、夜の東京。
保留のまま、でいい。
今のところ、でいい。
凛さんに「友達でいてね」と言ってもらえた夜は、それで十分だった。




