第32話「言えない理由」
桜井詩織が「ちょっといい?」とLINEを送ったのは、土曜日の昼過ぎ。
既読がついて、数秒後に返信。
「いいよ」
「何の用?」も「どこで?」もなく、「いいよ」の一言で完結させる人間が世界にどれだけいるか。詩織はスマホを持ったまま少し笑って、「三時に公園」と送った。
「わかった」
土曜の午後三時。最寄りの公園は適度に人がいた。子供が走っていて、犬を連れた人がいて、ベンチに座って本を読んでいる人がいる。五月の日差しが柔らかく、風が少しある。
遼はすでにベンチにいた。
詩織が来る五分前に着いていて、スマホで何かを読んでいた。詩織が近づいても気づかないので「遼」と呼んだら、顔を上げた。
「来た」
「来た、じゃなくて待った?くらい言ってほしい」
「五分待った」
「だからそれを最初に言うの」
「……どうぞ」
遼が少し詰めて座る。詩織が隣に腰を下ろした。
しばらく二人で公園の景色を眺めた。子供が転んで泣き声を上げる。母親が駆け寄る。また走り始める。平和な土曜日。
「何の用」
遼が聞いた。
「聞いてもいい?」
「聞かないと分からない」
「その前に一個確認したいんだけど」
「何」
「私が変なこと聞いても、普通に答えてくれる?」
遼が少し間を置いた。
「変なこととは」
「聞けば分かる」
「……まあ、答える」
「じゃあ聞く」
詩織は少し息を吸った。
「遼ってさ、誰かを好きになったことある?」
沈黙。
五秒くらい。
「……どうだろ」
「え」
「あんまり考えたことがなかった」
「好きかどうか考えたことないの?」
「好きかどうかっていうのが、何を指してるのかが分からない」
詩織は遼を見た。遼は前を向いている。嘘をついている顔ではなく、ただそう思っているだけの顔。
「遼、本当に分からないの」
「分からないから「どうだろ」と言った」
「なんで分かんないの!」
声が少し上がった。隣にいたおじさんが一瞬こちらを向いた。詩織は少し縮こまった。
「……なんで分からないの」
「考えたことがなかったから」
「なんで考えなかったの」
「必要性を感じなかったから」
「必要性って何」
「自分が誰かを好きかどうか考えないといけない場面が、今までほとんどなかった」
詩織はしばらく黙った。
ベンチの前で鳩が三羽、何かをついばんでいる。
「……本当に?」
「本当に」
「じゃあ今聞いてるから、考えてみて」
「今、考えなきゃいけない?」
「別に今じゃなくてもいいけど、聞いてるから」
遼が少し考える顔をした。詩織はその横顔を、ほぼ正面から見ていた。
「……誰かのことが、気になる、という感覚はある」
「誰かの?」
「特定の話はしてない」
「特定の話をして」
「したくない」
「なんで」
「まだ自分でも分かってないから」
詩織は少し止まった。
「まだ自分でも分かってない」という言葉が、予想外のところに落ちた感じがした。
「分かってないの」
「分かってない。だから「どうだろ」と言った」
「……そうなんだ」
なぜかそれが、詩織には少し苦しかった。分からない、はゼロとは違う。今はゼロじゃないかもしれない。「まだ」という言葉が引っかかって、どこかに棘として刺さった。
「詩織はなんで聞いたの」
遼が言った。
「……なんとなく」
「なんとなく、にしては力強く聞いてた」
「……うるさい」
詩織は前を向いた。鳩が一羽飛んでいった。残り二羽がまだついばんでいる。
「遼」
「なに」
「遼ってさ、自分のことを好きな人がいたら、気づくと思う?」
また間があった。今度は少し長い。
「……難しいな」
「難しい?」
「気づいてほしいと思ってる相手なら、たぶん気づく。でも、そう思ってない相手には、気づかないかもしれない」
「どういう意味」
「こちらも相手に向かっているときに、信号が届く。こっちが向いてないと届かない」
詩織は少しの間、それを頭の中で転がした。
「……遼、それって結構ひどくない?」
「そうか?」
「ひどいよ。気づいてほしいかどうかで変わるって、自分中心すぎる」
「でも人間はそういうものだろ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
詩織はため息をついた。
遼は変わらず前を向いている。なんでもないような顔で、なんでもないことを言う。でも、何かがずっと刺さったまま抜けない感じがする。
「泣いてるのか?」
遼が言った。
「泣いてない」
「目が赤い」
「……風邪」
「さっきまで普通だったろ」
「急になった」
「目に来る風邪があるのか」
「あるよ!」
また声が大きくなった。通りかかった親子がこちらを見た。詩織は「すみません」と心の中で思いながら、視線をそらした。
「……普通って言わないで」
「何が」
「さっきまで普通、っていう言い方」
「さっきまで普通に見えたから」
「その「普通」が嫌なの」
「なんで」
「なんでもない」
詩織は膝の上で手を組んだ。鳩が全部いなくなっていた。気づかないうちに。
「……詩織」
「なに」
「俺に怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってないけど泣きそうになってる」
「……風邪だって言ってる」
「一月でもないのに目に来る風邪は初めて聞いた」
「いつでも来る。体弱いから」
「そんなに体弱かったっけ」
「弱かった」
「……そうか」
遼はそれ以上は聞かなかった。
詩織は目を上げて、公園の空を見た。五月の空。雲が少しある。ここのところ毎日晴れていた気がするが、今日は少し曇っている。
「詩織」
「なに」
「何か言いたいことがあるなら、言った方がいい」
詩織の手が、膝の上でぎゅっとなった。
「……別にない」
「そうか」
「そうだよ」
二人でしばらく、黙って空を見ていた。
遠くで鳩がまた鳴いた。子供の笑い声がした。どこかのベンチで誰かが立ち上がる気配がした。
言えない。
言えないのは、言わない、とは違う。言えない理由が、詩織にはちゃんとある。でもそれを遼に言う言葉を、詩織はまだ持っていない。
「そろそろ帰る」
詩織が立ち上がった。
「そうか」
「用事があって」
「うん」
「……じゃあ」
「うん」
詩織が歩き出した。
三歩進んで、止まった。
「遼」
「なに」
「今度、ご飯でも食べよ」
遼が少し間を置いた。
「いいよ」
「……また連絡する」
「うん」
詩織は歩き始めた。今度は止まらなかった。
撮影現場、同じ日の夕方。
水城蒼真は台本を持ったまま、廊下を歩いていた。
今日の撮影は午前で終わっていた。でも気になるシーンがあって、帰り際に監督に少し聞いていた。その帰り道。
廊下の角を曲がったとき、ちょうど向こうから華が来た。
華はスマホを見ながら歩いていて、蒼真に気づかなかった。
「柊さん」
華が顔を上げた。
「あ、蒼真くん。もう帰るの?」
「今から帰るとこです。柊さんは?」
「私も。メイク落としてた」
二人、自然に並んで歩き始めた。
「今日の朔の「そっか」、少し変えていいか監督に聞いたんですよ」
「どう変えたいの?」
「間の取り方を。台本通りだと一拍で返すんですけど、もう少し保留してから「そっか」にしたくて」
華が少し足を止めた。
「……それ、全然違う」
「そうですよね。でも朔がそこで使う間として」
「保留してから「そっか」の方が正しい気がする」
「そうなんですよ!」
蒼真が少し声のトーンが上がった。自分と同じ着地点に来てくれた、という顔。
「監督は?」
「「やってみて」って。明日試してみます」
「私も受けてみたい。保留してから「そっか」の朔、葵の動きが変わる気がする」
「変わりますよね。一拍より深いところで受け取ってる、って伝わる」
話しながら廊下を歩く。二人の足のテンポが、いつの間にか揃っていた。
「蒼真くんって、台本のこと誰かに相談するの?」
「あまりしないですね。一人で考えてることが多い。柊さんは?」
「お兄ちゃんと、お姉ちゃんと」
「お姉さんも俳優ですよね。お兄さんは?」
「機械の人」
「機械の……」
「エンジニアです。台本を読んでも演技の話はしない。でも登場人物の行動の理由を、普通に分析してくれる」
「それって……すごく特殊な相談相手ですね」
「そうなんですよ。技術じゃなくて、人物として見てくれる感じで」
蒼真は少し考えた。
「それ、すごいいいですね。技術じゃなくて、人物として」
「蒼真くんは誰かに相談しないの」
「奈々さんに聞くことはあります。でも怖くて聞けないことが多くて」
「奈々さんが怖い?」
「正確すぎるのが怖い。核心を突いてくるから」
「分かる。奈々さんって、見てるんだよね、全部」
二人で笑った。
外に出ると、五月の夕方の空が広がっていた。
蒼真が「あの」と言った。
「次のシーン、少し話したいことがあって。時間ありますか、今日」
華は少し考えた。
「……あるよ。どこかでコーヒーでも」
「助かります」
二人で駐車場を出た。
少し離れた場所で、宮本奈々が一部始終を見ていた。
ショートピースに火をつけながら、口角が上がる。
(やったじゃん、蒼真)
声には出さない。
煙を吐いて、空を見た。今日も現場が終わった。また明日。
柊家のリビング、同じ夕方。
凛が帰ってきてソファに倒れ込んだ。
「ただいま」
「おかえり」と遼が言った。
「撮影どうだった」
「まあ」
「「まあ」は撮影の答えじゃない」
「順調だった」
「それでいい」
凛はコートを脱ぎながら台所を覗いた。
「ご飯は?」
「華が買ってくる」
「……華?」
「華」
凛が遼を見た。
「今日、詩織ちゃんと会ったの?」
遼が少し止まった。
「なんで知ってる」
「言ってたから。土曜日に公園で会うって」
「……会った」
「どうだった」
「普通」
「普通って何よ」
「話した」
「どんな話」
「……色々」
凛はソファに座って、遼の背中を見た。モニターに向かってコードを書いている。
「遼」
「なに」
「詩織ちゃんのこと、どう思ってる」
「何が」
「何が、って聞いてる」
「……幼なじみ」
「それだけ?」
「……それだけじゃないかもしれない。でも、まだ分かってない」
凛は少しの間、遼の背中を見た。
「まだ分かってない、か」
「そう言った」
「……早く分かれ」
「なんで」
「女に「なんで」って言わない」
「……まあ」
凛が「まあって言うな」と言いかけて、やめた。
このやり取りを何回繰り返してきたか。結局遼は「まあ」と言い続けるし、凛は毎回「まあって言うな」と思いながら言わない、を繰り返している。
「華が帰ってきたら飯食べるよ」
「うん」
凛はソファに横になった。
遼のキーボードの音が続いている。
(詩織ちゃん、今日何を話したんだろ)
聞くかどうか迷って、やめた。
聞いても「色々」と言うだけだ。
夜、詩織の部屋。
帰ってからずっと、スマホを持ったまま何もしていなかった。
公園でのやり取りを、頭の中でぐるぐると繰り返している。
「誰かのことが気になる感覚はある」
あの言葉が、頭から離れない。
誰のことか聞いた。「特定の話はしてない」と返ってきた。当然だ。詩織は聞きすぎた。でも「まだ分かってない」という言葉が、聞きすぎた質問への答えとして、予想外の重さで届いた。
遼が誰かを好きかもしれない。
その「誰か」が自分ではないかもしれない。
その「誰か」が自分かもしれない。
どちらも、詩織には答えが分からない。
……聞けばよかった、とは思わない。聞ける話ではなかった。
でも「まだ」という言葉が、まだ胸の中にある。
スマホを持ち直した。
遼との会話画面を開く。最後は「また連絡する」「うん」のやり取り。
一つだけ送った。
「今日ありがとう」
既読がついた。
「別に何もしてない」
「話し聞いてくれたじゃん」
「聞いただけだろ」
「聞いてくれただけでいい」
少し間があって、返ってきた。
「……そうか」
詩織はその「そうか」を、しばらく見ていた。
遼の「そうか」は普通の「そうか」だ。でも今夜の詩織には、いつもより少しだけ重く届く。
窓を見た。
灯りがついている。
いる。今夜もそこにいる。
詩織はスマホを置いて、原稿の続きを開いた。
言えない理由は、ある。
でも今夜は、「また連絡する」と言えた。それで十分だ。




