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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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柊家の夜明け前 Episode 8「プロポーズは設計図みたいに」

 六月になった。

 五月末の再会から、二週間が経つ。

 あの夜のことを、由紀(ゆき)はまだ時々頭の中で取り出す。「続けましょう、この話」と言い合って別れた。解決しなかった。何も決まらなかった。でも何かが続いていくことだけは、二人の間で決まった。

 その「続き」が始まったのは、海斗(かいと)からの電話だった。

「稽古、今週もありますか」

「あります」

「来週の水曜は」

「休みです」

「どこかで話せますか」

 由紀は少し間を置いた。

「話せます」

 それだけで、会う約束が決まる。いつもそうだ。この人との約束は、無駄な言葉が少ない。


 水曜の夕方、いつもの喫茶店。

 今回は由紀が先に来ていた。海斗がしばらくして入ってきて、由紀を見つけて、少し頷く。それだけで何か落ち着く。その感覚に、由紀はもう驚かない。

「修了、おめでとうございます」

 由紀が言った。帰国してすぐの頃に、田島から聞いていた。海斗が院を修了したこと。

「ありがとうございます。式は帰国前に私がいない間に済んでいたので、修了した気分ではありませんが」

「これから会社に入るんですか」

「入りません。個人で設計の仕事を請け負うつもりです。海外の案件も続けながら」

 正式に社会に出た人間の話し方ではない、と由紀は思う。海斗にとっては「院が終わった」より「やることが続いている」の方が大事らしい。

「来期の公演、決まりましたか」

 海斗が座りながら聞いた。

「決まりました。八月の末です」

「そうですか」

「劇団員も、残ってくれる人だけで続けることになって。少し形が変わるけど、続けられそうです」

 海斗が頷く。よかった、という言葉は使わない。でもその頷き方が、よかった、という意味だと由紀には分かる。

「柊さんは」

「七月から、また海外の案件があります」

「どのくらい」

「二ヶ月ほど。今度はインドです」

 由紀はコーヒーのカップを両手で持ったまま、少し黙った。

 また行く。二ヶ月。八月の本番には間に合わない。

 そういう計算を、また勝手にしている。前回と同じだ。少し恥ずかしいと思いながら、止められない。

「見に来られないですね、本番」

「そうなります。すみません」

「謝ることじゃないです」

「見たかったんですが」

 由紀は少し目を上げる。海斗が由紀を見ている。いつもの静かな目。でもその言葉は、いつもと少し違う場所から来ている気がした。

 見たかった。

 過去形で言った。

「帰ってきたら、録音でも聞かせます」

「録音」

「台詞の録音。雰囲気は伝わらないけど」

「それでも聞きたいです」

 由紀は少し笑う。笑ってから、また少し困る。この人との会話は、いつもこういう具合だ。真面目な顔で、真っすぐな言葉を言う。それがどれほど由紀の核心に届いているか、本人には分かっていない。


 七月になって、海斗はインドへ向かった。

 今度は、出発の前日に電話があった。

「明日発ちます」

「そうですか。お気をつけて」

「由紀さん」

「はい」

「八月の本番、うまくいくといいですね」

 由紀は少し息を止めた。

 海斗は本番を見に来られない。でもその言葉は、見ていない場所から届く言葉として、ちゃんとそこにある。

「ありがとうございます」

「帰ってきたら、どうだったか教えてください」

「教えます」

 それだけだった。

 電話を切ってから、由紀はしばらく受話器を持ったまま立っていた。

 六月から七月の間、何度か会った。喫茶店で話した。路地の焼き鳥屋にも行った。演劇の話、機械の話、それから少しずつ、別の話も混じり始めた。育った場所の話。家族の話。そういうことが、少しずつ出てくるようになっていた。

 でもまだ、何も言葉にはなっていない。

 二人の間には、名前のついていない何かがある。由紀にはそれが分かっていた。海斗にも、たぶん分かっている。でも言葉にならないまま、時間が過ぎていく。

 それがもどかしいかといえば、そうでもない。

 ただ、海斗がいない高円寺の夏が、前よりも少し長く感じられた。


 八月の本番が終わった。

 小さな劇場で、三日間の公演。客の入りは悪くなかった。舞台が終わった夜、由紀は楽屋で少し泣いた。うまくいったから、ではない。うまくいったかどうかも、終わった直後はよく分からない。ただ、何かが終わった、という感覚で泣いた。

 朱里が「よかったよ」と言った。

「どこが」

「全部」

「全部って何も言ってないのと同じ」

「うるさい。泣くな」

 由紀はまた少し泣いた。


 海斗が帰ってきたのは、九月の初めだった。

 電話が来た。

「帰りました」

「お疲れ様でした」

「本番、どうでしたか」

 由紀は少し笑う。

「うまくいったと思います。終わってから泣きました」

「泣いたんですか」

「泣きました」

「なぜ」

「よく分かりません。でも、泣きたい気持ちがあったので、泣きました」

 海斗が少し間を置いた。

「そういうことが、あるんですね」

「あります」

「録音、聞かせてもらえますか」

「聞きますか、本当に」

「聞きます」

 由紀はまた笑った。


 九月の半ば、二人でまた会った。

 今回は喫茶店ではなく、駅の近くの小さな公園。海斗が「外で話したい」と言った。珍しかった。いつも喫茶店か焼き鳥屋だったから。

 九月の夕暮れは、まだ少し暑い。でも夕方になると風が出て、夏とは違う空気が混じり始める。ベンチに二人で座って、由紀はテープレコーダーを取り出した。

「持ってきたんですか」

「持ってきました」

「本当に聞くんですか」

「言いましたよ」

 由紀は再生ボタンを押す。自分の声が出てくる。台詞を読む声。舞台の上の、自分の声。

 自分の声を、こうして聞くのはあまり好きではない。でも海斗が聞いていた。公園の夕暮れの中で、静かに聞いていた。

 三分ほど聞いてから、由紀は止めた。

「こんな感じです」

「間の取り方が、変わりましたね」

「そうですか」

「前に聞いていた話し方より、少し広くなっています。一つひとつの間じゃなくて、場面全体の間を作っている」

 由紀は少し驚いた。

「よく分かりますね、それが」

「由紀さんから聞いていたので」

 そうだ、と由紀は思う。六月に話した。二番手の役になって、間の作り方が変わる気がする、と。そういう話を、この人はちゃんと覚えている。

 何でもない言葉を、覚えている。

 その事実が、由紀には少し重かった。重い、というより、大事なもののように感じられた。

「録音、聞いてよかったですか」

 海斗が聞く。

「よかったです。少し恥ずかしかったけど」

「なぜ恥ずかしいんですか」

「自分の声を人に聞かせるのは、少し怖い」

「怖い」

「舞台と違って、場所も状況も関係なく、ただ声だけがある。剥き出しになる感じがして」

 海斗がしばらく考えた。

「機械で言うと、カバーを外した状態ですね」

「カバーを外した状態」

「外側が何もない、内部だけの状態。でも、それが見たいと思う人間もいる」

 由紀は少し黙った。

 それが見たい。

 海斗がそう言っているのかどうか、由紀には分からなかった。でも分からないままで、何かが由紀の中に落ちてきた。


 十月になった。

 高円寺の街が、少しずつ秋の色に変わっていく。

 二人は週に一度か二度、会うようになっていた。六月の頃より、会う頻度が増えていた。お互いにそれを言葉にしていない。でも気づいていた。

 ある夜、焼き鳥屋の路地で、朱里(あかり)が煙草を吸いながら言った。

「由紀、最近顔が違う」

「どう違う」

「いい方に違う」

「何が」

「あたしに聞くな」

 朱里が煙草の煙を吐く。

「機械の人に、何か言われたの」

「言われてはいない」

「でも何かあった」

 由紀は少し考えてから、言った。

「自分の声を聞いてもらいました」

「何それ」

「台詞の録音。変なことじゃないです」

 朱里がしばらく由紀を見た。

「由紀」

「何」

「それ、かなりのことだよ」

 由紀は答えない。

 分かっていた。だから答えなかった。


 十月の終わり。

 海斗から「少し時間がありますか」という電話が来たのは、夕方だった。

「あります」

「今から会えますか」

 いつもと少し違う聞き方だった。「水曜は」「来週は」という聞き方ではなく、「今から」という聞き方。

「会えます」

 三十分後、いつもの喫茶店。

 海斗が先に来ていた。コーヒーの前に座って、由紀が来るのを待っていた。

 由紀が向かいに座る。

 海斗がすぐに言った。

「一月から、また長い案件が入ります」

「どのくらいですか」

「半年か、それ以上になるかもしれない」

 由紀は少し黙った。

 半年。それ以上。

「どこですか」

「中東です。水処理のプロジェクトで、現地に常駐する形になります」

「そうですか」

 由紀はコーヒーを一口飲んだ。冷める前に飲もうとする自分に気づいて、少し可笑しくなった。冷めても飲む、と思っていたのに。

「それで」由紀は言う。「その前に話しておきたいことがあって、来たんですか」

 海斗が少し目を細める。

「そういう聞き方をするんですね」

「違いましたか」

「正しいです」

 喫茶店の中が、少し静かになった気がした。外を人が通る。雨の気配がある。

 海斗が由紀を見た。

「一緒にいると、ズレない」

 由紀は黙った。

「それが、私が感じることの中で、一番正確な言葉です。由紀さんと話しているとき、私は自分の考えていることと言葉の間にズレが生まれない。それは、他の人間との会話ではほとんどないことです」

「それだけですか」

 問い返してから、由紀はすぐに自分が何を聞いたのかを理解する。それだけではないはずだと、由紀には分かっている。分かった上で、それでも聞いている。

 海斗が少し間を置いた。

「今の自分の状態を、設計図で言うと」

「設計図」

「完成していません。就職が決まっているわけでも、どこに住むかが決まっているわけでもない。半年以上、海外にいることになる。安定した生活を、今の自分では作れない」

「それは私も同じです」

「由紀さんも」

「劇団がどうなるか分からない。来年の公演があるかも分からない。でも続けます」

 海斗が頷く。

「そういう状態の二人が一緒にいると、条件として不安定です」

「不安定です」

「でも一緒にいたい」

 雨の気配が、少し強くなった。窓のガラスに、最初の雨粒が一つ落ちた。

 由紀は海斗を見る。

「それは」と由紀は言う。声が少し低くなっている。「結婚の話ですか」

「そうです」

 あっさりと言われた。設計図の話をするみたいに、簡潔に。ロマンチックとは程遠い言い方。でも由紀には、その言い方が海斗の言葉だと分かる。もっと美しい言い方をしようとしたら、海斗ではなくなる。

 でも由紀の胸の中に、すっと入り込んでくるものがある。

 怖い。

 嬉しいのではなく、怖い。


 由紀は傘を持ったまま、しばらく何も言えなかった。

 怖い、という感覚の正体を、頭の中で急いで探す。海斗が嫌なのではない。一緒にいたくないのでもない。むしろ逆で——。

「一つだけ聞かせてください」

 由紀が言う。

「はい」

「私が演劇をやめることが、条件になりますか」

 海斗が少し眉を寄せる。

「なぜそうなりますか」

「なぜって」

「由紀さんは演劇をやめない方がいいと思っています」

 由紀は息を飲む。

「それは私が決めることです」

「そうです。でも私が思うことを言うと、やめない方がいい」

「なぜ」

「由紀さんが稽古場にいるとき、舞台の端で本番を待っているとき、私はその顔を見ました。あの顔をしている人間が、演劇をやめるとは思えない」

 由紀の目が、少し熱くなる。泣くつもりはない。でも込み上げてくる。

「捨てるな、ということですか」

「捨てるなとも、やめるなとも言えません。由紀さんが決めることです」

「では」

「でも、もし今は止めることになっても、消すな、と思っています」

 消すな。

 その言葉が由紀の中で、ゆっくり広がっていく。

「消すな、というのは」

「由紀さんが演劇に向かうときの、あの間の取り方。感情より先に場を読む、あの感覚。それは演劇をやめても消えない。消せないと私は思っています。でも、消そうとすることはできる。消そうとしないでほしい」

 由紀は唇を押さえる。

 泣きたくない。ここで泣くのは違う気がする。でも止まらない。

「由紀さん」

「少し待ってください」

「はい」

 喫茶店の中で、由紀は泣いた。声は出さない。でも涙が出る。コーヒーのカップを握ったまま、泣いた。

 なぜ泣いているのか、最初は分からなかった。嬉しいのか、怖いのか、それとも全然別の何かなのか。

 少しして、分かった。

 由紀が一番怖れていたことを、この人は最初から問題にしていなかった。

 誰かと一緒にいることで、演劇をやめることになる——それが怖かった。自分で選ぶ前に、誰かの事情に引っ張られてやめることになる。そういう怖れを、ずっと持っていた。

 でも海斗は「やめろ」と言わなかった。やめてもいい、止めてもいい、でも消すな、と言った。由紀が選ぶ前に何かを奪おうとしていない。

 由紀の中にあるものを、存在として認めた上で、一緒にいたいと言っている。


「なぜ泣いているんですか」

 海斗が言った。

 困惑した顔。泣かせた自覚がない顔。何か悪いことを言っただろうかと、本気で考えている顔。

 由紀は泣きながら笑った。

 笑いながら、もう少し泣いた。

「どちらですか」海斗が言う。「泣いているんですか、笑っているんですか」

「両方です」

「それは……どういう状態ですか」

「私にもよく分かりません」

「分からないのに続けているんですか」

「続けています」

 海斗が少し眉を寄せたまま、由紀を見ている。本当に分からない、という顔。でも無理に理解しようとはしていない。分からないまま、そこにいる。

 その不器用さが、由紀にはまた可笑しかった。

 涙が止まらないまま、笑いが止まらない。喫茶店の窓に雨が当たっている。外の人が傘を出し始めた。

「一つ言っていいですか」

 由紀が言う。まだ少し声が濡れている。

「はい」

「柊さんが正しいことばかり言うから、こういうことになります」

 海斗が黙る。

「正しいことを言った覚えはあまりないですが」

「あなたには分からないんです、それが」

「……そうですか」

「そうです」

 また少し笑ってしまう。涙がまだ頬にある。ハンカチを出そうとしてバッグを探ると、海斗が何も言わずに自分のポケットからハンカチを取り出した。

 折り畳まれたままの白い布。

 由紀は受け取って、目を押さえる。

「ありがとうございます」

「いえ」

 海斗は由紀が泣き止むまで、黙っていた。急かす気配がない。視線を逸らしもしない。ただそこに座って、雨の音を聞いていた。


 由紀が泣き止んで、ハンカチを手の中で握ったまま、海斗を見たとき、海斗は「先ほどの話の続きですが」と言った。

「はい」

「返事は急ぎません」

「急ぎません、というのは」

「今すぐ答えを出す必要はないということです。私の状況も由紀さんの状況も、まだ固まっていない部分が多い。部品が全部揃ってからでないと動かない機械は、ずっと動かないままになる。でも、相手の意思だけは先に確認しておく必要がある」

「意思、というのは」

「私と一緒にいるかどうか」

 由紀はハンカチを握りしめたまま、海斗を見る。雨の中の、無表情に近い顔。でも目の中に、何か真剣なものが宿っている。

「一緒にいます」

 由紀が言った。迷いより先に、言葉が出た。

「それだけでいいですか」海斗が聞く。

「それだけで十分です」

「そうですか」

 海斗が少し頷く。何かが決まった顔。安堵とも喜びとも言えない、でも何かが落ち着いた、という顔。

 由紀はもう一度泣きそうになって、笑うことで堪えた。


 その夜、帰り道を一人で歩く。

 外は雨。持ってきた傘を差して、商店街を通り抜ける。閉まり始めた店のシャッターに、雨水の跡が斜めに走っている。夜の高円寺がオレンジ色の光の中に溶けている。

 頭の中が、妙に静かだった。

 泣いた後の静けさ。何かが動いた後の落ち着き。劇団の先行きはまだ分からない。海斗が来月以降どこにいるかも分からない。二人がどうやって生活を成り立たせるかも、今は全然見えていない。

 でも一緒にいる、と言った。

 その言葉は、まだ由紀の中に温かいまま残っている。

 消すな、という言葉もまだある。

 由紀が長い間ひとりで抱えていたものを、あの人は名前も知らないまま、ただ真っすぐに指している。そのことが、まだじんわりと沁みていた。

 アパートの前まで来て、由紀は少し立ち止まった。

 どこかへ行く、と朱里は言っていた。同じとこじゃなくていいから。

 どこへ行くのか、まだ分からない。でも今夜、行き先が少し見えた気がした。


 部屋に入ってすぐ、電話をかけた。

 朱里が二回で取った。

「どうした、こんな時間に」

「泣いた」

「何があった」

「柊さんに、一緒にいたいと言われた」

 朱里が黙る。珍しい沈黙。

「それで泣いたの」

「泣いた」

「なんで泣くんだ」

「なんで泣いたか、私も最初よく分からなかった」

「で、分かったの」

「少し分かった」

「何が分かった」

 由紀は受話器を持ち直す。

「あの人は、私に演劇をやめることを求めなかった。今は止めてもいいとも言ってくれて。でも消すな、と言った」

「消すな」

「演劇への気持ちを消すな、という意味だと思う」

 朱里がしばらく黙っている。

「それで泣いたのか」

「たぶん」

「由紀」

「何」

「由紀は怖かったんだろ。誰かと一緒にいることで、舞台を捨てることになるのが」

 由紀は少し息を止める。

「そうかもしれない」

「でもそいつは捨てるなと言った」朱里が続ける。「それは、由紀のことを分かってる人間にしか言えない言葉だ」

 また泣きそうになる。由紀は受話器を持ったまま、天井を見上げる。

「朱里」

「何」

「ありがとう」

「礼を言うな、うっとうしい」

 でも朱里の声は、少し笑っていた。

「由紀」

「何」

「よかったな」

 その一言で、また涙が出た。

 今夜、何度泣くのか。泣きながら由紀は思う。設計図みたいなプロポーズで、こんなに泣くとは思っていなかった。

 でもたぶん、これが始まりだ。

 不安定な二人の、どこへ向かうか分からない、設計図のない始まり。

 由紀はそれを少し怖いと思いながら、少し嬉しいと思いながら、窓の外の雨の音を聞いていた。


 同じ夜。

 海斗はアパートに戻って、作業机の前に座っていた。

 工具箱は閉じたまま。今夜は機械に触る気にならない。

 由紀が泣いた理由は、最後まで正確には分からなかった。笑っているのか泣いているのか、と聞いたら「両方」と言われた。どういう状態なのか、よく分からない。

 でも「一緒にいます」と言われた。

 それだけは分かる。はっきりと、言葉として言われた。

 机の引き出しを少し開けた。ハンダゴテの替え先、半田、小さなドライバーの束。普通の夜なら、どれかに手が伸びる。でも今夜は伸びない。

 由紀の声が、まだどこかに残っている。「一緒にいます」という、短い返事。迷いのない言い方だった。

 そういう言い方をする人間だ、と海斗は思う。決めたら、迷わない。演劇への向き合い方でも感じていた。間の取り方に迷いがない。場の温度を、自分の意志で変えようとしない。そのままを受け取る。

 そういう人間に「一緒にいます」と言われた。

 計れないものを計ろうとしても意味がない、と海斗は思う。計れないまま、そこにある、ということを受け取ればいい。

 窓の外、雨が続いている。

 机の上の基板に、もう一度目が向く。部品が揃ったら、直す。それだけのことだ。

 今夜はまだ、部品が揃っていない。でも揃う。

 そのことだけは、海斗には分かっていた。

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