第29.5話「藤枝紡という人」
藤枝紡は、柊華の友人の中で一番付き合いが長い。二人が出会ったのは授賞式の待合室で、隣の席に座ったのがきっかけだ。紡はシンガーソングライター。音楽の話より、人の話を長く聞く方が好きな人間で、そのわりに自分の話はあまりしない。
柊家のインターフォンを押したとき、紡はもう少し待ってから来ればよかったと思った。
理由はない。強いて言えば、準備が足りない気がしたから。何の準備かは分からないが、とにかく足りない感じがした。
「はーい」という華の声がして、ドアが開いた。
「紡ちゃん来た! 上がって」
華の声はいつも一トーン明るい。紡はありがとう、と言って靴を脱いだ。
リビングに入ると、遼がいた。
テーブルの前に座って、スマートフォンの画面を見ている。作業じゃなく、何か読んでいるらしかった。
「あ、紡さん。来てたんですね」
顔を上げないまま言った。
「こんにちは」
「どうも」
遼はまた画面に目を落とした。
紡は華と並んでソファに座りながら、(あの人、私がいても何も変わらないな)と思った。
悪い意味ではない。ただ、そうだな、と思った。
華は今日のことを話し始めた。撮影が押して昼ごはんを食べ損ねた話、蒼真が台本の読み方について自分で気づいたことがあったらしくて嬉しそうだった話、奈々さんに「華ちゃんってタバコ吸えないの?」と聞かれて「吸えません」と答えたら「まあそうか」と言われた話。
紡は相槌を打ちながら聞いた。話しているときの華の顔を見るのが好きだ。感情が全部、ちゃんと表に出てくる。隠そうとしていないというより、隠すという発想がない感じ。
「蒼真くんって、どんな感じの人なの」
「どんな感じって……普通にいい人だよ。誠実で」
「華ちゃんから見て、演技はどう?」
「上手い。でも計算じゃなくて、感じたことをそのまま出してくる感じ。私と逆かも」
「華ちゃんは感じたことをそのまま出してると思うけど」
「違うんだよ。私はなんか……役になってから出してるから、感じ方が違う」
紡はそれを少し考えた。役になってから感じる、と、感じてから役になる。違うのかもしれない。でも紡には演技のことはよく分からないので、ふんふんと聞いた。
遼は向こうでスマートフォンを置いて、コーヒーを飲んでいた。
「遼さんって、最近どんな音楽聞きますか」
気づいたら口から出ていた。
華がちらっとこちらを見た。遼が顔を上げる。
「作業中は無音の方が集中できます」
一秒、紡は止まった。
「……無音」
「はい。音があると気が散る」
「そうですか」
紡はお茶を一口飲んだ。
シンガーとして若干傷ついた。でも嫌な気持ちではない。遼が悪いわけじゃないし、むしろ正直に答えてくれた方がいい。ただ、「音楽を作っている人間が、音楽なしの方が捗ると思っている人に話しかけた」という事実が少し可笑しかった。
「作業してないときは?」
「特に聞かないです。気が向けば」
「どんなのが好きですか、気が向いたとき」
「あまり分からないです。邪魔にならないもの」
「邪魔にならないもの」
紡はそれを頭の中で繰り返した。
邪魔にならないもの。
それは、音楽の話としてはかなり率直だ。褒めてもいないし、けなしてもいない。ただ、自分の生活の中での位置づけをそのまま言っている。
「(正直な人だな)」
思ったが、声には出さなかった。
「何作ってるんですか」
今度は自分でも分かって聞いた。テーブルの上に部品のケースが開いていて、遼が時々手を伸ばしている。
「モーターのコントローラーです」
「コントローラー」
「速度と方向を制御する回路」
「難しそうですね」
「そうでもないです。設計通りに組めば動く」
「設計通りに、って……設計するのが難しくないんですか」
遼が少し考えてから言った。
「難しいけど、面白い部分が多いので」
「面白い」
「動かないものが動くようになる理由を考えるのが面白い」
紡はそれを聞いて、少し黙った。
動かないものが動くようになる理由を考える。
「……綺麗ですね、設計って」
「そうですか?」
「なんか、考えたことを形にする感じで」
「普通だと思いますが」
遼は「普通」と言ったが、紡には普通に見えなかった。ただ、それを言っても「そうですか」と返ってくるだけな気がしたので、言わなかった。
少し経って、遼が「コーヒー飲みますか」と聞いた。
「あ、いただきます」
遼が台所に立った。カップを出して、コーヒーメーカーを使う。手際よく、でも急いでいる感じもない。ただ必要なことをやっている。
紡は華と話しながら、その背中を横目で見ていた。
この人のそばにいると、不思議と静かな気持ちになる。
何か特別なことをしているわけじゃない。喋るわけでも、気を遣うわけでも、存在感を出そうとするわけでもない。ただいる。自分のペースで、自分の場所にいる。
それが、落ち着く。
「あの人、私がいても気にしないな」と紡は思った。華のことも、凛のことも気にしない感じで、誰かがそこにいることは受け入れているが、それで自分のペースが変わるわけじゃない。
落ち着く理由は、それだと思う。
変わらない、ということ。
コーヒーを三つ持って遼が戻ってきた。
「ありがとうございます」
「どうも」
また向こうへ行って、作業に戻った。
華が「遼って、コーヒーだけは人数分作る」と言った。
「なんで」
「なんでだろ。聞いたら「出してないのに飲みたいと思われても困るから」って言ってた」
紡は少し笑った。
「優しいんですね」
「そうかな。合理的なのかも」
「どっちでも同じじゃないですか」
「言われてみれば」
華が首を傾けて、また別の話を始めた。
紡はコーヒーを飲みながら、(また来てもいいか華ちゃんに聞こう)と思った。
遼に会いたいわけじゃない。たぶん。ただ、この空気が好きで、また来てもいいなら来たい。
そういう気持ち、とだけ思っておく。
帰りの電車。
窓の外に東京の夜が続いている。
紡はスマートフォンを出して、メモアプリを開いた。
こういうとき、書きたくなる。書かないと、感じたことがどこかへ行ってしまう気がして。
何を書くか決めていない。でも指が動く。
「動かないものが動く理由を考える人の隣にいた。
静かだった。それで十分だった。
音楽は邪魔にならないものでいい、と言った。
少し傷ついた。でも、納得した。
邪魔にならないものは、長く続く。 」
書いて、読み直した。
詩じゃない。でも曲の断片のような気もした。
使えるかどうかは分からない。ただ、書かないと次へ行けない気がした。
紡は画面を消して、スマートフォンをポケットにしまった。
窓の外に、夜が続いている。
この人の時間の流れ方が好きだな、と思った。好き、というのが正確かどうかは分からない。でも、また行ってもいいなら行きたい。
華に今度LINEしてみよう。
「また遊びに行っていい?」
言葉が少し引っかかったが、まあいいか、と思った。
紡は小さく笑って、電車の振動に身を任せた。




