柊家の夜明け前 Episode 7「夢と生活は両立しない」
田島から連絡先を伝えてもらったのは、十一月の初め。
由紀のもとに「湊さんへ」という一言とともに電話番号が渡ってきた。それだけで、田島は何も余計なことを言わなかった。朱里が「田島って気が利くな」と言い、由紀は「そうかな」と答えた。
その番号に由紀がかけたのは、さらに三日後のこと。
かける理由を考えていた。空調の修理のお礼、と思ったが、お礼はあの夜に言っている。間の話の続きがしたい、と思ったが、それは理由というより目的だ。理由と目的は違う。電話をかけるための理由が、なかなか見つからなかった。
三日目の夜、由紀は考えるのをやめてかけた。
コールが三回鳴って、海斗が出た。
「はい」
「湊です。先日、田島さんを通じて」
「ああ」短い返事だった。「連絡先、伝わりましたか」
「伝わりました。空調の修理のお礼を、ちゃんと言えていなかったので」
「いえ、仕事ではなかったので」
沈黙が来た。
由紀はその沈黙を、少し待った。
「もしよければ」海斗が続ける。「間の話、もう少しできますか」
由紀は少し驚く。
向こうから言うとは思っていなかった。
「できます」
「どこかで」
「はい」
そうして、十一月の終わりに、二人は初めて二人だけで会うことになった。
高円寺の喫茶店。
海斗が先に来ていた。窓際の席に座って、コーヒーを飲んでいる。テーブルの上に文庫本が一冊。表紙が上を向いているので、由紀には題名が見えた。工学系の本ではなく、音楽に関する本。
「お待たせしました」
「いえ」海斗が本を鞄にしまう。「早く来すぎたので」
由紀は向かいに座る。
ウェイターが来て、由紀はコーヒーを頼んだ。
少し間があって、海斗が言った。
「間の話、というのを先に言ってしまったので、それ以外の話がしにくくなってしまいました」
由紀は思わず少し笑う。
「そういうことを言う人なんですね」
「正確に言った方がいいと思って」
「間の話でいいですよ」
海斗が少し頷く。
「由紀さんは、今どんな役をやっているんですか」
突然「由紀さん」と呼ばれたことに、由紀はまた少し驚いた。先日、名前が伝わっているのを確認したはずなのに、実際に呼ばれると別の感覚がある。
「今は、脇役です。でも次の公演で、初めて二番手に近い役をもらいました」
「そうですか」
「台詞が多いので、間の作り方が変わる気がしていて。一つひとつの間より、場面全体の流れを作る必要がある」
海斗が少し考えた。
「機械で言うと、部品の精度より、システム全体の設計の話ですね」
「そうかもしれない」
「部品の精度はある程度まで上がれば十分で、問題はそれをどう組み合わせるか。設計が悪いと、精度の高い部品を並べても全体が動かない」
「演技も同じです。一つひとつは上手くできていても、場面の流れが悪いと客席に届かない」
コーヒーが来る。
由紀はカップを両手で持ちながら続ける。
「柊さんは、今どんな仕事をしているんですか」
「院生です。ただ、研究室の案件で海外に行くことがあって」
「海外」
「東南アジアとか、中東とか。インフラの設備が古くて、直さないといけない場所が多い」
「行くんですか」
「行きます」
由紀は少し考えた。
「楽しいですか」
「楽しいというより、必要なことをやっている、という感覚です。現場に行かないと分からないことがある」
「舞台と同じですね」
「どういうことですか」
「図面やデータじゃなくて、現場の空気を直接読まないといけない。客席に人がいないと、本当の間は分からない」
海斗が少し目を細める。
それが海斗の、何かが一致したときの顔だ、と由紀は気づいている。
それから、二人は月に一度か二度、会うようになる。
場所はいつも高円寺の同じ喫茶店か、路地の焼き鳥屋だった。話すのはいつも、演劇と機械の話だ。
どちらも、自分の仕事以外の話はほとんどしない。家族の話、故郷の話、将来の話。そういうことが話題に上がらないまま、三ヶ月が過ぎた。
でも由紀には、それが心地よい。
演劇の話をするとき、海斗は正確に聞く。分からないことはすぐ聞く。でたらめなことを言わない。「すごい」「さすが」という言葉を使わない。代わりに「それはどういう意味ですか」「自分の仕事で言うと」という言葉が続く。
その話し方が、好きだ。
好きだ、という言葉を使うのに、少し時間がかかった。でも三ヶ月経って、由紀には分かっている。
この人のことが、好きだ。
それが分かった夜、由紀はアパートで少し笑う。笑ってから、少し困る。
好きだということは分かった。でも、どこへ向かうのかが分からない。
二月の終わり。
いつもの喫茶店で、海斗が言った。
「来月から、三ヶ月ほど東南アジアに行きます」
由紀は手を止める。
「そうですか」
「論文の審査は通ったので、教授が現地に送り出してくれることになって。ダムの修復プロジェクトで、現地の設備が古くて図面だけでは判断できないことが多い」
「いつ帰ってくるんですか」
「五月の末を予定していますが、延びる可能性もあります」
由紀はコーヒーを飲んだ。
三ヶ月。五月の末まで。今月の本番に間に合わない。次の公演の稽古が始まっても、まだいない。
そういう計算を、由紀は少し恥ずかしいと思った。相手は仕事で行くのだから、それは当然のことだ。自分のことを基準に考えてどうする、と思った。でも頭が勝手に計算していた。
「分かりました」由紀は言う。「帰ってきたら、また話しましょう」
「はい」
会話はそれだけ。
二人の間には、付き合っているとか、好きだとか、そういう言葉は一度も出たことがない。ただ月に一、二度会って、演劇と機械の話をする。それだけの関係だ。
だから「帰ってきたら、また話しましょう」以外の言葉が、由紀には見つからなかった。
海斗が出発するまでの残り一週間、由紀は何も言わなかった。
三月になって、海斗がいなくなった。
特別な別れもなく、特別な約束もなく。由紀のアパートの近くに住んでいた人間が、遠い場所へ行った。
それだけのことなのに、高円寺の景色が少し変わった気がした。
いつもの喫茶店の前を通るとき、少し余分に目がいく。焼き鳥屋の路地を通るとき、足が一瞬遅くなる。どちらも誰もいないことは分かっているのに、目と足が勝手に動く。
それが、由紀には少し腹立たしかった。
こんなに分かりやすいものなのか、と思った。
四月。
由紀の劇団の話が、少しきな臭くなっていた。
資金の問題。小劇団は常に金がない。バイトをかけ持ちして、稽古があれば稽古に行き、本番があれば本番に立つ。それが当たり前の生活だ。でも四月になって、吉田が「来期の公演が難しいかもしれない」と言い出した。
会場費が上がった。主要な劇団員が一人、就職のために脱退した。スポンサーがついていたわけでもない。最初から自転車操業だったものが、少しずつ傾き始めている。
由紀はその話を聞きながら、自分の財布の中を考えた。
バイトの収入だけでは、東京に住み続けることが難しくなってきている。秋田から「帰ってこないか」という連絡が、最近また来ていた。
劇団は続くかもしれない。続かないかもしれない。
由紀は夜、台本を広げながら考えた。
続けることと、生活することを、どこかで折り合わせなければいけない時期が来ている。上京したときから分かっていた。分かっていて、見ないようにしていた。
でも今は、見ないようにするのが難しくなっていた。
五月。
朱里に呼ばれて、いつもの焼き鳥屋へ。
朱里はビールを飲みながら、由紀の顔を見る。
「顔が硬い」
「そうかな」
「そう。機械の人がいなくなってから、ずっとそう」
由紀は返事をしない。
「来期、難しいかもしれないって吉田が言ってたね」
「吉田さんがそう言ってた」
「由紀はどうするつもり」
由紀はビールを飲んだ。
「分からない」
「分からないって、どういう意味」
「続けたいか、続けたくないかの話じゃなくて、続けられるかどうかの話になってきた」
朱里が煙草に火をつける。
「生活の話ね」
「生活の話」
「由紀はいくら貯金がある」
「言えるような金額じゃない」
「そうか」
朱里がしばらく黙る。
「秋田には帰りたくない?」
「帰りたくない」
「なんで」
「帰ったら、ここで続けてきたことが、全部なかったことになる気がして」
朱里が煙草の煙を吐く。
「それは違う。帰っても、なかったことにはならない。由紀がやったことは由紀の中にある」
「頭では分かってる」
「でも帰れない」
「帰れない」
朱里が由紀を見る。
「機械の人のこと、あるんじゃないの」
由紀は少し間を置く。
「機械の人って」
「機械の人。柊さんだっけ」
由紀は答えない。
「帰れない理由の一つに、あの人がいるんじゃないの」
「関係ない」
「関係なくはないでしょ」
由紀はビールのグラスを両手で持ったまま、黙る。
関係ない、とは言い切れない。言い切れないこと、それ自体が答えだ。
「あの人、今どこにいるの」
「東南アジア。五月末に帰ってくる予定で」
「連絡はしてるの」
「できない。向こうの連絡先、知らないから」
朱里が少し黙る。
「そうか」
朱里が少し笑いそうな顔をした。でも笑わない。
「由紀って、本当に不器用だな」
「分かってる」
「帰ってくるまで待つしかないとして、その間何もしないの」
「何もって」
「劇団のこと、自分のこと。帰ってきたときに何も変わってなかったら、それはそれで困るでしょ」
由紀は答えなかった。
その通りだった。でも、何をすればいいのかが分からなかった。
「あたしみたいには生きなくていい。でも、もう少し動いた方がいい」
由紀は黙った。
動く、という言葉の意味を考えていた。何に向かって動くのか。演劇に向かって、か。それとも、別の何かに向かって、か。
「朱里」
「何」
「演劇と生活って、両立できると思う」
朱里がしばらく黙る。
「できると思う人と、できないと思う人がいる」
「朱里はどっち」
「あたしは……できないと思ってる。でもそう思っても続けてる」
「どうして」
「やめたら、できないままで終わるから」
由紀はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
「でも」由紀が言う。「東京にいられなくなったら、続けられない」
「そうだな」
「だから両立できないって言ってる」
「由紀が言ってるのは、今できないってことでしょ。ずっとできないとは違う」
「今が問題なんだけど」
朱里が煙草を消した。
「由紀、やめるなよ」
静かな声だった。いつもの朱里の声より、少し低い。
「やめるな。でも、今の形に無理にしがみつくなよ」
「どういう意味」
「劇団の形じゃなくていい。舞台じゃなくていい。でも、やめるな」
由紀は返事をしない。
やめない、とは言えなかった。やめる気もなかった。でも、続けられる保証も、どこにもなかった。
五月の末。
海斗から電話がかかってきた。
「帰りました」
「お疲れ様でした」
「延びると言っていましたが、予定通りになりました」
「そうですか」
沈黙が来た。
由紀はその沈黙の中で、たくさんのことを考えた。劇団のこと、生活のこと、秋田のこと。そして目の前の、この電話のこと。
「少し話せますか」
由紀が言った。
「今ですか」
「いつかで」
「明日の夜なら」
「明日でいいです」
翌日の夜。いつもの喫茶店。
海斗はいつもと同じように先に来ていた。三ヶ月ぶりに会う顔は、少し日焼けしていた。それ以外は変わらない。静かな目、静かな姿勢、テーブルの上の文庫本。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
由紀はコーヒーを頼んでから、少し考えてから言った。
「少し困ったことがあって」
「聞きます」
由紀は、劇団の話をした。資金の問題、来期の公演が難しいこと、バイトの収入だけでは生活が難しくなっていること。話しながら、なぜこの人に話しているのかを、由紀は少し考えた。
相談しているわけではない。解決してほしいわけでもない。ただ、話せる人間が、この人だった。
海斗は聞いていた。
口を挟まなかった。頷かなかった。ただ聞いていた。
由紀が話し終えると、海斗が少し間を置いた。
「続けたいんですか」
「続けたい」
「でも今の形では続けられない」
「そうなると思う」
海斗がまた少し考えた。
「自分の話をしてもいいですか」
「どうぞ」
「東南アジアの現場に行って、思ったことがあります」
由紀は聞いた。
「直せる機械と、直せない機械がある。部品が手に入らない。技術がない。設計図が残っていない。そういう理由で、直せない機械は確かにある。でも多くの場合、直せない理由は、直そうとした人間がいなかったことです」
「どういうことですか」
「誰かが諦めた、ということです。諦めたから、壊れたままになっている。機械は諦めない。壊れたままでも、そこにある」
由紀はその言葉を、静かに聞いていた。
「由紀さんの劇団が続かなくなっても、由紀さんが演劇をやってきた事実はなくならない」
「なくならないけど、続けられなくなる」
「今の劇団の形では、かもしれない」
「形が変わったら、違うことになる」
「そうですか」
海斗が少し首を傾げた。
「機械は、同じ目的のために、形が変わることがある。ポンプが手に入らなければ、別の方法で水を送る。目的は変わらない、でも手段が変わる」
「演劇は目的じゃなくて、もう少し……」由紀は言葉を探した。「目的と手段の、両方なんです」
「両方」
「舞台に立つことが目的でもあって、手段でもある。それが変わったら、違うものになってしまう」
海斗はしばらく黙った。
由紀もしばらく黙った。
喫茶店の中に、他の客の話し声が聞こえる。外を人が通る。十一月から続いてきたこの時間が、今少し違う重さを持っている気がした。
「私は」海斗が言う。「海外に行く機会が増えると思います」
「はい」
「長いときは半年、一年になることもある」
「そうですか」
「安定した生活を、自分では作れないと思っています。作ろうとも思っていない。でも」
海斗が少し止まった。
「でも」と由紀は繰り返した。
「向こうに行っているとき、何度か由紀さんのことを考えました」
由紀は手を止める。
「考えた、というのは」
「間の話をしたくなりました。現場で、何かの状態を読んでいるとき。あの話の続きを、この人としたい、と思いました」
由紀は黙った。
海斗の言い方は、詩的でも情熱的でもなかった。ただ、見たことを言うような、いつもの口調で言った。でもその言葉が、由紀の中で何かを動かした。
「私も」由紀は言う。「考えていました」
「そうですか」
「稽古のとき。間をどう作るか考えていると、あなたが機械の話をしていたことを思い出す。それが続きを聞きたいのか、あなたのことを考えたいのか、最初は分からなかった」
「今は分かりますか」
「今は」由紀は少し間を置く。「両方だと思っています」
海斗が少し黙る。
由紀も黙る。
二人の間に、しばらく何も言葉がなかった。でもその沈黙は、何もないわけではなかった。何かがそこにあった。言葉にならないまま、あった。
「でも」由紀が言う。「簡単ではないと思っています」
「どういうことですか」
「私は生活が安定していない。劇団が続くかどうか分からない。あなたは海外に行き続ける。今の話の続きを、どこでするのか、分からない」
「それは、問題ですか」
由紀は少し驚く。
「問題ではないですか」
「問題だと思っています」海斗が言う。「でも、それが理由で、この話を続けない理由にはならないと思っています」
「どうしてですか」
「機械の修理を、部品が全部揃ってから始めたら、始められないことが多い。現場で、あるものでやるしかない。揃っていないことを理由に諦めた機械は、ずっと壊れたままです」
由紀はしばらくその言葉を、頭の中に置いた。
揃っていないことを理由に諦めた機械は、壊れたままだ。
「でも」由紀が言う。「私が秋田に帰ることになったら」
「そのとき考えます」
「今考えておかないと」
「今分からないことを今考えても、分からないままです」
由紀は少し笑いそうになった。
「それは、困ります」
「何が困りますか」
「あなたが正しいことを言うから」
海斗が少し首を傾げる。困った顔をしている。正しいことを言った自覚がない顔だ。
由紀はコーヒーを飲む。
冷めている。でも飲む。
「続けましょう」由紀が言う。「この話。どこかで。どんな形でも」
「そうします」
それだけだった。
約束とも言えない、宣言とも言えない言葉だった。でも二人の間では、それで十分な言葉だった。
その夜、由紀は朱里に電話をかけた。
「話したよ」
「どうだった」
「よく分からなかった」
「よく分からなかったって何」
「解決しなかった。何も決まらなかった。でも、続けることにした」
朱里が少し間を置いた。
「何を続けるの」
「全部」由紀は少し考えて答えた。「演劇も、あの人との話も」
「よく分からない話ね」
「私もよく分かってない」
「でも、やめるとは言わなかった」
「やめるとは言わなかった」
朱里が低く笑った。いつもの大きな笑いではなく、夜の路地に落ちるような、静かな笑い。
「やめるなよ」
「やめない」
「無理もするなよ」
「するつもりはないけど、しちゃうかもしれない」
「そのときはあたしが言う」
由紀は少し黙った。
「朱里」
「何」
「ありがとう」
「何が」
「色々と」
朱里がまた低く笑った。
「行くぞ、いつか。あたしは先に行くけど、由紀もどこかへ行け。同じとこじゃなくていいから」
由紀は返事をしない。
窓の外、五月の夜が明るかった。
春の終わりの、にぎやかな夜。秋田とは全然違う夜。
どこかへ行く、という言葉を、由紀は少し頭の中に置いておくことにした。




