番外編「四月一日の数式」
TechVisionの東京支社には、毎週水曜の午後に小さな勉強会がある。
正式な名称はない。エンジニア数人が会議室に集まって、誰かが最近調べたことを話す、そういう集まりだ。参加は任意で、発表も任意で、議事録もない。ロバートが「やりたい人だけやれ」と言って始めたので、そういうものになっている。
遼が初めて来たのは先月で、呼ばれた、というより「来ていいよ」と言われた。断る理由もなかったので来た。話を聞いているうちに、ここは悪くない場所だという気がしてきた。専門が違う人間が集まっているので、話の前提を共有するところから始まる。その「前提の共有」の部分が、遼には面白い。
四月一日、水曜日。
いつもの小会議室に、六人が集まっていた。ロバートは今日は欠席で、代わりに進行役を買って出たのが田所という三十代のエンジニアだった。専門はRF回路設計で、遼とは先月の勉強会で少し話したことがある。
「今日は柊さんに話してもらおうと思って」
田所の声。
「俺ですか」
「先週、携帯の受信感度の話してたじゃないですか。あれ、もう少し詳しく聞きたくて」
少し間があった。
別に構わない。
「わかりました」
遼はホワイトボードの前に立った。
「スマートフォンが基地局から電波を受け取るとき、何が一番の障害になるかというと、熱雑音です」
ボードにそう書く。
「熱雑音というのは、回路の中の電子が温度によってランダムに動くことで発生するノイズです。絶対零度じゃない限り、どんな回路にも必ずある。消せない」
六人が黙って聞いている。専門が違う人間には初耳の話で、専門が近い人間には復習の話だ。
「この熱雑音の大きさは、ボルツマン定数と温度と帯域幅で決まります」
遼は数式を書いた。
N = kTB
「kがボルツマン定数、Tが絶対温度、Bが帯域幅です。常温、つまり二十度くらいの環境で計算すると、熱雑音密度はマイナス百七十四dBm毎ヘルツになる」
田所が頷く。教科書通りの値だ。
「で、スマートフォンが基地局の信号をちゃんと受け取るには、この熱雑音より十分大きな信号が届いている必要があります。その比率をSN比と言う。現代のLTEや5Gでは、最低でも十dB以上は欲しい」
「それが確保できないときが、いわゆる圏外ですか」
専門外の一人が口を挟んだ。
「厳密には少し違いますが、そういうイメージで大体合ってます。信号が弱すぎて、ノイズに埋もれてしまう状態です」
遼はボードに図を描いた。基地局からスマートフォンへの経路と、途中で信号が減衰していく様子。
「信号は距離の二乗に反比例して弱くなります。これは電磁波の基本的な性質です。さらに建物や地形で反射・吸収される分が加わる。都市部だと、同じ場所にいても、建物の影に入るだけで十dB以上変わることがある」
「それをどうやって補うんですか」
「基地局を増やすか、アンテナの指向性を上げるか、受信側の処理を賢くするか、大きく分けてその三つです」
遼はそこで少し間を置いた。
「処理を賢くする、というのが最近一番進んでいる方向です。OFDMという変調方式を使っていて——」
「OFDMって何ですか」
専門外の一人が聞いた。
「複数の周波数を同時に使って、一本の太いパイプの代わりに細いパイプをたくさん束ねるイメージです。一本が干渉を受けても、他が補える」
「なるほど」
「そのOFDMの各サブキャリアの間隔が、LTEで十五キロヘルツに設定されています。これ、なぜ十五キロヘルツかというと、人が移動するときのドップラーシフトの最大値と、遅延波の広がりのバランスをとった結果です」
田所が少し前のめりになる。
「で、このサブキャリアとサブキャリアの間に、ガードインターバルという無信号の区間を設けます。長さはLTEで四・三マイクロ秒——」
遼はボードに数字を書いた。
CP長: 4.3 μs
「このガードインターバルの間に、遅延波が到着し終わる。だから混信しない。都市部の建物反射を考えると、電波の遅延は最大で一マイクロ秒から二マイクロ秒程度なので、四・三あれば十分に余裕がある」
田所が頷いている。
「改善の余地があるとしたら、ここです」
遼はボードの数字を指した。
「四・三マイクロ秒というのは、規格として決まった値ですが、実際の都市環境では一・五から二マイクロ秒あれば足りることが多い。このガードインターバルを動的に短くできれば、その分だけ実効的なデータ転送に使える時間が増える。5Gのサブフレーム構成だと、可変ガードインターバルを使うことで理論上十二パーセント程度の改善が見込めます」
「十二パーセント、というのは」
「スループット、つまり実効速度です。電波の強さは変わらないけど、使える時間が増えるので速くなる」
田所の顔に、少し考える色が出た。
「その十二パーセントって、どういう計算ですか」
「ガードインターバルがシンボル長の十四分の一に相当するLTE構成で、それを七分の一相当に削れたとして、のシンプルな計算です」
「ああ……」
計算が合うような合わないような。田所の顔がそう言っている。
遼は少し間を置いた。
「あ、すみません」
遼の声で、全員が顔を上げた。
「エイプリルフールなんで」
遼は少しだけ、口の端を上げた。
「さっき四・三マイクロ秒って言いましたけど、正確には四・六九マイクロ秒です。それと、熱雑音密度をマイナス百七十四って言いましたが、ボルツマン定数を一・三七一にして計算したやつなので、正確にはマイナス百七十三・九八です」
部屋が静かになった。
「……」
「……」
「……それ、どっちが嘘なんですか」
田所が言った。
「四・六九の方が本当です」
「じゃあ四・三が嘘?」
「はい」
「……四・三九マイクロ秒じゃないですか、正確には」
「四・六八七五です。四捨五入で四・七とも言います」
「……」
「ボルツマン定数は一・三八〇六四九かける十のマイナス二十三乗が正確な値です。一・三七一は嘘です」
「……その嘘、気づかないですよ」
田所の声が、少し低くなった。
「ですね」
遼は悪びれない。
「でも計算はほぼ合ってるので、十二パーセントの話は本当です」
「いや、そこが本当かどうかの方が問題なんですが」
「本当ですよ」
「……」
田所はしばらく遼を見た。それから隣の同僚を見た。同僚も、よくわからない顔をしている。
「柊さん」
「はい」
「エイプリルフールって、もっとわかりやすくやるものじゃないですか」
「そうですか」
「普通は嘘だってわかるようにしますよ」
「嘘だってわかったら、面白くないじゃないですか」
田所には返す言葉がなかった。
部屋の端で、一番若いエンジニアが小声で隣に聞いていた。
「……結局、何が嘘だったんですか」
「四・三マイクロ秒と、ボルツマン定数。でも計算は合ってる」
「どういうことですか」
「俺にもよくわからない」
勉強会が終わって、廊下に出た。
田所が遼の横に並んできた。
「柊さん、一個だけ聞いていいですか」
「はい」
「十二パーセントの計算、本当に合ってます?」
「合ってますよ」
「……確認していいですか」
「どうぞ」
スマートフォンを取り出して、田所が計算を始める。
遼はその横で、廊下の窓の外を見ている。品川の空。四月の午後。
しばらくして、田所が顔を上げた。
「……合ってますね」
「そうですよ」
「でも四・三マイクロ秒は嘘で」
「はい」
「ボルツマン定数も嘘で」
「はい」
「でも最終的な計算は合ってて」
「はい」
スマートフォンが仕舞われた。
「……エイプリルフールって、こんなに後味悪いものでしたっけ」
「来年もやります」
「やめてください」




