「柊遼、サーキットに行く」後編
サイン会は、サーキットのメインスタンド横の特設ブースで行われていた。
長い列ができている。凛と華が並んでいるファンに一人ずつ向き合って、写真を撮って、サインをして、笑顔を向けている。
その列の脇で、桜井詩織が担当スタッフにこっそり近づいた。
「あの、遼……柊遼がいなくなったんですけど」
「柊さんのご兄弟ですね。どちらに」
「それが分からなくて……ピットの方に入ったみたいで」
「ピット?」
「本人はとりこんでるって言ってるんですが、もう一時間くらい」
スタッフが困った顔をした。
「ピットに一般の方は……」
「一般じゃないかもしれないです、もう」
「え?」
「なんかよく分かんないです」と詩織が言った。本心だった。
凛が気づいたのは、サイン会のちょうど折り返しくらいだった。
列に並んでいるファンに笑顔を向けながら、視線の端に詩織が見えた。詩織が困った顔でスマホを見ている。
遼がいない。
凛はサインをしながら、詩織に目で「何?」と聞いた。詩織が「遼がいない」という顔をした。
「今?」
詩織が頷いた。
凛はファンに「ありがとうございます」と言いながら、内心で「あの子は」と思った。
隣の華も気づいていた。詩織の方を見て、目を丸くして、また笑顔に戻って、手元のサインを続けながら「遼?」と口だけで聞いた。詩織が頷いた。
「どこ」と華が口だけで言った。
「ピット」と詩織が口だけで言った。
「なんで」と華が口だけで言った。
「分かんない」と詩織が口だけで言った。
観客には、完璧な笑顔のサイン会が続いていた。
スマホが鳴った。
詩織が出た。遼だった。
「あ、遼! どこにいるの!」
「ピット」
「ピットって何してるの!」
「ちょっと手伝ってる」
「手伝ってるってどういうこと! レース始まるよ!!」
「知ってる」
「知ってるって! 帰れないの?」
「今は難しい」
「なんで」
「マシンのトラブルが出て」
「マシンのトラブルが出て、って関係ないでしょ!」
「俺が見つけたトラブルなので」
「見つけたの!?」
「インカム付けて観察してたら気づいて」
「インカムいつの間につけたの!」
「さっき渡された」
「渡されたの!?」
詩織は電話を持ったまましばらく固まった。
「遼、あなた今どういう立場でピットにいるの」
「詳しく言うと長くなる」
「長くなるって!」
「とりこんでるので」と遼が言って、電話が切れた。
詩織はスマホを持ったまま立っていた。
サイン会が終わった。
凛が詩織のところに来た。笑顔をオフにして、普通の顔になった。
「遼は」
「電話したら、インカムをつけてピットにいるって」
「インカム」
「マシンのトラブルを見つけたって」
凛が少し止まった。
「マシンのトラブル」
「詳しく聞いたら、長くなるって切られた」
華が反対側から来た。
「遼どこ」
「ピット」
「なんでピットにいるの」
「インカムをつけてマシンのトラブルを調べてるって」
華が「え?」という顔をした。
「なんで?」
「聞いたら長くなるって言われた」
「長くなるって何」
「私も分かんない」
三人でしばらく黙った。
遠くでエンジン音がした。スタート前の最終確認が始まっているらしい。
「とりあえず電話鳴らしてみる?」と凛が言った。
「さっきつながったけど途中で切れた」
「LINEは」
「とりこんでると返ってきた」
凛がため息をついた。ファンの前ではしない類のため息だった。
「あの子は本当に……」
「でも向こうが困ってたら仕方ないよね」と華が言った。
「そうだけど、こっちも困ってる」
「困ってるの私たちじゃなくて詩織ちゃんでしょ」
「詩織も私たちも困ってる」
詩織が「すみません」と言った。
「詩織が謝ることじゃない」と凛が言った。「遼が謝るべきことだけど、遼は謝らない」
「謝らないね」と華が言った。
「謝らないね」と詩織も言った。
三人でまた黙った。
レースが始まった。
観客スタンドが沸いた。エンジン音が重なって、その場の空気が変わった。
詩織は凛と華と並んで、関係者エリアのモニターの前に移動した。スクリーンにはレースの中継映像が映っている。
問題のマシンは、スタート直後に少し遅れた。
「あのマシン、さっきトラブルがあったって……」と詩織が言った。
「遼が見てたやつ?」
「たぶん」
三人でモニターを見た。
マシンが後方集団に埋まっていく。
「大丈夫かな」
「トラブルの原因は分かったって言ってたけど」
「分かっただけで直ったかどうかは……」
遼はモニターの前に座って、データを見ていた。
エンジン音は聞こえる。スタッフは動いている。でも遼の周りだけ、少し別の時間が流れている。集中が入ると、周りの音がどこか遠くなる。いつものことだ。
インカムから「現在7位、ペースは戻っています」という声が来る。
さっきのトラブルは、電子スロットルの制御ロジックが特定の条件下で誤作動するものだった。古いファームウェアの既知のバグで、設定値の組み合わせによってまれに出る。レース前の最終確認で出なかったのは、その条件がたまたま発生しなかったからだ。
設定を修正して、ピットウォールのエンジニアに伝えた。
「次のピットインで反映できますか」
「できます!」
「タイミングはそちらが判断してください。俺はデータしか見えてないので」
「分かりました!」
遼はモニターに戻った。
チームの誰かが「この人誰?」と小声で聞いていた。「凛と華さんの弟」と誰かが答えた。「なんでここにいるの」「さっきECUの問題も直してくれた」「え」「天才じゃないの」という会話が聞こえたが、遼は特に何も言わなかった。
データを見ていた方が楽しい。
レース中盤、マシンが動き始めた。
ペースが上がった。一台抜いた。また一台抜いた。
「ペース安定してます!」とエンジニアが言った。
「良かったです」と遼が言った。
「本当に助かりました」
「設定の話だったので」
「でも誰も気づかなかった」
「データ見れば分かりますよ」
「……あなた、本当に学生?」
「一応」
「どこに就職するんですか」とエンジニアが聞いた。
「……まあ、まだ決めてないですが、技術系の話が来てるので」
「スカウトしていいですか」
「今、別でお付き合いしてるとこがあるので」
「ちなみにどこですか」
「TechVisionです」
エンジニアが少し止まった。
「……TechVision」
「はい」
「……あそこと話してる学生が、なんでここに」
「姉たちのイベントがあったので」
「姉……柊さんたちの?」
「はい」
エンジニアがしばらく遼を見た。それから「まあいいや」という顔をした。レース中だった。
終盤、前のマシンが一台トラブルで止まった。
代わりに上がった。2位になった。
ゴール。
ピットが沸いた。
メカニックが抱き合っている。エンジニアが「やった!!」と声を上げた。ドライバーがマシンから降りてきて、チームスタッフと握手している。
遼はその輪の少し外に立っていた。
嬉しいかと言えば、まあ良かったな、という感じだ。データが安定して、ドライバーが頑張って、結果が出た。それは良いことだ。
「ありがとうございました!!」とエンジニアが遼に言った。
「いや、俺は設定変えただけで、走ったのは向こうですから」
「でも助かりました!」
「まあ、良かったです」
チームスタッフが何人か、遼に「ありがとう」「助かった」「すごかった」と言ってきた。遼は全部「いや、普通に気づいただけで」で返した。
「一緒に写真いいですか」
「……まあ」
写真を撮った。
そのタイミングで、スタッフの一人が「あ、あれ」と言った。
サーキットのオーロラビジョン。大きなスクリーンに、ピットの映像が映っている。
チームが喜んでいる映像。その中に、チームウェアを着ていない一人の人間が映っていた。
黒髪、Tシャツ、ジーンズ。インカムをつけたまま、スタッフと次々ハイタッチしている。
でかでかと、サーキット全体に。
関係者エリアのモニター前で、三人が同時に画面を見た。
「……あれ」と詩織が言った。
「あれ」と凛が言った。
「あれ!!」と華が言った。
大きなオーロラビジョンに、遼が映っている。
チームのスタッフに囲まれて、次々ハイタッチしている。インカムをつけたまま。Tシャツとジーンズのまま。
三人でしばらく沈黙。
「……なんで遼、ピットで胴上げされそうになってるの」と詩織が言った。
「さあ」と凛が言った。
「なんかやったんでしょ」と華が言った。
「なんかって何」
「遼にとっての「なんか」だから、多分普通じゃないことだけど、遼は普通だと思ってる」
「そうね」と凛が言った。
「電話する」と凛が言った。
スマホを出して、かけた。
五コール目で出た。
「もしもし」
「遼」
「ああ、凛か」
「今どこにいるの」
「ピット」
「なんでピットにいるの」
「色々あって」
「色々って何」
「……まあ」
凛の目が細くなった。ファンの前ではしない類の目だった。
「今すぐ来なさい」
「うん、行く」
「今すぐ」
「うん」
「今すぐって言ってるの」
「行く行く」
電話が切れた。
「来るって?」と詩織が聞いた。
「来るって言った」と凛が言った。
「来ないかもしれないけど」と華が言った。
「来る。ここまで言ったら来る」と凛が言った。
十分後、遼が来た。
チームの人間に何人かに見送られながら、関係者エリアの方に歩いてくる。
三人が待っていた。
遼が少し近づいてきて、三人の顔を見て「……怒ってる?」という顔をした。
「怒ってない」と凛が言った。「呆れてる」
「ごめん」
「ごめんって何が?」
「迷惑かけた」
「ことの経緯を説明しなさい」
遼は一から説明した。
フェンス越しに機材の問題に気づいたこと。声をかけたらピットに入れてもらえたこと。ECUの問題も気づいてしまったこと。インカムを渡されてそのまま座らされたこと。断ろうとしたが全員が必死な顔だったこと。トラブルを見つけてしまったこと。
「断れなかったの?」と詩織が聞いた。
「困ってたので」
「困ってたら入れないよ、普通」
「まあ」
「まあって何」
「直せるなら直すだろ」
三人がまた黙った。
「ま、遼らしいね」と華が言った。
「そうね」と凛が言った。
「遼らしいけど」と詩織が言った。「一時間以上どこにいるか分からなかったから、心配したよ」
「ごめん」
「ごめんって言える場合じゃないくらい心配したよ」
「……ごめん」
「遼が謝っても返しにくいんだよ! 悪意がないから!」
遼が「そうか……」という顔をした。
「そうかじゃない!!」
凛が「まあまあ」と言った。「遼、次からは一応連絡しなさい。今ピットにいますって」
「そうする」
「できる?」
「できます」
「信用できないけど」と華が言った。
「できると思う」と遼が言った。
そのとき、後ろから声がかかった。
「あの、失礼します」
振り返ると、スーツ姿の男性が二人立っていた。一人は六十代くらいで白髪、もう一人は五十代くらいで日焼けしている。どちらもスタッフ証を下げているが、クルーとは明らかに違う空気をしていた。
「柊凛さん、柊華さんですよね」
凛が笑顔を戻した。
「はい」
「突然失礼します。私、志賀モータースポーツのチーム代表をしております、志賀俊輔と申します。こちらはオーナーの黒木です」
「柊遼さんに、大変お世話になりまして」
二人が深々と頭を下げた。
凛と華が、ちらっと遼を見た。
遼は少し離れたところで「何の話ですか」という顔をしていた。
「今日のレースで、うちのチームのシステムトラブルを解決してくださって。正直、柊さんがいなければ2位はなかったと思います」
「チーフエンジニアとデータエンジニアが当日インフルで倒れまして、本当に手詰まりだったところに」
「……そうでしたか」と凛が言った。内心で「だから勝手にピットに入ってたのか」と思いながら、顔には出さなかった。
「弟が、ご迷惑をおかけしませんでしたか」
「とんでもない! 本当に助かりました!」
「それは良かったです」
華が遼を見た。遼は「普通に気になっただけだろ」という顔をしていた。
「あの……こういうご縁もなかなかないので」とチーム代表の志賀が続けた。「もしよろしければ、次戦の観戦にご招待させていただけませんか。きちんとした形で、来シーズンのPRも含めて、ぜひ凛さんと華さんにも関わっていただけたらと思っておりまして」
凛が少し考えた。
「詳しいお話は、事務所を通していただけますか」
「もちろんです。失礼しました、こちらが連絡先です」
名刺が二枚、凛の手に渡った。
「弟のことも、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。……あの、柊遼さんは、どちらにお勤めで?」
「フリーランスです」と遼が横から言った。
「そうですか……もし何か御縁がありましたら、ぜひうちとも」
「まあ、また機会があれば」
「ぜひ!!」
志賀代表が名刺を一枚、遼にも渡した。遼は「ありがとうございます」と言って受け取った。
二人が丁寧に頭を下げて去っていった。
四人でその背中を見送った。
「……遼」と凛が言った。
「うん」
「さらっと名刺もらってるけど」
「くれたので」
「志賀モータースポーツって、国内ワークスの中でもトップクラスのチームなんだけど」
「そうなんですか」
「そうなんです」
華が「遼ってなんか、すごいことをさらっとやるよね」と言った。
「普通に気づいただけだろ」
「普通じゃないんだよそれが!!」
凛が「まあまあ」と言いながら、名刺を見た。
インフルエンザで手薄になったワークスチームのシステムを、通りすがりの学生が直した。
結果、2位。
監督とオーナーが姉妹に挨拶にきた。
弟は「普通に気づいただけ」と言っている。
凛は「まあ、この子はこういう子だ」と思いながら、名刺をしまった。
四人で駐車場に向かって歩いている。
華が遼の横に並んだ。
「遼、ピットの人たちに何言われてたの」
「ありがとうとか、助かったとか」
「スカウトされた?」
遼が少し止まった。
「……一回言われた」
「やっぱり!!」
「断った」
「え、なんで」
「TechVisionがあるので」
「そっちはいいの」
「お試し期間みたいなものなので、まあ」
華が「お試し期間て」という顔をした。
「よく分かんないな、遼は」
「俺もよく分かんない」
「正直ね」
凛が後ろから「遼は昔からそう。機械以外のことはよく分かんないって言う」と言った。
「機械のことも、分かんないことはある」と遼が言った。
「今日は分かったでしょ」
「まあ、今日は分かりやすかった」
詩織が遼の隣に来た。
「楽しかった? 結果的に」
遼が少し考えた。
「……まあ、データ見てたのは面白かった」
「レーシングマシンのECUのデータって、そんなに面白いの」
「普通の機器じゃ見られないデータがあって」
「へえ」
「あとドライバーが頑張って2位になったのは、良かったと思う」
「良かったと思う、か」
「うん」
詩織は少し笑った。
「また来る?」
「……まあ、呼ばれたら」
「呼ばれないように帰ってきなよ次は」
「努力する」
「努力で足りるかな」
「多分」
「多分ね」
駐車場に着いた。
遠くでまだエンジン音がしている。どこかでパレードランでもやっているのかもしれない。
遼がその音を少し聞いていた。
面白かった、と今日を振り返れば思う。
でも詩織には言わなかった。
言ったら次も来ることになる気がして。




