第9話 『卒業前夜――手紙と、涙と、ほんの一瞬の抱擁』
三月。
校舎の廊下には、卒業式の準備が静かに進み、
黒板には「おめでとう」の文字が並びはじめていた。
卒業式――
それは“約束の日”。
神谷陽翔と水城梓が交わした、3年前のあの日の約束。
「卒業式の日に、迎えに行く」
そして、「その日まで、誰にも気づかれないように、恋をする」
……その期限が、今まさに終わろうとしていた。
•
3月1日、卒業式の前日。
校庭では、写真撮影の予行演習や進行確認が行われていた。
陽翔は教室の自席で、ひとり、手紙を綴っていた。
受験も終わり、すでに進学先も決まっている。
けれど、そんな未来の話より、今伝えたいことがあった。
「先生へ。
ずっと言えなかったけど、本当は何度も、何千回も伝えたかった。
好きです。先生の声も、目も、姿も、全部。
あの時、卒業式の裏で先生が“いいわ”って言ってくれたから、俺は3年間、前を向いて生きてこれました。
本当は、もっとそばにいたかった。手を繋いで歩きたかった。
でも、全部隠しながら、それでも先生の隣を目指して走れたことは、俺の誇りです。
明日、迎えに行きます。
だから、最後に――一度だけ、“生徒”じゃなく、“俺”として見てください。」
書き終えた手紙を、陽翔はそっと封筒に入れた。
宛名は書かない。だけど、彼女には必ず届く。
•
夕暮れの校舎裏。
最後に、ふたりがこの場所で会うのは、わかっていた。
梓は制服姿の陽翔を見つけると、微笑みながら近づいてきた。
その目は、どこか泣きそうで、でも凛としていた。
「……明日、卒業するのね」
「はい。……先生と過ごした3年間、全部、宝物です」
「……ありがとう。
私も、あなたの視線に支えられて、ここまで来られた」
陽翔は、迷わず手紙を取り出した。
「これ、先生に。……開けるのは、明日が終わったあとにしてください」
彼女はゆっくりと受け取り、胸に抱いた。
「……本当は、あの時、断るべきだったのよ。
3年間も、こんなふうに、感情を抑えて……苦しかったでしょ?」
「でも、苦しくても、幸せでした。
先生がいてくれたから。……誰にも言えなかったけど、心の中で、ずっと言ってました。“好き”って」
梓の瞳が揺れる。
そして、ふと腕を広げた。
「……卒業前だから、許されるわよね。
陽翔くん。――最後に、一度だけ」
陽翔は、その胸に飛び込んだ。
制服の肩越しに感じる、彼女の体温と震え。
教師という仮面を脱いだ、ただひとりの“水城梓”がそこにいた。
「ありがとう、陽翔くん。
……あなたがいてくれて、私、教師でいられた」
「……先生がいたから、俺は、俺でいられました」
抱擁は、10秒にも満たなかった。
けれど、それはふたりにとって
三年間のすべてを語るには充分すぎるほどの、深い温もりだった。
•
別れ際、ふたりは何も言わなかった。
ただ、手を離し、静かに歩き出した。
明日、卒業式のあの日。
すべてを“終わらせるため”ではなく――
“本当の始まり”のために。
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