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第8話 『最後の夏――君が水をかけた日』




八月。

蝉の声が降り注ぐ、焼けるような夏の日。


三年生にとっての最後の夏休み。

部活に、補習に、模試に――そして、誰にも言えない恋の記憶。


陽翔はその日、学校のプール清掃の手伝いに参加していた。

汗だくのTシャツに、半ズボン。

クラスの男子とふざけながら、ホースを手に水を撒いていた。


「おい神谷ー! そこちゃんと流せよ!」


「わかってるって!」


笑い合いながら、水をかけ合う生徒たち。

その光景は、普通の高校生らしい“青春のワンシーン”だった。


しかし、陽翔の視線はある一点に向いていた。


プールサイドの陰に、サングラスと帽子をかぶった女性教師の姿――水城梓。

今日は安全管理のために教師も交代で立ち会っているらしく、

彼女は“ただの監督者”として、日陰から様子を見ていた。


その姿を見た瞬間、陽翔の胸が不意にざわついた。


(先生……ずっと俺を見てる?)


彼はふとホースの水を、向こうの男子に向かってふざけて放った――

その瞬間、相手が思いっきり反撃してきた水しぶきが、思わぬ方向へ飛んだ。


「うわっ、先生の方行ったー!」


冷たい水が、梓の足元に跳ねていた。


生徒たちが「あーやべー!」「先生ごめんなさい!」と騒ぐ中、

梓はサングラスを外し、笑って言った。


「大丈夫よ。……私だって、夏を味わってみたかったのかもしれないわ」


その笑顔に、周囲は一瞬で和んだ。

けれど陽翔の胸には、他の誰とも違う“ある想い”が込み上げていた。


(俺だけが知ってる。

 先生の“本当の夏”は、こんな笑顔よりも、

 もっと、熱くて、切なくて、秘密に満ちてるって)


清掃が終わり、陽翔は片付けを終えてから

ひとり、人気のないシャワールーム横の裏通路へ回り込んだ。


そして、待っていた。


ほんの数分後。

梓が静かに歩いてくる。


「……来ると思ったわ」


「先生こそ」


ふたりは笑った。


さっきの水しぶきが嘘のように、そこにはもう“教師と生徒”の仮面はなかった。


「……水、かけちゃって、ごめんなさい」


「ふふ……いいのよ。

あなたが私に水をかけたなんて、たぶん一生、誰にも信じてもらえないわ」


「でも、たぶん――一生、忘れられないです。

今日、俺……先生と“青春”した気がしたから」


梓は目を細めた。


「……そうね。私もよ。

今日だけは、誰にも見られずに、少しだけ“普通”になれた気がする」


「……普通って、いいですよね。

先生と、笑って、水かけ合って、普通に好きだって言えて。

普通に、手、繋いで」


陽翔は、そう言ってゆっくりと手を差し出した。


梓は、ほんの一瞬だけ迷い、そして――

そっとその手を取った。


「……あと何回、こうして手を繋げるのかしらね」


「数えません。

数えたら終わりが見えちゃう。

俺は、最後の日まで“今日が最後”だと思わずに、先生に会いたいです」


その言葉に、梓は小さく肩を震わせた。

涙か、汗か、それは陽翔にも分からなかった。


けれど、ふたりは確かにそこにいた。

誰にも気づかれずに、夏の午後の陰で、そっと手を繋いでいた。


夏が終われば、受験が始まる。

進路、未来、そして――別れ。


それでも、この一日だけは忘れない。


「最後の夏、君が水をかけた日」

その記憶だけで、生きていけると思った。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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