第7話 『誰かに気づかれたかもしれない――不安と嫉妬と、それでも』
高校生活最後の一年が始まった。
春。新しいクラス、新しい担任、新しい時間割。
けれど陽翔にとって、すべては“ある人”がこの校舎に変わらず存在している――それだけで意味を持っていた。
水城梓。
英語教師であり、そして誰にも言えない“想い人”。
2年生の終わり、校舎裏で交わしたあの一度きりの口づけ。
それは夢か現実かも分からないほどに儚くて、けれど確かにふたりの関係は、もう“視線”だけでは済まなくなっていた。
•
4月のある放課後。
陽翔はいつものように、教室から図書室へ向かう途中――
クラスメイトの女子2人が、廊下でひそひそと話している声を耳にした。
「ねえ、知ってる?水城先生って、なんか……誰かのこと特別に見てるって噂になってるらしいよ」
「誰かって、誰?」
「わかんないけど、3年の誰かだって。毎回、視線が行ってるって気づいてる子がいて……」
陽翔の心臓が、鈍く打った。
(……まさか。バレてる?)
廊下を歩く足が止まる。
息が、詰まる。
(先生の表情は、そんなに出てた?
いや、俺が“見てしまってるだけ”じゃなかったのか)
その日、図書室に行くことはできなかった。
夕暮れの校舎裏にも、彼は姿を見せなかった。
•
翌日。
陽翔は授業中、意識的に先生を見ないようにした。
けれど、目線は自然と動いてしまう。
ふとした瞬間――彼女の方から視線が投げられてくる。
それに、陽翔はわずかに頷いた。
ほんの1秒もない、ふたりだけのサイン。
しかしその直後、陽翔は後ろの席の男子が
「今、水城先生と神谷、目合ってた?」と、小声でつぶやいたのを聞いてしまった。
(まずい……)
放課後。
陽翔はいつもより遅く校舎裏に向かった。
既にそこには、水城梓がいた。
春風の中、彼女は制服の袖を押さえ、何かに怯えたような表情をしていた。
「……先生、俺たち……誰かに、気づかれてるかもしれません」
そう告げると、梓はゆっくりと頷いた。
「わかってる。……ここ数日、職員室でもちょっと話題になってるの。
“目立つ行動は避けて”って、注意されたわ。……私が誰かに好意を持ってるんじゃないかって」
「……ごめんなさい。俺が、余計な視線を返したり、何度も放課後に同じ場所に行ったりしてたから……」
「違う。あなたが悪いんじゃない。
悪いのは、私……教師の立場で、感情を抑えきれなかった私の方よ」
沈黙。
ふたりの間に、風だけが通り過ぎていく。
「でも――それでも、俺はやめたくないです。
疑われても、誤解されても……先生のこと、やっぱり好きです」
梓はその言葉に、ぎゅっと唇を噛んだ。
「陽翔くん……。
もしもこのまま関係が知られたら、私は教師を辞めなきゃいけないかもしれないの。
あなたにとっても、取り返しのつかないことになる」
「……それでも、卒業までは、俺は先生を守ります。
誰にも触れさせない。誰にも、奪わせない」
陽翔の目は、覚悟に満ちていた。
それが、たとえ“ただの高校生”の言葉でも――
梓の心には、深く響いた。
「……あなたのそういうところ、本当にずるいのよ」
そう呟いて、彼女は陽翔の前に歩み寄った。
誰もいない校舎裏――
その小さな影の中で、ふたりはそっと手を繋いだ。
唇は重ねなかった。けれど、それ以上に熱い想いがそこにあった。
•
恋は、確かに秘密だった。
けれどその秘密は、もう“かくれんぼ”のような無邪気なものではなかった。
危うさと恐れと――それでも手放せないほどの想いが交錯していた。
ふたりはその日、何も言わずに別れた。
ただ、手を離すその瞬間まで、“次にまた会える”ことだけを信じていた。
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