第3話 『図書室の午後――ほんの少しの指先のぬくもり』
五月の風が心地よく吹き抜ける、放課後の図書室。
陽翔はその日、クラスの友人たちと別れ、一人静かに英語の辞書を開いていた。
ページをめくるたび、微かな紙の音が鳴る。
古びた窓の外には、新緑がちらちらと揺れていた。
彼の心の中には、それでも――
たったひとりの存在が、絶え間なく流れ続けていた。
水城梓。
何気ない授業、廊下ですれ違う一瞬、
誰にも気づかれずに交わされる視線。
それだけで、今日も“先生と恋をしてる”と実感できる日々。
そんな彼の耳に、カツン、と軽いヒールの音が届いた。
「……あら。神谷くん?」
柔らかな声とともに、図書室の奥から水城梓が現れた。
白いブラウスに薄いベージュのカーディガン。
髪を後ろでまとめ、手には指導要綱らしき書類と数冊の英語書籍。
「ひとりで勉強?」
「あ……はい。ちょっと、長文読解がまだ慣れなくて」
「いい心がけね。――隣、いいかしら?」
(うそだろ……)
心臓が、ドクン、と高鳴った。
先生と、放課後の図書室で、隣同士になる――
そんなこと、夢でも予想していなかった。
陽翔は無言で頷き、ほんの少しだけ椅子をずらしてスペースを空けた。
梓が座る。香水ではない、ほんのりとした石鹸の匂いが近くなった。
「この文法、分からないって言ってたの、ここのこと?」
「あ、そうです」
ふたりの手元に開かれた1冊の教科書。
同じページを見つめながら、梓が指をそっと伸ばした。
「この『would』は、“仮定法過去”の用法よ。もし~だったら、という想像ね。
たとえば……“If I were a student, I would fall in love with my teacher.”」
「……っ」
不意に言われたその英文に、陽翔の手が止まった。
見上げると、彼女はわずかに微笑んでいた。
「……例文としては、少しロマンチックすぎたかしら」
「……いえ。……すごく、勉強になります」
ふたりの手の甲が、教科書の上でふれた。
互いに動かさず、けれど、重ねることもしない。
けれどその距離が、胸の奥を焼くほど熱い。
数秒の沈黙のあと、梓がそっと手を引いた。
「誰か来る前に、戻ったほうがいいわね」
「……先生」
陽翔は小さな声で呼びかけた。
彼女が振り返る前に、ほんの一言を続ける。
「先生が、もし生徒だったら……俺は、その“仮定法”じゃなくて、本気で恋してたと思います」
梓は静かに、目を伏せて、言った。
「……だから、仮定法なのよ。神谷くん」
その声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
けれど、彼女の指先は確かに一瞬、彼の指をなぞった。
誰も見ていない、午後の図書室。
ふたりだけの、ぬくもりの記憶。
陽翔は心の奥で確信した。
この恋は、消せない。止まらない。
たとえ“先生と生徒”という関係に縛られても――
**
(絶対に、卒業式の日まで、守り通す。
誰にもバレずに、誰にも奪われずに。
俺は、先生と恋をしている――)
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