第7話 可愛い後輩の腕の中
最初に感じたのは、揺れだった。
一定の間隔で身体が上下している。それに合わせて、背中と膝の裏を支えている腕も僅かに動いていた。
「……ん……」
「あら」
頭の上から、柔らかな声が降ってくる。
「お目覚めになりましたか、ユーリ先輩」
重いまぶたを開く。
視界へ入ってきたのは、長い青髪と、おっとりとした垂れ目。そして、こちらを見下ろしながら嬉しそうに微笑んでいるセリアだった。
「……セリア?」
「はい。セリアですわ」
ぼんやりしていた頭が、少しずつ動き始める。
そうだ。
放課後。
リリアナの命令を受けたセリアに待ち伏せされた。
ダンが倒され。
ルウも倒され。
最後に俺まで捕まった。
そこまでは覚えている。
では。
今は。
背中にセリアの右腕。
膝裏には左腕。
足は地面についていない。
身体は完全に持ち上げられ、セリアの胸元へ寄せられている。
「……また、お姫様抱っこか」
「また、なのですか?」
「そこに興味を持つな!」
俺は反射的に身をよじった。
「下ろせ!」
「危ないですよ」
「僕を持ち上げてるのはお前だろ!」
「先ほど気を失われたばかりですもの」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
腕へ手をかける。
どうにか隙間を作って、地面へ降りようとする。
だが。
びくともしない。
俺が身体をひねっても、セリアの歩調すら変わらなかった。
「……本当に力が違いすぎる」
「何かおっしゃいました?」
「何でもない!」
悔しい。
これでも男子の中ではかなり鍛えている。
それなのに、セリアからすれば俺を抱えて歩く程度、荷物にもならないらしい。
「それより」
俺は周囲を見る。
学園へ向かう道。
「どこへ行く気だ?」
「リリアナ様の研究室です」
「やっぱりか!」
「リリアナ様は、ユーリ先輩がお越しになるのを楽しみにしておられますよ」
「僕は楽しみにしてない!」
「まあ」
セリアが少しだけ首を傾げる。
「照れていらっしゃるのですか?」
「拒否してるんだ!」
「ですが、リリアナ様はとても優秀な方です」
「知ってる!」
「魔法についても、たくさん教えていただけますよ」
「それも知ってる!」
「でしたら」
「本人の意思を無視して連れていくところが問題なんだ!」
俺はもう一度、セリアの腕を押した。
「離せ!」
「困りましたね」
「何が!」
「お目覚めになったら、また逃げようとなさるだろうとは思っていました」
「分かってたなら下ろせ!」
「ですから」
セリアは少しだけ考えた。
「逃げられないようにいたします」
「話が逆だ!」
背中を支えていた腕の位置が変わる。
「え?」
肩の近くへ。
それから身体を、自分の方へ引き寄せる。
「ちょっ」
視界へ青い髪が広がった。
次の瞬間。
俺の顔は、セリアの胸元へ深く埋まっていた。
「むぐっ!?」
「これなら落とす心配もありません」
「んーっ!」
柔らかい。
温かい。
そして、戦っていたときにも感じた甘い香りが、一気に濃くなる。
だが。
そんなことを気にしている場合ではない。
「んんっ!」
顔を横へ向けようとする。
動かない。
胸元と腕に挟まれ、まともに顔を動かせない。
「どうなさいました?」
「んーっ!」
「また逃げようとなさっているのですか?」
違う!
息がしにくい!
そう言いたい。
だが、口を開いても声にならない。
俺はセリアの肩を叩いた。
「んっ! んんっ!」
「大丈夫ですよ」
大丈夫じゃない!
「絶対に落としませんから」
問題はそこじゃない!
それどころか、暴れて逃げようとしていると勘違いしたらしく。
抱く腕へ、さらに少し力が加わった。
「んぐっ……!」
完全に駄目だ。
魔法。
風なら。
指先へ魔力を集めようとする。
だが呼吸が乱れ、術式を維持できない。
「……っ」
視界がぼんやりしてくる。
セリアの制服をつかんでいた指にも、だんだん力が入らなくなっていった。
「先輩?」
ようやく。
腕の中が急に静かになったことで、セリアも異変に気づいたらしい。
「あら?」
抱く力が少し緩む。
顔が外へ出た。
「ユーリ先輩?」
「……」
返事をする余裕はなかった。
空気を吸ったところで。
そこで意識が途切れた。
◇
「まあ……」
セリアは足を止めた。
腕の中。
さっきまで必死にもがいていた俺が、完全に力を抜いている。
「また気を失ってしまわれました」
頬へ指を当てる。
呼吸を確認する。
ちゃんと息はしている。
「やはり、先ほどの戦いでお疲れだったのでしょうか」
違う。
と。
意識があれば全力で突っ込んでいただろう。
だが。
今の俺にそれはできない。
セリアは少し心配そうに眉を下げると、今度は鼻と口を塞がないように位置を調整した。
それでも。
身体はしっかりと自分の胸元へ寄せたままだった。
「こうして眠っていらっしゃると、本当に大人しいのですね」
髪へ触れる。
指先で整える。
「先ほどまで、あれほど逃げようとなさっていましたのに」
返事はない。
「抵抗なさる先輩も可愛らしいですけれど」
セリアが微笑む。
「こうして私へ身体を預けてくださる先輩も、素敵ですわ」
歩き出す。
その足取りは。
先ほどよりも少しだけ。
ゆっくりだった。
◇
研究棟の最上階。
廊下の一番奥にある重い扉の前で、セリアが足を止めた。
両腕が塞がっているので。
足先で軽く扉を叩く。
「リリアナ様。セリアです」
すぐに。
内側から鍵の外れる音がした。
扉が開く。
「ご苦労さま、セリア」
リリアナが立っていた。
その視線が。
セリア。
そして。
腕の中で眠っている俺へ落ちる。
「……随分と静かですわね」
「はい」
セリアは少し誇らしそうだった。
「途中で一度お目覚めになりました」
「そうですの?」
「ですが、もう一度眠ってしまわれました」
リリアナが僅かに眉を上げる。
「もう一度?」
「はい」
「どうして?」
「お目覚めになったあと、また逃げようとなさいましたので」
セリアは俺を抱く腕へ、ほんの少し力を込める。
「落とさないよう、しっかり抱いておりましたら」
「……」
「急に大人しくなられて」
リリアナの笑顔が止まった。
「セリア」
「はい?」
「そのとき」
ゆっくりと。
俺の顔へ視線を落とす。
「この子の顔を、胸元へ押しつけていませんでした?」
「逃げられないように、少しだけ」
「……少しだけ?」
「はい」
「鼻と口は?」
「……」
セリアが瞬きをする。
「確認していませんでした」
数秒。
沈黙。
「セリア」
「はい」
「それ」
リリアナが額へ手を当てた。
「眠ったのではありませんわ」
「え?」
「息ができなくて、気を失ったのです」
「まあ」
セリアが目を丸くした。
そして。
腕の中の俺を見る。
「では」
「はい」
「私の胸の中で、気を失われたのですか?」
「そこを嬉しそうに言わないでくださいませ!」
珍しく。
リリアナが声を上げた。
「ご、ごめんなさい」
セリアは少しだけ肩を落とした。
「次からは、きちんと呼吸できるようにいたします」
「次を予定しないでくださいな!」
「ですが、また先輩が逃げようとなさったら」
「そのときは」
リリアナが俺へ手を伸ばす。
「わたくしが捕まえます」
「……」
セリアが。
半歩。
後ろへ下がった。
「?」
リリアナの手が止まる。
「セリア?」
「あ……」
下がった本人が、一番驚いたようだった。
「どうしました?」
「いえ……」
腕を見る。
俺を見る。
「その」
「渡してくださいませ」
「……」
「セリア」
「もう少しだけ」
「何ですって?」
セリアは少しだけ頬を赤くした。
「もう少しだけ、私がお運びしてもよろしいでしょうか」
「どこまでですの?」
「長椅子まで」
リリアナが横を見る。
長椅子。
三歩ほど先。
「三歩ですわよ」
「はい」
「自分で寝かせたいだけでは?」
「……はい」
正直だった。
リリアナの目が細くなる。
セリアは穏やかに微笑んでいる。
だが。
抱いている腕だけは。
俺を渡したくないとでもいうように、緩まなかった。
「……分かりました」
リリアナが道を空ける。
「長椅子までです」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい?」
「今度は呼吸できるようにしてくださいませ」
「はい」
セリアは嬉しそうに研究室へ入った。
一歩。
二歩。
三歩。
本来なら数秒で終わる距離を。
なぜか妙にゆっくりと歩く。
「セリア」
「はい」
「もっと普通に歩けませんの?」
「落としたら大変ですので」
「あなたがユーリを落とすとは思えませんわ」
「念のためです」
「……」
ようやく長椅子へ着いた。
セリアは腕の中の俺を。
壊れ物でも扱うように。
ゆっくりと。
長椅子へ横たえた。
「これでよろしいでしょう」
「はい」
リリアナが近づく。
その前に。
セリアは俺の頭を持ち上げた。
「では」
「何をしていますの?」
「膝へ」
「駄目です」
「……」
「セリア?」
「少しくらい」
「駄目ですわ」
「リリアナ様は昨日なさったのでしょう?」
「なぜ知っていますの?」
「ミナ様から」
「余計なことまで報告していますのね……」
セリアは自分の膝を見る。
次に。
俺。
そしてリリアナ。
「リリアナ様の膝なら、よろしいのですか?」
「当然ですわ」
「ずるいです」
「ずるい?」
リリアナの眉が動く。
セリア自身も。
言ってから。
僅かに驚いた顔をしていた。
だが。
取り消さなかった。
「……セリア」
「はい」
「あなた」
リリアナが俺とセリアを交互に見る。
「この子を連れてくるよう命じられただけですわよね?」
「はい」
「それなのに」
「はい」
「どうして、そんなに名残惜しそうなのです?」
「……」
セリアが答えない。
代わりに。
眠っている俺の髪へ。
指先で、そっと触れた。
「私にも」
少しだけ。
困ったように笑う。
「まだ、よく分かりませんわ」
戦う前。
俺は。
リリアナの命令で捕まえる相手だった。
戦って。
顔を赤くして。
香りが気になるなどと口走り。
最後まで必死に抵抗して。
気絶したあと。
腕の中へ収まった。
ただ、それだけ。
それなのに。
「……可愛いと」
セリアが小さく呟いた。
「思ってしまいました」
リリアナの表情が。
僅かに固まった。
「何ですって?」
「何でもありません」
「今、確かに」
「ユーリ先輩がお目覚めになる前に、お茶をご用意いたしますわ」
「話を逸らしましたわね?」
「リリアナ様もお召し上がりになりますか?」
「セリア」
「はい」
笑顔。
いつもの。
おっとりとした笑顔。
だが。
俺を見る目だけは。
この小道で出会ったときとは。
ほんの少しだけ。
変わっていた。
何も知らない俺は。
長椅子の上で静かな寝息を立てている。
目を覚ましたとき。
自分を捕まえに来たはずの後輩が。
いつの間にか。
依頼主へ渡すことすら惜しみ始めているなど。
この時点では。
知る由もなかった。




