第11話 青い後輩の私室
目を覚ましたとき、最初に感じたのは後頭部を包む柔らかな感触だった。その次に頬へさらりと触れる長い髪と、もう覚えてしまった花と石鹸を混ぜたような甘い香りが鼻をくすぐる。
「……また、膝の上か?」
「お目覚めになりましたか、ユーリ先輩」
すぐ頭上から柔らかな声が降ってきた。嫌な予感を覚えながら目を開いたところで、俺は思わず固まる。
最初に見えたのはセリアの顔ではなかった。制服に包まれた豊かな胸元が視界の大半を占め、その向こうに青い髪が僅かに見えるだけだった。
「……セリア」
「はい?」
「顔が見えない」
「あら?」
「膝の上から見上げると、その……胸で隠れてる」
言ってから後悔した。
セリアは自分の胸元を見下ろし、次に俺を見ると、少しだけ身体を前へ屈めた。
「これなら見えますか?」
「近い!」
今度は顔が近すぎた。柔らかな垂れ目と嬉しそうな微笑みが目の前にあり、青い髪が頬へ触れそうな距離まで下りてくる。
「もう少し離れろ!」
「ですが、離れるとお顔が見えなくなりますわ」
「ちょうどいい位置を探してくれ!」
勢いよく身体を起こして、そこでようやく周囲の景色が目に入った。
「……ここ、どこだ?」
「私のお部屋です」
「やっぱりか!」
長椅子から飛び起きる。
俺の周囲にあるのは、見覚えのあるリリアナの研究室ではない。白と淡い青を基調にした室内で、窓辺には小さな花瓶、本棚には剣術書や魔法書が几帳面に並べられ、その隣には青いリボンをつけた小さなぬいぐるみまで置かれている。
どう考えても女子寮の個室だった。
「リリアナの研究室へ連れていくって言ってただろ!」
「最初は、その予定でした」
「最初は?」
嫌な言葉だった。
セリアは長椅子へ座ったまま、少しだけ頬を染めて俺を見る。
「ですが、男子の先輩方二十人を倒してまでユーリ先輩をお迎えしたのです。そのまますぐリリアナ様へお渡しするのは、少々惜しい気がいたしまして」
「僕は戦利品じゃない!」
「では、お預かりしたということで」
「誰にも預けられてない!」
何事もなかったように言われて頭を抱えたくなる。しかもセリアは、なおも当然のように続けた。
「それに、先輩も少しお疲れでしたので、休んでいただこうかと」
「疲れさせたのはお前だ!」
「はい。ですから責任を持ってお世話いたします」
「その責任の取り方は前にも聞いた!」
何かがおかしい。昨日までのセリアなら、少なくとも表向きはリリアナの命令を遂行していた。それなのに今日は、俺を捕まえたあとで勝手に目的地を変更している。
「とにかく帰る」
「もう少しお休みになった方が」
「十分休んだ!」
立ち上がったところで、足元に落ちている青い布に気づいた。
「あ」
あの外套だ。留め具付きで、ルーチェの白い外套を見た翌日に、わざわざ俺専用として作ったものが机の横へ綺麗に畳まれている。
「これ、本当に一晩で作ったのか?」
「既製の外套へ留め具と固定用の術式を追加しただけですから」
「固定用の術式まで入ってるのか!?」
「簡単なものですよ。抱えている方の身体へ沿いやすくする程度です」
「僕を逃がさないためだろ!」
「落下防止ですわ」
「絶対に違う!」
俺は青い外套からそっと距離を取った。今後、あれは明確な警戒対象に入れておこう。
そんなことを考えながら扉へ向かおうとしたところで、机の上に妙なものが見えた。
「……待て」
「どうなさいました?」
菓子皿の隣に置かれた、青い縁取りの小さな写真立て。
俺はそこに収められている写真を見て、思わず手に取った。
「何だ、これ!」
青髪の少女が、小柄な男子をお姫様抱っこしている。男子の方は完全に意識を失い、頭を少女の胸元へ預けており、少女はそれはもう満足そうな笑顔を浮かべていた。
誰なのか考える必要すらない。俺とセリアだ。
「記念写真ですわ」
「いつ撮った!?」
「教室を出るときです」
「僕、気絶してただろ!」
「はい」
「許可を取れ!」
「眠っていらっしゃったので」
「だったら撮るな!」
写真を裏返そうとした瞬間、セリアが素早く奪い返す。
「あっ!」
「これは駄目です」
写真立てを胸元へ抱えながら、セリアは大切そうに微笑んだ。
「私の宝物ですから」
「今日撮ったばかりだろ!」
「宝物になるまでの時間に決まりはありませんわ」
「消せ!」
「嫌です」
「即答するな!」
頭が痛くなってきた。
二十人で迎撃して全滅し、青い外套へ包まれ、気づけば女子寮。さらに気絶している間の写真まで撮られている。男子二十人で守っていたときより、どう考えても状況が悪化していた。
「帰る」
「もう少し」
「帰る!」
俺は扉まで歩いて取っ手をつかみ、回した。
動かない。
「……セリア」
「はい?」
「鍵を開けろ」
「鍵はかけておりません」
「開かないぞ」
「魔法で封印しているだけですわ」
「もっと悪い!」
振り返ると、セリアは悪びれることなくいつもの柔らかな笑顔を浮かべていた。
「どうして閉じ込めるんだ!」
「ユーリ先輩がすぐに帰ろうとなさるからです」
「普通は帰る!」
「私のお部屋はお気に召しませんか?」
「そこじゃない!」
扉へ手を当てる。封印そのものは、リリアナの研究室ほど複雑ではない。これなら完全に壊さなくても、術式の接続部分を一瞬だけ外せば抜けられるかもしれない。
「風よ、《微風操作》!」
細い風を術式の隙間へ流し込むと、封印の光が僅かに揺れる。
「そこ……いける!」
その瞬間、腰へ腕が回った。
「やめてくださいませ」
「うわっ!」
身体が床から浮き上がる。
「また持ち上げるな!」
「先ほどの戦いで魔力をほとんど使い切っていらっしゃいます。無理に魔法を使えば、また倒れてしまいますよ」
「だったら倒れる前に扉を開けろ!」
両足をばたつかせても床へ届かない。背後からセリアの長い腕が腰へしっかり回っていて、身体をひねって押そうとしてもびくともしなかった。
それどころか、背中へ柔らかな感触が当たり、すぐ近くから甘い香りまで漂ってくる。
「……」
自分でも分かるくらい、腕へ込めていた力が僅かに弱くなった。
「ユーリ先輩」
「何だ」
「先ほどより、抵抗が弱くなっています」
「疲れただけだ!」
「本当に?」
「本当だ!」
セリアの声が少し楽しそうになる。
「でしたら、長椅子へ戻りましょう」
「戻らない!」
「では、このままでも」
「戻る! 長椅子へ戻るから一度下ろせ!」
「はい」
どうして俺が自分から長椅子へ戻る宣言をしているんだ。完全に負けた気がする。
セリアは俺を長椅子へ座らせると、その隣へぴったり腰を下ろした。
「近い!」
「逃げようとなさるので」
「閉じ込めるから逃げる!」
「では、逃げないと約束してくだされば、少し離れますわ」
「扉を開けてくれたらな」
「それでは逃げてしまいます」
「当たり前だ!」
しばらく睨み合う。
正確には、睨んでいるのは俺だけで、セリアは楽しそうに笑っていた。
ところが、その笑顔がふっと消える。
「……ユーリ先輩」
「何?」
セリアが僅かに目を伏せた。
「私のことが、お嫌いですか? 私と二人でいることが、それほどお嫌なのでしょうか」
「いや、その……」
困った。
強引に連れてこられたことには怒っている。外套で拘束されたことにも文句はあるし、扉を封印されていることは明確におかしい。
だが、目の前で普段の柔らかな笑顔を消し、不安そうに長い睫毛を伏せられ、僅かに唇まで結ばれてしまうと、強く責める言葉が出てこなかった。
「先輩?」
「その顔は卑怯だろ」
「え?」
「強く言えなくなる」
思わず正直に言ってしまった。
セリアがゆっくり顔を上げ、僅かに頬を染める。
「それは、可愛いと思ってくださっているということでしょうか?」
「自分で聞くな!」
「違いますの?」
「……違わないけど」
言った瞬間、セリアの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「切り替え早っ!」
「元気になりました」
「今の絶対、半分くらい狙ってただろ!」
「少しだけですわ」
「認めた!」
くすくす笑うセリアを見ながら、俺はますます頭を抱えたくなった。
「ですが、悲しかったのは本当ですよ」
「……嫌いじゃない」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、勝手に連行するのをやめて、扉を開けてくれれば、もっと好感度は上がる」
「それは難しいお願いですわね」
「一番簡単なお願いだよ!」
話していても駄目だ。扉が駄目なら窓から出るしかない。
俺は立ち上がり、今度こそ窓へ向かって走った。
「ユーリ先輩?」
「もう話しても帰してくれないなら、自力で帰る!」
「待ってください」
「待たない!」
一歩、二歩。あと少しというところで、突然腰へ柔らかいものが巻きついた。
「なっ、何だ!?」
見ると、セリアの脚だった。
長椅子へ座ったまま長い脚を俺の腰へ回し、両足首をしっかり絡ませている。
「捕まえました」
「脚で捕まえるな!」
「両手が空きますので便利ですわ」
「便利って言うな!」
前へ進もうとしても動けない。腕で長椅子を引き、少しだけ身体を前へ進めたところで、セリアが脚へ僅かに力を込めただけで一気に引き戻された。
「うわっ!」
「カニばさみですわ」
「技名を紹介するな!」
セリアは楽しそうに笑いながら、俺の腰へ巻きつけた脚へもう少し力を込めた。
「もがいても、もがいても逃げられませんよ」
「そんな嬉しそうに言うな!」
腰をひねって脚の間から抜けようとしても、力ではまるで話にならない。
しかも困ったことに、強いのに太ももの感触は妙に柔らかかった。
「……っ」
「ユーリ先輩?」
「何でもない!」
「どうして顔が赤いのです?」
「力を入れてるからだ!」
「太ももが気になりますか?」
「聞くな!」
「柔らかいでしょう?」
「自分で言うな!」
さらに顔が熱くなり、それを見たセリアはものすごく嬉しそうな顔をする。
「昨日より、先輩が何を考えていらっしゃるのか、少し分かるようになってきました」
「分からなくていい!」
もう一度前へ進もうと身体へ力を込める。ほんの一センチ、二センチと動いたところで、セリアが脚を引いた。
「うわっ!」
一気に長椅子まで戻され、最後には背中からセリアの腕へ抱き止められる。
「お帰りなさいませ」
「ここは僕の帰る場所じゃない!」
「そのうち、そう思っていただけるかもしれません」
「思わない!」
言葉だけは強かったが、背中から包み込んでいるセリアの腕を押し返す手は、さっきより明らかに弱くなっていた。
「ユーリ先輩」
「何だ」
「私の腕の中は、お嫌ですか?」
「その聞き方も卑怯だ」
「嫌なのです?」
「……嫌ではないけど、逃げられないのが問題なんだ!」
「では、半分はお気に召したのですね」
「都合よく解釈するな!」
セリアはしばらく俺を抱いたまま、嬉しそうに反応を眺めていたが、やがて脚をゆっくりと解いた。
「ようやく離したか」
「はい。もう逃げないと信じています」
「信じるな!」
自由になった瞬間、立ち上がる。
「やっぱり逃げるのですね」
「当たり前だ!」
今度こそ扉へ向かったが、セリアが先に立ち塞がった。
「退け!」
「嫌です」
右へ動けばセリアも右へ、左へ動けば同じように左へ動く。
「通せ!」
「通しません」
「何で嬉しそうなんだ!」
何度か繰り返すうちに、俺は少しずつ後ろへ追いやられていく。
そして。
「しまった」
背中が壁へ当たった。
「捕まえました」
セリアが一歩踏み込む。
ばんっ!
「っ!?」
顔の横、壁へ手がつかれた。
壁ドン。
しかも女子の力である。
「壁を壊す勢いで手をつくな!」
「加減いたしました」
「女子の加減は信用できない!」
セリアが少しだけ身を屈め、青い髪が垂れてくる。甘い香りが近づき、そのうえ勢いよく壁へ手をついた反動で胸元が大きく揺れた。
「……」
視線が勝手に落ちる。
すぐに逸らした。
「ユーリ先輩?」
「見てない!」
「まだ何も聞いておりません」
「今のは壁が揺れたから確認しただけだ!」
「壁ではなく、こちらを見ていらしたような」
セリアは自分の胸元へ視線を落とす。
「気のせいだ!」
頬が熱い。セリアまで少し頬を赤くした。
「昨日も、戦っている最中に見ていらっしゃいましたね」
「昨日はダンだ!」
「先ほどはユーリ先輩でした」
「不可抗力だ!」
「では」
セリアが少しだけ楽しそうに笑う。
「もう一度いたしましょうか?」
「するな!」
横へ逃げようとすると、反対側へもう片方の腕がつかれた。
これで右も左も塞がれた。後ろは壁、正面にはセリア。完全に囲まれている。
「これでは逃げられませんね」
「楽しそうに言うな!」
「先輩が私だけを見てくださいますから」
「逃げ道を探してるんだよ!」
「本当に、それだけでしょうか?」
青い瞳が目の前にある。
「近い!」
「嫌ですか?」
また少しだけ、悲しそうな顔をされる。
「……その顔は卑怯だって言っただろ」
「何のことでしょう?」
「分かってやってるだろ!」
「少しだけですわ」
「やっぱり!」
セリアはくすくす笑うと、ようやく壁から腕を離した。
「よし!」
その隙に横へ逃げようとした瞬間。
「うわっ!」
今度は両腕で抱き止められた。
「これなら壁を傷つけません」
「僕が逃げられないことは変わってない!」
「こちらの方が安全ですわ」
「僕の精神的には悪化してる!」
そのまま胸元へ抱き寄せられる。
「……っ」
柔らかな感触と甘い香り、それに青い髪。とにかく近い。
「収納するな!」
「収納ではありません。抱き締めているだけです」
「言い方の問題じゃない!」
「苦しいですか?」
「苦しくは……ないけど、近い!」
「では、少し緩めますね」
腕がほんの少しだけ緩む。それでも離れる気配はない。
「離せ」
「はい」
「返事だけじゃなくて!」
「ですが、先輩の抵抗が先ほどからどんどん弱くなっております」
そう言いながら、セリアは俺の髪へ頬を寄せた。
「疲れたんだよ!」
「本当に?」
「本当だ!」
「では、もっと強く抵抗してみてくださいませ」
「その言い方されると余計に力が入らない!」
「やはり」
耳元から嬉しそうな声が聞こえる。
「私に魅了されてしまったのですね」
「されてない!」
「お顔が真っ赤です」
「近いからだ!」
「はい」
セリアはとても幸せそうに笑った。
「そういうことにしておきます」
「絶対信じてないだろ!」
机の上には、あの写真が飾られている。お姫様抱っこされた俺と、笑顔のセリア。その横には青い外套。
どう見ても俺の逃走経路より、セリアの捕獲手段の方が増えていた。
「セリア」
「はい?」
「今日、ものすごく楽しそうだな」
「はい」
否定すらしなかった。
「私、今日はとても頑張りましたから」
「男子二十人倒したこと?」
「はい」
「褒めないぞ」
「大丈夫です」
「何が?」
「ご褒美は、もういただいておりますから」
抱く腕が少しだけ強くなる。
「……」
「ユーリ先輩が、ここにいてくださいます」
「それ、僕自身をご褒美にしてるだろ!」
「駄目ですか?」
「駄目だ!」
「残念です」
「残念そうにするな!」
それでも、セリアは俺を離さなかった。
そして俺の方も、最初に目を覚ましたときほど必死には抵抗できなくなっている。
昨日、ルーチェの白い外套の中では、安心して自分から出るのをやめた。今日、セリアの青い外套では、出たくても出られなかった。
そして今は外套すらないというのに、セリアの腕の中から逃げようとする力が、少しずつ弱くなっていた。
「ユーリ先輩」
「何?」
「やっぱり、可愛いですわ」
「可愛いって言うな!」
「嫌です」
「そこだけは絶対譲らないのか!」
「はい」
即答だった。
この日、俺は男子二十人に守られていたはずだった。
なのに二十人全員が倒され、青い外套へ包まれて女子寮へ運ばれ、目を覚ませば膝枕。勝手に記念写真まで飾られ、逃げようとすればカニばさみで捕まり、壁際へ追い込まれて壁ドンされ、最後には抱き締められたまま、まともに抵抗することすらできなくなっていた。
ただ、それ以上に問題だったのは、セリア自身がもう「リリアナの命令だから」という理由だけで俺を捕まえているわけではないということだった。
男子二十人を倒してでも俺を連れ出し、そのままリリアナへ渡さず自分の部屋へ連れてきた。俺が逃げれば捕まえ、抱き締めれば嬉しそうに笑い、ここにいることそのものをご褒美だと言う。
さすがの俺にも、その意味くらいは少しずつ分かり始めていた。
問題は。
「ユーリ先輩?」
「……何でもない」
「でしたら、もう少しこのままでいらっしゃいます?」
「扉を開けたら考える」
「では、このままですわね」
「交渉する気がないだろ!」
俺の抗議を聞きながら、セリアはますます嬉しそうに笑った。
どうやらこの部屋から脱出するより先に、俺の方がこの青い後輩へ慣らされてしまいそうだった。




