第12話 青き戦士の覚醒
セリアの私室で何度目かの脱出を諦めた頃には、窓の外はすっかり夕暮れの色へ変わっていた。
俺は長椅子の端に腰を下ろしていたが、その隣ではセリアが当然のように俺の腕へ自分の腕を絡めている。少し離れた机の上には、俺がお姫様抱っこされている記念写真と、例の留め具付きの青い外套まで丁寧に並べられていた。
「……そろそろ、本当にまずくないか?」
「何がでしょう?」
「リリアナへの報告だよ。お前、僕を捕まえてから一度も連絡してないんだろ?」
「はい」
「男子二十人を倒して僕を連行したうえ、命令した本人のところへ行かずに女子寮へ持ち帰ったんだぞ」
「持ち帰った、という表現は少々……」
「事実だろ!」
セリアは困ったように時計を見たものの、俺の腕を離そうとはしなかった。
「もう少しくらい、よろしいのではないでしょうか」
「よくない。僕としても、このまま女子寮にいる方がまずいんだ」
「私は構いませんよ?」
「僕が構うんだよ」
立ち上がろうとしたところで、絡められていた腕へ僅かに力が入った。俺が止まると、セリアは俺の肩へ少しだけ頬を寄せる。
「セリア、離して」
「……もう少し」
「さっきからそればっかりだな」
「リリアナ様のところへお連れしたら、ユーリ先輩を取られてしまいますので」
「取られるって、僕は物じゃないぞ」
「分かっております。ですが……嫌なのです」
いつもの柔らかな声だったが、その一言だけは妙にはっきりしていた。
俺が顔を向けると、セリアの青い瞳はこちらではなく、机の上に置かれた写真へ向いている。
「最初は、リリアナ様のお役に立てればと思っておりました。ユーリ先輩をお連れすれば、きっとお喜びになるだろうと」
「うん」
「ですが、実際に先輩とお話しして、戦って、抱いてお運びして……」
「最後の部分を嬉しそうに言うな」
「膝枕もいたしました」
「増やさなくていい」
「そうしているうちに、すぐリリアナ様へお渡しするのが惜しくなってしまいました」
ようやくこちらを向いたセリアは、自分でも扱いかねている感情を誤魔化すように小さく笑った。
「困りましたね」
「僕に言われても困る」
「そうですね」
少し考えたあと、ようやく腕が解かれた。
「分かりました。リリアナ様のところへ参りましょう」
「やっとか」
「ただし」
立ち上がったセリアが、今度は俺の手を握る。
「どうして手をつなぐんだ?」
「逃げないようにです」
「もう逃げない。僕から行こうって言っただろ」
「先輩は隙があればすぐ逃げますから」
「誰のせいだと思ってるんだ」
結局、研究棟へ向かう間も手を離してはもらえなかった。
◇
研究棟の最上階にあるリリアナの研究室へ入った瞬間、俺にも分かるほど室内の空気が重かった。
「随分と遅かったですわね、セリア」
窓際の椅子に腰掛けたリリアナは、いつものように優雅に紅茶を飲んでいた。表情も笑顔のままだったが、目だけがまったく笑っていない。
「申し訳ありません、リリアナ様」
セリアは礼儀正しく頭を下げた。それでも、俺の手だけは握ったままだ。
「男子生徒が二十人もいらっしゃいましたので、少々時間がかかりました」
「二十人全員を一人で倒したそうですわね」
「はい」
「その後、ユーリを研究室へ連れてくることなく、自分の部屋へ連れ込んだとも聞きました」
「……もう知られてたのか」
思わず呟くと、リリアナの冷たい視線がこちらへ向いた。
「女子寮へ男子をお姫様抱っこして入れば、目立たない方がおかしいでしょう?」
「セリア!」
「青い外套で包んでおりましたので、大丈夫かと」
「全然大丈夫じゃなかった!」
「その外套についても聞いておりますわ。ルーチェの外套を参考に、一晩でユーリ専用の連行道具を作ったそうですわね」
「救助用です」
「留め具を閉じて本人が出られなくなる救助用品が、どこの世界にありますの?」
「そこは僕も同意する」
珍しく俺とリリアナの意見が一致した。セリアは少しだけ頬を膨らませる。
「落下防止ですわ」
「その話もあとで詳しく聞きます。ですが、まずは……セリア」
「はい」
「ユーリをこちらへ」
リリアナが手を差し出す。
当然、セリアは俺を引き渡すのだと思った。そもそも彼女が俺を捕まえに来たのは、リリアナの命令だったのだから。
だが、セリアは動かなかった。
「セリア?」
「聞こえております」
「でしたら、離しなさい」
俺の手を握る力が、ほんの僅かに強くなる。
「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何ですの?」
「リリアナ様は、ユーリ先輩をどう思っていらっしゃるのですか?」
「僕の目の前でする話か、それ」
しかし二人とも俺を無視した。
リリアナは少し考え、椅子の背へゆったり身体を預ける。
「興味深い方だとは思っていますわ。男子でありながら中級魔法を実戦速度で使い、魔法そのものの出力は低くとも、使い方は妙に独創的。研究対象としては非常に面白いです」
「興味、ですか」
「それに、ルーチェがあれほど特別扱いしている男子ですもの」
リリアナの口元へ薄い笑みが浮かぶ。
「ルーチェが大切にしているものを奪えば、あの方がどのような顔をするのか。少し見てみたいと思いません?」
「思わないよ!」
俺が即座に返す。
「つまり、僕そのものよりルーチェから奪いたいってことか?」
「現時点では、その意味も大きいですわね。手元へ置いてみれば、もっと価値が見つかるかもしれませんけれど」
「僕は魔道具じゃない!」
「それでは、あまりにも……」
セリアの声が静かに割り込んだ。
「ユーリ先輩を、物のように扱っているではありませんか」
リリアナの笑顔が消える。
「セリア?」
「先輩は、ルーチェ先輩へ嫌がらせをするための賞品ではありません」
「嫌がってる僕を気絶させて連行したお前が言うのか?」
「それについては……申し訳ありません」
「謝るんだ……」
少し驚いた。
セリアは俺へ小さく頭を下げたあと、改めてリリアナと向き合う。
「ですが、私はもうリリアナ様のためだけにユーリ先輩をお連れしているわけではありません」
「でしたら、何のためですの?」
「それは……」
一瞬だけ言葉に詰まったセリアは、握っていた俺の手を今度は両手で包み込んだ。
「私自身が、ユーリ先輩を可愛いと思うようになったからです」
「そこで可愛いって言うのか!」
「抱き締めたいと思いました」
「勝手に増やすな!」
「ほかの方へ渡したくないとも思っています」
頬を赤くしながら、それでもセリアは言葉を止めなかった。
「これが恋なのかどうかは、まだ私にも分かりません。ですが、リリアナ様がルーチェ先輩へ嫌な思いをさせるためだけにユーリ先輩を求めるのでしたら……私は、先輩をお渡しできません」
研究室が静まり返った。
リリアナはしばらく無言でセリアを見つめていたが、やがてゆっくり立ち上がった。
「わたくしへ逆らうのですか?」
「……はい」
「あなたが?」
「申し訳ありません」
「謝りながら逆らわれると、余計に腹が立ちますわね」
リリアナの周囲へ、小さな魔法陣が次々と浮かび上がる。火、水、風、土。異なる属性の魔力が同時に組み上げられていく様子を見て、俺にも嫌な予感がした。
「最後にもう一度だけ命じます。ユーリを渡しなさい、セリア」
セリアも静かに腰の細剣を抜いた。
「お断りいたします」
「ちょっと待て!」
俺は慌てて二人を見比べた。
「どうして僕を巡って戦闘になるんだ!」
「先輩は下がっていてくださいませ」
セリアの片手が俺の胸元へ触れ、そのまま軽く押す。本人にとっては本当に軽く押しただけなのだろうが、俺は三歩も後ろへ下がらされた。
「お前たちが戦わなければ危なくないんだよ!」
「それはできませんわ」
答えたのはリリアナだった。
指を鳴らした瞬間、圧縮された空気の塊がセリアへ叩きつけられる。
「《風槌》」
セリアは細剣を斜めに振り、迫る風圧を左右へ逸らした。だが、その防御を見越していたかのように床から石の鎖が伸び、彼女の足首へ絡みつこうとする。
「《地縛鎖》」
「っ!」
セリアは床を蹴って鎖をかわすと、その勢いのままリリアナへ肉薄した。鋭い突きが胸元を狙うが、その刃先が届く前に三重の魔法障壁が展開される。
一枚目は一撃で貫いた。二枚目にも大きな亀裂が走ったが、三枚目で細剣の勢いが完全に止まる。
「速いですわね。ですが、まだ届きません」
リリアナの掌が至近距離から突き出され、水の塊が爆発する。
「くっ!」
セリアの身体が大きく吹き飛んだ。
「セリア!」
「平気です!」
机へ激突する寸前で身をひねり、足から着地すると、すぐさま再び間合いを詰める。その速度は男子二十人を相手にしたときとは比べものにならない。あのときのセリアは、俺たちを傷つけないために相当な手加減をしていたのだと改めて思い知らされた。
突きから斬り上げ、横薙ぎへつなぎ、さらに長い脚による蹴りまで織り交ぜる。俺たちなら最初の一撃すら避けられそうにない連撃だった。
だが、リリアナはすべてを受けきった。
剣には障壁を合わせ、蹴りには風で軌道をずらし、距離が開いた瞬間には即座に炎や氷を撃ち返す。一つの魔法へ対処している間に、次の術式がもう完成している。
「セリア。あなたは確かに優秀です。一年生で〈魔法戦士〉へ到達したことも、男子二十人を一人で制圧したことも、すべて認めています」
セリアが炎を細剣で切り払った直後、その死角から氷の槍が伸びる。
「!」
避けきれなかった一本が肩を掠め、制服を浅く裂いた。
「ですが、わたくしとあなたでは、積み重ねてきたものが違いますわ」
続けて放たれた光の縄がセリアの片腕へ巻きつく。
「《光縛》!」
「くっ……!」
もう一本が脚へ絡み、動きが止まった。
リリアナが腕を引くと、拘束されたセリアの身体が床へ叩きつけられ、細剣が手を離れて滑っていく。
「セリア!」
「今のあなたと、わたくしでは経験も、魔力も、修めてきた職も違います。勝負はつきましたわ」
「……まだです」
セリアは床へ手をつき、どうにか起き上がろうとする。だが、上級職であるリリアナの拘束は簡単には破れない。
「先輩を……渡しません」
「その程度の感情だけで、力の差が覆るとでも?」
リリアナはそう言い残し、セリアへ背を向けた。
次に向かった視線の先には、俺がいる。
「来なさい、ユーリ」
「行くわけないだろ」
「あなたの意思は、あとでゆっくり確認いたします」
「最初から聞く気ないじゃないか!」
リリアナがこちらへ歩いてくる。
俺は指先へ風を集めた。教室で魔力をほとんど使ってしまったため、まだ完全には回復していない。それでも、何もしないまま捕まるつもりはない。
「《風弾》!」
小さな風の弾を撃つ。
リリアナは振り向きもせず、片手を払っただけで消してしまった。
「無理をなさらないで」
「無理をさせてるのはそっちだ!」
次の魔法を考えながら後退する。
そのとき、踵が先ほどの戦闘で倒れた棚へぶつかった。
「うわっ」
体勢が崩れる。
同時にリリアナが、俺の手から魔法を弾くために弱い風を放った。
本来なら、それだけで終わるはずだった。
だが、俺が転んだことで風の軌道がずれ、横に置かれていたガラス製の実験器具を直撃した。
甲高い音とともにガラスが砕ける。
「え?」
無数の破片が飛び散った。
「ユーリ先輩!」
腕と脇腹に熱い感触が走り、制服が裂ける。
「っ……!」
「ユーリ!」
床へ膝をつく。
深い傷ではない。少なくとも、すぐ生命に関わるようなものではないと思う。
それでも腕と脇腹から流れた血が、床へ赤い染みを作った。
「ユーリ先輩!」
セリアの声が響いた。
今まで一度も聞いたことのない声だった。
「待ちなさい、ユーリ。すぐに治癒を――」
リリアナが近づこうとする。
「触らないでください」
低い声に、リリアナの足が止まった。
「……セリア?」
「ユーリ先輩へ、触らないでください」
床へ拘束されたままのセリアから、黒い魔力がゆっくり立ち上っていた。
最初は、ただの闇魔法だと思った。
セリアは〈魔法戦士〉だ。水魔法を中心に、闇や回復も扱える。
だが、これは違う。
身体から溢れ出す魔力の量も、その質も、今までのセリアとはまるで違っていた。
「先輩を……傷つけないでください」
光の拘束へ黒い亀裂が走る。
一つ。
さらに一つ。
そして次の瞬間には、上級職であるリリアナが作った光の縄が音を立てて砕け散った。
「なっ……!」
リリアナが初めて大きく目を見開く。
セリアが立ち上がった。
「……何だ、これ」
俺も傷を押さえながら、その姿を見つめていた。
鮮やかな青だった長い髪が、徐々に深い色へ沈んでいく。青から群青へ、そして黒とも青とも呼びきれない、月明かりのない夜空を思わせる色へ変わっていった。
「セリア……」
「ユーリ先輩から、離れてくださいませ」
足元から影が広がり、制服の表面へ集まった闇が薄い鎧のような形を取る。床へ転がっていた細剣にも黒い魔力が流れ込み、銀色だった刀身が夜色へ染まった。
「これは……」
リリアナは反射的に杖を向ける。
「《雷槍》!」
鋭い雷撃がセリアへ走った。
「セリア!」
しかし雷が届く直前、セリアの周囲へ黒い膜のようなものが広がった。
激しい音を立てて雷がぶつかる。
「……?」
消えたわけではない。
だが、黒い膜を抜けた雷撃は明らかに勢いを失い、セリアの肩へ届いた頃には威力の大半を削られていた。
セリアは僅かに身体を揺らしただけで踏みとどまる。
「今のは……」
リリアナがすぐに別の術式を完成させた。
「《炎槍》!」
炎の槍が飛ぶ。
再び黒い膜へ触れた途端、燃え盛っていた炎が目に見えて萎んだ。
「わたくしの魔法が……弱くなっている?」
セリア自身は、あの黒い障壁を意識して作っているようには見えなかった。ただ彼女へ向けて魔法が飛んでくるたび、夜色の魔力が自動的に広がっている。
「ユーリ先輩から離れてくださいませ!」
セリアが床を蹴った。
「っ!」
先ほどまでとは、さらに速さが違う。
リリアナは反射的に三重の障壁を展開した。
一枚目は黒い剣が一撃で砕く。二枚目にも大きな亀裂が走り、三枚目でようやく剣が止まった。
「くっ……!」
それでも、リリアナの身体は一歩後退していた。
ほんの少し前までは、セリアがどれだけ攻めてもその一歩を動かすことさえできなかったのに。
「《氷槍・六連》!」
六本の氷槍が異なる角度から放たれる。
セリアの周囲へ夜色の障壁が大きく広がり、最初の二本は速度を奪われて砕けた。三本目は障壁を突破したものの闇の鎧に弾かれ、四本目が肩を掠める。五本目を剣で砕き、最後の一本だけが頬へ浅い傷を残した。
それでもセリアは止まらない。
「どういうことですの……!」
初めて、リリアナの声から明確な余裕が消えた。
多属性の魔法を同時に操り、相手が一つへ対応している間に次の攻撃を重ねる。それが〈賢者〉リリアナの強さだ。
しかし、セリアの周囲に生まれた黒い障壁は、その魔法一つ一つの威力を削り取っている。
完全に無効化しているわけではない。
突破もできる。
けれど、魔法を最大の武器とするリリアナにとっては、あまりにも戦いにくい能力だった。
「まさか……」
リリアナがセリアを見つめた。
身体能力が上がっただけではない。
魔力量が増えただけでもない。
さっきまで存在しなかった性質そのものが、突然セリアへ加わっている。
そして、リリアナ自身にも覚えがあったのだろう。
自分が〈賢者〉へ至ったとき。
存在そのものが別の段階へ移ったような、あの感覚を。
「まさか……上級職?」
セリアは夜色の剣を構えたまま、首を横へ振った。
「知りませんわ。今の私が何なのかなど、どうでもよろしいです」
その視線は真っすぐリリアナへ向いている。
「ユーリ先輩を傷つけたことを、謝ってくださいませ」
「仮に今、上級職へ至ったとしても!」
リリアナの周囲へ、一つ、二つと魔法陣が増えていく。炎、水、風、雷、光、闇。あっという間に八つの術式が同時展開された。
「覚醒したばかりの力で、わたくしへ勝てると思わないことですわ!」
複数の魔法が一斉に放たれる。
黒い障壁が広がり、迫る魔法の威力を次々と削る。しかし今度は数が多すぎた。
雷撃が障壁を突破してセリアを打ち、炎が闇の膜を押し広げる。その間にもセリアは前へ進み、黒い剣でリリアナの障壁を砕く。続く氷が肩を掠めても、剣は止まらない。
さっきまでとは完全に違った。
リリアナが一方的に押していた戦いではない。
しかし、セリアが一方的に押しているわけでもない。
セリアには魔法を弱める新しい力があり、それが〈賢者〉のリリアナへ強烈に刺さっている。一方で、セリアは覚醒したばかりで、自分の力が何なのかさえ理解していない。
リリアナには経験がある。
膨大な魔法知識がある。
どちらも決め手を欠いたまま、黒い障壁と炎、雷、氷、そして剣が研究室の中で激しくぶつかり続ける。
「二人とも、やめろ!」
俺は傷口を押さえながら立ち上がろうとした。
「ユーリ先輩!」
セリアが振り返る。
その視線が、床へ落ちた新しい血へ止まった。
「また……血が……」
夜色の魔力が一気に膨れ上がる。
「セリア!」
「先輩から……」
「もういい!」
俺が叫ぶと、セリアの動きが止まった。
「……え?」
「もう大丈夫だから!」
「ですが……」
「大丈夫だ!」
それでもセリアの剣には大量の魔力が集まり、反対側ではリリアナも巨大な魔法陣を展開している。
次の一撃がぶつかれば、研究室そのものが無事では済まない。
「待て!」
そう叫んだ瞬間だった。
研究室の扉を覆っていた封印へ白い光が走り、複雑な術式が一気にほどけていく。
「そこまでです!」
扉が開いた。
「ルーチェ!」
銀色の長い髪を揺らして研究室へ踏み込んできたルーチェが、最初に見たものはリリアナでも、夜色の髪へ変わったセリアでもなかった。
「ユーリ!」
俺だった。
一瞬で目の前まで来ると膝をつき、傷口へ手を伸ばす。
「傷を見せてください」
「でもセリアが……」
「あなたも怪我人です」
治癒の光が腕と脇腹を包み、熱と痛みが急速に引いていく。
そのままルーチェは顔を上げず、冷たい声で言った。
「リリアナ。これは何ですか?」
「事故ですわ」
「事故で、ユーリがこれだけ血を流しているの?」
「その件については――」
「ルーチェ先輩」
セリアの声が割り込んだ。
黒い剣はまだ下ろされていない。
「ユーリ先輩から離れてくださいませ」
「セリア?」
「先輩は私が――」
「今、私はユーリを治療しています」
ルーチェの落ち着いた声に、セリアの言葉が止まった。
彼女の視線が、ルーチェの手元へ向く。
攻撃しているのではない。
俺を奪おうとしているわけでもない。
ただ傷を治している。
「セリア」
俺も呼びかけた。
「……はい」
「もう大丈夫だ」
「ですが……」
「ルーチェがいる。だから、もういい」
しばらく、夜色に染まった瞳が揺れていた。
やがて。
「……はい」
セリアが剣を下ろす。
それを合図にしたように、周囲を覆っていた黒い障壁が薄れていった。身体へまとわりついていた闇の鎧も煙のように消え、夜色へ変わっていた長い髪へ少しずつ本来の鮮やかな青が戻ってくる。
「セリア……?」
最後の闇が消えた瞬間だった。
「っ……」
セリアの身体が大きく傾く。
「危ない!」
ルーチェが片腕を伸ばし、その身体を受け止めた。
「無茶をしすぎです」
「私は……まだ……」
「立ててもいません」
それでもセリアは、俺へ手を伸ばそうとする。
「ユーリ先輩を……」
「一緒に連れていきます」
「え?」
「治療室へです」
ルーチェは即答した。
「ユーリだけではありません。あなたもです、セリア」
「ですが……」
「今の状態で異論は認めません」
「……はい」
俺も自分で歩こうとした。
一歩目で膝から力が抜けた。
「うわっ」
「だから言ったでしょう」
次の瞬間には、ルーチェの腕が背中と膝裏へ回っていた。
「待て! 歩ける!」
「今、倒れました」
「ちょっと力が抜けただけだ!」
「それを歩けないと言います」
「またお姫様抱っこか!」
少し離れたところでは、セリアもふらつきながらこちらへ手を伸ばしている。
「私がお運びしますわ……」
「お前は自分で歩くことに集中しろ!」
「ですが……」
「二人とも治療室へ行きます」
ルーチェがきっぱりと言い切った。
セリアは露骨に不満そうだったが、今は立っているだけでも精一杯らしい。
「……分かりました」
こうして俺はルーチェの腕に抱えられ、セリアは駆けつけた治療係に肩を貸され、二人揃って研究室を後にすることになった。
それでも、俺の頭から先ほど見た光景が離れなかった。
夜のような色へ変わったセリアの髪。身体を包んだ黒い鎧。そして、あのリリアナの魔法を次々と弱めた奇妙な障壁。
男子二十人を一人で倒した〈魔法戦士〉のセリアが、そのさらに先にある何かへ変わった。
リリアナは「上級職」と口にした。
だが、この時点ではまだ、それ以上のことは誰にも分からない。
あの夜色の力が何なのか。
セリアが何へ変わったのか。
その答えを知るのは、これからだった。




