第9話 選ばれなかった賢者と、聖女のお迎え
「私の膝を選んでくださった……」
セリアはさっきから、同じことを何度も繰り返していた。
俺はその膝の上へ頭を乗せられたまま、深いため息をつく。
「だから、膝枕を選んだだけだって」
「はい」
「僕がお前を選んだみたいな言い方をするな」
「ですが、二つの選択肢から私を選んでくださいました」
「その選択肢自体がおかしいんだよ!」
頭上でセリアが楽しそうに笑う。
その横では、リリアナが無言のまま長椅子の肘掛けを指先で叩いていた。
「セリア」
「はい、リリアナ様」
「そろそろ交代してくださいませ」
「まだユーリ先輩は休んでいらっしゃいます」
「わたくしの膝でも休めますわ」
「ですが、先輩がお選びになったのは私です」
リリアナの指が止まった。
「一度の選択です」
「一度でも選んでいただいたことに変わりはありません」
「状況に流されただけでしょう」
「それでも嬉しいです」
穏やかな口調なのに、二人の間だけ空気が妙に重い。
「自分たちで選ばせておいて、結果に文句を言うなよ」
「文句ではありませんわ」
リリアナが即答した。
「じゃあ何だよ」
「再選を要求しているだけです」
「選挙じゃないんだぞ!」
リリアナが立ち上がり、俺へ手を伸ばした。
「十分休みました。こちらへいらっしゃい」
「嫌だ」
「即答ですの?」
「そっちへ行ったら、また逃げられなくなる」
「今も逃げられないでしょう?」
「だからこれ以上悪化させたくないんだ!」
俺は身体を起こした。
今度は眩暈もない。
「もう大丈夫だ」
「先輩?」
「帰る」
セリアの膝から離れ、そのまま扉へ走る。
「風よ!」
「また逃げるおつもりですか?」
背後からリリアナの声。
指先へ集まりかけた風が、一瞬で崩れた。
「それ反則だろ!」
「〈賢者〉が対抗術式を使って、何が反則なのです?」
「男子一人が鍵を開けようとしてるだけだぞ!」
「逃がすよりましですわ」
扉が駄目なら窓。
俺は進路を変えた。
封印そのものを破る必要はない。
留め具だけなら。
「《微風操作》!」
細い風を窓枠へ送り込む。
金具が僅かに動く。
もう少し。
かちり。
「開いた!」
窓を押し上げる。
ここは最上階だが、風魔法で落下速度を抑えれば、隣の窓や下の庇へ移れる。
「これなら――」
「危ないですよ」
「え?」
腰へ腕が回った。
「うわっ!」
身体が浮く。
「また持ち上げるな!」
セリアだった。
「ここは最上階ですわ」
「分かってる!」
「窓から逃げようとなさるなんて危険です」
「飛び降りるんじゃない! 風で隣へ移るんだ!」
「失敗したら大変です」
「成功するように考えてた!」
俺を窓から引き離し、そのまま背中と膝裏へ腕を回す。
またお姫様抱っこだ。
「どうして毎回この抱き方なんだよ!」
「先輩を一番安全に運べますので」
「僕の精神的な安全も考えてくれ!」
セリアが長椅子へ戻ろうとする。
その前へ、リリアナが立った。
「セリア。今度こそ、わたくしへ渡しなさい」
「ですが、窓から逃げようとなさった先輩を捕まえたのは私です」
「ここはわたくしの研究室です」
「ユーリ先輩は研究室の備品ではありません」
「それをあなたが言いますの?」
「そうだ! 僕は備品じゃない! だからまず下ろせ!」
「落ち着かれるまで駄目です」
「十分落ち着いてる!」
「窓から脱出しようとなさった直後ですわ」
「閉じ込められてる人間なら正常な反応だ!」
リリアナとセリアが、俺を挟んだまま見つめ合う。
少し前まで、セリアはリリアナの命令で俺を捕まえに来たはずだった。
それなのに今は、俺を渡そうとしない。
「セリア」
「はい」
「わたくしがユーリを連れてくるよう命じたのです」
「はい。ですから、お連れしました」
「でしたら役目は終わっています」
「ですが」
セリアが俺を少しだけ胸元へ引き寄せる。
「先輩は私の膝を選んでくださいました」
「またその話ですの!?」
「とても大切なことです」
「大切じゃない!」
俺の抗議は完全に無視された。
「ユーリを渡してくださいませ」
「もう少しだけ」
「先ほども同じことをおっしゃいましたわね」
「では、あと十分」
「長すぎます」
「五分」
「一分です」
「三分では?」
「人を時間制で貸し借りするな!」
そのときだった。
こんこん。
研究室の扉が叩かれる。
三人とも動きを止めた。
「リリアナ。開けてください」
「ルーチェ!」
思わず声が出る。
リリアナの表情が露骨に曇った。
「なぜ毎回、これほど早く……」
「ユーリへ渡した護符があります」
「護符?」
俺にも初耳だった。
「強い魔力の乱れや、意識を失った場合、私へ知らせるようになっています」
「いつの間に!」
「昨日です」
「僕にも教えてくれ!」
「説明する前に、また連れ去られてしまいましたので」
「そこは反論できないけど!」
リリアナが杖を振る。
扉へ複数の魔法陣が重なった。
「帰ってください、ルーチェ。今は大切な話し合いの最中です」
「本人が帰りたがっています」
「もう少しで同意を得られますわ」
「得られてない!」
扉の向こうから小さなため息が聞こえた。
「分かりました。では、開けます」
白い光が扉の隙間から入り込む。
一つ目の封印が消える。
二つ目。
三つ目。
「相変わらず、力任せではなく術式そのものを解いてきますのね……!」
「リリアナ様」
セリアが不安そうに扉を見る。
「奥へ移動します」
「はい」
「僕を持ったまま逃げるな!」
セリアが走り出す。
「先輩、しっかりつかまってください」
「誰がつかまるか!」
「揺れますよ」
「下ろせば揺れない!」
腕の中で身をひねる。
顔がセリアの胸元へ近づき、俺は慌てて反対側を向いた。
「また収納するなよ!」
「今度は呼吸できるよう十分注意しております」
「問題はそこだけじゃない!」
最後の封印が消えた。
重い扉が開く。
銀色の長い髪。
「迎えに来ました」
「助けてくれ!」
「はい」
ルーチェが一歩踏み込んだ。
視界が僅かに揺れる。
「あ……」
セリアが空になった両腕を見る。
俺はすでに、ルーチェの腕の中へ移っていた。
「大丈夫ですか?」
「助かった!」
そして。
背中と膝裏を支える、見慣れてきた形。
「……結局またお姫様抱っこか」
「この方が安全です」
「さっきも同じことを言われた!」
「セリアにですか?」
ルーチェの声が少し低くなった。
「何をされたのです?」
「今回は」
セリアが胸を張る。
「呼吸を妨げないよう、十分注意いたしました」
「今回は?」
「そこは聞かなくていい!」
俺は話を切った。
「とにかく帰ろう!」
「そうですね」
ルーチェが俺を抱え直す。
「リリアナ。学園内で本人の意思に反して生徒を研究室へ連れ込み、扉へ封印を施す行為については、後ほど学園へ報告します」
「今回は、わたくしが連れてきたのではありませんわ」
「そこは問題の中心ではありません」
「ユーリを連れてきたのはセリアです」
「リリアナ様のご命令でしたので」
「わたくしは途中で窒息させろとは命じていません!」
「二人とも責任を押しつけ合うな!」
ルーチェが静かに息を吐く。
「詳しいお話は、学園長立ち会いで伺います」
「学園長まで?」
「当然です」
リリアナの顔が僅かに引きつった。
その横で、セリアはルーチェの腕の中にいる俺を名残惜しそうに見ていた。
「ユーリ先輩」
「何?」
「私の膝を選んでくださったこと」
「その話はもういい!」
「忘れませんわ」
「忘れてくれ!」
「次も私を選んでいただけるよう頑張ります」
「次は答えない!」
「次は、わたくしを選ばせてみせますわ」
「競うな!」
ルーチェが踵を返した。
「帰りましょう」
「ああ」
研究室を出る。
廊下へ出たところで、俺はすぐに言った。
「ルーチェ。もう下ろしてくれ」
「駄目です」
「即答するなよ!」
「二度気絶し、その直後に窓から脱出しようとしたのでしょう?」
「あれは必要だった!」
「MPも減っています」
「歩くくらいできる!」
「分かっています」
「じゃあ」
「でも、今日は駄目です」
「何でだよ!」
ルーチェは数歩歩いたところで足を止めた。
それから、自分が羽織っていた白い外套へ手をかける。
「何してるんだ?」
「少し寒くなってきましたから」
「僕は別に寒く」
外套がふわりと広がる。
そのまま。
抱かれている俺の身体ごと包まれた。
「ちょっ」
白い布が肩から足元近くまでかかる。
視界の左右まで外套に囲まれた。
「これなら少しは人目も気にならないでしょう?」
「……」
言われてみれば。
さっきまでよりは、かなりましだ。
ルーチェのお姫様抱っこそのものは変わっていない。
だが外套に包まれたことで、廊下から俺の姿はほとんど見えなくなった。
「顔まで隠す必要はありませんから、苦しければ言ってください」
「そこまで確認するのか」
「セリアの件を聞きましたので」
「……それは確認してくれ」
俺は外套の中で少し身体を動かした。
出ようと思えば出られる。
留め具もない。
腕も完全に塞がれているわけではない。
布をめくれば、顔も手も簡単に外へ出せる。
だから。
「もう自分で歩けるんだけどな」
「治療室までは、このままです」
「……」
いつもなら。
ここで俺はもっと抵抗する。
下ろせ。
歩ける。
恥ずかしい。
そう言い続ける。
なのに。
外套の中は。
思っていた以上に落ち着いた。
外からの視線も見えない。
白い布の向こうは少し暗い。
そして。
すぐ近くにルーチェの身体がある。
外套へ残った微かな香り。
腕から伝わる体温。
揺れも小さい。
「ユーリ?」
「何?」
「静かになりましたね」
「……疲れたんだよ」
「そうですか」
「そうだ」
たぶん。
それだけじゃない。
ルーチェとは長い付き合いだ。
さっきまでリリアナとセリアに囲まれ、何度逃げても捕まっていた。
そこへ。
いつもの銀髪の少女が迎えに来た。
その安心感が思った以上に大きかったのだと思う。
俺は外套を少しだけめくった。
外へ出ることはできる。
ルーチェも止めないだろう。
「……」
でも。
その手を離した。
今は。
別に出なくてもいい。
「ユーリ?」
「何でもない」
俺は少しだけ身体の力を抜いた。
頭がルーチェの胸元へ近づく。
「眠っても構いませんよ」
「寝ない」
「そうですか?」
「ここで寝たら、また何か言われる」
「誰に?」
「ダンとルウに」
ルーチェが小さく笑った。
「では、男子寮へ着くまでは起きていてください」
「……努力する」
目を閉じる。
「寝ないって言ったばかりでしょう?」
「閉じただけだ」
「はい」
その声が。
近くて。
妙に安心する。
◇
研究室の入口。
セリアは。
廊下を遠ざかっていくルーチェを見つめていた。
正確には。
その腕の中。
白い外套に包まれた俺を。
「……」
つい先ほどまで。
あれだけ逃げようとしていた。
研究室の鍵を魔法で開け。
窓からまで脱出しようとし。
自分の腕の中でも、ずっと抵抗していた。
それなのに。
ルーチェの外套へ包まれてから。
俺は。
ほとんど暴れていない。
「リリアナ様」
「何ですの?」
「あの外套には、何か魔法が?」
「ありませんわ」
「え?」
リリアナも廊下を見る。
「あれは普通の外套です。特別な術式は感じられませんわ」
「では」
セリアが僅かに目を細める。
「どうして、先輩はあれほど大人しく……」
「さあ」
リリアナの声が少し不機嫌になる。
「ルーチェだからではありません?」
「……」
セリアはもう一度、遠ざかる白い外套を見る。
俺は外套から出ようと思えば。
簡単に出られる。
それでも。
出ようとしない。
「……そうですか」
「セリア?」
「いいえ」
柔らかな笑顔。
だが。
その青い瞳は。
何かを考え始めていた。
「外套……ですか」
小さく呟く。
「悪くありませんわね」
「何がですの?」
「何でもありません」
セリアはそう答えた。
けれど。
頭の中には。
一つの考えが浮かび始めていた。
ルーチェの外套では。
先輩は逃げられる。
それなのに、自分から大人しくなった。
なら。
最初から。
逃げられないようにしておけば。
もっと安全に。
もっと長く。
自分の腕の中へ置いておけるのではないか。
「……」
セリアの笑顔が。
ほんの少しだけ。
深くなった。
◇
その頃。
そんなことを考えられているとも知らず。
俺はルーチェの白い外套の中で。
「……あったかいな」
「寒かったのですか?」
「いや」
小さく答えた。
「これ、結構落ち着く」
ルーチェの歩みが。
ほんの一瞬だけ止まった。
「……そうですか」
「何だよ」
「いいえ」
歩き出す。
「でしたら、もう少しこのままでいましょう」
「治療室までだぞ」
「はい」
「絶対だからな」
「はい」
それだけ確認して。
俺は再び目を閉じた。
この外套が。
翌日。
別の少女によって。
もっと逃げにくい形へ改良されることになるとは。
もちろん。
この時点では知る由もなかった。




