第一章 「すべての始まり04」
二年前のことだった。
私は弟の晞夏と遊んでいる時、うっかり蝶祈ママが一番大切にしていた花瓶を割ってしまった。
その時の私は、とても怖かった。
蝶祈ママは怒ると、本当に怖くなるから。
だから私は晞夏に、
「次はかくれんぼしよう」
と嘘をついて、晞夏を部屋の中に閉じ込めた。
それから慌てて床に散らばった破片を片づけて、リビングを元通りにした。
これで蝶祈ママには気づかれない――
そう思っていた。
夕食の時間になって、晞夏と一緒に部屋を出ると、食卓には真っ赤な薔薇が一輪だけ置かれていた。
思わず蝶祈ママの顔を見る。
けれど、その表情はいつも通りだった。
だからこそ余計に怖かった。
悪いことをしたせいで、食事をしている間も、私の手はずっと震えていた。
その時だった。
晞夏がそっと私の袖を引っ張って、小さな声で言った。
「姉ちゃん。黙ってても魔法にはならないよ」
「……え?」
「黙ってても、問題は消えない。ちゃんと向き合うことが、一番強い魔法なんだよ」
その言葉を聞いた私は、すぐに茶碗と箸を置いて、蝶祈ママの前へ走っていった。
そして、自分から謝った。
もう二年も前のことなのに、
あの時の晞夏の言葉だけは、今でもずっと覚えている。
――ちゃんと向き合うこと。
あの時はできた。
晞夏が隣にいてくれたから。
でも、今は――
私はもう十分落ち着いているつもりだった。
覚悟もしているつもりだった。
なのに。
視線を落として、自分の震える手を見た瞬間、
私はまだ何ひとつ受け止められていないことを知った。
楽しかったことを思い出そうとした。
でも、思い出せば思い出すほど、
大切な人たちの顔が浮かぶたびに、
「もう二度と会えないかもしれない」
その恐怖だけが胸の中に積もっていった。
息が苦しくなる。
そんな私の様子に気づいたのか、小七が突然スピードを上げて私の前へ飛び出した。
ばさっ、と翼を広げて、私の進む道を塞ぐ。
「主人様――何言ってるんですか!」
突然大きな声を出されて、私は思わず一歩下がった。
けれど、小七は真っすぐ私を見つめていた。
「主人様、ちゃんとここにいるじゃないですか!」
小さな身体を震わせながら、必死に叫ぶ。
「小七の前で、こうして立ってるじゃないですか! なのに、どうしてそんなこと言うんですか!」
そう言い終わった途端、
小七はまるで感情を吐き出しきった子どもみたいに、
そのまま私の胸へ飛び込んできた。
「小七には、主人様がどうしてそんなふうに思ったのか分かりません……でも」
小さな翼が、震えていた。
「小七は信じます」
ぎゅっと、服を掴む。
「主人様は、絶対に生きてます。だって――」
少しだけ顔を上げて。
「主人様は『勇者』なんですから」
私は呆然と小七を見つめた。
何を返せばいいのか、
すぐには言葉が出てこなかった。
ただ、小七の小さな翼が震えているのを見て、
胸に押しつけられたその温もりを感じて、
この子は本気で私を心配してくれているんだと分かった。
私は小七に気づかれないように、
そっと袖で目元を拭いた。
「……小七、ありがとう」
「お礼はだめです!」
「え?」
小七は胸を張る。
「どうしてもお礼したいなら、小七を主人様の肩で休ませてください!」
「……」
「さっき格好よく飛び出したせいで、ちょっと翼が痛いです」
「……さっきまであんなに格好つけてたのに?」
「格好よく決めた後に療養する――それが朱雀一族の流儀です!」
私は思わず吹き出しそうになりながら、手のひらを差し出した。
小七はすぐに飛び乗ってくる。
私はその小さな身体をそっと肩へ乗せた。
得意げな顔で落ち着く場所を探しながら、
ぱたぱたと翼の位置を直している。
……もしかして、ただ楽したいだけなんじゃ。
そう思ったけれど。
それでも私は、ひとつだけ確信した。
――小七は、本当に素敵な仲間だ。
小七の励ましと温もりのおかげなのか、
目を覚ましてからずっと胸にあった
恐怖と孤独が、
少しずつ薄れていく。
代わりに胸に残ったのは、
小さな安心と、
ほんの少しの希望だった。
(……うん。今は怖がってる場合じゃない)
私は深く息を吸い込んで、前を向く。
「よし。まだ何も分かってないけど――」
私は小七を見て言った。
「まずは、この森から出る方法を探そう。ね、小七?」
「出発です、主人様!」
小道の周りには、雑草や低い茂みが生い茂っていた。
草をかき分けながら歩いているうちに、
ふと気になっていたことを思い出す。
「ねえ小七。ずっと気になってたんだけど」
「なんでしょう?」
「朱雀って……みんな小七みたいに、そんなにツルツルなの?」
「……」
「私のイメージだと、真っ赤な羽がふわーって生えてて、もっと格好いい感じなんだけど」
小七は一瞬だけ固まった。
それから、内緒話をするみたいに私の耳元へ飛んできて、小声で言う。
「……あの羽はですね」
少しだけ間を置いて。
「全部、“飛んで”いきました」
「え?」
そう言った途端、小七は恥ずかしくなったみたいに、
頭を翼の中へうずめてしまった。
何度聞いても、
“飛んでいった”の意味だけは
教えてくれなかった。
だから私も、それ以上は聞かず、
そのまま小道を進むことにした。
やがて木々の隙間を抜けると、
ようやく空から差し込む光が見えた。
さっきまで不気味に感じていた森が、
今はほんの少しだけ――
本当にほんの少しだけ、
優しく見えた。




