第一章 「すべての始まり02」
私は頬に残っていた涙と汗を拭い、膝についた土を軽く払ってから、もう一度今の状況を確認することにした。
まずは――覚えていることを整理しよう。
記憶は曖昧だけれど、知らない人に襲われたことだけはうっすら覚えている。
なのに、身体には目立った外傷がどこにもなく、痛みすら感じなかった。
念のため、私は太めの木の陰に隠れ、向こうにいるその生き物へ声をかける。
「見ちゃだめだからね!」
慎重に服を脱いで確かめてみたけれど、服とズボンが少し汚れているだけで、本当に傷ひとつなかった。
もう一度確認してから服を着直し、身体を軽く伸ばしてみる。
違和感は何もない。
それどころか、前より身体が軽くなったような気さえする。
「やっぱりテレビで言ってた、森には不思議な力があるって本当なんだ……なんだっけ、フィンドフェン?」
「主人様……フィトンチッドです」
「え?」
声のした方を見ると――
その奇妙な生き物は地面に突っ伏しながら、身体を左右にごろごろ転がしていた。
しかも「ぷ……くく……ぷっ」と妙な声を漏らしながら、ときどきちらっとこちらを見上げてくる。
数秒後、ようやく落ち着いた頃には、私は恥ずかしさで顔が真っ赤になっていた。
何を言えばいいのかも分からず、その場で固まってしまう。
「ほ、本当に……申し訳ありません……」
「もう知らない!」
私の怒りを察したのか、その子は慌てて羽をぱたぱたさせ、私の肩へ降りてきた。
「主人様……申し訳ありません。『神獣』であるこの私が、主人様を笑うなんて……」
「神獣?」
思わず聞き返すと、その生き物は誇らしげに翼を広げ、胸をどんと叩いた。
「私は四大神獣の一柱――情熱と繁栄、そして不屈を司る『朱雀』です!」
「――ぷっ、あははっ……あはははっ!」
「主人様……? 何か変なことを言いましたか?」
「ううん、大丈夫。自分で『神獣』って言うのが、ちょっと面白くて」
そう言った瞬間、今度は向こうが怒ったように翼をばたつかせながら飛びかかってきた。
けれど、小さな騒ぎはすぐに収まり、私たちは木にもたれながら並んで座った。
「その……朱雀さん。本当にごめんなさい」
「え? 主人様? どうして謝るんですか?」
小さな頭を傾げながら、不思議そうにこちらを見る。
「さっきは混乱してて、ちょっと失礼なことしちゃったから……本当にごめん」
そう言うと、その子の翼が小さく震えた。
そしてまた、ぴょんと私の膝の上へ飛び乗ってくる。
「……主人様のせいじゃありません。驚かせてしまったのは私です。謝るなら、私のほうです」
私は一瞬きょとんとして――思わず笑ってしまった。
「ふふ……あははっ」
「主人様?」
不思議そうに見上げてくるその子に、私は右手を差し出した。
「三好楓玲」
「え?」
「私の名前。三好楓玲っていうの。楓玲でいいよ。よろしくね」
「でも……主人様……」
「もういいの。知り合うなら、ちゃんと挨拶からでしょ?」
そう言いながら、私はその小さな身体を両手でそっと持ち上げた。
「目が覚めたら知らない場所で、ずっとそばにいてくれたのはあなたなんだから。だから、そんなに謝らなくていいの。私もひどいこと言ったし……お互い様」
少しだけ笑って、続ける。
「それに――よかったら、友達になってくれる?」
その瞬間、その子はぱっと嬉しそうに跳ねた。
私の手のひらの上で何度もぴょんぴょん跳ねたあと、地面に降りてくるりと一回転し、元気いっぱいに名乗った。
「私の名前は小七です! よろしくお願いします、主人様!」
「うん。よろしくね、小七さん」
「主人様……『さん』はいりません。小七でいいです」
私は微笑んで、もう一度その名前を呼んだ。
「小七」
小七も小さな翼を伸ばして、私の手のひらにそっと触れる。
見た目はほとんど羽がないのに、触れた感触は意外なくらい柔らかくて温かかった。
握手を終えたあと、私は次の疑問を口にする。
「小七。ここがどこなのか、それと、どうして私を主人様って呼ぶのか教えてくれる?」
「もちろんです、主人様!」
頼られたのが嬉しいのか、小七は胸を張った。
「ここは森です。そして私は主人様の従者です。主人様が現れる少し前に、急きょ主人様を助ける使命を与えられました。ちなみに主人様は、世界勇者救世システムによってこの地へ召喚され――」
「よし、出口を探そう」
「待ってください! 主人様!? まだ説明の途中です! 主人さまーっ!」
私は小七の声を無視して、さっき見つけた細い山道へ歩き出した。
後ろでは、小七が必死に羽を動かして追いかけてくる。
しばらく無言で歩いたあと、私は立ち止まり、追いついてきた小七へため息混じりに言った。
「もっと分かりやすく説明してくれない? 勇者とかシステムとか座標とか、聞けば聞くほど分からなくなるんだけど」
「でも……今のが一番わかりやすい説明でしたよ?」
――ううっ。
だから私は頭のいい人って苦手なんだ。
晞夏もそうだった。
頭が良くて成績のいい人って、みんな当然のように「これくらい分かるよね?」って顔する。
子ども向け番組みたいに、もっと簡単に説明してくれればいいのに。
私はじとっと小七を睨む。
けれど小七は本気で何が悪いのか分かっていない顔をしていた。
これ以上責めるのも気まずくて、私は質問を変える。
「じゃあ、どうすればこの森から出られるの?」
(これなら余計な情報も増えないはず。私って賢い)
「それは小七にもわかりません!」
「……え?」
思わず固まった。
まさかそんな答えが返ってくるなんて。
私は額に手を当てて、小さく苦笑した。
「じゃあ……神獣なのに、なんで私についてきてるの?」
「主人様が勇者だからです!」
「いや、そうじゃなくて……神獣ってそんなに暇なの?」
「大丈夫です。私は分身ですので、本体の仕事には影響しません」
「分身? じゃあ、本物の朱雀ってわけじゃないの?」
「はい。主人様に付き添うために本来の役目を放り出すわけにはいきませんから。便利な機能です」
――やっぱり本当に、こういう不思議な生き物っているんだ。
晞夏に写真を見せられたらよかったのに。
きっとあの天才だって驚くはず。
けれど、小七は少しだけ俯いて言った。
「ただ……本体の記憶も能力も、私は引き継いでいません」
「え?」
「だから、さっき自分を神獣だと言ったのは……ある意味、主人様に嘘をついたことになります。申し訳ありません」
翼をしょんぼり下げて頭を下げる小七を見ながら、私はただ呆然としていた。
――さっき返してほしかった驚きと感動を返してよ。




